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平安異聞録ー稀代の陰陽師は色々問題だらけでしたー  作者: 深月みなも
依頼【内裏に巣食うモノ】
3/36

安倍晴明御一行【弍】

女中達に全身改造された晴明ちゃん。

頑張れっ!晴明ちゃん!



**************************


内裏へは一刻程の滞在のつもりだったが、気づけばあと少しで二刻も経つ位には時間がかかっていた。

やっと女官達の手から抜け出せるようになった頃には、晴明の体力気力共にほとんど削り取られてしまい、今すぐ抜け出してやろうかと逃亡欲まで湧き上がっていた。

女官達は会心の出来だ!ととても満足そうにしていたが、反比例で晴明はもう限界だった。

そっと懐に忍ばせていた人形(ひとがた)に手を伸ばしかけていた時、ふいに人の気配がして晴明は一度その手の動きを止めた。


「誰だ、そこに居るのは」


見えない姿に向けて、声を掛ける。


「主上から様子を見てくるよう言伝かり、参った者にございます」


先程の呪具の事もあり、少し警戒を滲ませて問うと、若い男らしき声が返ってくる。


「支度は出来た。だが付き添いは不要だ。連れと共に自身で向かうと主上に伝えなさい」

「それは出来かねます」


てっきり大人しく従うと思い告げたはずの言葉は、すぐさま却下された。


「貴方様の様子を見てくること、そして支度が整い次第主上の待つ部屋へ付き添うこと。これは私が主上から受けた勅命にございます。それを反故にする事は出来まません」


勅命とは天皇である主上からの直々の命だ。

確かにその命に従わなければ反逆と取られてもおかしくはない。

本来であれば都の大事や、重要な決め事の際に与えられるものを、こんなくだらないことに使うとは。職権乱用という言葉を、帝は知っているのだろうか?

勅命なんて大それた言い方はしているが、詰まるところ晴明が逃げ出さないかの監視役である。

あの男がそこまで考えての勅命を出したかと言うと違う気もするが、無意識にそう仕向けてしまうのがあの男の食えないところだ。

大方、晴明が着飾った姿で歩き回れば誰かしらに絡まれるとでも思ってのことだろう。

それを鑑みてこの男を見張りに付けたのだろうが、結果は晴明にとって逃げ出し防止の監視役という、大変迷惑極まりない存在になってしまった。


「…分かった。なら、とりあえず私の連れを呼んでくれ。揃い次第、其方と共に主上の御膳へと向かおう」

「かしこまりました。ただいま」


すっと気配が離れたのを確認し、懐から出そうとしていた人形を仕方がないと仕舞い込む。どうせすぐに戻ってきてしまうだろう事を考えたら、逃げ出すには些か時間が足りない。今回は諦めるしかないと、溜息をつく。だが溜息をつくのですら、締め上げられた帯のせいで一苦労だった。


(溜息すらまともに出来ぬとは…)


もう一度溜息を吐きだしたいところだったが、学習済みの晴明は心の中だけで溜息をつくのであった。





予想通りすぐに晴明の連れを呼び、共に戻って来た男がもう一度部屋の外から晴明へと声をかける。男に軽く返事をすると、暫くして晴明が部屋から出てきた。先程までの男物の質素な着物ではなく、女性物の豪華絢爛な気物に身を包んだ晴明はぐったりとした姿で従者達の前に立つ。


「今回もとてもよくお似合いですよ、主」

「嫌味か…玄泉」

「いやいや、滅相もない。本心です。我が家にいる際も、ここまでとはいきませんが、男性物の着物ばかりではなく女性物も着てみては如何ですか?」


とんでもない提案をしてくる玄泉に晴明は首を横に振る。

そんなことをしたら裾を気にしなければいけないし、気軽に寝転がったりできなくなってしまう。それは晴明にとっては死活問題だ。

何より女物を着ることになれば、今はここにいない家人の内一人が無駄に張り切る様がありありと頭に浮かぶ。それは非常に困る。


「晴明が好きな方でいいと思う」

「蒼月!お前は本当にいい子だな」


小首を傾げる蒼月に、感極まって抱き着いた晴明。

蒼月はどうした?と不思議そうにしていたが、晴明は数少ない味方をよしよしと腕に抱き抱えながら頭を撫でた。何故撫でられているのか理由は分かっていないようだが、蒼月は嬉しそうに目を細めた。


