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妖魔道中記  作者: 岸 一彦
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石になった男

 石になった男


 我は剣に生き、剣に死す。そこにいかばかりの曇りやあらん。権藤満定は常の心にそう刻んでいた。権藤家は姫路酒井家に仕える勘定方の役人である。曽祖父より引き継がれた役務は、武家と雖も泰平の治世を司る重要な職責である。しかし、嘗ては戦場を駆け回っていた権藤家であった。その武門も幾代か経る内にその荒ぶる血気は萎え、満定の父の代に至っては家法の名刀も床の間の装飾の一部となって鎮座していた。そんな権藤家の体たらくを諌めるように満定は生を受けたような男であった。

 幼い頃より快活で、同じ年頃の子供が集まればいつの間にかその中の大将になっていた。喧嘩も強く、二つ三つ年上くらいなら平気で打ち負かした。佐平治はそんな息子の事をよく同僚から揶揄された。

「世が世なら、貴殿のご子息は必ずや一国一城の主になれたものを、生まれ出ずるがやや遅しだな」

 乱世なら兎も角、この泰平で戦場働きの腕を上げたところで何の役にも立たない。まして権藤家は勘定方。算盤の一つも出来なければ勤めにならない。そんな皮肉を込めた科白を吐くのは決まって、満定に息子を木っ端酷くうちのめされた父親たちであった。しかし、佐平治とて満定を放任している訳ではなかった。根っからの小役人である佐平治にとって、満定は頭の痛い倅であった。手習いに通わせてもすぐに騒動を起こして帰って来た。近隣からの苦情は毎日のようにあった。その中で、唯一続いたのが剣術であった。道場ではどんなに打ち込まれても泣き言一つ言わずに通い続けた。騒動を起こす事もなかった。まったく満定の性に合っていたのだろう。足を引き摺りながら道場に向かう息子の姿を佐平治が目撃したのは二度や三度ではなかった。それだけに、また天性もあってか、満定の剣の腕前は常人な上達ではなかった。

「天童かもしれない」

 道場の主大久保佐門はある時真顔で佐平治に言った事がある。そして、こうも言って感嘆した。

「世が世なら、貴殿のご子息は必ずや一国一城の主になれたものを、生まれ出ずるがやや遅しだな」

 佐門の場合、この言葉は皮肉ではなかった。武士として生まれた以上、己が才量と時代とを見比べ、遅きに失したと嘆くは佐門も同じ憂き目の人生であった。

 勘定方という権藤家の家風にそぐわないとは思いながらも、時代に活かされない才能を持って生まれた我が息子を佐平治は不憫に思った。

 わしのような男に生まれておれば、何の不満もなく生涯を終えるであろうに。

 佐平治は息子の将来を想像しては溜息を吐いた。それが小役人たるべき佐平治の限界だった。

 満定は二十歳で大久保道場の師範代となった。腕前からすればもっと早くその地位は与えられても良かったが、佐門は若い満定への反発を嫌って時を待った。満定は年齢と共に、嘗ての荒ぶる気性は陰を潜め、次第に人格も備わるようになって行った。風貌からもギラギラした触れれば爆発しそうな危うさが消え、むしろ喜怒哀楽を抑えた物静かな顔付きとなった。元々大将のような雰囲気を持っていた上にその落ち着きようは自然と人望を集めた。姫路城下でも満定の評判はその上層にも聞こえるまでとなった。

 登城せよ。ある日、権藤家に殿様からの使者が来た。途端に権藤家では上へ下への大騒ぎとなった。殿様への拝謁など権藤家史上初めての栄誉だった。

「ああ。なんと目出度い。これでご先祖に顔向けが出来るどころか、あの世で大手を振って歩けるというもの。でかしたぞ満定」

 佐平治の浮かれようは尋常ではなかった。そんな父の姿を満定は冷めた表情で眺めた。

 殿様に会いに行くことが、そんなに大層なことなのか。満定にとって、大昔に結ばれた主従関係を愚鈍に脈々と受け継ぐ事などまったく理解出来ないものだった。今でこそ表情に出さなくなったが、彼の身体の奥には依然としてふつふつと湧き上がる武士(もののふ)の血潮があった。

