手向けの送魂歌【壱】
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二人での別れを済ませたのを遠巻きに見ていた晴明。
横で涙を…というか鼻を啜る音が聞こえてくる。
ズビズビと音を立ててるのは誰かと思えば、意外にも音の発生源は側近の老人だった。
「……お主が泣くのか」
「年寄りは…ずずずっ、涙腺というものが、弱くなるものなんじゃよっ」
そう言いながら何度も鼻を啜る老人。
いや、それもう涙腺というより鼻栓では?というぐらい、涙と鼻水の比率がおかしい気がしたが、皆まではいうまい。
泣ける時は思う存分泣けばいいと、鼻を啜る老人らの側を離れて晴明は一人その場を離れた。
「話はできたか」
「……あぁ」
向かった先は一人、笙子が居なくなってしまったその場から動けずにいる帝の元だ。
「…別れも済んだのか」
「別れたくはなかったけど…できたと思う。私より彼女の方が余程落ち着いていた。私は……やはり駄目な男だな」
「そんなの、今更だな。貴様に近しい者ならば皆知っている事だ。……笙子殿も分かってくれるだろうよ」
ははは、と乾いた笑を漏らした帝。
「そうか。別れが済んだのなら、今の貴様には酷な話ではあるがまだやるべき事が沢山残っている。いつまでもそのままではいさせてやれん。踏ん張れよ、主上」
そう言いぽこりと、閉じた扇でいつもとは全く違う緩やかな動きで帝の頭を叩いた。
それは思いやりのこもった叱責だ。
まだ折れる事は許されないと、この小さな少女からの。
「……そうだな。踏ん張らねばな」
「あぁ、彼女と亡くなった他の命の為にしてやれることはまだ残っているからな」
無惨にも鬼の手にかかり利用までされてしまった女官らの遺体はまだ転がったままだ。
まだ内裏内に張り巡らせた結界内には留めていた瘴気も残っている。
油断を誘うためとは言え身にまだ瘴気を残しているものも多くいる。
亡くなった者の亡骸と魂を供養しなければいけない。
親族へ悲報だとしても事実を伝え、渡す遺品を分けたり…やるべきことはまだまだ山積みなのだ。
「さぁ、順番に取り掛かるぞ」
こうして離愁の余韻にすら浸らせてやれぬまま、愛し愛されていた二人の最後の逢瀬は終わった。
無理矢理気持ちを切り替えて、帝と晴明がそれぞれ下の者等に指示を飛ばし、やるべきことを進めていく。
その内の一つは放置されていた死体の回収だ。
藤原笙子の亡骸はとうに鬼に残さず喰われているので、それを元に模した鬼の身体さえ炎に焼かれに葬られてしまった以上、彼女の姿形を残すものはなくなってしまった。
だが女官達の体は鬼に喰われた訳ではなく操られていただけだった為、操者との繋がりが切れてしまえば死体でしかなくなる。
晴明に繋がりを切られてから散らばったままになっていた多くの亡骸達は、丁寧に布に包まれてから担架に乗せられて順々に淑景舎から外へと運び出されていく。
全てが運び出されてしまえばここには何も残らない。
今此処でやるべき事は済んだと、帝が晴明に『行こう』と声をかけたが断られてしまう。
「まだ私は贖罪を果たせていないからな…此処に残る」
「晴明…そなたのせいでは」
「自分がしてしまった事は自分が一番分かっている。悪いな……暫く一人にしてくれ。後で顔を出しに行く」
自分を責めてしまっている晴明を一人になどできるはずもなく、ならば自分もと帝が言っても首を横に振るだけで、一人にしてくれと晴明は誰かがこの場にいることに拒絶を示した。
そこまで言われてしまえば帝も引くしかなく、後ろ髪引かれる思いでその場を離れた事で訪れた静けさ。
先程ここで戦闘があったとは思えない静寂が包むこの場に、晴明はただ一人佇んでいた。
