揺らめく影の思惑
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ゆらゆらと暗闇に呑まれた部屋の中、御帳の中で揺らめく蝋燭の弱々しい灯りが、その中の人物を照らし几帳に影を作り上げる。
塗籠の中にある御帳には女一人しかいない。
その暗闇を照らすのは、御帳の中で端と端にある二つだけ灯されている頼りない蝋燭だけだ。その灯りが揺らめくその中で、女の啜り泣く声だけがその部屋に響いていた。
「どうして…どうしてなのですか」
涙に濡れた声で女は顔を覆い呟く。
肩を震わせ泣き続ける女の手元には短刀が握られていた。その握りしめた短刀の刃先は、女自身の心臓へと向けられている。
ずっと泣き続けていた女は、もう迷いはないというように、嗚咽を漏らしながらもその刃を己の心臓目掛けて一気に奥まで突き刺した。
身を貫いたことでとめどなく流れ出す血液がボタボタと流れ落ちる。
血液を多く失ったことで体を支える力すら失い、女の体はぐらりと傾いてその場に崩れ落ちた。
止まらない赤い血に、女の顔は死人のように青白く色を変え、その目は虚ろになっていく。
虫の息ともいえる状態でも尚、死の間際まで悲しみに女はただ泣き続けている。
もう灯火しか残されていない僅かな生の中、走馬灯のように浮かぶ出来事が女を更に苦しめ、次第に女の泣き声は悲しみから憎しみに呑まれたものに変り果ていった。
「憎い、…あの方が…あの方が憎い」
憎しみのこもったその声に呼応するように、部屋の中に一陣の風と共に別のなにかの声が交じる。
風に揺られゆらゆら、ゆらゆら。
更に揺れ動く蝋燭の灯かりの中、部屋に映し出される影は部屋の調度品のもの、女のもの、そして…そこに居るはずのないもう一つの何かのもの。
地を這うような唸り声にも似た禍々しく低くしゃがれた声で、闇に潜む何かは女へと語り掛ける。
「憎かろう、憎いのだろう?」
囁くように、惑わせるように。
怪しげなその声は女にただ語り掛ける。
その何かの声に、ただ泣くだけだった女は弱々しくも口を開く。
「…憎い。憎い、憎い、憎いっ!私をこんな風に扱ったあの男が憎い!」
自らの血に濡れた手で畳に爪を立て、その憎しみを表すかのように幾重にも引っかき傷を残していく。
「ならばその憎しみ、私が晴らす手助けをしてやろう」
そんな女を嘲笑うよう愉快そうに言った何かは、影の中からゆっくりと女の前に這い出て来る。
「私に身を委ねるのだ。それだけでいい」
「この憎しみが晴れるのであれば、貴様が何であれ、この身など惜しくはない…好きになさい。その代わり、その約束違えぬと、今約束なさい」
女はそれが良い者ではないことは理解していた。
その者が出した提案も、本来ならば乗るべきことではないと分かっていた。
けれども死に逝く女にとって、そんな事どうだってよかった。この心に溜まってしまった黒く渦巻くものが少しでも晴らされるなら。
「ああ、いいだろう」
その何かが満足しながら頷くと、その言葉に応えるように女の体からは完全に力が抜け落ち、またどこからともなく舞い込んだ先程より強い風で、灯されていた灯りは全て掻き消された。
部屋は完全な漆黒に染まった。
「そんな容易い願い、すぐに叶えてやる。お前の望みを叶えてやった方がより旨い魂になるからな」
その闇の中で不気味に笑う声が微かに聞こえる。そこに女の息絶えた姿しかないはずだったが、何故か部屋の中からは笑い声が聞こえていた。
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「これは一体!妖の仕業か!?」
そう声を上げたのは宿直の務めを果たしていた、武官の一人だった。その声を皮切りに、内裏内に散らばっていた武官たちはその異変に気付き、その異様さに目を見開く。
ほんの少し、ほんの少しの時間の間にそれは起こった。
夜明けを告げるための陽が、空を照らしだした頃。宿直の一人が交代の為、自身の持ち場へと向かっていた。そして辿り着いた所で目にしたものは、美しい桜並木の中の一本が、真っ赤に狂いていたのだった。
その異様さに声を上げ、周りの武官たちがその異常を目にすることとなった。
「なんだ、これは!一体いつから!」
「暗闇に紛れて誰かが何かしたというのか!?」
狂い咲く桜の木を前に、誰もが不気味だと…その異常さに慌て騒いだ。
いち早く正気を取り戻した一人の武官が、早く報告せねばと声を上げ、その情報はすぐに主へ報告された。
「…あの並木の桜が?」
騒々しく駆けつけてきた武官を前にした男は首を傾げた。
御簾越しで武官から詳しく報告を受けると男は顔を悩ましげに歪めるが、相手にはその表情は窺うことはできない。
男は報告の内容に考え込むように暫しの間黙り込んだ為、沈黙がその場を支配していた。誰もが男からの言葉を待ち、ただその様子を窺う。
「これは、あの者を呼ぶ他あるまい。書状書く、急ぎその書状をかの者に届けよ」
「御意!」
傅く部下達を前に、男は考える。
(私からの呼び出しともなれば、また身代わりを寄越してしまいそうだな。これは先手を打っておく必要があるか)
これから呼び出す人物を思い浮かべ、男は苦笑する。
内裏内での異常。異常事態であるにも関わらず、内裏だけではなくこの都を統べるこの男がこうも暢気に構えられるのは、特にこういった怪奇事について心配をしていないからだった。
心配していないというと語弊があるが、男はこのような異常事態を解決してくれる頼れる者を知っている。その為、今回も問題なく解決してくれるだろうと確信に近い考えがあった。