 翌朝。満定は佐平治に伴われて登城した。大広間に通され、待つこと暫し、やがて現れた殿様を満定は佐平治と共にこれ以上頭が下がらないところまで平伏して迎えた。無論、殿様の顔など拝める道理ではなかった。

「苦しゅうない。もっと近こう寄れ」

 遠くから声がした。初めは何を言っているのか聞こえなかった。満定がじっと動かないでいると、佐平治が小声で息子を前へ促した。促されるままに前へ進み平伏すると、さらに声が掛かった。

「もっと近こう。遠慮するでない」

 満定が平伏したまま後ろの佐平治を覗くと、父は緊張で引きつった顔を立てに振った。満定は中腰で二三歩足を進め、再び平伏した。

「面を上げよ」

「はっ」

 満定は気合のような声を響かせた。そして、僅かに顔を浮かせた。

「それではそなたの顔が見えん。もそっと面を上げよ」

 殿様の声は、満定の想像と違って、しっかりと力強かった。その声に満定は少なからぬ興味を抱いた。代々、権藤家の主筋として君臨して来た一族がどんな者なのか。ふと見たくなった。そして、その気持ちに素直に顔を、いや、上体を起こし、殿様と正対した。それは、権藤家程度の家格では有り得ない失態であった。だが、そんな失態をしでかしたとは知らぬ満定の代わりに、周りの家老たちが慌てた。そして、そのどよめきを察し、父佐平治も息子の振る舞いに驚愕して顔面蒼白となった。ところが、当の殿様はむしろその豪胆さを喜んだ。

「噂に違わぬ偉丈夫ではないか。見事な面構え、そして、肝も据わっておるようじゃな。どうだ。明日より俺の話し相手にならぬか。そちの忌憚のない考えをいろいろと聞きたいものだ」

 この時、播磨姫路家当主は酒井家三代目藩主忠道である。父忠以の早逝で若くして家督を継いだ彼は、藩の財政窮乏を立て直すべく奮闘する青年君主であった。

「はっ。身に余る光栄。恐悦至極に存じます」

 満定は平伏した。そして、平伏しながら思った。存外悪い男ではないなと。殿様がである。あの涼しげな眼差しはやはり自分などとは品格が違うとも思った。これが血筋というものなのか。俺などがどう逆立ちしたところで、抗えない定めのようであった。

 その日より、満定はお側衆の末席に加えられることとなった。異例の出世である。本来お側衆とは殿様が幼少の頃よりその近習として仕え、いよいよ家督となった際にはその政権を支える謂わばブレーンである。従って、既に体制が整っている今、新たに、しかも、満定のような若輩がその責務に任命されるなどは有り得ない人事であった。一方で、殿様がそれ程の認識を以って満定を登用したかは些か怪しく、言葉通り話し相手程度の軽い発案で、しかし、適当な職制もないままに満定をお側衆というエリート集団に加えてしまったというのが実際なのかもしれなかった。それは兎も角、権藤家としては、まさしく天から降ったような祝い事であった。加増もあって、それに伴い抱える家来の数も増える。そうなれば今の屋敷では手狭だから、俄に引越し騒ぎとなった。

 そんな嬉し忙しそうな家族を尻目に、満定は到って変わることなく道場通いを続けていた。道場へ行けば、彼に心酔する多くの若者が寄って来た。今回の出世で彼の人望は益々高まり、これまで取り巻きに入ることのなかった先輩剣士たちも知らぬ間に彼を取り囲む輪の中に入っていた。それを別段気にする満定ではなかったが、人の移り気の不思議さに違和感を抱かずにはいられなかった。