誰も居なくなって少しした頃、ただそこに立っていただけの晴明はゆっくりと淑景舎の庭先に面した縁側に移動してそっと腰掛る。
「まだ……いるのだろう?私とも、少し話をしないか?」
誰も居ないと言うのに、優しく晴明は誰かに向けた言葉を紡ぐ。
すぐに返事はなかった…けれど、確かにそこにいるということを確信していたから晴明は話しかけたのだ。
呼びかけに答えぬならそれは晴明との話を拒否しているか、もう話す時間も残されていないかしかない。
前者であればやはり晴明を許せぬのだろう……そうだとしたらそれは晴明が負うべき業なのだから仕方がない。
そう理解していても、晴明は少し辛さの滲む顔つきになる。
晴明が自己嫌悪に落ちかかっていると、辺りの空気がふわりと少し揺らいだ。
視線を持ち上げれば、儚げな美しさをもつ女性が穏やかな表情で地につかぬ体をふわり、ふわりと。
まるで一歩一歩を踏みしめるように晴明の近くへやってくる。
「えぇ……私も少し、貴方と話したかったの」
彼女は正真正銘、藤原笙子であったその人……その魂だった。
もうだいぶ弱ってはいたけれど、憎悪に呑まれていた時とは違い淀みもなく澄んだ魂。
彼女の魂はまだ、ここに残っていた。
「笙子殿………改めて、謝罪をさせてくれ。私のせいで、すまなかった」
「あら。どうして貴方が謝るの?」
笙子は本当に分からないと不思議そうに、晴明の元まで近寄ると首を傾げる。
「……先程も言ったが、帝がお渡りを控えていたのは私が進言したからだ。それが貴女を不安にし、追い詰めているとは気付かずに」
「なんだ、そんな事?それは貴方が悪いわけではないわ……ただ、私の心が弱かっただけ。子が出来ないことに焦って心を病んで、あの人の愛を信じ切れず勝手に誤解して、勝手に恨んだ……全て私の弱さのせいなのよ」
だから貴方が気に病まないでと、笙子は慈愛すら滲む優しい声音で語り晴明の体を優しく抱きしめた。
その包み込んでくれる体にもう温もりも感触もないことが晴明には酷く腹立たしく、もどかしかった。
この人はもっと、幸せになるべきだったのにと。
「弱さなどではない。貴女は十分に強い心を持っている。そうでなければ、いくら言の葉を重ねようと、貴女には届かずあのまま邪に染まっていただろう。それでも貴女を引き戻せたのは、貴女の奥にあった揺るがぬ強さがあったからだ……主上への純粋な想いの強さが」
「そうね……あの人を本当に愛していたわ。でも、やっぱり、弱かったのよ。愛を知ると強くもなれるけど、弱くもなるの。不思議よね……」
「"愛"というものほど厄介な感情はないからな………それでも貴女は私を責めていい。私の言葉で誤解を招き、鬼に身を差し出すまで追い詰め、魂になっても苦しんでいた貴女をすぐに救ってあげることが出来なかった。その責は私が負うべきだ」
「貴方は私を救ってくれたのよ?そして、あの人に胸の内を話す勇気と機会まで与えてれた。感謝する事はあっても、恨み言なんてひとつもないわ。私がそういうんだもの、そんなもの背負っちゃ駄目よ」
「貴女は……優しすぎるな」
「ふふ、貴方ほどではないと思うわよ?」
これが本来の笙子の姿なのだろう。
穏やかに笑う笙子の姿に、つられて晴明の表情も緩む。
「貴方はきっと、その力と優しすぎる心のせいで何でもかんでも背負おうとしてしまうのね……それはとても酷だわ。貴方は貴方を大事にしなきゃ。その力で手の届く範囲は救ってあげて。けれど、もしその手が届かなくても背負わないで……嘆いてくれるだけで、それだけで、救われなかった者には十分なのよ。それだけで救われた気持ちになるもの」
『私のようにね』と幼子を諭すように、あやす様に語る笙子。
それが晴明でなければその言葉に素直に頷けたのだろう。