「皆様、そろそろ宜しいでしょうか?帝の待つ部屋まで私がご一緒致します」


空気を読んで晴明一行の話が一段落つくのを待ってくれていたらしい。案内人(監視役)の男は微笑ましそうにこちらを見ながら声をかけてきた。


「あぁ、待たせてすまなかった。玄泉、蒼月行くぞ。琥珀はこっちだ。おいで?」


二人に声をかけると、晴明は腰を屈め、足元にいた白い毛むくじゃら…琥珀という言う名のもふもふを腕に抱えた。


「では、参りましょうか?」

「あぁ」


先導する男に続き、一行は歩き始める。

大した移動距離ではないが、重い着物を引き摺りながら歩くのは相当しんどかった。

力ない足取りで何とか男について歩いていくと、目的の部屋まで辿り着いたらしい。

先を歩いていた男が、晴明達より一足先に足を止めてこちらを振り返っていた。

よく見ればその男の横にもう一人、見覚えのない男がいた。衣冠(いかん)に身を包んだ男は、服装から武官だと言う事は分かるが、晴明自身は面識がない。

最も、数百数千はいるだろう内裏の勤め人の顔など覚え切れるはずもないのだが。

今案内をしてくれた男もそうだが、殆どの勤め人の顔なんぞ晴明は覚えていない。

いつも口うるさい帝の側近や、陰陽寮の面々(知らない人もいるが)、仕事で関わった者くらいなら覚えているけれど。

なので見知らぬ顔がいたこと自体はいい。違和感を覚えたのは別のところにであった。


(なぜ武官の男が一人だけ部屋の外に待機している?)


基本的に帝の私的な部屋が立ち並ぶここは、内裏の中とはいえど警備を怠ることはない。先程もそうだったが、部屋の近くに複数の警備の武官が有事に備えて配置されている。大抵は庭先だったり回廊にいることが多いが、今見当たるのは目の前の男一人。庭先にも、他の場所にも、まるで人払いをしたかのように、他の者の姿はなかった。

少し息切れを起こしながら案内人に追いつくと、案内してくれた男は大丈夫ですか?と晴明の様子を心配した。大丈夫ではないが、この男のせいではないからと本音は隠して大丈夫だと男に告げる。


「中には声をかけてありますので、準備が整うまでこちらでお待ちくださいませ。整い次第中から声がかかります故。私はここで下がらせていただきますので、代わりにこちらの方が付きそいます。何かあればこちらの方に。では、私は失礼致します」


嘘だと丸わかりの晴明の言葉にまだ心配そうな顔をしていたが、男にも次の仕事があるのだろう。説明を終えると一礼してすぐにその場を離れていった。

残されたのは晴明一行と新たな晴明の監視役。

その監視役はどこかそわそわとした落ち着きのない気配で玄泉を見上げていた。

警護の違和感は未だ拭えないものの、何かあればどうとでもなるだろうと、すっかりどうでもよくなった晴明。新しい監視役の武官への興味も同時に失くしてしまっていた。

相手に特に挨拶もなく手元に抱えていた琥珀の喉元を撫でまわしていると。


「あ、あのっ、貴殿が噂に名高い安倍晴明様で御座いますね。ずっとお会いしてみたいと思っておりました!」

「いえ、私は…」


頭上から聞こえてきた言葉にその手をぴたりと止めた。


興奮気味の声と一緒に、玄泉の戸惑った声も一緒に聞こえてくる。ちらりと様子を見れば、男の双方がぱっと輝き、どうやら玄泉を清明だと勘違いしたようで、尊敬の篭った眼差しを向けていた。


「申し遅れました。私、兵衛府(ひょうえふ)近衛中将(このえちゅうしょう)を任されております。帝からも信頼され、数々の怪奇な事件や呪いを解いたと言われている晴明様にお会いできて光栄にございます」

「いえ、そうではなくて私は…」

「凄腕の陰陽師と聞き、強面の男らしい方かと思っておりましたが、まさかこんな美丈夫だったとは、少しばかり驚きましたが…帝が言っていたのはこの事だったのですね。そちらの方は妹君でしょうか?」


玄泉はすぐに男の誤解を解こうと試みてはみるが、興奮気味の男は玄泉の話を聞かずに早口で尚も話し始めた。

そして最悪なことに、興味が安倍晴明本人である晴明に向かってしまう。それも誤解をしたまま。


「……おい。其方…私がこやつの妹と申したか?」

「こら!いくら晴明様の連れとはいえ、このように素晴らしい方をそのように呼ぶのは感心しないぞ?たとえ家族でも良くない。娘、早く謝るんだ」

「…ほぉ?おかしな話だ。私が私に謝るなど、そんな道化のような真似何故せねばならんのだ?」

「誰がそんなことを言った。晴明様に、謝罪せよと言ったのだ」


男は息荒く鼻を鳴らし、さぁと促してくる。

初めは苛立たしげにしていた晴明だったが、次第に目の前の男のとんと的はずれな発言にどんどんと怒りから呆れに変わっていった。

わざとらしく大きな溜息をつき、下を向いていた晴明がやっと男を見上げるように顔を上げた。


(ん?この顔…、それにこの男……)


