黒魔術の代償~私を嫌っているはずの婚約者が私を黒魔術で生き返らせてきた~
あ、これは死んだ――その瞬間、私は冷静に自分の死を理解した。
最後に見た景色は、いななきながら前脚を大きく持ち上げる馬の姿。そして私の名を呼ぶ誰かの声、目の前に散る私の茶色の髪――そこから私の記憶はない。
私、ことディーネ・ワース伯爵令嬢は、馬に蹴られて死んだ。享年十七歳……のはずだった。
「――おい! 生き返れ、ディーネ! 俺を残して死ぬな!!」
「ううん……、こ、こは?」
私の名を呼ぶ必死な声に、重たい瞼を持ち上げる。どうやらどこかに寝かせられているらしい。背中に冷たく固い感触が当たっている。そうしているうちにぼんやりとした視界が段々とはっきりしてくる。
「やった、成功だ! 間に合ったぞ!」
「おめでとうございます、坊ちゃま」
浮かれた声と共に、私を覗き込むのは青色の瞳の青年。彼の顔にかかる銀色の髪は、いつも令嬢たちの注目の的だった。そうだ、彼の名は――
「……ソアン様?」
ソアン・ベルジュ様。ベルジュ侯爵家の跡取りで、幼い頃に決められた私の婚約者だ。私がその名を呼ぶと、彼はグッと何かを堪えるような顔をした。
まさかソアン様を前にして寝たままではいられない。私がゆっくりと身体を起こすと、ソアン様が背を支えてくれた。
「怪我もない、どこも傷はなさそうだな……。ディーネ、気分はどうだ? 痛むところはないか?」
「気分? 特に変わりはありませんが」
「良かった、本当に良かった……。もうディーネを離さないからな」
「ちょ、ちょっとソアン様――って、何これ……っ」
突然ソアン様に抱きしめられ焦った私は、人目を確認しようと辺りを見回して絶句した。
私が寝かされていたのは石の床だった。いや、それはまだいい。私の周りに置かれた何本ものろうそくに、地面に描かれたどす黒い色の魔法陣。そして皿に乗せられた干からびたカエルや、それが何か理解したくないドロドロした塊……。さらにソアン様の傍らには何やら分厚い古びた本が開かれて置いてある。
(死者……よみがえらせる……魔術)
何気なく本に書かれている文字を読んでしまった私の耳に、どこからともなく低い声が届く。
「坊ちゃまはディーネ様の魂を取り戻すべく、黒魔術の儀式を執り行ったのです」
その声にハッと見上げれば、見たことのない初老の男性――ソアン様の家の執事・ジャックが私たちを見下ろしていた。
どうやら私の婚約者は、私を生き返らせるために黒魔術に手を染めたらしい。
謎の儀式を執り行った部屋はどうやら侯爵家の地下室だった。地下室を出て、きれいな客間に通された私は、なぜか侯爵家の侍女たちに全身磨かれることになっていた。ざぶざぶと洗われながら、私は混乱する頭の中を整理する。
(落ち着いて思い出すのよ、ディーネ。馬に蹴られる前に何をしていたかしら……。そうだわ、ソアン様! 私、彼に呼び出されて教会に行ったんだった。『大事な話があるから教会に来てくれ』と言われて……って、やっぱり思いださなければ良かった)
死んだ時の状況を思い出すと一気に気が滅入ってきた。
馬の前に飛び出す直前まで、私はソアン様と一緒にいたのだ。最後に聞いた私の名を呼ぶ声はソアン様のものだった。そしてそこにいたのは私たちだけではなかった。
一緒にいたのはユニ男爵令嬢。ソアン様の浮気相手だ。
俯くとぽたぽたと茶色の髪から水滴が落ちる。
人目を引くソアン様に比べ、私は平凡な茶色の髪に茶色の瞳。見た目だって平凡中の平凡。そのせいかソアン様は私を嫌っていた。
(一緒にいるのを見られると恥ずかしいのか、社交界デビューしてからも夜会に誘われたのは数回……。騒がしい所は苦手だから助かるけれど。普段は一応の礼儀として手紙や誕生日のお祝いなんかは送り合っていたけど、それ以外のやり取りは皆無だったわね)
婚約者として付き合っていたものの、二人の距離は開く一方だった。そうしているうちにソアン様は一人の令嬢と仲を深めていたようだ。それがユニ男爵令嬢だった。私とは違って華やかなブロンドに青い瞳。明るく、人当たりの良い令嬢だ。
(教会に呼ばれた時も気が付けばユニ男爵令嬢がいたんだった。でも『大事な話って何だったのかしら』……はっ、もしかして!)