けれども晴明にはやはり頷くことは出来なかった。
「それは、出来ない。救えなければ嘆こう。力が足りなかったのなら怒ろう。不条理に飲まれたのなら抗おう……それでも、その過程も結果も全て……私が背負わなければいけないのだ」
「………損な生き方を選ばくてもいいのに」
難儀な子ねと眉を顰めた笙子。
そういう貴女も困った人だと晴明が笑う。
責めてくれればまだ気が晴れたのにと。
「本当に、自分を傷つけるようなことばかり。難儀過ぎるわ……最近の子は皆そうなの?」
「自分で言うのはなんだが、私が特殊なだけだ。生憎、普通な生き方は生まれてこの方してきてないものでな」
そういいながら、懐かしそうに目を細めた晴明に気づく。
どこか悲しく寂しげで、でもとても優しい温かさを灯す瞳。
彼女にそんな顔をさせる何かが、特殊だというまだ少ない人生の中であったのだろう。
それが彼女を傷つけない記憶ならいいのに…と、どちらとも取れない表情を見ながら笙子は思う。
二人が会話をしていると、まるで混ざりたいというようにふわりふわりと辺りはに拳ほどの柔らかな光の塊がひとつ、ふたつと集まってきた。
それを見て、晴明は再び眉を下げてしまう。
「貴女達にも、申し訳ないことをした」
集まった光の束は九つ。
鬼によって操られていた亡骸と全く同じ数が、そこにあった。
そこに在る光は亡骸の本来の持ち主だった者の魂だ。
深く光に向けて頭を下げると、光はふよふよと晴明の周りを飛び優しく寄り添うように肌を撫でる。
そこには憎しみも怒りも感じなかった。
「この子達もあなたが悪いなんて思わないわ。………恨むとしたら弱く愚かだった私よ。あんんな戯言に唆されて…よく考えればおかしいと気付くはずなのに。あの様な怪しいものの言葉一つとして聞いてはいけなかったのに…弱っていたからといって、どうかしていたわ。愚かな私のせいで、彼女達がこんな目にあってしまった。皆を巻き込んでしまってごめんなさい……」
そう自責の念で呟いた笙子の周りには今度は光が集まる。
そして、やはり笙子に寄り添うようにその体を撫でた。
「それも、違うみたいだな。その者らは貴女を好いている」
「本当に……優しい子達。私のせいでごめんなさい……そして、いつも傍に居てくれてありがとう。貴女達がいてくれたから、長い間子が出来なくても頑張れたのよ」
笙子の目から流れた涙は次々と流れては産まれた。
生きていようと死んでいようと、ほろりと流れる涙は一緒だ。
その涙に沢山の気持ちが詰まっている。
光が慰めるように行き来する中、笙子はゆっくりと口を開く。
「………ねぇ。私貴方にお願いがあるの」
「私が叶えられることならなんなりと」
笙子から掛けられた声に、晴明は迷わず頷く。
「私が手にかけてしまった子達と私を…貴方の手で送って欲しいの。背負わないでといいながら、お願いだけはするなんて酷い話だとは思うけれど。……未練はないからその時は自然に来るかもしれない。だけど間違ってさ迷ったり、他の誰かに送られるのは嫌。私は貴方に送られたいわ」
だからお願いと、笙子は晴明の手にそっと触れた。
「承りました」
晴明はその手に重ねるように空いてる手を被せる。
願いとも言えぬささやかな頼み事を、晴明は迷うことなく受け取った。
口元に当てた竹笛を指先で巧みに操り、吹き込んだ息で生まれた悲しくも優しい響きを含むその美しい音色は、まるで晴明の心そのものの様だと、唯一の観客である笙子は思った。
九つの魂はどう感じているか分からないが、心地よさそうに揺れている。
少女に頼んだ弔いは、清麗な流れるような響と共に行われた。
晴明が竹笛に息を吹き込み紡がれる音は本当に心地よく、このまま眠ってしまいたいと感じる。
───これが"逝く"という事なのだろうか?