初めて正面から目の前に立つ馬鹿げたことをぬかす男を見据えた晴明。

男の顔をまじまじと眺める。改めて良く男の風貌を観察していた晴明は、少しの間思考を巡らせていた。

そうして点と点が繋がる様に、先程感じた違和感の理由が解決する。


(成程…そういう事か)


また面倒なことをとぼやきながら、中にいるであろう帝にちっと小さく音を鳴らしながら舌打ちをする。

一方、兵衛府近衛中将と名乗った男は、今まで少し俯いた姿しか見ていなかった清明と目が合うなり、何故か急に石のように体を固くした。

だがそんなことは無視をして、晴明はすぐ隣に立つ玄泉を見上げるように仰いだ。


「玄泉、お前の名はいつの間に晴明と言う名になったのだ?知らなかったな。どうやら有名な陰陽師殿みたいだな?と言うことは、主上の茶番に付き合うのも、晴明であるお前の役目になるな?」


晴明は身に纏った着物をヒラヒラと見せ付けるように玄泉の前に揺らした。

くつくつと喉を鳴らし笑う清明に見上げられ、玄泉は勘弁して下さいと弱々しく眉を下げる。


「主、その様な恐れ多いこと私は致しませんよ。大体私がそのような事をしたら、それこそ道化でしょう。それより、そんな風に回りくどい言い方をせず、早くこの方の誤解をといて差し上げた方が宜しいかと…」


チラリと玄泉が視線を向けた先の男は未だ固まったまま、二人のやり取りをただ見ている。


「そんな必要もないだろう。私には阿呆に構っている時間はない。早急に主上に会って私は早くこの着物から開放されたいのだ。早く行くぞ」


言葉の通りに時間と体力が惜しい晴明は、男を無視したまま足早にその横を通り抜けて行く。

中にいる人物の許可を待たずして目的の部屋の戸に手をかけ、スパーンと音が鳴るほど勢い良く戸を開け放った。

その音で正気に戻った男が、大きな声で何をしている!?と捲し立てるが、晴明はそれも無視してずかずかと部屋の中へと侵入する。


「貴様、帝の御前に許可も礼儀もなく踏み込むとは、何を考えている!?」


血相を変えて追ってきた男に、小さな体の晴明は簡単に捕えられてしまう。片腕で左腕を掴まれ、もう片腕で胴に腕を回す形でその場に踏み留まらされた晴明は、その大きな瞳で男を見上げた。


「はぁ…主上、この馬鹿を早くどうにかせんと、蒼月が今にも暴れ出しそうだぞ?私は構わんが、お主は困るのではないか?」


男への視線はそのままに、目の前…私室の御簾の向こうにいる帝に向けて晴明は話しかける。先程からこの状況を楽しんでいるようで、御簾越しに小さく笑い声が漏れている。


「何を思ってこんな事を仕組んだのかは別にどうでもいいが、早く止めんとこの阿呆が痛い目を見るのは明白だぞ。蒼月は容赦ないからな」


気配だけですぐ後ろにいるだろう蒼月の殺気が清明までひしひしと伝わってくる。


(蒼月は加減があまり出来ないから、やり過ぎてしまうことも多い)


清明の予想が正しければ、この男にあまり物理的に痛い目に合わせてしまうのは宜しくない。


(まぁ…そうなってしまったらしまったで、こちらは忠告もしている事だし、責任は主上にあるがな)


晴明はどちらでも構わないと、ただ様子を見守ることにし、それ以上は何も言わなかった。

その様子を見ていた帝は、未だ笑ってはいたがゆっくりとその腰を上げ、御簾を捲り上げ顔を出す。


「そうだな、それはいかん。憲平よ、その手を離すのだ。私の客人に無礼を働いているのはお前だ」

「ですが!いくら客人とは言え、帝の御前でこのような…」


兵衛府近衛中将の名は『憲平』と言うらしい。

これで確定だ。どうやら晴明の推測は当たっている様だ。その名は晴明も聞いたことのある名だった。


「私と晴明の仲だ、気にする必要は無い。なぁ、晴明?」

「仲がどういう意味合いで言っているのかは知りたくないが、いつも通りという事は間違ってはいないな。そして主上のお遊びから始まったこの上なく無意味な着せ替えも、いい加減今日で最後にして頂きたいところなのだが…これもまたいつもだな」