 満定は毎日登城することはなかった。むしろ城から呼び出しがなければ、登城の必要はなかった。そして、あの日殿様に拝謁して以後、満定を呼び出す使者は一度も来なかった。だから、満定の生活は、加増によって屋敷が替わった事を除けば、彼自身にとって然程の変化もなかった。

 殿様は所詮殿様か。いい気なものだ。きっと興味本位で俺を呼び出し検分したのであろう。そのお陰で権藤家は加増されたのだから文句の言いようもないが、無駄な出費ではないか。政とはそうしたものなのか。よくわからん。今日も普段と変わらぬ一日を終え、満定は道場からの帰路をゆっくりと歩いていた。

「権藤満定様で御座いますか」

 突然背後から満定を呼び止める女の声がした。振り向くと、髪に大分白髪の混じった初老の女が立っていた。ある商家の女中のようだった。しかし、いつの間にそこに居たのか。まったく気配など感じなかった。もし無頼漢であったなら、今頃背中から斬り下ろされていたかもしれない。満定は得体の知れない不気味さをその女に感じた。

「いかにも権藤満定とは拙者の事だが、そなたは?」

「訳あって当家の素性を明かす事は出来ませぬ。どうぞお許し下さいませ」

 女は深々と頭を下げた。

「実は、当家のお嬢様が是非とも満定様にお会いしたいと申されまして、私がこのようにお迎えに参りました」

「え? ご当家の娘御が拙者に?」

 満定に思い当たる節はなかった。元より剣術一筋で通して来た男である。これまで浮いた話などまったくない。むしろそうした話は毛嫌いする程であった。

「生憎だが、その誘いは断り申す。我が人生は剣一筋。女人の入る余地などござらん」

 満定は去りかけた。しかし、縋るような女の涙声がそれを引き止めた。

「それは百も承知でお願いに参りました。どうぞ、この年寄りの話だけでもお聞き下さい。お願い申し上げます」

 年寄りと雖も女に泣かれては、満定もなす術がなかった。剣の達人も、女には適わない。

「わかった。話だけは聞きましょう」

「有難う存じます」

 女は改めて頭を下げた。

 女が仕える屋敷には美緒という一人娘がいた。城下でも評判の美人で、縁談話が引きも切らない。ところが昨年、突然の病に伏せるようになった。両親は四方を回って医者に診せたが治らない。城下の医者に限らず京大阪から名医との評判を聞きつければ招き、遠く長崎からも蘭方医を呼び寄せたが、いずれも治療出来なかった。日を追う毎に娘の容態は悪化し、明日をも知れぬ命だという。

