シクラメンの夢
冬の厳しさを感じる日だった。冷たい風が吹きつけ、植木を左右に揺らし、商店街を歩く人達の足を速ませている。
今日は、クリスマス・イヴの前日だ。
閉店する三十分ほど前、七時半頃、店の奥の居間でニュースを見ていた私は、人の気配に気付き、慌てて立ち上がった。店に出ると、背広のスーツを着た三十半ばと見られる男性と、小学生くらいの男の子の姿が見える。この寒い中、男の子は半ズボンだ。ひざ小僧が赤くなっている。子供は風の子とは、よく言ったものだと思う。活発そうな子だ。男性は、髪の毛を七三に分けていて、目が細く、おおらかそうな人の良さそうな顔をしている。亡くなった父を思い出した。雰囲気が似ている気がする。十歳の頃までしかなかった、父のおぼろげな記憶。
母がフラワー教室まで行っている間、留守は私一人で預かる。とはいえ、あと一時間ほどで帰ってくるだろう。
二人は店内をさあーっと見渡して、シクラメンを指差した。店の中のガラスケースの手前に、並べて置いてあったものだ。
「お父さん、あれだよね」
写真でも見ていたのか、目を輝かせて、かん高い声を上げ、無邪気に喜び、その父親らしき男の人の方に顔を上げ、話しかける。
「ああ、ホントだ」
外はよほど寒いのだろう。男性の吐く息は白く、煙のように空気に溶けた。
発色のいい、鮮やかなピンク色のシクラメンを見て、目を細める。
「これ、ください」
「はい」
返事をしつつ、私はその中から、葉がいきいきとしている、緑色の濃いものを選んだ。これなら、他の花束にもひけをとらない。
「プレゼントですか?」
クリスマス前ということもあり、私はその鉢植えに手をかけ、訊いてみた。持ち上げると、土と鉢の重さが加わり、ずっしりと腕にかかる。
「まあ…。プレゼントというか、家に置くものなんですけどね……」
戸惑ったように言う男性に、子供が言う。
「一応、プレゼントにしようよ! 喜ぶよ、お母さん」
男性の腕を揺さぶりつつ、子供が、駄々をこねるような仕草をした。
「あら、奥様にですか?」
でもそれだったら、明日のイヴでなくて? と思った私に、男性が子供の手を柔らかく払うようにして、その子を見つめる。
「実は家内は入院してましてね……。明日、無事退院できるんですよ」
「それは、おめでとうございます。クリスマスをご一緒に過ごせるようで、良かったですね」
台の上に花を置き、シクラメンに視線を向けながらも、にこやかに笑いかけた。
男性は、ちょっと悲しそうに苦笑する。
「ええ。……入院していた時は、仕事が忙しくて、見舞いも土・日くらいしか行けずに、淋しい思いをさせてましたから。それでも妻は、何も言わずに…」
包装を始めた私の手の方に、目をやってから続ける。静かな声で、独り言を言うように。
「このシクラメンだって、家内の実家には、毎年冬になると必ず置かれていて……。そういう温かい家庭を望んでいたのでしょうね。きっと、子供の頃からずっと。だけど、私は、それにも気付かず……」
彼は、そこでいったん話を区切った。彼の口から漏れる辛そうな声に対して、子供は不思議そうに、その父親を見上げる。
「でも今日、プレゼントなさろうと思ったじゃありませんか」
まるで、自分を責めているかのように話をするその男性が、なぜだかとても痛々しく思えて、私は優しく言った。
誰かに、聞いて欲しかったのかもしれない。だから、私に話したのだろうか。自分が感じた罪悪感を。
父を連想させるその男性を、赤の他人とは思えなかった。けれど相手は、小さく微苦笑して微かに首を振る。
「看護婦さんに言われたんですよ。『クリスマス・イヴに退院予定で良かったですね』って。その言葉で、やっと思い出したんです。情けない話ですが……。結婚した当初、まだこの子が生まれる前は、冬にもシクラメンを買っていたこともあったなあ、と」
「そうですか……」
言葉が出なかった。
結婚もしていない独身の私に、一体何が分かるというのだろう。
ふと、母の姿が脳裏をよぎった。
母なら、何を言うだろう。
どんな言葉をかければいいのか、見当もつかなかったけれど、黙ってもいられなかった。張り詰めた空気と沈黙が怖かった。
「これから、明日からは、いかがですか?」
口にしてから、何と生意気なんだろうと後悔した。
けれど、今までのことを悔やんでいても仕方がない。時間は止まらず、時を刻み続けるものだ。その揺るぎない事実は、なんと残酷なのだろう。
私の言葉に、男性は、まるで壊れ物を扱うかのように、シクラメンに手を伸ばす。こわごわと。
「そう思ったんですけどね。今からでも、間に合うでしょうかね……」
消え入りそうな、弱々しい声だった。自分を否定するような言い方が、胸をつく。
「奥様は、お仕事がお忙しいこと、十分に理解なさっていたと思いますよ。だから、何も言わなかったんじゃないでしょうか」
「そうかもしれない……。あれは、よく気がつく人だから」
ゆっくりと、その言葉をかみ締めるように、彼は何度も何度も頷いた。
「だから、せめてもの罪ほろぼしに、このシクラメンを家に置きたいんです。妻が家に帰った時、真っ先に、目に入るように」
そして喜んでくれれば、何も言うことはないのです、と、男性は付け加えた。
「きっと、素敵なクリスマスになるでしょうね」
私は、心からそう言った。
「家族全員がそろって、クリスマスを迎えることが大切だなんて、すっかり忘れていましたよ。家内は、こういう平凡な生活にずっと憧れていたということも。シクラメンは、その夢の象徴だったんですね」
花に託す想いは、たくさんある。人それぞれ、その想いの分だけ。
友情や愛情だけでなく、自分の夢さえも。
この男性の話は、私の心に心地よく響いてきた。
傍にいた子供が、笑いながら言う。
「でもやっぱり、ケンタッキーだよね。クリスマスは」
どうやらこの子は、花よりも食べ物の方に興味があるようで、また父親の腕を引っ張る。
「ああ、それはお母さんと決めような」
えー、と言う子供に、シクラメンの花代をこちらに差し出しながら、微笑んだ。
その微笑みは、店に来てから、初めて見せる心からのもののような気がした。
「いやー、気が楽になりましたよ。お恥ずかしい」
困った表情のまま、頭をポリポリとかく。
「いいえ。素敵なお話でした。良いクリスマスを。ありがとうございました」
シクラメンを手渡しつつ、にっこりと笑う。
そして、男性の半分もない男の子と手をつなぎ、商店街から出る、その大きな背中を見送った。
真っ暗な商店街では、看板のライトの明かりも少なくなり、すっかり静まりかえっていた。耳を澄ませば、風の音さえ聞こえてくるようだ。
寒さから身を守るようにして、コートの襟を立てて歩く人の姿も、数えるほどになっている。
その寒空の下で、体は小刻みに震えるというのに、心はポカポカと温まっていく。
あのシクラメンは、これから先、家族の幸せな家庭の中で育つのだろう。
奥さんの、その夢とともに。
母が帰って来たら、少し父の話を聞きたいと思った。
まだ、私の知らないエピソードがあるかも知れない。
《終》