最後の方には皮肉を込めて晴明は頷く。

あわよくば、この着せ替えという帝の気まぐれが今後無くなってはくれまいかと、ごく僅かに残されているかもしれない可能性に少しばかりの期待を込めてのこと。


「それこそ今更の話。これは私の趣味であり最早生きがいだ。私の可愛い晴明を着飾るのは止められん」

「それが不要だというのだ。どうせやるなら自分の子か妻たちにすればいいだけの話だろう。私にはこの様な装飾品は不要なのだ!」


最早晴明を掴み留めている憲平のことは放ったらかしで、晴明と帝は平行線な言い合いを始め出す。

会話の内容についてもいけなければ、理解もできていない憲平はただ呆然と目の前の光景をながめるだけ。

憲平の頭の中には、晴明?着せ替え?可愛い?と一部の単語だけが意味もなく拾われていて全てに疑問符がついていた。


「帝まで何を仰っているのです?安倍晴明様はこちらの方でしょう?晴明とは男の名ですし、私をからかうにしてもこの娘はいくらなんでもありえない事ぐらい、誰にでもわかります」


流石に分からないことが多すぎて、憲平は帝に問いかける。


「まぁ、確かに殆どの時は男の姿だな」


その問いに更なる疑問を生むような答えを出した帝。


「は…?殆どの時は男の姿…と申しますと…?」


案の定、謎が増えた憲平は、顔に困惑を滲ませる。


(それではまるで性別を好き勝手に変えられる様な言い方ではないか。それとも中性的な顔立ちで、どちらにでも変装できるとでも帝は言いたいのだろうか?)


思案する憲平を他所に、帝はゆっくりと人さし指で、憲平に抱えられている少女を指差した。


「お前が今捕まえているのは、紛れもなく陰陽師として名高い安倍晴明だ。晴明の本来の姿がそれで、普段は……邸に篭もりがちであまり姿を現さないが、基本男の格好を好んでしている。基本的に男ばかりの職場だからわざわざ女性用の服を着ることもないし、何より晴明自身がそれを望むものだから、参内の折も敢えて同じように男性用の仕事着を着ているのだ。名の事もあって、事情をよく知らない者は“男”だと思っている者が多い。まさか女人が男ばかりの部署に交じっていないだろうという先入観と、この整い過ぎた愛らしい容姿から、女性なのか男性なのか判断に悩むのだろうよ。晴明自身もそういったことに頓着しない性格だから、訂正しないでいる内に勝手に話が広まっていてな」


まるで憲平の疑問を解決するかのように、帝は憲平に的確に欲しい答えをくれる。つまりは判断がつかないから、明確に分かっている陰陽寮天文博士の地位と安倍晴明という男性の名…この二つの情報を頼りに判断した結果、"安倍晴明(イコール)男"と言う事で納得したのだろう。その結果、誤った噂だけが独り歩きしていたと。


「では帝は…あの安倍晴明様がこのような小娘だと言うのですか?噂では帝の窮地を救い、この内裏内に入り込んだ妖狐を滅したと…」


未だ理解し難いと、抱えている晴明を憲平が見た。


「あぁ、あの時は晴明に申し訳ないことをした。晴明を疑ってしまったことは私の人生で最大の過ちだった」

「…私はあの時助けたこと自体が間違いだったのではと少し後悔しているが」


懐かしいなぁと帝はあっさりと頷く。

そして憲平のすぐ下。憲平の頭二つ分程下がった位置にある晴明の頭は、帝の力強い頷きとは反対に項垂れる様に力無く下に落ちた。だけどもその口から出た言葉は、帝同様に肯定を意味するような言葉だ。


羅生門(らしょうもん)に巣食う悪鬼達を蹴散らし、星読みも得意としてその正確さに適う者はいないと言われているあの晴明様ですよ?」

「あれは面倒だったな…力は弱かったが、わらわらと沢山の小鬼が群がっていたから払うのも一苦労だった。寒いから早く帰りたかったのに、結局帰ったのは夜明けごろだったな…。それに星読みはこの宮中内での私の仕事だ。天文博士として仕えている以上、他の者に劣るような真似する訳がないだろう。馬鹿なのか?何を当たり前のことを申しておる。やはり貴様は阿呆だな」