このような微睡みのような感覚で逝けるのならば、恐怖など微塵もない。
今あるのは、目の前の彼女の心を映したような音を吹く彼女への心配だけだ。
誰かのために心を痛めているのに、それを上手く隠してしまう器用すぎて不器用なこの子の優しさ。
勝手に抱いてしまった恨み辛みに呑まれていた時には分からなかったが、いつだって晴明は自分を思って胸を痛めてくれていた。
自分のせいですれ違わせてしまった、誤解をさせてしまったと謝り、これ以上過ちを重ねて後悔しないで欲しいと、あの戦いの最中も晴明は言っていた。
そして正気に戻った笙子に、負わなくていい罪を負わせてしまった、失わなくていい命まで沢山失ってしまった…と頭を下げた。
全ては笙子が一人で勝手に思い込み、勝手に犯した罪だと言うのに。
晴明は自分が悪いのだと、笙子ではなく最後まで自分を責めていた。
(本当に…優しすぎて、とても不器用な子)
どうしてこのように年端もいかない幼子が、ここまで重い任を任されていて、それを当たり前のようにこなすのか。
どうして異常なまでに大人びてしまったのか。
笙子は自分の為に演奏に集中している晴明を見て、悲しげにその眉を下げた。
子のいない、育てたことのない笙子でも晴明が"異常"だと言うことは理解出来ていた。
明らかに大人びているの一言では済まされない程、晴明は子供らしくない子供だったから。
まだ親に守られるべき年の子が、大人に混ざり陰陽寮で地位まで得るほどの知識を持ち、陰陽師として危険な任を当然の様にこなす。
そして必要とあらば人でも妖でもその命を奪うことを覚悟して、そして自分心を簡単に摩耗させる。
それは子供が平然とできることでは到底ないのだ。
血反吐を吐きながら、泣きべそをかきながら、精神を壊しながら…そこまでしても、幼い子では成し遂げるのは困難に近い。
それでもこの子はやるのだろう。
この子をそこまで性急に"大人"へと追いやる何かが酷く腹立たしいかった。
きっと身を置いている環境のせいもあるのだろう。
宮中とは特にそういう場だ。
利己的な大人や野心を隠すことなく晒す大人、使えるものは何でも使う大人らしい大人。
それは大人であれば仕方ないと割り切れる場であるかもしれないが、子供にとっては魔の巣窟に等しい。
上から命があれば、簡単には拒否できない。逃げ道はない。
踏みにじられないように、負けぬように、舐められぬように、生き残る為に。
この宮中という場では否が応でも数段飛ばしで階段を駆け上がらなければいけないのだ。
彼女はだいぶそれ等を無視した態度をとっていた様な気はしたが、それは今はであって過去はどうだったか…。
数年も経った今、彼女の名と姿を見て今更ながらに笙子は思い出したことがあった。
安倍晴明という子が山中にある住処から一人でここまで出てきたと、昔に帝から聞いたことがあったのだ。
その頃は確か八歳と言っていたはず。
八歳の子が一人でそんな所から一人で来るのはおかしいと、辛い思いをさせないであげて欲しいと話を聞いた当時は確か帝へと進言した筈だ。
そんな晴明の過去は彼女の言うとおり"普通ではない"のだろう。
どちらにしても、まだ幼いこの子にはあまりにも酷ではないかと、行き場のない怒りにも似た感情が笙子の中に生まれた。
(私がこのような過ちを犯さず、まだ生きてさえいれば……)
少しはこの子の優しすぎる心を守ってあげられたかもしれない。
そんなことを愚かにも考えてしまった。
晴明と出会えたのは自分が過ちを犯したからであり、その過程で彼女の人となりを知ったのだから、そうでなかった場合を想像してもその通りになったかは分からない。
そんなもしかしたらの世を語っても仕方ない事はわかっているけれど。