「一昨日、私がお嬢様のお世話を致しておりましたところ、私におっしゃったので御座います」

『はつ。私はそんなに長く生きられないと知っています』

『そのようなことを、お嬢様……』

『はつ。泣かないで聞いておくれ。お前に頼みがあるのです。私には会いたい人がいるのです』

『もしや、殿方でいらっしゃいますか』

『あの方は私がずっと心に決めた方。私の命が消えてしまう前に一度、一度だけでいいから、会いたい……』

「そう言って、お嬢様は泣きながらやつれた手を伸ばして私に縋られたのでございます」

 女はすすり泣いた。

「その会いたい男というのが、拙者ですか」

 女は袖で目頭を押さえながら頷いた。

「どうか後生で御座います。他に何のお願いも致しません。ひと目、ひと目だけでよろしゅう御座いますから、どうぞお嬢様にお会いになっては頂けませんでしょうか」

 女は今にも泣き崩れんばかりに満定に懇願した。

「どうか、どうか、人助けだとお思いになって、お嬢様に会って下さい」

 苦渋の顔を作っていたが、最後に人助けと言われて、満定は決断した。

「わかりました。拙者などで娘御の容態が少しでも安らぐのであれば、参りましょう。ただ、今は家路の途中、家の者に事情を話して参るから、暫時お待ち願いたい」

「卒爾ながら、お嬢様の容態は明日をも知れぬ儚さで御座います。一刻を争います。どうぞこのまま私の案内でお越し下さいませ」

「え? 今からですか」

 女は鋭い眼差しで頷いた。

「しかし……」

「ご自宅へは、私が使いを寄越しますので、どうぞご安心下さい」

「そうですか。ならば、参りましょう」

 女の案内に満定は従った。

 女に導かれるまま進むと、城下を離れ、やがて竹林の生い茂る山里となった。訝しがる満定の心でも読んだか、女が説明した。

「お屋敷ではどうしても人の往来があって、お嬢様のご病気に触るとの主のお気遣いで、この山里に別宅をご用意されお嬢様を住まわせていらっしゃいます」

 日が暮れかかり、辺りは薄暗くなっていた。灯りはなく、足元が覚束なくなっていた。すると、前方にふーっと浮かぶように火が揺れた。満定は足を止めた。

 おかしい! そう初めて気付いた時、背筋を冷たいものが走った。まさか。俺は妖魔に誘われているのではないか。

「どうなさいました」

 女が満定を振り向いた。一瞬、女の目が光ったように見えた。

「そなた、まさか」

 そう言いかけた時、前方から声がした。

「お戻りが遅いので、心配しておりました」

 男の声だった。

「おお、五助殿。お迎えに来て下さったのか。有難い」

 先程の火は迎えに来た男が照らす提灯の灯りだった。満定はほっと息を吐いた。

「先程何か」

 女が満定に訊いた。

「え?」

「先程何か私におっしゃったようでは」

「ああ、いや、なんでもござらん」

 満定は苦笑いした。一瞬でも、妖魔の仕業などと思い違いした自分の未熟を恥じた。

「五助殿。やっと見つけました。権藤満定様です」

「ええ! それは、それは……」

 五助は感極まってその先言葉にならなかった

「権藤満定です」

 満定は軽く会釈した。

「申し訳ありません。ご挨拶はそこまでにして頂いて、先を急ぎましょう」

 五助の提灯で足元を照らしながら、三人は道を急いだ。

「お嬢様のご容態はいかがじゃ」

「はい。本日は随分と落ち着いていらっしゃいました」

「そうですか。それは何よりです」

 女の安堵の表情が声音から窺われた。

 程なくすると、竹林の中に屋敷が見えて来た。開いている門を通り中に入ると、待っていたのか奥から女中が燭台を掲げて現れた。

「お帰りなさいませ」

「お客様をお連れ申し上げました。お嬢様のお支度を」

「へ?」

 蝋燭の灯りに映る女中の驚いた顔が妙に艶めいて見えた。

「はつ様。それでは……」

「そうです」

「畏まりました。只今ご準備を」

 女中は慌しく奥へ引き退がった。

「ご無礼をお許し下さい。それもこれもお嬢様に残された時間がないが為で御座います。申し訳御座いません」

「いいえ。事情は心得ております。どうぞ、お心遣いなく」

 満定は女の案内を受けて一室に通された。

「大変申し遅れました。私はお嬢様のお世話を致しておりますはつと申します」

 はつ女は三つ指突いて満定に挨拶した。

「間もなくお嬢様のお支度が整いますかと存じます。それまで今暫くお待ち下さい」

「ご病人がお出ましになっても大丈夫か。ご案内頂ければ、こちらから挨拶致すものを」

「誠に有難いお言葉。さりながら、そうして頂きますれば、お嬢様のお気持ちが如何かと」

「そうですか」

 想いを寄せる男に病でやつれた自分の姿は見せられない。化粧をして血色のない顔を彩り、艶やかな紅でもさして少しでも美しく自分を見せたい。如何な無骨者の満定でもその程度の女心は察しが付いた。