馬鹿にするように(実際『馬鹿』も『阿呆』も言われた)、晴明は大袈裟なため息をわざとつく。


「どうでもいいが、いい加減その手を離したらどうだ?いくら私が晴明と理解出来ずとも、そもそも関係も持たぬ女人の体にいつまでも触れ続けるのはどうかと思うが?それは貴様の言う無礼には当たらないのか?だいぶ際どい所に腕がずっとあるようだが?」


言われていはたと、憲平は自分の腕が何処にあるかを見た。

一つは少女の左の二の腕あたりを掴み、もう一つは。


「…っうわぁ!」


状況を理解した憲平は慌てて両腕を清明から離す。

よく見れば、胴をつかんでいたはずの腕はずり上がり、あと少しで晴明のほのかに膨らんでいる胸元まで辿り着きそうな位置にあった。


(この少女があの安倍晴明であろうとなかろうと、帝が砕けた会話をしていいと言っている相手を、いつまでも拘束していた上、不届きと捉えられてもおかしくない行動までしてしまったら自分の方が無礼極まりないではないか!)


慌てて晴明を離はしたものの、一連の流れを思い返し憲平は冷や汗を流す。


「…やっと離れたか。良かったな、あと少しでお主は頭から流血するか、数箇所に大きな痣をつくる羽目になっていたぞ?蒼月、よく我慢したな」


晴明は憲平を振り返り、袂から取り出した扇を広げ口元を隠す。その隠れた口元から先程のようにくくっと小さく音を漏らし笑う。

流血だの痣だの、物騒な話を振る晴明は憲平の更に後ろに向かって『蒼月』と呼んだ。

晴明においでと小さく呼ばれ、近づいてきた蒼月と呼ばれた少年は、過ぎ去り際に目だけで人を殺せてしまいそうな程鋭い眼光を称えて憲平を睨み付けた。

蒼月が憲平を睨みながら晴明の元に辿り着くと、すぐ様晴明を抱き締めてこちらをまた睨む。


「晴明、今からでも殴っていい?」


その鋭い眼光と圧の篭もった言葉に、憲平は自分よりも歳若い少年に思わずビクリと体を揺らした。


「止めておけ。あやつに手を出すと少しばかり面倒な事になる」

「でも晴明に触ってた。俺あいつ嫌い」

「蒼月、奇遇だな。私もだ」


まだ納得していない顔をしていた少年は、晴明に頭を撫でられ少しだけ穏やかな表情になる。


「…聞こえているのだが」


憲平は苦々しい顔をして呟く。

遠慮もなく普通の音量で交わされていた会話は、勿論すぐ近くにいる憲平の耳にも届いていた。


「だろうな。聞こえるように話しているのだから。だが、私達に嫌われようと貴様に関係あるまい?どうせ、何ら関わりのない者同士だ」


だろう?と、それはそれは綺麗な微笑みを称え、それからくるりと晴明は体を帝へ向けた。


「ということで主上。私はそろそろ帰らせて頂く。色々目論んでいたのだろうが、逆効果だったようだな」

「さて?何のことだ?」

「今更知らぬ振りをしても手遅れだ」


言うや否や晴明は自らの帯に手をかけ、躊躇無く帯を解き投げ捨てた。そして次々に着物を支えていた紐を解きにかかる。支えを失った着物がばさりと床に音を立てて雪崩落ちていく。

周りの皆がぎょっと目も口も開け慌てたものの、当の晴明本人は気にもせず脱ぎ散らかした衣の輪から抜け出す。晴明の体に残されたのは単衣(ひとえ)一枚のみ。


「さ、皆帰るぞ」

「晴明様、仮にも殿方達の前でそれは……。はぁ、今すぐ元の着物を持って参ります。牛車にお持ち致しますのでお待ちを」


呆れ果てた玄泉は諭すことを途中で諦め、置いてきた着替えを持ってくる為踵を返して、足早に女官達の居る部屋へ向かった。


「別に肌着になった訳でもないのに玄泉は何をそう気にしているのだ…?とりあえず牛車で待つか。蒼月、琥珀もおいで。さ、行こう」


呼ばれて足元に来た生き物を定位置の胸元に抱え上げた晴明は、すたすたと少年と一匹を連れて部屋を出て行ってしまう。




晴明が消え、残されたのは帝と側控えの二人、そして憲平だけ。


「なっ、帝!あれは何なのです!まだ幼いとはいえ、女人があの様な振る舞いを!」

「幾らなんでも、あれは!」


戸惑いでつい大きな声を上げたのは、帝の傍に控えていた二人だった。


「まぁ、晴明だからな…だが、私はあの子が外でもあんな事をしないか心配で気が気でない…。あの子の見目麗しい姿であの様な事をしてしまったら、いつ襲われてもおかしくない。晴明が傷物にならぬか…肝を冷やすばかりだ」