肌に香油を擦り込まれながら私は気づいてしまった。大事な話、それはきっと〝婚約破棄〟だ。
(絶対そうだわ! ユニ男爵令嬢を選びたいから、私に婚約破棄を告げようとしていたんだわ!)
だが、そうならなぜ私を生き返らせたのだろうか。死なせておいたままの方が都合が良かったのではないだろうか。
「ディーネ様、お迎えに上がりました。坊ちゃまがお呼びです」
ひとり頭を悩ませていた私をジャックが呼びに来た。その時には既に私はドレスまで着せられ、身支度は完璧だった。
「あの、ジャックさん……」
「ジャックで結構です。何でしょう、ディーネ様」
ジャックの後ろをついて歩きながら、私は気になっていたことを尋ねようと声をかけた。しかしジャックの白髪交じりの頭がこちらを振り向くことはなかった。とはいえ無視はされていないらしい様子に、私はおそるおそる本題に触れる。
「そ、そう? じゃあジャック。さっきソアン様が『黒魔術の儀式を執り行った』って言っていたけど、どういう意味なの? 私、あの時馬に蹴られて死んだのよね?」
「はい、確かにそのように申し上げましたし、申し上げた通りでございます」
淡々と語るジャックの口調はどことなく恐ろしい。しかしここで終わらせては何も始まらない。私はジャックの背中にさらに質問をぶつけた。
「でもソアン様は私を、あ……愛してなどいないのに、どうしてよみがえらせたりしたのでしょう」
事実ではあるが「愛されていない」と口にすると胸が痛む。わずかに言葉に詰まったことに気づかれないよう、私は最後まではっきりと言い切った。だが、ジャックの足がピタリと止まる。
「愛していない者をよみがえらせる必要などないと思いますが。人間は愛していない者のために危険を冒すのですか?」
いつの間にかジャックが振り返り、私をジッと見据えている。闇のような漆黒の瞳は吸い込まれそうなほど深い。
「わ、わからないの……。だってソアン様にはユニ男爵令嬢がいたでしょう?」
無意識に震える声で答えると、ジャックは表情を変えずに少し沈黙した。
「……私には真実はわかりかねます。唯一、明らかなのは坊ちゃまがディーネ様を必死によみがえらせたという事実だけです」
そう言うとジャックはくるりと背を向け、再び歩き出した。あっけなく終わった会話に拍子抜けしつつ、どこかホッとする自分もいた。
ジャックが案内してくれた部屋のドアをノックすると、すぐにソアンが顔をだした。
「ディーネ、調子はどうだ。具合が悪くなったりしていないか?」
「はい、おかげ様で。皆様に良くしていただきましたし、準備していただきありがとうございました」
不安げに強張っていたソアン様の顔は、私の言葉を聞くとふわりと緩んだ。その表情に私の胸の奥がきゅっと痛む。
ソアン様に嫌われているのはわかっていたけれど、これまでの手紙や贈り物から彼の優しさが伝わってくるように感じていた。取り柄のない私にもこんなに素敵な婚約者がいることは、プレッシャーでもあり、同時に誇らしくもあったのだ。
(親の決めた婚約者ではあったけど、いずれソアン様の妻になれることは私の心の支えだった……。だけど私は婚約者ではなくなってしまうかもしれない……)
目の前のソアン様の笑顔に、思わず曇ってしまいそうになる自分の顔に力を入れる。
「それでソアン様。私は一体どうして侯爵家に? 私は死んだはず――」
「あっ、そうだディーネ! 君の両親には、君をしばらく侯爵家で預かると伝えてある。だから心配はいらない、ゆっくり羽を伸ばして行ってくれ」
「そ、そんな! ご迷惑をかけるわけにはいきません。すぐにお暇いたします」
「いや、それはならん。『娘をぜひ頼む』と君の両親からも言われている。せめてうちの両親が領地から戻ってくるまでは、侯爵家で過ごしてほしい」
「は、はぁ……それではどうぞよろしくお願いいたします」
私は必死なソアン様に気圧されるまま頷いた。なお、私の質問はそれから何度もはぐらされ続けることとなる。
(あやしすぎるわ。ソアン様には婚約破棄の他にも何か隠していることがあるはず。でももしそれを聞いてしまったら、この生活は終わってしまうのかしら……)
うっかりそう思ってしまうほど、よみがえってからのソアン様との生活は幸せだった。
ある日の食事の時には――
