大学生店員とほろ苦いアイスコーヒー①
一LDKの狭い部屋の窓から上半身を乗り出して、大吉はタバコの煙を空に吐き出す。細く燻るそれは梅雨明けのカラッと晴れた本日の青空に伸びていくと、ゆっくり霧散した。
「…………」
大吉の住居は都心に程近い、だが家賃がそこそこの、大学生が住むのに手頃な街だった。
部屋の中にはほとんど何もない。最低限の家具と最低限の衣服。
それは、大吉の心の様子を映し出しているかのようだった。
大吉の世界は二つに分類されている。
すなわち、タバコかそれ以外かだ。
その他の何にも興味なんて持てない。
それでも最近は、前より随分マシになったと感じている。
虚無の心にわずかながらも浮かぶのは、些細なきっかけでアルバイトすることになったあの喫茶店のことだ。
大吉は二年生に進級してすぐの、とある日のことを思い出す。
五月の日本橋はまだ夏には遠いというのに既にうだるような熱気を孕んでいる。
アスファルトの照り返す熱が高層ビルのガラスに反射して、必要以上に外気温を上げているのだ。
「あぁー、あっつ」
大吉は降り立った日本橋駅で、思わず空を仰いでそう言った。そうした次の瞬間、背中にドン、と軽い衝撃が走る。
「おい、そんなところに突っ立っているな」
「あ、すいません」
大吉は軽く頭を下げて謝ると、背中を丸めてゆっくり歩き出す。大吉の地元である大阪も人が多かったが、東京はそれ以上だ。みんなスマホ片手に、せかせかと歩いている。眉間には皺が寄っているか、あるいは表情がない者も多い。まるで何かに追い立てられるかのように生きている。
大吉はあえて歩幅を小さくし、速度を緩めて歩く。
均一に敷かれたアスファルトは無機質でなんの面白みもなく、大吉の表情も周囲の人々同様に死んでいた。
考えることといえば、タバコ吸いたいなぁという気持ちと、そろそろバイト探さないと金がやばいなぁという現実的な悩みだった。
地元大阪を離れ、二ヶ月。
大吉は早くも金に困りつつあった。
丹原大吉は、東京都港区に存在しているK大学薬学部に通う大学二年生だ。
別に大学に行きたくて行っているわけではない。親に「大学くらい行け」と言われたので、適当に勉強し、適当に受験して、そして合格したのがK大学の薬学部だったというだけだ。K大学といえば、W大学に並んで全国的に有名な高偏差値の大学。この大学に入りたくて何浪もし、合格不合格ともに涙を流す受験生親子が多い、そんな大学である。
では大吉もそんな人間の一人なのかといえば、そうではない。
なぜK大学の薬学部を選んだのかといえば、壁に全国の大学学部一覧表を貼り、ダーツが刺さったのがたまたまそこだったからだ。それ以上の理由なんてどこにも存在しない。
しかし適当に受験したのがいけなかった。育ちのいい者が集うこのエリート大学において、大吉の居場所などどこにもなかった。
K大学といえば、天下に名高い有名私立大学。
通う学生たちは、そこそこにお洒落で、垢抜けており、こざっぱりとした好青年ばかり。あるいは清楚な雰囲気漂う女子大生か。ご近所の有名私立高校、聖フェリシア女学院とかいう高校出身のお嬢様も多く通っているらしい。
彼らは酒をほどほど、喫煙はほぼせず、将来に希望を抱きつつ明るく前向きで健全な大学生活を送っている。
己とは人種が違うと思ったが、だからと言って構内で浮いた存在であることを思い悩んだりクヨクヨしたりしたことは一度もない。
そもそも大吉は、あまり誰かと馴れ合ったり親しくなったりしたいと思っていなかった。
「大吉の居場所がどこにもない」というのは、もっと切実とした理由からだ。
日本橋駅を降りてすぐ、大通りから折れると雑居ビルがひしめき合う小道に入る。