この少女が守って貰わねばいけないほど弱くもないことも知っているけれど。
それでも願わずにはいられなかった。
自分の為に泣き、自分の心を救ってくれたこの幼い少女の、せめて心だけでも休められるように。
その傷を増やし続ける心を少しでも癒せるように、誰かが…自分が傍にいて寄り添ってあげられたら、と。
もう死んだ身であり、罪人でもあると言うのに願わずにはいられなかったのだ。
きっと今も彼女の周りには、彼女に寄り添う者は沢山いるだろう。
だけど、彼女の心を守るには並大抵の加護では足りないのだ。
それぐらい、この子は沢山のものを背負いすぎているように感じる。
だからどうか。
(どうか…貴女のその美しい心を殺さないで。誰でもいい…誰か、この子の心を守ってあげて頂戴)
そう願いながら、瞳を閉じて弔いの歌を奏でる晴明の頭にそっと、笙子は優しい口付けを送った。
そして最後に、きっと彼女が知りたいであろう事をそっと耳に吹き込むように伝える。
大した役には立たないかもしれない。
笙子の傷を抉ってしまわぬようにという配慮からだろうが、鬼と戦っていた時にあれだけ気にしていたことだ。聞きたいに決まっている。
これがその事に繋がりがある事柄か笙子に確信はない。
けれど、きっと最後まで聞いてこないだろう晴明の役にもし役立つ可能性があるならば託そうと。
───私に邪悪な囁きを吹き込んでいた者は、人とは思えないほど美しい姿をしていたわ。変わった髪色をしていて、頭の上から下にかけて黒から灰のような色になっていた。男か女か分からない顔立ちだったけれど、私に囁いていたあの声は確かに男のものだった。それが貴方の探しているもの分からないけれど、その男にも十分に気をつけて……可愛い陰陽師さん───
そう心配そうな笙子の声が晴明の耳元に吹き込まれる。
耳を通して届いた言葉に思わず笛の音を止めてしまいそうになったが、そんな事をしては絶対にならない。
これは彼女達の為のものであり、晴明の勝手で止めるような身勝手あってはならない。してはいけない。何よりそんなこと自分自身が許さないと、ぎゅっと笛を持つ手に力が篭もる。
(……自分でその事は聞かぬと決めただろう。それでも教えてくれたのは優しい彼女の好意なのだから…これ以上は望んではならぬ。今は彼女等に逝くべき道標を示す事だけ考えれば良い)
心からの弔いを…晴明は揺らいだ心を引き戻し、笛の音に心を注ぐ。
曲がもう終盤となった笛の音の中、その音に紛れるように『本当にありがとう』と声が重なり、その言葉を別れの合図に、近くをゆるゆると漂っていた笙子のせいで命を奪ってしまった子らを引き連れてその姿を夜空に溶かしていく。
消えきるその最後まで、優しい眼差しを晴明へと注ぎながら。
───そうして藤原笙子と九つの魂は天へと消えた。
笛の音が優しくその場に響き、その音が徐々に勢いをなくして…溶けるように消えた。
それはこの唄の演奏の終わりを告げていた。
弔いの唄を奏でた後、横笛に寄せていた唇を離して瞼をそっと持ち上げると、そこに藤原笙子の姿も女官達の漂う魂魄もなくなっていた。
演奏の終盤に彼女らの気配が無くなったのは気づいていた。
恐らく彼女らは天へと旅立てたのだろう。
弔いの唄を聴きながら、ちゃんと黄泉へと旅立ったのだ、きっと。
音の余韻すら消えて、ただ静寂が残るその場にいるのは晴明だけになってしまった。
それを寂しくも、嬉しくも思う。
「藤原笙子殿、そして共に逝く者よ…どうか安らかに。そして、迷うことなく輪廻の輪に辿り着きますように」
穏やかに、安らかに、心を休めて。
十分に休めたら、迷わずに輪廻の輪に向かって。
そうしたらきっと、次の奇跡が起こるから。
願うように見上げた夜空に溶けてしまった魂へ。
晴明は別れの言葉をつぶやく。
