スイトピーへの想い
その日は、穏やかな春の日差しが、店内を明るく照らし、柔らかな光で包みこんでいた。
もう五月になろうとしている。
昨日降っていた雨も上がり、植木や花たちの緑がいつもよりもみずみずしく、つややかに感じられる。爽やかな空の青さに、時折吹く風が、店先の花たちを僅かに揺らしていた。
「今日は、いいお天気ねぇ」
と、隣のパン屋の奥さんと、にこやかに会話を交わす。この奥さんはいつも、綺麗に化粧をしていて、今日も動きやすい青のトレーナーに、真っ白なかっぽうぎを着ていた。茶色く染められた、パーマをかけた肩までの髪を、ぴったりと束ねられていて、清潔感に溢れている。
美味しそうに、香ばしい香りを漂わせて、焼き上がったパンの匂いにつられて来た人達が、ついでに花を覗いてくれることも多い。
そんな会話をしている時に、一人の青年が店の中に入ってきた。頻繁に髪を切りに行っているのか、茶色みを帯びた短い髪が、とても爽やかな雰囲気を出している。色あせたジーパンに、紺のTシャツが鮮やかだった。身長は、それほど高くない。一七〇を少し超えているくらいだろうか。
一通り、何かを探すような目で、ガラスケースを見渡した、その若い、二十代前半と見られる男性は、ガラスケースの中を指差した。差し込む光が、ガラスケースを反射し、きらきらと光らせている。
「あれ、ください」
指差されたその花は、この時期にも合う、薄いピンクのスイトピーだった。淡い色彩と花びらの柔らかな曲線が、可憐な雰囲気を出している。
「はい、何本でしょう?」
ガラスケースを開けながら、青年の顔を見る。見てから、とても整った顔立ちをしていることに気がついた。
「あぁ、…えっと、二本、いや三本ください」
二本では悪いと思ったのか、慌てて言い直す。
「はい、ありがとうございます。ではこちらのスイトピー、三本ですね」
ケースの中のバケツから、静かに花を三本取り出そうと手をかけた時、青年がこちらの方に近づいた。
「あの…、できれば……」
うつむき加減に、言いにくそうに切り出す彼に、何も言わずに表情で問う。
「できれば、大きくて丈夫そうな花がいいのですが……」
唐突に言われた言葉に、私は動きを止めた。
え?
「大きくて、丈夫そうな…と言いますと?」
どれも大して変わらないのだけれど、とにかく意味が分からない。言葉通りに受け取っていいのだろうか?
「実は、その、押し花にしたいと思っているので…」
「押し花を?」
驚いて、聞き返してしまった。
今の時代、押し花をしている女の子も、どれだけいるのか分からないというのに、この年齢の男性が…? 珍しいと思う。
「そうなんです。だから大きくて、丈夫そうなやつを……」
私の表情に気付いてか、少し恥ずかしそうに微苦笑する。
なるほど、と私はようやく納得して、スイトピーに視線を戻し、それから思いついて言ってみた。
「でしたら、ご一緒に選んでみます?」
彼の表情がパッと輝くのを見て、思わず笑みがこぼれる。
「いいんですか?」
にっこりと笑って、私は頷く。
「……でも、このスイトピーが押し花にしやすいかどうかまでは、分からないです。何しろ、薄いので……」
私が言ったその言葉に、青年は、小さく落胆の声を漏らした。
「そうなんですか……。でもこの花が一番、彼女のイメージなんだけどなぁ……」
独り言のように呟く。消え入りそうな、弱い声で。
可憐なスイトピーのイメージを持つその人は、女性らしい、しとやかな優しい人なのだろう。
「でも、どうして押し花を?」
ピンクのグラデーションが綺麗なスイトピーは、花束でも十分に可愛らしいし、喜ばれると思うので、わざわざ手間と時間をかける必要はないのでは? というのが、私の正直な気持ちだった。
「ええ。実は彼女、来年の春に実家に帰ることになったんです。でも僕は、こっちで就職活動していくつもりなので……。そうすると、離れ離れになるし。だから、そんな時、いつでも僕のことを思い出してもらえるように……」
二十代前半と見られたこの男性は、大学生だったのか。
「そうですか」
聞いていて、とても羨ましく思った。
この青年が、自分のために押し花を作ろうとしていることを、彼女は知らない。
人は、それぞれの想いをこめて、花を選ぶ。
「でも、初めてなんです。一度も作ったことないんですよ」
イチかバチかの賭けですね、と彼は続けた。目で花を追いながら、一度、こちらの方を見る。
「本が好きな子で、いつでもどこでも本を持ち歩いているんです。だから、しおりでもと思って……」
彼の一途な想いが、伝わってくるようだった。
「それじゃ、尚更探さなくちゃ」
「ええ。これ、少し大きくないですか?」
言いながら指差した花は、やはりあまり変わらなく見えたけれど、私は相槌を打って微笑んだ。
サワサワと、花びらが微かに震える音を耳元で聞きながら、私はその花を一本、バケツから丁寧に取り出して、台の上に置く。
そしてまた、青年が花を選んだ。
時間が静かに、ゆるやかに流れる。
いつもなら、お客さんと一緒に花を選ぶなんてことはしないのに、今日に限って声をかけたのは、青年の眼差しに真剣なものを感じたからだろうか。
一見、どこか頼りない感じも見受けられたのに、それを吹き飛ばす、強い、熱い眼差し。
優しい、春の陽気のような、その色のスイトピーを、新聞紙でくるむだけでいいと、青年は言った。
その心遣いに感謝して、お会計を済ませた後、気になっていたことを尋ねてみた。
「この花、スイトピーを選ばれた理由ってありますか?」
「いえ、他には特に……」
突然の私の問いに驚き、戸惑いながら、もごもごと彼は答える。
おせっかいと自覚しつつも、あの話を聞いた後では、ちょっと一言口に出したくなった。柔らかく訊いてみる。
「花言葉は、ご存知ですか?」
「いえ……、なんですか?」
表情に影がさした。不安の色も隠しきれない。何を想像したのだろう。急に申し訳ない気持ちで一杯になり、軽く頭を下げた。そして、微笑む。
「ごめんなさい、いきなり。スイトピーの花言葉には、思い出または、別離、という意味があるんですよ。他にも、門出とか……」
青年は、びっくりしたように目を見開き、それから嬉しそうに、私を見た。
「へぇ。偶然だなぁ。ピッタリです」
そして、安心したように笑って、満足そうな顔つきで歩き出した。
「キレイに仕上がるといいですね」
去り行くその背中に声をかけると、彼はぺコリと頭を下げた。
今日はとてもいい天気。昨日の雨が嘘のよう。陽光が、店の中に差し込んでいる。空気までもが、いつもと違う気がして、私は大きく息を吸い込んで、背筋を伸ばした。
見上げれば、澄んだ青空に、わたあめのような雲が広がっている。
スイトピーを買って行ったあの青年の心も、晴れ晴れとしているだろう。
そして、彼女に対する想いを、丁寧に押し花に託すに違いない。
いつも持ち歩いている本の間に、そのしおりが挟まれているよう、願いを込めながら。
出来上がったそのしおりを、一目でいいから見てみたいと思った。
《終》