泥中のスノードロップ
✳︎不妊治療による心の危うさの描写があります。苦手な方はご注意ください。
泥中のスノードロップ
「どうしたら簡単に死ねると思う?」
言霊という言葉がある。言うのも躊躇する『死』という言葉を実際に口に出したのは、人生でこの時の一回だけだったと思う。
それほど、この日は特別だった。
何年もお金を貯め、体調管理も万全に整え、初めて臨んだ高額不妊治療が徒労に終わったとわかった日。それが私の精神に追い打ちをかけた。
口に出したと言っても、声にしたわけじゃない。相手はSNS。正確には文章で表した、と言うことになる。
躊躇なく返ってきた答えは、『オーバードーズ?』。
「なるほどそだね。あんま人に迷惑もかけなさそうだし、救急車呼ぶぐらい? そのまま病院に直行だし、それ良いかもね」
とはいえ、私はもうすでに山ほどの薬を摂取している。缶に入れられた薬は、山盛り過ぎてフタが閉まらないほど。
それを見てふと。皮膚をつねられたような笑いが込み上げた。卑屈で嘲笑的な笑いだろうけど、ここはもちろんアイロニー。笑っていいところだ。
『……残念だったね』
この博打は失敗だった。そう考えれば、途端に気持ちがざわついて、もやもやし始めるのを止められない。
そうだ。失敗だなんて思いたくない。私の卵子は頑張ってくれた。
「そだね、残念……んーーーでもうん。仕方がない」
『月並みでごめんだけど……元気出して』
「うん、ありがとう」
一呼吸。そしてもう一呼吸。吐いて吸って吐いてからまた吸った。
「死ぬのって……苦しいのかな」
いや、わかってる。そりゃ苦しいだろうよ、息が絶えるんだからさ。
目の前に積まれた薬の山。その光景を目にするだけでも、こんなにも心臓が押し潰されそうになって、息苦しくなるんだから。
「産まれるのと死ぬのはどっちが苦しいのかな」
『……どっちも経験していないから、わかんないけど……それよりほんと大丈夫?』
SNSの相手は、リカという。同じ産婦人科の病院で出会った、二個歳下の女性。同時期に同じ治療をしていて、赤ちゃんをこの胸に抱くという同じ夢、同じ目標がある。病院の待合室で少し話して、励まし合えればと連絡先を交換した。
「大丈夫大丈夫。結構平気」
本気で死にたいと思っているわけじゃない。ただ、一ヶ月に一回。はあーあ来ちゃった、と思う日がやってきて、私を憂鬱の国へとさらっていく。ただ、真剣に赤ちゃんを欲するようになってからは、同時にざざんと荒れる嵐の海のような日にもなる。
「平気だけど、辛いわ」
『カオリ、泣いてるの?』
そのワードで私はそろっと指の先を持ち上げて、頬、唇、鼻、目をなぞってみた。すると、さらっとした液体が、自分でも気づかないうちに顔じゅうを濡らしていた。
私がいつまでも沈黙しているから、『……カウンセリング受けてきなよ』と、助け舟でも出すかのように、リカが言った。
私はいったん、濡れた手を着ているトレーナーで拭いてから、フリック入力を続けた。
「あれねえ、あんま意味ないよ。バカみたいに嫌だと思うことを喋らされるだけだもん。オムツのCM、年賀状の家族写真、当たり前に赤ちゃんまだ? って言ってくる叔母さん、産科と婦人科は別々にして欲しいとか、何回このくだりの話をしたことか」
『でも聞いてもらうのって大事じゃん』
「大丈夫、聞いてもらえなくても。もう慣れたから」
けれど言葉とは裏腹、身体は泥土を含んでいるかのように重い。下腹に鈍痛。女性特有の憂鬱は、人生に何が起ころうと、容赦なく襲ってくる。
『子宮の内膜が剥がれ落ちて出血するわけだから、痛いに決まってる。そりゃ死にたくもなるよ』
論点をずらしてくれたのか、それとも共感の親切心か。
「だね」
もし、簡単に赤ちゃんができていたとしていたら、彼女とは友達になっていなかった。いや、この関係を友達と言っていいのかどうかもわからない。複雑で難解。
同じ不妊治療を受ける仲間、同志、友人、知り合い、色々なカテゴリはあるけれど、もちろんどちらかが妊娠すれば一発で退場、もしくは一抜けとなることは明白だ。
もしそうなったらと考える。
嫉妬で狂ってしまうかもしれない。先を越されたと悔しくて仕方がないのかもしれない。きっと心から素直におめでとうって言うことはできない。そんなシーソーの端と端にしがみついている、祝福とはほど遠いポジショニングの二人。こうして励まし合いながらも、そのシーソーからお互いが足を滑らせて落ちるのを、息を潜めて見つめ合っているのだろうか?
私は長引く不妊治療によって、いつしか疑心暗鬼になっていた。違う、リカに対してではない。自分自身に対してだ。
本当に心から、自分の子どもが欲しいと思っているのだろうか?
旦那のハルキが、赤ちゃんが欲しいと言ったから不妊治療を頑張っているのだろうか?