 それからどれ程の時が経ったのか。襖で仕切られた一室の中からでは外の様子は窺い知れなかった。行灯の灯りが薄ぼんやりと満定の正面にある襖絵を照らしていた。桜吹雪。一陣の風に花びらが舞い、その舞い散る花びらを寂しく見つめる若い女の姿があった。赤い振袖が風に靡いている。この女は、散り行く花に己が生涯を重ねているのか。まるでこの襖絵の如く、若い命が尽きようとしている。満定はまだ見ぬ娘をこの襖絵の女と思い合わせた。微かに揺らめく灯りに、襖絵の景色が遠く近く揺れた。香の良い匂いが漂って来た。満定は時折ぼやける視界を灯りの揺らめきの所為だと思っていた。しかし、やがて彼の意識は薄らぎ、そして、前に倒れた。

 目を覚ますと、眩しい陽射しが飛び込んで来た。それを遮って女の笑い顔が満定の顔を被うように現れた。彼は女の膝枕に頭を横たえていた。女の顔には見覚えがあった。襖に描かれたあの女だった。俺は襖絵の中に紛れ込んだのか。どうなってしまったのか。彼は事態を把握出来ずにいた。

「そなたは、誰だ」

「美緒で御座います」

 女は愛らしい声で答えた。

「美緒?」

 満定は起き上がった。女の背後には立派な桜の古木があった。間違いない。あの襖絵の桜だ。

 満定は立ち上がった。しかし、辺りを見回しても淡い霞がかかって遠くを見通せなかった。目に映るのは、桜の古木と美緒と名乗る女の姿だけだった。

「ここは何処だ!」

 彼の叫び声は木霊してかき消えた。

「そなたは何者だっ」

 腰に手をやったが、肝心の剣はそこになかった。美緒は手を合わせてかぶりを振った。

「この世に未練を残した死者か妖魔か、いずれにしろ尋常ならざる化け物であろう」

「違います。違います」

 美緒は満定の足に縋りついた。

「離せ。離せ。今に化けの皮を剥いでくれん」

 きゃっ。満定に足蹴にされ美緒はもんどり打って倒れた。さらにその身体に跨り打ち伏せてやろうと満定が拳を上げると、美緒は覚悟を決めたように目を閉じ、手を合わせた。その姿に満定は振り上げた拳を下ろし、じっと彼女を見つめた。そこには一人の女が荒ぶる男に震えて泣いている姿があった。満定は女の身体から離れた。それに気付くと、女は目を開け起き上がった。

「悪かった。激昂のあまり乱暴をした。許せ」

 満定は美緒の前に座り頭を下げた。それに応じるように美緒も手を突いて頭を下げた。

「無理からぬ事で御座います。なぜなら、ここは尋常の世界では御座いません」

「ならばやはり、そなたは……」

 美緒は首を横に振った。

「決して魔性の者では御座いません。出来る事なら我が身を以って満定様にお会いしとう御座いました。されど、我が身体は既に起き上がる事さえ侭ならず、已む無くこうして貴方様の心に入り込んで御目文字適いました次第で御座います」

「心に入り込んだ……」

「ご無礼とは承知の上、香に眠り薬を混ぜ貴方様を眠らせ、その心に私が入りまして御座います。この景色が襖絵の如くなるは、直前の記憶が働いてのこと」

「ふむ」

 満定は腕組みして辺りを見回した。ここは夢の中か。そう思えばすべてが呑み込めそうで、しかし、果たしてそうなのか。彼は依然半信半疑だった。

「そなた、先程、美緒と名乗ったな。ならば女中を遣わせて俺を呼びに寄越した娘御とは、そなたか」

「はい」

 美緒は頷いた。見つめる瞳が潤んでいる。美緒の熱い視線に気後れしたか、満定は彼女から目を逸らせた。

「申し訳ないが、俺はまったくそなたを知らんのだ」

 満定は弱った顔をした。今まで剣一筋で来た。言い換えれば、それしか知らない。無論、女という生き物にどう接すればいいのか、とんと盲目だった。女として思い浮かぶのは、自分の母親しかいなかった。それも確かに女だと意識した事は一度もない。所詮、母は母であった。だから、このような若い、しかも美しい女を目の前にして、彼はどう言葉を掛けるべきか、どう自分を表現すべきか、その作法がわからなかった。自然、突き放したような乱暴な言葉になるのは無理もない事である。その点、女はこういう時腹が座っているようである。満定よりも数段落ち着き払った美緒であった。