女人としての常識が…と控えていた二人は言いたかったのだが、帝はどうやら晴明に変な輩が寄ってきて手を出すのではという全く違う心配をしているらしい。話が噛み合っていないにも程がある。


「帝、心配なさっている事が違ってらっしゃる気がするのですが…」

「私の可愛い晴明が…しくしく」


呆れた側仕えの一人が進言をしてみたが、やはり帝には届かない。


(……ダメだ、この人。あの娘が関わると本当にダメな人になってしまう)


と側仕え達二人が似たような事を思い、帝の言っていたことは聞こえなかったことにしようと決め、これ以上続けるのは止めた。


そして、その会話に参加をしていない憲平はと言うと。


大きな掌で自らの顔面を覆って、声にならない声を口内で叫んでいた。

まだ思春期の憲平には刺激が強すぎたようだ。手だけでは隠しきれない肌が真っ赤に染まっていた事に、帝だけが気づいてこっそり笑っていたのは誰も知らない。



**************************



「やっと帰れる…疲れたな」


玄泉が女官達から着物を受け取りに向かう間に、晴明は少し着崩れた単衣の姿で足早に牛車に向かっていた。

途中何度かすれ違った者が驚いていたが、気に止めることなく歩き続け、あっという間に牛車まで辿り着いた晴明。

やっと一息つけると、牛車の箱の中に入り込むと、すぐに足を伸ばした。

一緒に付いて来た、蒼月と琥珀も中に招き入れると、晴明は琥珀を目の高さまで持ち上げる。


「琥珀、いつもの頼む」

「ガゥ!!」


晴明の言葉に元気よく鳴き声を上げた琥珀。

その体は仄かな発光と共に、みるみるうちに大きくなっていく。ちょうど大型犬程の大きさになった所で、その体は成長を止め、体を包んでいた発光もなくなる。

伏せの状態の琥珀の腹部に晴明は体を埋め、その晴明を包むように琥珀は尾を清明に巻き付けた。


「…蒼月、私は少し寝る」

「分かった。任せて」


大きくなった琥珀に埋もれるように晴明は自分の体を預け、ゆっくりと瞳を閉じていく。

晴明の言葉に蒼月は頷いたのを確認して、晴明は暖かな温もりと琥珀のから感じるお日様の匂いの中眠りに落ちた。




晴明の着物を手に、方々に頭を下げながら戻った玄泉は、牛車の中を覗くなり『おや?』と声を上げた。


「蒼月、主は寝てしまわれたのですか?」

「ああ。だから静かに」


穏やかに呼吸を繰り返す様を見るとかなりぐっすり眠っているらしい。

警戒心の強い晴明にしては珍しい事だが、琥珀や蒼月という頼りになる従者がそばに居るからこその安眠だった。

玄泉もそれは分かっているから、折角よく眠れているなら、お小言は後にしてそのまま寝かせてやろうと静かに牛車に乗り込んだ。


「それにしても…琥珀をこの大きさにしてしまうと、晴明様と男二人では幅を取ってしまうから少し手狭ですね」


行きよりもぎゅうぎゅうに詰まった箱の中で、晴明の安眠を守る為琥珀から距離を取る玄泉はその大きな体を縮こませる。


「蒼月、君もこっちに来なさい。そこでは邪魔になりますよ」


晴明を見守るようにすぐ側でじっと見つめていた蒼月を玄泉は呼び寄せようとする。

けれども蒼月は微動打にせず、玄泉に振り向くことも無く。


「嫌だ」


一刀両断した。

そんな蒼月に苦笑を漏らし、玄泉は大袈裟にふぅと息を吐き出す。


「私は蒼月の為を思って言ったのですが…。揺れの大きい牛車ではあまり近くにいるとぶつかってしまい、晴明様を起こしてしまうことになりかねませんよ?折角ゆっくり眠っていらっしゃるのに、晴明様を万が一起こしてしまうことになったら…晴明様に嫌われてしまうかもしれないですが」