母という存在に私が適してないと、ママという存在に相応しくないと、神さまが判断しているのかもしれない。そういう精神論的な考えに辿り着くことができたなら、この苦痛から解放されるのかもしれない。
涙を拭った手をそっと、下腹に当てた。手の温もりは伝わってくるが、そこには虚無で無慈悲な生理痛しか存在しない。
子宮は宇宙なのだと思う。
想像するにそこは静寂で、この世界のあらゆるものから遠ざかった、静謐な世界なのだと思う。
しんとした静けさの中に、もうどこにもいないはずの生命の痕跡を探してみる。
『死ぬ?』
「ううん。死なぬ」
新たな生命を生み出したい私に、バカげた死の選択肢などはない。
「……また来月頑張るよ」
このころにはもう、何をどう頑張ったらいいのかもわからなくなっていた。
✳︎
「ただいまー」
旦那のハルキが仕事から帰ってくるやいなや、スーパーの袋を渡してきた。ガサッと音がして、意外と重い。
「なに? 買い物行ったの?」
中を覗く。白く可愛らしい花の鉢。
「駅前にフラワーショップができたじゃん? で、飛び込みで営業しに行ったわけよ。そしたらそこのおばちゃんがさ、熱心に保険の話を聞いてくれてさ。検討しますとまで言ってくれて、……」
スーツの上着を脱いで、ネクタイをほどいていく。クローゼットにスウェットを取りに行くと、喋っているはずのハルキの声が換気扇の音で、かき消されてしまった。
仕方なく、作っていた野菜炒めの火を切って、いったん換気扇を止めた。
「でね」
ハルキの声が戻ってくる。
「そのお礼になんか買ってあげようと思って探してたら、おばちゃんがおススメしてくれてさ。スノードロップ。春を待つ花なんだって。なんかそういうのイイなって思って」
受け取ったビニール袋から鉢を取り出してみる。とりあえず袋を下に敷き、テーブルの上に置いた。
白い花びらが3枚閉じていて、下向きになっている。その姿は確かに『雫』そのものだ。
「へえ可愛いじゃん」
さっそく世話の仕方を調べようとしてスマホをエプロンのポケットから取り出した。
スノードロップと検索する。
和名はマツユキソウ(待雪草)。なかなか趣深いね。
花言葉は、『希望』と『慰め』。アダムとイブがエデンの園から追放されたとき、心配した天使たちが降っていた雪をスノードロップの花に変えて、二人を元気づけたという説があるそうだ。
なるほど、妊活を頑張る私たちには『希望』『慰め』はぴったりのように思えてしまう。
ただ、次の文章に少しだけ、どきっと心臓が跳ねた。
イギリスの言い伝えでは、亡くなった恋人の遺体にスノードロップを供えたところ、恋人の身体が雪の雫になってしまったという逸話があるという。『死の象徴』なのだと。
さっきまでリカと『死』について話していたから、少し驚いてしまった。ややこやしい感情になりそうだったので、スマホの画面から目を逸らした。
「ど、どこに飾ろう?」
「玄関でいいんじゃない」
「そうだね」
鉢植えを持って玄関へと向かう。玄関のクツ箱の上、子宝草の横に、そっと置いてみる。そしてほうっと息をついた。
ああ、この白い可愛い花に誘われて、うちにも赤ちゃんを抱いた天使が、舞い降りてきてくれないだろうか。フランダースの犬のラストみたいに、あの荘厳な雰囲気で、この子を頼みますよと、授けに来てくれないだろうか。
「太陽に当たると花が咲くって書いてある」
エプロンのポケットから出したスマホを見ながらそう言うと、いつのまにか背後に立っていたハルキが「じゃあ今日はもう遅いから、とりあえずそこに置いておいて、明日、庭に植え直そう」と言った。
今日のことがある。視線を合わせられなかった。けれどいつかは今日の結果のことを話さなければいけない。ハルキの横を無表情で、すっと通り過ぎると、キッチンに戻り作りかけだった野菜炒めを完成させた。
ハルキと二人、静かな食卓を囲んだ。
ハルキはもともと子どもが好きだった。自身は、五人兄弟の末っ子。賑やかな家庭で育ったこともあり、子どものいない人生なんて、これっぽちも考えられない人だ。
それに反して私は一人っ子。静かな家庭で育ったから、こういう食卓も苦にならない。
だから、私が心の底から子どもを欲しているのかどうかという疑問にぶち当たる理由は、そこにあるのかもしれない。
ただハルキは違う。私と結婚しなければ、順調に一児か二児あるいは三児の、目に入れても痛くない系の甘やかしパパになっていただろう。そう思うと、ハルキのためには是が非にでも欲しいという焦りに似た感情に苛まれる。もし私が赤ちゃんを宿せない身体だったとしたら。そう考えるだけで、圧倒的で暴力的な恐怖に襲われ、あっという間に支配されてしまうのだ。
他の女性と結婚していれば今ごろ幸せな家族団欒を過ごしているのかもしれない……。