「あれは、今からちょうど一年程遡る初夏の頃でした。私ははつ達と連れ立って以前に頼んでおいた着物の仕立て合わせに出かけたので御座います。あまり町中を出歩く機会のない私にとって、それは待ちに待った町歩きで御座いました。見る物すべてが物珍しく、聞く物すべてが新鮮でした。その途中で、私は、私の心に刻まれて忘れる事の出来ない方に出会ったので御座います」

「それが?」

 満定は自分を指差した。美緒は黙って頷いた。

「その時、俺は何をしていたのか」

 満定は懸命に記憶を呼び戻した。

「一心不乱に剣を振っておいででした」

「剣を?……ああ。道場にいたのか」

「全身ずぶ濡れになったように汗をお掻きになって、そのお顔は鬼のように怖いお顔でした」

「稽古の様子を見たのか。成る程」

 満定が通う大久保道場は町の通り沿いにあって、通行人に稽古の様子が見えるようにとわざと格子窓を開けてあった。それは謂わば宣伝広告のようなもので、申し出れば町人でも稽古をさせてくれていた。美緒はその見物客に紛れて自分を見ていたのだ。しかし、そんなむさ苦しい、しかも、初夏とは言え既に場内は蒸し風呂のような熱気の中にあった筈である。お世辞にも美しさの欠片もない、一種異様な空気が漂う中でよく自分を見出し、しかも、好意に満ちた視線を注いでくれたとは、俄に信じ難い話であった。

「しかし、そのような鬼の形相の男に何故……」

 惚れたのかと満定は問いかけた。それをニコリと受け取って、美緒は答えた。

「とても怖くて、でも、とても可愛いらしいお顔でした」

 まるで心をくすぐられるような美緒の声だった。その声が耳に届いた途端、満定の脳裏を埋めていた暑苦しい道場の景色が一変して艶やかな芝居の一場面となった。満定は浮き上がってしまいそうな自分に戸惑った。初めて抱く感情だった。およそ今まで、このように女人と対面、しかも一対一で面と向かうなど経験のない事だった。修行という言葉で四方に高い壁を巡らせ自分を覆い、そうしたいらざる刺激から己を遠ざけていた。生涯、剣以外に自分の心を没頭させる事象は現れない、現れてはいけない、と思っていた。同門の者達がよく、○○小町だの、どこそこの看板娘が器量良しだのと言って騒いでいるのを下らぬ戯言と耳を傾ける事さえしなかった。心身を集中してこそ求道の基本とするに、剣以外に心や身体が疲弊してはその道は閉ざされたも同然と思っていた。しかし、呆気ない敗北だった。無論、満定自身それを認めはしないだろう。だが、色恋に免疫のない彼にとって感染は彼が思う以上の速さで彼の全身に広がって行ったのだった。

「そのお姿を拝見して以来、私の心から貴方様は離れなくなりました。お慕い申し上げております」

「まさか。そなたの身がそうなってしまったのは、俺の所為か」

「貴方様を思い続ける余り、この想いが成就されない絶望から心は深い闇の中へ沈み込んでしまい、それに引き摺られるように身体も自由が効かなくなってしまいました」

「そうか。そうだったのか……」

 満定は美緒を不憫に思った。もっと早くにこうして会っていれば、彼女は重い病に陥る事もなかったに違いない。このような夢の中での逢引ではなく、本当の美緒に会えた筈であった。そう思うと、知らなかったとは言え、一人の女の生涯を自分が終わらせてしまう事に重大な責任を感じずにはいられなかった。