その者を呼び出すには少しばかり手がかかるが、それは自身の権力を行使すれば問題はない。
男はわずかに微笑み、部下の持ってきた紙と文をしたためる為の道具を前に、さてどう書こうかと溶いたばかりの漆黒の墨にそっと筆を浸した。
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もう夜もだいぶ更けた頃、広い屋敷の中の一室で。まだあどけなさの残る顔立ちの少女は、自室で一人書物を読み耽っていた。
艶やかな黒髪は腰まで届き、書物を読むために下げられた視線で長い睫が瞳に影を落としていた。
静まり返った屋敷の中、少女の耳に届いたのは静かに近づく誰かの足音。
「…玄泉か?」
「はい、主。先程、主宛に書状が届きました」
玄泉と呼ばれた青年は腰を落とし、少女の前で手に抱えた文筒を畳の上へ置く。
その言葉に、少女はその小さな体を揺らした。
読んでいた書物を閉じ、疑わし気な眼で青年を見上げた。
「どこから?」
「内裏、いえ…主上からでございます」
誤魔化しても仕方ないと、送り主の名を改めて主へと告げてはみたものの、やはりというか…せっかくの美しい容姿をしているというのに、これでもかと顔を歪めた主の表情の変化に、青年も少しばかり困ったように、その整った顔を悩まし気なものへと変えた。
「そんなもの、捨ててしまえ」
差出人を聞くや否や、少女はぴしゃりと玄泉へと言い放つ。
見たくもないと、青年に向けていた視線は読んでいた書物に戻してしまう。
その横で、青年…玄泉は、やはりそうなりますよねと溜息をつく。
「分かっていたなら持ってくるな」
小さな頬を目いっぱい膨らませ、不貞腐れる少女。
その姿は容姿と相まってとても愛らしいものだが、これは説得には時間がかかりそうだ…と玄泉は更に頭を悩ませてしまう。
だがそうは思いつつも、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「全く、私の主は困った方だ」
くすりと小さく呟き笑う玄泉の声は、主にしっかりと届いていていたらしい。
「私を主と決めたのは其方自身であろう。今更文句は聞かんぞ」
文句などありはしないのにと、玄泉は更にその笑みを深くする。
(私が貴方に仕えることを望み、その選択を間違えたと思ったことなど一度もないのに)
寧ろこの主の手伝いができるという事ができてとても光栄だと玄泉が感じていることを、この幼き主は知らないのだろう。
「まさか。文句なんてありませんよ?ですが主、流石に中身も見ず捨てるのは問題なのでは?主上からの書簡ですよ?せめて中身を見てからにしたら如何ですか?」
そっと文筒の紐を解き、蓋を開ける。
「どうせ禄でもない事しか書いておらんだろう。…それにしても、お前も何気に酷いな。お前の言い方だと、中身次第では捨てて良いと言っているようなものだぞ?」
「まぁ、主上の普段が普段ですしね。内容次第では捨てても良いのではないでしょうか?」
ふふふと笑ってはいるが、言っている内容は笑って言う内容ではない気がする。少女は内心でこの隠れ腹黒めと呟く。
この美しい青年は、見た目に似合わず腹黒だと言う事を、少女は長い付き合いですでに知っている。
「主、考えている事が丸分かりですよ」
「別に、腹黒なんて思ってないわ」
ぎくりと書物を捲っていた手を止めた。
「本当に主は可愛らしいですね。墓穴を掘っている上、口調戻っていますよ?」
「っ!それより、主上は一体何の用件でこんなもの送り付けてきたのか、見るだけは見てみようではないか!」
指摘されて自分のうっかりに気づいた少女は、いつもの堅苦しい口調へとすぐに戻した。
玄泉に痛いところを突かれ、それを誤魔化す様に慌てて先程まで捨てようとしていた文に手を伸ばす。
「何々…至急其方に頼みたいことがある。明日急ぎ内裏へ上り、私と謁見を命ずる。尚、謁見時にまた替え玉を使うようなら、今度は直々に私がそちらへ伺うことになる。その際は私を大いにもてなして貰うことになるから、よく考えることだ………だと?あやつめ、考えたな」
案に主上はこう言っているのだ。
本人が来ないと、この屋敷に乗り込み自分が満足するまで楽しませてもらうぞ…とここには書かれていた。
それは想像するに、地獄絵図だ。
「玄泉、見なかったことにしても良いかしら…」
「それは解決にはならないかと。それに主、また戻っていますよ」
玄泉はまたも戻ってしまっている主の口調について指摘をしてみたが、少女の頭は大きな悩みの種でいっぱいいっぱい。玄泉の言葉は届くことはなかった。
「どうしてこうも煩わしい事ばかりなのかしら…世の中って」
文机に雪崩れるように体を投げ出した少女は、それはもう大きなため息と共に、逃げられない呼び出しでは従うしかないと諦め目を閉じた。
「主、頑張って下さい」
玄泉の言葉が届いたかはわからないが、少女は小さな声で『明日内裏へ赴く』と告げる。
「かしこまりました。では、明日は早くの出立になります。もうお休みください」
部屋を出ていく際、優しく少女の頭を数回撫で、玄泉は部屋を出て行った。
「…行きたくない」
小さく呟かれた一言は誰に届くでもなく、部屋の中に消えていった。
夜が明けるまでそう長い時間がある訳ではない。まして明日会うのがあの男ならば、少しでも休んでいかないと体がもたない。
仕方なく少女は読みかけだった手元の書物をしまい、灯りを消して床につくことを選んだ。
お読み下さりありがとうございました!
続く安倍晴明御一行【壱】も是非お待ちください。