そんな恐怖とずっとずっと闘ってきた。
「ねえ、ハルキ……」
重い口を開き、泥でも吐くように言った。
「ね、ごめんけど、今日、アレ来ちゃった」
「……そっか」
『アレ』のひと言ですべてを察することができるほどに繰り返した、日々の長さ。押しつぶされそうになるプレッシャー。そして、ハルキはその流れで静かに問う。
「身体は大丈夫?」
「うん大丈夫」
子宮は宇宙。
小さな空間で大切で尊い命が発生し育まれる。
子宮は宇宙だけど、私のここは、泥土でも堆積しているんじゃないかと思わざるを得ない。ずっと不妊治療を続けてきて、手応えというか感触としては、そうとしか思えなかった。
ただ、泥が詰まっているだけなのだ、と。
「スノードロップ」
「うん?」
「可愛いね」
「ん」
泥の中で咲く花など限られている。ましてやこの可愛いスノードロップなんかは、私の泥に埋もれた子宮の中で咲くことはないだろう。
神さまでもきっと、こればかりはどうしようもできないのだろうな。
辞めどきも諦めどきもわからない、足のつかない底なし沼のように。
「カオリ?」
「ん?」
「泣かないで」
「うん」
「また次頑張ろ?」
「うん」
「おいで」
ギッとイスをひざ裏で押し、立ち上がる。ハルキもそれに合わせて立ち上がった。お互いをハグして、さらに抱き締め合う。
その拍子に、ううと嗚咽が漏れた。
「なあ、カオリ。いつも言うけどな、俺はいいんだよ。子どものいない夫婦だって、この世にごまんといるんだから」
「ん」
「もし次が駄目でもさ。それで人生が終わるわけじゃない。子どもがいたとしても成長したら手を離れていって、結局老後は二人なんだからさ。二人で生きればいいんだよ」
「ん、うん。二人で生きればいい……」
ハルキの言葉をなぞるように呟いた。
私が抱える宇宙が、泥で埋め尽くされていたとしても、静かにこのまま最期の時を迎えることになったとしても、私のスノードロップが咲かなかったとしても、二人で支え合っていく。
涙が止まらなかった。
✳︎
『おめでとう』
リカから第一声が届いた。私が3度目の高額不妊治療により妊娠し、報告した日の翌日。
「ありがとう」
お礼を言ったら、この会話ももう、終わりにしなければならない。
「無責任なことは言えないけど。でも……頑張って」
頑張ったって願いが叶う保証もなければ、もうすでに頑張っている人に頑張れと言うのは酷だという説もある。
けれど、それしか思いつかないから、そう言った。
『うん。頑張るよ。ほんとおめでとう。あと、今までありがとう』
「こちらこそ、」
鼻の奥がつんと痛んだ。
「ありがとう。心の支えだった」
『私も』
「病院も転院するから、会えなくなっちゃうけど」
大きいお腹で会えば、相手を苦しめることになる。順調に子どもを授かった人たちには分からない痛みを私たちは分かち合った。だから、自分がどうすべきかは知っている。
『スノードロップ、咲いて良かったね』
「うん」
最後の会話。それ以来、リカとは連絡を取っていなかった。
あの日、庭に植えたスノードロップは、少しずつ増やしていった株にたくさんの花を咲かせた。それをリカにも分けてあげて、リカは鉢植えにしたらしいが、今はどうなっているのだろう。
泥中に咲いた私の白い花は、出産を経て、今ではもりもりと食べる元気印の小学生となった。
「ママ! アイねえ、ママのおなかにいるときのことおぼえてるよ!」
「ええぇ! それはすごいね!」
私の感嘆に、娘は嬉しそうに話し出した。
「あのねえ、真っ暗のお部屋で、アイは目をパチパチしながら眠っててねえ」
「それは静かなお部屋なの?」
「ううん、とくんとくんってママのしんぞーの音が聞こえていたよ」
ふいに熱く込み上げてくるものがあった。
「そうなの? そこまで覚えているんだね。ママもアイが元気すぎて蹴飛ばしてくるから、ちょっと痛かったよ」
「ごめーん」
「ねえ、アイ。ママね、おなかの中に白くて可愛いお花を飾っていたんだよ。覚えてる?」
「えー真っ暗だったから知らなーい」
そう言って、だだだっと走っておもちゃ部屋へと行ってしまう。ひととこにじっとしていられない子だ。そういうところはハルキにそっくりだと思う。
私はスマホを取り出した。SNSを開き、そしてついさっき送られてきた写真をもう一度見つめる。
涙がぽろっとこぼれた。
満開のスノードロップの前、リカがおなかに手を当てている。リカは結局、あの後色々あって離婚はしたが、再婚相手との間に赤ちゃんを授かったそうだ。
「アイーパンケーキ食べる?」
「うん! 食べたい!」
「リョーカイ」
「メープルたっぷりね!」
熱くなった目頭を手で押さえながら、キッチンへと入り、エプロンのヒモをぎゅっと縛った。
私の宇宙よ。
しんとした静けさの中、
泥中に咲く、スノードロップを愛す。




