花のある生活 ~花緒里の選択~
雪が降ると思い出す。
しんしんと音もなく降り積もる雪。粉雪が肩に落ちる度に、手で払いながら頭の中に浮ぶ人がいる。
私に自由をくれた人。
私に〔今〕をくれた人。
あの頃の私に勇気と幸せをくれた彼のことを、あれから何年も経つというのに、鮮明に思い出すのです。
この一月に。
*
高校二年もあと僅かとなれば、将来のことはシビアな現実として降りかかる。進学か、就職か。このご時世、進学組みが大半だった。それなのに私はまだ迷っていた。
小学校の時に父を亡くした私は、ずっと母の仕事をする背中を見てきた。
母の仕事する様は全く辛そうではなかったけれど、父が居ない分、私が母を支えていくのだ、という思いは日に日に強くなっていったのを憶えている。
母の花屋での仕事はとても楽しそうで、いつも笑顔に満ちていた。父が亡くなったのに、なぜこんなに明るく店をきりもり出来るのかと、不思議でならなかった。
母は、父を愛していたの……?
一瞬、ほんの一瞬、そんなことを思ったことがあった。
忙しい時、それは行事日と呼ばれる日なのだけれど、私は店を手伝った。手伝いと言っても大したことではなく、人で賑わう店内の会計や、お客さんに花を渡したりという具合だ。小学生にはそんなことくらいしか出来ず、ラッピングする母の手つきに憧憬の念を抱きながらその様子を眺めていた。
隣のパン屋の奥さんに言われたのはこの頃だったと記憶している。
「香苗さんも頑張るわよねえ。まぁでも、ご主人にあんなこと言われたら、やる気が出るものかしらね」
ざわめく店内を楽しそうに見物しながら、奥さんは笑った。
「あんなことって?」
去年父が死んだとき、私も傍に居たけれど、父は何か言っていたっけ?
いや、そんなことはないはずだ。何しろ父は入院していたわけではなく、突然の心臓病で亡くなったからだ。朝、私が学校へ行く前に眠るように息絶えていた。
起こそうとして呼びかけたのに応えなかった。その父が、母に何を言っていた……?
「明るい、笑いが絶えない花屋にしようなって。どんなことがあっても、楽しんでやっていこうな。……そう言ったんですって。死ぬ三日前お風呂上りにビールを飲みながら、ちょっと疲れたって言った香苗さんに対して……。まさか死ぬなんて、これっぽっちも知るはずがなかったのに。皮肉よねえ、こんなこと」
胸に、きた。ずしん、と重く胸にきた。
今、思い出した。
高校のこれからのことを考えて大学へ行くべきか、母の手伝いをするべきか悩んでいる時、ふと思い出して目頭が熱くなった。
あの頃言われた奥さんの言葉、当時は意味が分からなかったけれど、今なら理解できるような気がする。
母は、本当に父を愛していたのだ。
だからお葬式が終わってから、すぐに店を開けてずっと笑顔で振舞っていたのだ。父の言葉に応えるため
に。
母に、どんな感懐があったのだろう。父の心臓病という病気から、何を連想しただろう。自分を責めはし
なかっただろうか。後悔、感謝、そして当惑したことだろう。
店を続けることに戸惑いはなかったかもしれない。
三日前に父に言われた言葉で、作り物の笑顔ではなく、その言葉通りの心から楽しむ決心をしたのだと、
容易に想像がついた。それだけ深く、父を愛していたのだ。
そのお礼と報告を兼ねて、命日にはたくさんのお花を添える。決して泣かずに。
今にも泣き出しそうな、灰色に覆われた教室にたたずみながらそんなことを思い出していた。
母の手伝いもしたい。
父が言った言葉を私も受け継ぎたい。
けれど。
私にも、クラスメイトのように何かに挑戦してみたい気持ちもあった。
どちらの道に進もうか、今更なのに考える。
机に肘をついて、ひたすら考え込む私は、声をかけられ顔をあげた。
「どうしたの? 考えごと?」
声をかけてきたのは、秀才で名が高い神野行孝君だった。気付けば、教室には他に誰も居ない。
細い銀のフレームの眼鏡がとてもよく似合っている。彼は割りともの静かで、穏やかな性格なものの、自分の意見をはっきりと言えるタイプの人だ。女子からは人気が高い。
それにしても、座っている私からすると立っている彼は巨人のように背が高い。一八〇センチはあるだろう。バレーボールやバスケットに向きそう、と、私は関係ないことを思った。
「進路をね……。どうしようかと思って」
なるべく明るいトーンで答えると、彼は眼鏡のフレームを人差し指で上げ、ふうん、と軽く頷いた。
「花屋はやりたくないの?」
「やりたいから困ってるの。でも、大学とかも面白そうだし……」