その上げた顔の表面をすっと一筋、二筋と雫が滑り落ちていく。それはいつの間にか流れ出ていた晴明の涙だった。
(どうして感情というのはこうも勝手に浮き出てきてしまうのか)
晴明は片手で顔を覆ったが、小さな晴明の手では顔を全て覆い隠すことは叶わない。
隠せないならばこの涙を何とかして止めなければ。
そう思って晴明は手の甲でごしごしと涙を擦りとる。
すると背後に気配がして、ばっと後ろを晴明が振り返った。
「……晴明」
そこにいたのは琥珀だ。
いつもの念話での意思疎通ではなく、明確な言の葉として音をのせた琥珀の言葉が晴明を呼ぶ。
その声は晴明への心配が色濃くのり、垂れ下がってしまった眉がまるで琥珀まで悲しんでいるようだった。
「晴明……辛いの?悲しいの?」
あどけなさの残る声は、ただただ晴明を心配する。
近寄ってきては晴明の腹に巻き付くようにぎゅっと腕を回して抱きついた。
下から晴明を覗き込んでくる琥珀はの方が辛そうな顔に見える。
「そうだな…少しだけ。だが大丈夫だ、そのうち治まる」
ぽんと、その小さな頭に手を置いてやる。
月光の元に輝く白銀の髪は指通りがよく、サラサラとしていて心地よい。
「晴明はなんで悲しい?」
するり、するりと細い跡を頬に残す晴明を見上げ、琥珀はまだ不安そうにしながら問うた。
この幼子にはまだ分からないのだろう。分かるはずもない。
まだ幼く、そして彼らは"死"をそうとは捉えていないのだから。
だから、ゆっくりと晴明は教えてやらねばならない。
「琥珀……死とは、いつだって悲しいものなんだ。善人であれ悪人であれ、早期であれ往生であれ。"永遠の別れ"はいつだって悲しい」
「でも、魂は巡るんでしょ?」
「そうだな、そう教えた。でも、巡るだけで同じにはならない。魂を持つ生き物とは、生まれ持った体、過ごす環境や状況…共にある者。沢山のもので構成される。何か一つでも違えば同じ"者"になんてならない。そうでなくとも、その者が全く同じ感情を抱くことは難しいだろう。なんせ記憶など残りはしないのだから」
だからこそ、その命が尽きてしまうのはいつだって辛く、悲しいのだよと晴明は琥珀にゆっくりと語る。
「私だっていつかはその時が来る……そうなった時に、少しでもお前がその事を覚えていてくれたら嬉しい。私がおずとも、人を慈しみ守ってあげてくれ」
「嫌だっ!」
それまで大人しく聞いていた琥珀は声を張り上げる。
その目は吊り上がり、興奮したからか金色瞳の中にある黒色が小さく鋭くなる。
今にも牙を剥きそうな程気が立っていた。
「晴明はずっといるんだ、いなくなったりしない!」
駄々を捏ねる子供のように、駄目だと何度も繰り返す琥珀。
晴明が無理に語らずとも、少しはこの子も成長しているのかもしれない。
晴明には消えて欲しくないと、こうして感情を高ぶらせて怒っているのだから。
それは慈しみととても近く、嘆きとも近いものだ。
以前は乏しかった感情が深く根付き始めていて、それが少し嬉しい。
「あぁ、そう簡単には居なくならない。だが琥珀、"いつか"は"どこか"でその時はやってくる。だが、その時が来てもお前には玄泉や他の者もいる。きっとあやつらがお前と共にあり、導いてくる……だから、そんなに怖がらなくていい。可愛い顔が台無しだぞ」
未だに鋭い目で見上げてくる琥珀の頭をそのまま撫でる。
この子にもいつか分かる時が、理解しなくてはならない時が必ずやってくる。
その時までは、こうして少し甘やかしても良いだろう。
いつの間にか晴明の涙は止み、その目にはかわりに母のような眼差しだけが残った。
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なかなか落ち着かぬ琥珀と共に淑景舎を出た晴明は、今度こそ全てを終えて最後になる報告をするために清涼殿へと向かっていた。
