花のような心
こういう仕事をしていて、一番楽しい時は、自分と同じように花が好きで、色んな花を買うお客さんと話している時だ。
そして、今日もまた。
風の少ない、からりとした晴天だった。夏の残暑がまだ残り、店先に置いてある特売の花たちに、太陽の光が差し込んでいる。
髪に白いものが目立ち始めてきた母は、週一日、火曜日に行われる、フラワー教室に行く前に、美容院に行くと言って、少し早めに出かけている。約二十年花屋をしていても、やはり勉強になることが多いようだ。また、他の花好きの仲間とお喋りするのも楽しいらしい。
午後三時、母が家を出たすぐ後、買い物客が増える《フラワー藤木》にお客さんが来た。この商店街は駅の通り道にあり、うちの花屋は公園からも近く、おまけに右角にあるため、下町の割には多くの人に覗いてもらえる。しかも、スーパーから五十メートルも離れていない。
「すみませーん、これ一つください」
かん高い声で、店の奥に声をかけられ、肩より長いウエーブの髪を一つにまとめながら、じょうろに水を入れる手を止めて見ると、制服を着ている中学生くらいの少女がいた。どうやら、学校帰りに寄ったらしい。
「はい。えーと、この仏壇用の花でいいのかしら?」
仏壇用の花を買うにしては、随分と明るい声だ。二週間ほど前に、お彼岸は終わっている。特売のバケツから一束取り出す。
「はい。今日、おばあちゃんの命日なんです」
これもまた、声が明るい。少女は澄んだ瞳で躊躇することなく、真っ直ぐに私の方を見つめる。
「そう」
私は頷きながら、軽く微笑んだ。十歳の時に病気で父を亡くした私にとって、命日という言葉は重い。どういう反応をしていいのか、一瞬迷った。
「何の花がいいのか分からないけれど、これなら無難だと思って」
時折、駆け抜ける風が、少女の三つ編みを揺らす。健康的な肌に、脱色していない綺麗な黒髪だ。乾いた風を避けるように、紺地の制服のボタンを留めて、元気いっぱいに笑う。白い歯を覗かせ、笑うとえくぼができた。目も大きく、くりっとしている。何の悪いことも知らないような、無邪気な笑顔だった。
「おばあさん、喜ぶでしょうね」
簡単に水をティッシュで茎に含ませつつ、留めてある上から、輪ゴムで固定する。言えた言葉がそれだった。
「あなたみたいな可愛いお孫さんに、憶えていてもらって…」
その場で、紙を包装用紙のようにくるっと一回まわす。
「そうかなあ…」
少女は、少し照れたように微苦笑した。真面目に悩んでいるような、その姿が妙に愛らしかった。私がこの少女のような年だったのは、もう十何年か前になる、と思うと何だか微笑ましく思える。見覚えがあるその制服は、私の母校のだ。白いブラウスの丸口の襟に、細い深紅のリボン。懐かしさがこみあげた。
「おばあちゃんにはもちろんですけど、もう一つ理由があるんです。花を渡す理由」
へぇ、と私は花を手渡しつつ、少女を見つめる。
「どんな?」
「おじいちゃんに、一人じゃないよって言いたくて。おばあちゃんが死んだ日を憶えているのは、おじいちゃん一人じゃないよっていう、無言のメッセージ」
明るいトーンを保ちつつ、言いながら、鈴のついたお財布から五百円玉を取り出した。鮮やかな財布の赤が、目に眩しい。
「お父さんたちも、仕事で忙しいし。あ、おばあちゃんは父方のです。このお財布も、実はおばあちゃんからもらったもので…。だからせめて、あたしぐらいは」
「エライわね」
優しい子だ。亡くなった人のことだけでなく、生きている人のことも考えている。想い出も抱えながら。
お釣りを渡して、私は心からそう言った。
その後。一時間半近く経った頃。日が暮れるまで、まだ時間があるためか、商店街を歩く人達も、立ち止まり、特売の花に目をやる。私は打ち水をしながら、花に陽が当たり過ぎないよう、バケツの位置を変えていく。
入院しているという方の、お見舞い用の花束を作り終え、会計を済ませ、お客さんを見送った時、店の真向かいにいた少年の姿を認めた。何か考えるようにして、ずっと、こちらを見ている。公園にでもいたのか、と思う。
少し前から立っていたのだろうか。風が出てきて、やせすぎている細い体をちぢこませるようにして、両手をズボンのポケットに入れたまま、少し寒そうに立っている。やせすぎているためだろう、少年のズボンはゆとりがあるというよりも、ダブついているように見えた。私の視線に気がつくと、少年はこちらの方に歩み寄って来た。
「なにか、お探しかしら?」
柔らかく訊いてみた。強く言って、強制するのは、本意ではない。
うつむきがちに少年は、ズボンのポケットから千円札を取り出し、こちらの方へ差し出す。
「これで花束を作ってください。お願いします」
どこか弱々しい目をしていながらも、強い意志を感じさせる、はっきりとした口調だった。
「どういった花でまとめたらいいかしら?」
エプロンで手を拭きながら、お金を両手で受け取って、にっこりと微笑むと、少年ははっとしたような顔つきで、またうつむき、小さな声で答える。
「あの、よく分からないのです。どういうのがいいのか…。あの、亡くなった人にはどういうの、あげるべきなんでしょうかね?」
今日はなんて日なのだろうと、頭の隅で思った。若い子が、これで二人目だ。考えながら、左側にあるガラスケースにも目をやる。黄昏が、ガラスまでも包み込む。この少年くらいの年の子が買える金額で、仏壇関係の花というと…。
「そう…ね。一般的には仏壇の花がいいと思うけど。あとは、例えば、その方の好きな花とか…。知ってる?」
少年は悔しそうにかぶりを振った。
「いえ、…実は僕の親族ではないんです」
意外なことを言われて、私は戸惑い、ガラスケースへの手を止めた。
親族でないなら、誰の…?
その疑問が表情に出たのか、少年は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「えっと、あの…、僕の好きな子のおばあさんな
んですけど」
あ、もしかして。
さっきの…?
「その子なら、さっき見えたわ」
花が入っているケースへ視線を戻しながら、えっ? と驚く少年の顔を横目で見て、にっこりと笑い、もう一度、少年の方を見る。
「たぶん、その子だと思う。あの長い三つ編みをした可愛らしい女の子でしょう?」
「そうです!」
勢い込んで言い切った少年を、とても素直だと思った。
「そう…。だったら、少し華やかなのにしましょうか。白いカサブランカなんていいと思うんだけど」
言って、ケースの中から二本取り出す。頷く少年に微笑みながら、かすみ草もいれてボリュームをもたせ、キレイにラッピングする。
「これでいいかしら?」
作った花束を彼の前に差し出し、訊いてみた。
「はい」
少年は、花束を覗き込むようにしてから、満足そうに口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、気をつけて。毎度ありがとうございます」
彼女にもよろしくと言ったら、どんな反応をしただろう。少年が立ち去った後、そんな想像をして、一人で忍び笑った。
でも、おばあさんの命日まで知っているということは、誰かに話したということだし、その少年の好意を少女が嫌がるとも思えなかった。
来年は、もしかしたら、二人で仲良く来るかも知れないな、と思い、いつの間にか陽が傾き始めている商店街の中で、私は看板のライトに灯りをつけた。アスファルトの地面に、ライトのオレンジ色の光が薄く反射する。それがとても、温かく見えた。
閉店時間まで、少しでも長くこの状態が続くように、と思う。
何の汚れを持たない花と、同じような心を持った彼らの姿を、来年また見れることを願って。
《終》