ビルとビルの隙間にちょっとした空き地があり、そこにゴタゴタと人が詰め込まれていた。大吉はちょっと立ち止まると彼らの姿を観察した。
スーツに身を包んだビジネスマンが忙しなくタバコを吸っている。
大吉は彼らに視線を送って、いいなぁ、と思った。
何を隠そう大吉はニコチン愛好家だった。
これが誰の影響なのかといえば、地元大阪に残してきた親友の影響だ。
おかげさまで大吉は大学に入ってからタバコに手を出し、立派な愛煙家となった。
しかし今の時代、喫煙者にとっては生きにくい世の中である。東京都心は特に。
薬学部の存在するキャンパスは全面禁煙であり、キャンパス周囲にもタバコを吸えるような場所は存在しない。
一時間に一本はタバコを吸わないと禁断症状に陥る大吉にとってこれは由々しき問題だった。
そんなわけで、タバコが吸えないK大学薬学部キャンパスに大吉の居場所はどこにもないというわけだ。
山のように存在する周りの飲食店も、したり顔で禁煙の紙を誇らしげに貼っている。もしくは貼ってすらいない。一縷の希望をかけて「タバコ吸えますか?」と聞けば、「は? 当然禁煙ですけど、何か?」みたいな顔をされるのだ。
大吉の愛するタバコは、駅の狭苦しい喫煙ブースでしか役目を果たせない。
しかし大吉はもっとゆっくりとニコチンを味わいたかった。できればコーヒーでも飲みながら、席に座って腰を落ち着け、ゆったりした気持ちでタバコを吸いたい。
タバコ吸いたい。タバコタバコタバコ。
ここらには古い飲食店が多いから、もしかしたら喫煙可の店もあるんとちゃうか。
そんな一縷の思いを胸に抱きながら、大吉が日本橋駅近くの小道をゾンビの如く徘徊していると、彼の中の眠れる喫煙センサーが反応した。本能の赴くままに足を向けてたどり着いた場所は、界隈でも一際ごちゃごちゃした場所だった。道が狭くてビルが両脇にひしめいていて、昼なのになんだか暗い。
しかしその小道に存在しているビルの一階にある喫茶店が、なぜだか光り輝いて見える。
茶褐色の煉瓦造り風の店は、扉の上にくすんだ赤い半円形の庇がかけられている。店横の花壇には日々草と金魚草が寄せ植えされていて、空に向かって生き生きと花を咲かせていた。
ガラスのショーケースの中にはメニューのサンプルが並んでいる。
卵とハムのミックスサンド、ケチャップのかかったオムライス、銀の皿に載ったナポリタン、エビの入ったピラフ、さくらんぼつきのクリームソーダ、チョコパフェ、コーヒー、ココア、紅茶。
「へぇ」
大吉は興味を惹かれ、ちょっと店に近づいてガラス窓から店内を覗く。
すると、どうだろう。
窓から見えるテーブルの上には、当たり前のように灰皿が置いてあるではないか!
求めている理想郷はここにあったのか。大吉は内心で小躍りをして、いそいそと扉を開けて店内に入る。
扉を押して開けると、からんからんと音がする。
ビンテージ感漂う店は、どこか懐かしい。
それは大吉が地元で通った喫茶店に似た雰囲気があるからだろうか。
そう思った瞬間、脳裏に昔の出来事がフラッシュバックする。
まだ高校生の大吉は学ランを着ていて、隣には笑っている親友の姿。
「…………っ」
胸が刺されたかのようにずきりと痛んだ。
不意に頭に思い浮かんだ映像をかき消すかのように小さく頭を振る。
思い出すにはまだ生々しく、傷跡は傷んでジクジクとしている。できるだけ忘れて、心に蓋をして、一切に感情を動かされず無になって生きたい。
うつむいた先には年季の入った床が見える。
「いらっしゃいませ」
「!」
そんな風に大吉が店の出入り口で佇んでいると、店の奥から声がして、人が出てきた。
いや、人ではなかった。