腕には小さなモフモフの琥珀を抱えている。
あの後もずっと何かを訴えるように怒っていた琥珀は絶賛拗ねている最中だ。
事実を話しただけなのだが、やはり幼い琥珀にはすぐには受け入れられないのだろう。
ただただ晴明が居なくなるかもという不安と、それを引き止めてもはっきりと『居なくなる事はない』と言わない晴明に対しての抗議のつもりのようだ。
人の生死は抗議したところでかわりなくいつかは訪れるのだが……こればかりは無理に今説得を続けても意味はないだろう。
可愛い毛玉は、今は本当に毛玉にしか見えないほど丸まり顔の一部も見えない。
その体を優しく包みながら晴明は清涼殿の中を歩く。
相変わらず煩わしいことに、清涼殿に入るために晴明の傍に近衛が付き添っているが、全てを終えた今は晴明は短気を起こすでも文句を言うこともなく、ただ無言で回廊の板を踏んだ。
本当はそんな元気すらない、という理由からだが。
まだ心に隅に隠した悲しみで上がりきらぬ気持ちと、晴明自身の活動限界が近づいている。
不眠不休で働きっぱなしで、体力も気力も大分低下していたのだ。
予想外の襲撃もあり思ったよりも霊力も使ってしまった。
それに……それだけではない体の不調が僅かながらにある。
覚えのある感覚と、ずきりずきりと痛み始めている頭に少しだけ顔を顰めた。
漸く足を止めた近衛と共に足をその場に縫い止め、その部屋の外を守っていた武官と中に入る前に少しだけ言葉を交わす。
「……帝の様子は?」
「酷く、塞ぎ込んでおります」
「そうか」
そうであろうな、と晴明は僅かに視線を下げた。
先程はまだやるべき事があるからと叱責するように鼓舞したが、やるべきことはあっても今すぐ出来ることはもう終わった頃だろう。
そうなれば無理矢理端に寄せていただけの整理しきれない感情が押し戻って来るに決まっている。
自分でもこうなのだ。帝なら尚更そうだろう。
晴明は武官とそれだけ話すと、案内してくれた近衛をその場に置き去りにし一人中へと体を滑り込ませた。
「……待たせたな」
「晴明……来たのか」
一人、まともな明かりもつけずに薄闇の中で何かをぐいっと飲み込んだ帝。
その声が枯れていて痛々しい。
きっと目元はもっと痛々しい事になっているのだろう。
「私にもくれぬか?」
晴明はどかりとその場に座ると、琥珀を膝に移して空いた手を帝に伸ばす。
すぐに手渡された器を一気に傾けて、喉を焼くような熱さが体の中を滑り落ちて行った。
「……あんまり、無茶な呑み方をするものじゃない。それは強いものだ……そなたはまだ幼いのだから」
そういいながら、駄目だと言った呑み方で自分は同じものを煽っている。
「こんな呑み方でもしないとやってられぬ」
「………そう、だな」
向かうところを見失った悲しさや怒りが暴れている胸の内を誤魔化すには、これが一番いいのだ。
だから仕方がないと、言い訳とも正論とも取れる言い方で晴明はまたも新たに注がれたものをぐいっと呑み込む。
その言葉にぽつりと消えそうな声で同意だと返された。
「………さっき、彼女とその共を見送ってきた。安らかに逝けたと思う」
「……そう、か。まだ笙子は居たのだな……」
「あぁ、未練が薄れていたから常人の目には見えぬ存在となってしまっていたが…少し話をしてきた。最後まで側に居させてやりたかったが、その時間を私が貰ってしまった」
寂しげに呟く姿に、晴明は手に持った器を置くと頭を深く下げた。
「すまないな……全て、私が悪い」
こんな事しか自分はこの男に告げる事が出来ない。
その晴明の肩を優しく大きな手が掴んだ。