「……分かった。少し離れる」


晴明はそんなこと思わないだろうが、玄泉は可能性を匂わせるように、演技を混ぜながら蒼月に告げた。

その言葉に、先程まで微動打にしなかった蒼月は、静かな動きで晴明と琥珀から距離を取り、玄泉の横に腰を下ろす。


「それが宜しいかと」


嫌われてしまうという単語に敏感に反応し、大人しく従った素直な蒼月を見てくすくすと笑う玄泉は、蒼月同様に主である晴明の姿を見つめる。


(今日はいつもより動いて、人と会いましたからね。お疲れになったのでしょう…。晴明様、今はゆっくりとお休み下さい)


玄泉は御簾越しに後ろを振り返り、待たせていた牛飼童に声をかける。


「出して頂けますか?」

「はい!」


牛飼童の返事があり、カタカタカタ…ゆっくりとした動きで小さく揺れながら牛車は動き出す。

邸に着く頃には晴明も目を覚ますだろう。

留守を任せている者達もきっと晴明の帰りを待ちわびているはずだ。


「蒼月、帰ったら皆で昼餉にしましょうね」

「ぐぅぅ……」


まるで言葉の代わりのように、蒼月の腹の虫が鳴る。

玄泉は驚いて蒼月を見れば、少し恥ずかしかったのか蒼月は顔を背けてしまった。


「蒼月はお腹の虫も素直ですね」

「馬鹿にするな」


にこにこ笑う玄泉に、蒼月は更に不貞腐れてしまう。


(帰ったら直ぐに昼餉の支度をしましょうかね。晴明様もきっとお腹を空かせていることでしょうし。まぁ、着いたらまずはお説教をしなければですが)


ふふふと笑う青年の不穏な空気を察したのか、寝ている晴明が一瞬うぅっとうなされていた。


そして、晴明一行を運ぶ牛車の牛飼童は。行きはそんなことなかったのに、やたらとギシギシいう後ろの箱を不思議そうに見ていた。


(あれ?人数は変わらないのに、やたらギシギシと箱が鳴るな…)


それもそのはず。中には行きの時とは違い、体を大きくした獣(琥珀)を乗せているのだから。

そうとは知らない牛飼童は首を傾げ、箱を引くやや疲れ気味の牛を鼓舞するように、軽く鞭を叩いた。その重さは懸命に箱を引く牛のみぞ知る…。




**************************



晴明の住む屋敷は土御門大路を抜けた所にある。


屋敷はそれなりに大きく広い敷地ではあったが、そこに身を置く者は少なく、限られた使用人しかいない。


この屋敷の主である晴明が自ら屋敷を囲うように敷地全体に大きな結界を張り、外界と閉ざされた空間のこの屋敷は、近所からは摩訶不思議な『()()()』と噂になっていた。

晴明の張っている結界のせいで、訪ねてきた者が門前を潜っても一向に屋敷の入口には辿り着けずにまた門に戻ってしまうことから、そんな噂が広まったのだ。


そんな『妖屋敷』こと晴明邸では、屋敷の主である安倍晴明の名を持つ少女が、従者である一人の青年に怒られている最中だった。


内裏からの帰り、牛車の中でぬくぬくと暖かな毛並みの中で安眠を貪っていた晴明。

いつの間にか自分の屋敷に着いており、起こされた晴明の目の前に、迫力のある笑みを浮かべた玄泉の顔が目と鼻の先程の距離にあった。


「晴明様、ちょっと宜しいでしょうか?」

「…なんだ?」


寝起きながらも嫌な予感を覚えた晴明は、戸惑いながら返事を返せば。


「ですから、ちょっと、宜しいでしょうか?」


二度も同じことを言われ、有無を言わせない迫力に負けた晴明はそのまま玄泉の後をついていく羽目になった。


「さて、晴明様」


玄泉に連れてこられた一室で、晴明は座るように言われて腰をおろす。向かい合うように腰を下ろした玄泉は、相変わらず迫力ある笑みを顔に張り付けていた。

屋敷の一室で向かい合う主である晴明と、その従者である玄泉。その玄泉の口がゆっくりと開き。


「晴明様、貴方は自身の性別をお分かりですか?」

「……それは勿論知っているが」


晴明ははぁ?と、自分の従者は随分と可笑しなことを聞いてくるなと首を傾げた。

そんな主に呆れた目を向けていた玄泉は、息を大きく吸い込むと。


「でしたら、もう少し女性らしさというものを身につけねばなりません!」


微笑んではいるが厳しい口調でぴしゃりと言い放った。その笑みには凄みがある。


(これは、何だか長い話になりそうだ…)