「確かにね。今までとは違うだろうから」
「神野君はどう思う?」
私は簡単に、父が亡くなる前母に話したことをかいつまんで話した。そして、母に憧れていることも。静寂の中で私の声のトーンの高さだけが響く。
「いい親父さんだね。でも、その気持ちさえあれば、花屋に限らず何の仕事でも生かせられると思うけど。意思さえ継げば」
私は、真っ直ぐ神野君の目を見つめた。
その通りだと思った。でも、違和感があるのもいなめなかった。言葉に出来ない胸のもやもやが、気持ち悪い。
私はやっぱり母の後を継ぎたいのだ、と神野君の言葉を聞いて改めて思った。
彼も目をそらすことなく、冷静に言葉を紡ぐ。
「自分のやりたい道に行けばいいんじゃない? 藤木さんの話を聞いてると、花やお袋さんのことが好きなのが伝わってくるし、別に大学だけがすべてじゃないよ。それに縛られることもない。自由にしていいと思う。言ってること、さっきと矛盾しているけど。……なんていうかさ、幸せとか生き方って、その人しか決められないと思うんだ。で、実際幸せになれば、周りの人にもそれが波紋みたいに広がっていくんじゃないかな。それって、すごくない?」
彼は実に淡々とした口調でそう言った。まるで深く考えなくてもいいよ、とでもいうように。でも、馬鹿にした言い方ではない。それが心に染みてきた。
そういえば、佳奈子にも似たようなことを言われたと思った。
放課後、窓辺からグレーの雲が教室の中に影を射す。その彼の横顔がとてもキレイで、私は思わず息を呑んだ。
そしてたぶん、この瞬間私は恋をしたのだろう。
自分が迷っている時に背中を押してくれた彼の言葉と、その端正な横顔に。
グラウンドには、人はほとんどいなかった。風が強いらしく、植えてある木々が、ざわざわと揺れている。寒そうだな、と思った。
私はまだ椅子に腰掛けたまま、言われた言葉をかみ締めていた。佳奈子と同じように言ってくれた神野君の台詞の余韻に浸って。
「あっ」
窓の外を眺めていた神野君は小さく声を漏らした。私も顔を上げて、椅子から立ち上がり、窓の外に目を向ける。
「わぁ、雪だ」
どうりでこんなに寒かったのだ。
空から降ってくる幸せの結晶は、はらはらと静かに舞い落ちてくる。私と神野君の会話に入りたがるように。
「積もるかな?」
「さあな。どうだろ。淡雪って感じだしな」
ぶっきらぼうの言い方の中に、温かさがあった。そして、神野君はしばらく外を静観していた。
きっとこれが、高校最後の恋になるだろう。
私はたぶん、九〇%の確率で花屋の母の後を継ぐと思う。
これからの未来、希望、自由。
神野君、温かい言葉をありがとう。私は心の中で呟いた。
切なさと、そして別れがこの後待っているけれど、あと一年、私も楽しく過ごそうと心に誓った。
慌しく一年が過ぎ、神野君は有名私立大学に合格したという話を聞いた。うちの学校は進学校じゃないのにすごいよね、なんて周りの人たちが噂して、彼の頭の良さを再確認した。
親友の佳奈子も、無事に大学に合格し、卒業式を迎えた。
神野君への想いは、心に秘めておくことにした。
私は変な所で臆病なのだ。あの言葉だけで十分だと、自分に対して必死に言い訳しながら。
卒業式は中学と大して変わらず進行していき、空は快晴だった。桜の蕾が膨らみつつあって、色づき始めた淡い薄紅色がとても綺麗で、生徒達の旅立ちを祝福しているかのようにも見えた。気温も温かく、南風も心地よかった。セミロングの髪が、ふわりとなびいた。
私は、友達皆と写真を撮ったりしながら、ずっと笑っていた。
大学進学組と数少ない就職組のグループが出来たりして、思わず頬が緩んでしまう。
その中に神野君の姿も見えた。珍しく、笑顔だった。出来ればもう一度、一緒に雪を見たかった。
一年前のように、誰も居ない教室で。
けれど将来について、後悔はしていなかった。
むしろ、これからの希望に溢れていた。
漠然とした不安はもちろんあったけど、神野君が言ったように『自分が幸せに楽しく生きていれば、人にも伝わるはずだ』と信じていた。
そう、私の母の幸せが、私にも伝わったように。
そうなることを願って。
*
あの教室で見た雪を、私は一生忘れないだろう。
私に自由をくれた人。
私に〔今〕をくれた人。
切なくなるほど心温まる夕景の教室の中で、微雪を見た二人。
泣きたくなるようなその雪を、私は今も思い出す。
細かな雪。夢を語った雪。不安を拭いさるかのように降った雪。
──神野君。
私は今も、花を売っています。今の私の幸せが、いつかあなたに会ったとき、あなたにも伝わるでしょうか。
【終】