「ディーネ、俺の隣に来るんだ。いつもそんな遠くにいては話しづらいじゃないか。俺はディーネを見て、ディーネの声を聞くだけで食事が何倍も旨く感じるんだ」
また、ある日の散歩の時には――
「ディーネに見せようと思って、何年も前から植えていた薔薇が見頃なんだ。ぜひ一緒に庭に出てみないか」
またまたある日の昼下がりには――
「何もしなくても、当たり前にディーネが側にいる生活がこんなに満たされたものだなんて知らなかった。俺は幸せ者だな……」
(――って、甘い! 甘すぎるわ! ソアン様、まるで別人じゃない)
私がよみがえってからのソアン様はまるで別人のようだった。
(どうしてこんなに優しくするの? ユニ男爵令嬢はどうしたのよ。これじゃあ私、まるで……)
大切な宝物のように扱われてしまうと、どうしても勘違いしたくなってしまう。
「私、ソアン様に愛されているみたいじゃない……」
だが、様子がおかしかったソアン様が本当に体調を崩してしまったのは、私が侯爵家で過ごし一か月ほど経った頃だった。
私は熱を出して寝込んでいるソアン様を見舞おうとしたものの、彼に会うことは出来なかった。扉の前でジャックに止められたのだ。
「お見舞いすることが出来ないとは、それほど具合が悪いのですか?」
「ええ、原因はわかりませんがこのままでは命に関わる状況だと……」
「そ、そんな……」
ジャックの言葉は、馬に蹴られた時以上のショックを私に与えた。
(ソアン様が死んでしまう? 信じられないわ、どうして……?)
「儀式を行い、運命に逆らった代償でしょう」
私の混乱する頭の中に、ぽつりとジャックの言葉が落ちる。
「……代償、ですって?」
ジャックを見上げると、相変わらず表情の読めない顔のまま私を見つめている。私は負けじとジャックを見つめ返した。
「ええ、ディーネ様は命を失われておりました。にもかかわらず運命に逆らい、魂を取り戻したのです。いくばくかの贄を捧げたとはいえ、儀式を行った者にも何らかの返りがあって然るべきでしょう」
そう語るジャックの唇がわずかに持ち上がる。愉悦を含んだジャックの黒い瞳が私を見つめていたが、今はそんなものに負けていられない。私は持ちうる気力の全てを込めてジャックを睨みかえす。
「ならどうすればソアン様は助かるの……? あなた、知っているんでしょう」
「聞いてどうするのです?」
「どうにかしてソアン様を助けるわ。当然でしょう?」
私がそう答えるとジャックはもう笑みを隠そうとしなかった。高らかに笑い、私の問いに答えたのだ。
「っははは……それは面白い! では教えて差し上げましょう、〝真実の愛〟です」
「真実の愛?」
ジャックが言うには「真実の愛こそが黒魔術の代償を打ち消すことができるもの」だそうだ。
(ソアン様の〝真実の愛……それが得られるのはきっと私ではなく……)
侯爵家の屋敷を出た私は、すっかり勘違いしそうになっていた自分に恥ずかしくなりながらも、ある場所に向かっていた。馬車の中で思い出していたのは、彼女の姿だ。
私が向かったのはユニ男爵令嬢の屋敷だ。私と婚約破棄をしてまで結ばれたかった、ソアン様が愛する人。侯爵家を出る時に、馬車の御者に何度も「本当に行くのか」と確認されたが、私の答えは一つしかなかった。
(――ユニ男爵令嬢。彼女に会ってもらえればソアン様の命が助かるかもしれない)
馬車の中に馬の蹄の音が響くと同時に、私の頭の中に彼女の勝ち誇った顔が浮かぶ。その瞬間、ふとある疑問がよぎった。
「あれ、でも私……どうして馬の前に出たりしたのかしら」
ソアン様に教会に呼び出されたものの、私はいたって冷静だった。馬の前に飛び出すなんて危ない真似をするわけがない。
不思議に思っていると馬車が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
「そんなことより、今はソアン様よ。ユニ男爵令嬢を連れて行かないと」
御者に手を貸してもらい、馬車を降りた私は目の前に広がる光景に言葉を失くした。そこには草がぼうぼうに生い茂った、人気のない屋敷がぽつんと建っているだけだったのだから。唖然とする私に、御者が汗を拭きながらおどおどと声をかけてきた。
「お、お嬢様。あの、ソアン様に止められていたので、申し上げられなかったのですが……」
「ソアン様に?」
青い顔をした御者は話そうかどうしようか迷っているようだ。唇をもごもごさせていたが、ようやく口を開いた。