「よせ、晴明。私も笙子も他の誰も、そなたのせいだなんて思っていない。彼女はそなたを責めたか?責めなかったはずだ。彼女はそなたに感謝していると言っていたから……。私の代わりに、彼女とその友の最後の見送り、心から感謝している。ありがとう、晴明。そなたに送って貰えたなら彼女達も安心して逝けただろう」
傷ついてボロボロのくせに。
この子にそんな言葉は言わせてはいけないと、帝は晴明に慰めの言葉をかけ続けた。
彼女は悪くない。その立場に置いたのも、縛っているのも、役目を負わせたのも自分なのだから。
彼女は負わされた責務を果たしたにすぎないのだから。
「笙子殿もそんな風に言ってくれたな……あの人はとても、優しかった」
「あぁ、彼女は優しくて温かい人だったよ」
あの穏やかで優しい微笑みを二人が思い浮かべた。
「…………なぁ、晴明」
「なんだ」
「"鴉"……とは何だ?そなたは何か知っているのだろう?あの時、その名を口にしてから途端に態度が変わった。見たことがないくらい、そなた自身が危うく見えた」
やはりそこをついてくるか、と晴明は表情を変えないように気をつけながら静かに聞いた。
「私は晴明が悪いなどとはこれっぽっちも思っていない。私を思って動いた彼等もだ。………だがあの鬼や、それを手助けした、否、誘導したらしき"鴉"と晴明が呼んだ何か、そして"神"と名乗って笙子を惑わせた存在は到底許せそうにない。八つ裂きにして業火に投げ込んでも足りない程……憎くて、憎くて憎くて仕方がないのだっ!」
ダンっと崩れ落ちるように傾いた上半は、強く握った拳を床に叩きつけることで倒れずに済んだ。
ただ、その拳は苦しそうな帝の呻きと共に何度も床に叩きつけられる。
とうに手放し中身を撒き散らして床に転がった器が、その度コトン、コトトと小さく音を立てる。
「それはお前が背負うべきことではない。私が背負うべきことだ。憎しみは心を蝕む」
そう、私のように。
晴明はあかせぬ過去と共にその言葉は飲み込む。
「忘れろ、とは言わぬ……だが、囚われるな。憎しみはアレらを呼び込みやすくする。そうなれば、憎むはずの相手に都合よく搾取されるだけだ。お前には、守るべきものがあるだろう?」
「………国か?」
欲しくて手にした訳では無い逃れられぬ義務の事かと、絶望に嘆く帝に晴明はふるふると首を左右に振る。
「国も、守るべきものではあるだろう。だが、そうではない。お前はこの国の帝である前に、一人の人間だ。国を守れるのは帝だけではない…でも、お前の妻は?子は?」
国は皆で守るものだ。だから、お前だけが背負うことはない。でも、お前の愛したものはお前が背負うべきことだと。
その言葉で帝がはっとした顔で起き上がった。
「お前にはまだ守るべき愛する者が沢山いるだろう?だから、囚われるな」
そうだった。自分にはまだ沢山の守りたい人らがいる。
愛した人、愛した子…愛し、守り続けなければいけない大切な者達がまだ沢山いるんだ。
帝ははらりと涙を流しながら、憎しみに囚われた視界を漸く広げることが出来た。
「……こんな事では、笙子に怒られてしまうな」
「全くだ。笙子殿だけではない。他の奥方達にも平手打ちされるだろうよ」
ふんっと鼻を鳴らした晴明が、近くに転がっていた空になった器を拾い上げる。
「ほら、早く注げ。私一人で呑むなど味気ないだろう」
「そうだな。付き合ってくれ、晴明」
「馬鹿者、付き合うのはお前の方だ」
この悲しみの夜を共に嘆く者同士、盃を交わそう。
悲しみ、嘆き、涙することは…彼女の言った慰めになるのだろうから。
薄暗い部屋の中、二人は喉を焼くような強い酒を静かに呑み交わす。
───────この夜を乗り越える為に。
お読み下さりありがとうございました!
続く、手向けの送魂歌【弐】も是非お待ちください。