公安局からの依頼
「先生はどうして携帯を持たないんですか? 」
莉音にも先程の会話は聞こえていた。推理とプライベートを邪魔されたくないというのは、側で見ていて分からなくもない。だが、それならばサイレントモードにしておいて都合のいい時にかけ直せばよいのではないかと思えた。
「ワクチンと云うのはウィルス感染者が出てからでないと開発されないんだよ。」
自分から聞いておいて莉音は後悔していた。端的に答えを返して来ない時の猟魔は話が長いのだ。
「携帯と一口に言っても昨今の携帯は携帯電話と云うよりは携帯端末。つまりPDA、通話より情報端末としての役割が大きい。人であれ機械であれ、他と繋がると云うことは常に何らかのウィルスに感染するリスクを伴うものだ。」
慣れというもの恐ろしいもので、莉音には話の結末が見えてきた。しかし話の腰を折ると猟魔が不機嫌になるので適度に感心したり驚いたり相槌を打つ事に気を配ることにした。
「私は探偵である以上、依頼人に対して守秘義務を負う。だが、情報端末は利便性を優先するあまり、保護機能には穴がある。そしてセキュリティホールは突かれるまで気づかれない事が多いのだ。」
「それなら端末に情報を入力しなければいいのではありませんか? 」
ここで莉音が口を挟んだ。これは意見を言ったというよりは合いの手に近い。
「聖職者と言っても、私も人間だ。便利と分かっている物が身近にあれば使いたくならないとも限らない。予防接種やファイアウォールとは最初の一人には間に合わない。私が最初の一人にならない為には携帯を持たないのが一番だと思わないかね? 」
「なるほどぉ! 」
ここで感心をしてみせる。すると猟魔は満足そうに微笑んで、少し冷めてしまったカップをあらためて勧めた。莉音は今、気づいたかのように頭を少し下げてから飲み干すとカップを持ってキッチンへと下がって行った。猟魔も自分が話を振られると説明せずにはいられない性分である事を自覚している。そして、その話を誰よりも猟魔を不機嫌にさせずに適度なところで切り上げられるのが莉音である。その観察力とコミュニケーション能力を猟魔は買っていた。莉音は猟魔を探偵として尊敬していた。端から見れば面倒臭いようでいて二人のバランスは取れているのである。逆に監察官の久来のようなタイプは猟魔とは反りが合わない。まぁ、この場合は同族嫌悪なのかもしれない。そんな相手と1日に2度も会うのは双方にとって不本意であっただろう。
「特に忘れ物をした覚えはないのだがね? 」
莉音に通されてきた久来の顔を見るなり、猟魔は言い放った。
「えぇ。そのような用事ではありません。それに公安局特殊任務部は忘れ物を届ける為に監察官を使う程、暇ではありませんから。」
猟魔は下がろうとした莉音を呼び止めた。
「莉音、監視官はお忙しいので直ぐに帰られるそうだ。お茶は要らないよ。」
「え… あ、はい。」
すると久来は2度ほど軽く頷いて鞄から封筒を取り出した。
「さすが名探偵。御明察の通りです。特務から依頼書です。」
「やはり、おつかいですか? 」
この“やはり”という処に、『なんだ結局、使いっ走りじゃないか』という皮肉が感じられる。もちろん、猟魔は顔には出さないし、言われた久来も平然としている。
「えぇ。さすがに極秘任務なので郵便や監察員クラスに持って来させる訳にもいかなくてね。期待していますよ。」
そのまま立ち去ろうとした久来を猟魔が呼び止めた。
「どのような依頼か知りませんが、まだ、お引き受けするとは決めてませんよ? 」
「大丈夫、読めば貴方は必ず引き受けます。」
確かに久来は猟魔の推察通り、直ぐ帰っていったのだが。封筒を開けて依頼書を確認すると猟魔は一度、不機嫌そうな顔をしたが、直ぐに不敵な笑みを浮かべた。
(なるほどね。久来監察官の言うとおり、確かに引き受けざるをえないのは、面白くありませんが… 案件としては、とても興味深いですね。)
「莉音、当面は忙しくなりそうです。面白そうな案件以外はお断りしてください。」
「はいっ! 」
この面白そうというのは曖昧な基準のようだが、莉音は猟魔の興味をよく理解しているし、猟魔は莉音の裁量を信用している。
「莉音。私はこの調査の為に暫く留守にするから事務所の事は任せるよ。」
そう言って猟魔は久来の持ってきた封筒を持ち上げた。
「はいっ! 」
尊敬する猟魔の不在は寂しくもあったが、留守を任せて貰える事が嬉しくもあった。
「それと… 」
猟魔は交通カードを差し出した。
「運転の出来ない莉音には少々、億劫かもしれないが一度、城西の猛是の所に行って襟谷さんに会ってきて欲しい。」
「は…はい… 」
莉音は不思議そうに交通カードを受け取った。別に事務所持ちの交通カードを使用するのは経費などの事もありいつも通りなのだが、会ってきて欲しいという言葉に、いつもと違うものを感じていた。様子を見てくるでも、何かを聞いてくるでもなく、会ってきて欲しい。それは何かを感じ取ってこいという事なのだろう。久しぶりに莉音は猟魔の考えを読みあぐねていた。