「じ、実は……男爵家は取り潰しになったのです。お嬢様を馬の前に突き飛ばしたのはこの男爵家の令嬢だったそうで……」
「取り潰し!? それに私を突き飛ばしたって?」
「はい。ソアン様の後をつけ教会に向かった男爵令嬢は、ソアン様と並ぶお嬢様の姿を見て逆上したらしく……。お嬢様を馬の前に突き飛ばした、と……」
その言葉にワッと記憶がよみがえってくる。
(そうだわ、あの時――)
私を馬の前に突き飛ばしたのはユニ男爵令嬢だったのだ。
(私がソアン様に連れられて教会の中に入ろうとした時、現れたのがユニ男爵令嬢だった。私はそこで――)
『私のソアン様に触らないでちょうだいっ!』
『いい加減にしてくれ! 俺はディーネ以外を選ぶつもりはないと言っているだろう! 隙あらばディーネに害を加えようとするお前に何度も忠告したことを覚えていないのか?』
『で、でもその女を夜会にも連れて行かないのは嫌っているからでしょう?』
『馬鹿を言うな。なぜディーネをわざわざ他の男に見せねばならないのだ。それにディーネは騒がしい場所が好きではない。何度も言うが、俺にとって一番大切なのはディーネだ』
『そ、そんなソアン様……。あんたね……あんたが生きているからいけないのよ!!』
――ドンッ!!
『――っ、ディーネ!?』
(どうして忘れていたのかしら。ソアン様はユニ男爵令嬢ではなく、私を選んでくれていた……)
忘れていた事実を思い出してしまえば、胸の中にあった重石はあっという間に消えてなくなってしまう。
「でも、それならジャックはどうして……」
「ジャック……様ですか?」
怪訝な顔をする御者に私はハッと気づく。こんなことをしている暇はない。私は御者に告げる。
「教えてくれてありがとう。とりあえずソアン様の所に戻りましょう」
侯爵家の屋敷に戻ると、ソアン様が玄関先で騒いでいた。どうやら外に出ようとするのを使用人たちに止められているらしい。私もソアン様を止めるべく、慌てて駆け寄る。
「ソアン様! そんなお体で出歩いてはいけません!」
「――ディーネ! いったいどこに行っていたんだっ、心配したぞ!」
ソアン様はそう言うなり私を力いっぱい抱きしめた。熱があるというソアン様の体はまだ熱かったが、こうして動けているということは、ひとまず山は越したのだろう。
「ごめんなさい……でも、私全部思い出しました」
「全部?」
ソアン様の胸の中で私は馬に蹴られる前のことを思い出したと語った。
「あの時、ソアン様は私を選んでくださったのですね。私が大切だと――」
「当たり前だろう。俺がディーネ以外を選ぶはずない」
きっぱりと言い切るソアン様に思わず噴き出してしまう。
「ふふっ、嬉しいです。ずっとソアン様に嫌われているとばかり思っていました」
「まさか。愛していない者のために危険を犯したりしないだろう。でもあの黒魔術の本が本物で良かった。もしディーネがよみがえらなかったら俺は、俺は――」
ぎゅうっとソアン様が私を抱きしめる力が強くなる。だが私も負けじと抱きしめ返した。
「私もです。ソアン様が死んでしまったらどうしようかと思っていました。〝真実の愛〟に私が相応しいかはわかりませんが……」
「俺はディーネが良いんだ。そのことを伝えに教会に呼び出したんだが、俺のせいであんなことになるとは……」
「ソアン様……」
ソアン様の声が震える。なんと声をかけたらいいか迷っていると、ソアン様の背後から視線を感じた。ふと目を向けると、そこにはジャックの姿があった。
「おめでとうございます。〝真実の愛〟を手に入れましたね。今後は再び黒魔術に手を出さぬようお気を付けください」
ジャックはそう言ってにやりと笑った。
(そんなことわかっているわ)
内心、小さく呟いた私はソアン様の耳元に囁いた。
「大丈夫です、ソアン様。私ももう二度とソアン様から離れません。死が二人を別つ時は必ず訪れます。でも、その時が来ても嘆くことのないようしっかりとソアン様を愛し抜いてまいりますわ。せっかくソアン様がよみがえらせてくださったのですから」
そう告げた私は、次の瞬間息が止まるほどきつく抱きしめられた。
「ソアン様、そういえば最近ジャックの姿が見えませんが……」
「ジャック? そのような名の者はうちにはいないが?」
「…………え?」
お読みいただきありがとうございました!