向かい合う晴明は直感でそう感じ、早く終わらないだろうかと肩を落としていた。



どうしてこんな状況になっているかというと。


それは数刻前、内裏での晴明がしでかしたことが原因だった。

帝からの依頼を果たし、次の依頼も受けた。

それだけで済めばよかったものの、そうはいかず…。帝の戯れに付き合わされ、その際に阿保な男に絡まれ、いつも以上に疲弊していた晴明。そんな晴明が一刻でも早く帰りたいと思ってしまうのは、仕方がない事だった。

問題は、あろうことか幾重にも重ねて着ていた着物を男性がいる場で堂々と脱ぎ捨ててしまったことだった。

晴明の理屈でいうと、着物を着替えに行くのも時間が惜しい、別に裸になったわけではないしいいだろう…ということだが。

幸いちゃんと単衣は身に纏っていたから良かったものの、それでも常識的にあってはならないことをしでかした。

状況的にその場では説教をすることが出来なかった玄泉は、帰ってくるなりそのことを改めてこうして窘めていた。


「常々、晴明様は些か女性としての自覚が足りていないと感じてはおりました。ある程度の事情や経緯は存じておりますが、それでも目に余ります」

「そうは言われても…性別が女というだけで女らしくしないといけない、なんて決まりはないだろう?そもそも陰陽師として男ばかりの職場で働いているのに、女性らしさなんて今更不要だろう?」

「そういう事では御座いません!」


笑っていたはずの玄泉の顔が急に真顔に戻る。その美しい二つの紫眼には怒りの色が滲んでいた。

その形相に少しばかり晴明も思わず逃げ腰になってしまう。


「殿方のいる場で着物を脱ぎ捨てるなんて、女人のすることではありません。というか男でも致しません」

「別に全部脱いだわけでは…」

「全部脱いでいたらこんな生ぬるい説教で済んでいません」

「ひぃっ!」


若干額に青筋が立ち始めた玄泉を見て、晴明の口からは小さな悲鳴が漏れ出た。

これは、本気で怒っているやつだ。


「わ、分かった…分ったから」

「嘘はよくありませんよ、晴明様。その顔は理解していませんよね?ただこの場をやり過ごそうとしていますね」


あまりにも怖かったので、一刻も早くこの場から逃げ出すために分かったと形だけの言葉を口にした自分の魂胆がいとも簡単に見透かされていたことに、晴明はだらだらと冷や汗を流した。


「はぁ……天狗殿達も、いくら晴明様の為とはいえ、些か偏った知識と所作を教えすぎですね。流石に今回は黙っていられません。今後は女性として必要な知識と所作をお教えしていきますので、そのつもりで」


本当なら必要ないと言いたいところだが、それを言ってしまうと玄泉の怒りを増長させかねない。そう悟った清明は大人しく首を縦に振った。


「まずは手始めに、その座り方から改めましょうか。いくら身内しかいないとはいえ、貴方が今着ているのは、いつもの男装のように袴ではなく、女性ものの着物です。そのように胡坐で座ってはいけません。足元が肌蹴ているではないですか」

「…す、すみません」


ばっと慌てて足を閉じ、肌蹴ていた着物の裾を合わせた。

びくびくと玄泉の様子を窺う晴明は、すっかり小動物のように体を縮め怯えていた。そんな晴明にやっと玄泉からお許しが出る。


「宜しいでしょう。では今日はこのくらいにしておきます。お腹も減っている頃でしょうし、そろそろ昼餉に致しましょうか?きっと蒼月の腹も限界のはずです。晴明様はまず自室で着物を着替えて来て下さい」


ひんやりとしていた空気が薄まったことに晴明は安堵し、やっと体に入った力を抜いた。

玄泉に言われた通り、着替えをしに自室へ行くため、逃げるように部屋を出ていく。これ以上怒られないように、廊下を走らず…けれど足早に。


「さてさて。これから忙しくなりますね。可愛らしい我が主を、都一の女性にしなければ。まぁ、あんまり可愛くし過ぎても、悪い虫が寄ってきそうですが…そのあたりは、私達がいますし何とかなるでしょう」


ふふふ、と笑う玄泉。

この男はなんだかんだと言いながら、帝と同様意外と主を溺愛しているのだ。

それは蒼月もだが、蒼月は言動・行動共に分かりやすい。

玄泉は流石に帝や蒼月のようには大っぴらにはしないだけの事。そんな玄泉は、愛くるしい主をもっと可愛くしてやろうと、うきうきと今後の教育方針を練りながら、昼餉の支度を手伝いに台所へ消えていった。




お読み下さりありがとうございました!

続く女の園、潜入調査【壱】も是非お待ちください。

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