「どうすればそなたは治る。俺に出来ることなら力になる」

「有難う御座います。そのお言葉だけで美緒は嬉しゅう御座います。きっともう、この身は元には戻らないでしょう。でも、心残りはありません。こうして満定様とお逢い出来たので御座いますから。二度と再びお逢い出来ないと諦めていた私の願いが適いました。美緒は幸せ者に御座います」

「何を浅い夢に満足しているのだ。そなたは若い。その若さで散り行くは天もお許しにはならん。気をしっかり持つのだ。明日に希望を託すのだ。俺に逢えただけで満足してはならん。しかも、逢っているのは、精神世界の中ではないか。本当に逢ったとはまだ言えんぞ。気持ちをしっかり持てば、必ず身体は治る。元々、気持ちの落ち込みがそなたの病の原因であれば、その逆をやればよい。気持ちを明るく取り直し、身体に巣食う病を追い払うのだ。その上で、元気になったそなたと逢おう。まだ、そなたの想いは成就されてはおらん。生身のそなたと俺が逢った時こそ、そなたの想いが適った時なのだ。よし。その日が来るまで俺はここに通って来よう。毎日通い続けて、そなたを励まそう。そして、いつの日か必ず、本当のそなたを俺はこの手で抱き締めよう。よいか。これは俺とそなたとの約束だ。俺は毎日そなたの元へ通い続ける。そして、そなたは明日に希望を持ち必ず心身共に元気になるのだ」

「満定様……」

 美緒は泣き伏した。

「おいおい、そのように泣いてならんと言っているのだ」

 美緒は起き上がりかぶりを振った。

「ご安心下さい。嬉し泣きで御座います」

 そう言ってまたニコリと笑った。

「そ、そうか」

 満定も安堵したように微笑んだ。

「あの、満定様」

 美緒は声を掛けておきながら、すぐに目を伏せた。

「うん? なんだ」

「……」

 満定に促されても、美緒は黙ったまま俯いていた。言いたくて言い出せないもどかしさが彼女の仕草に滲み出ていた。

「何でも言ってくれればいい。俺に出来る事なら、何でもしよう」

 満定の心はすっかり囚われの身となっていた。その事に彼は微塵も気付かない。振り返ることさえ忘れてしまっていた。それが恋の魔力と言ってしまえば、それまでの事だった。

「一つ美緒にお願いが御座います」

「何だ。じらさずに、言ってくれ」

 満定は美緒の肩に手をやり身体を引き寄せた。

「美緒の手を握って下さい」

「手を? こうか」

 満定は美緒の手と自分の手を合わせて握った。

「もっと強く、しっかりと」

 美緒は頬を満定の胸に寄せた。

 夢の中にいる筈だった。しかし、満定は確かに美緒の温もりを感じていた。それは結び合った手だけに限らず、彼の全身に伝わっていた。まるで彼女と肌を合わせているかのようだった。

「天上人は手を合わせただけで男女の契りを結べると申します。美緒もこうして満定様と契りを交わせたらと願っておりました」

 美緒は半ば口を開けて愛しく満定を見つめた。それは愛する男に抱きしめられ交わる女の歓びの表情であった。

「また明日も来て下さいますね」

 美緒が囁いた。

「ああ。必ず来る」

 満定は美緒と唇を重ねた。


 目が覚めると、満定は布団の中にいた。ご丁寧に寝間着に着せ替えられ、着ていた羽織などは刀と共に枕元に整えて置かれてあった。

「お目覚めで御座いますか」

 まるで満定の起床をどこかで覗き見していたかのようにはつ女が襖の向こうから声を掛けた。

「いったい何があったのか」

 夢の中での出来事ゆえ他人に聞いたところでわかる筈もなかったが、聞かずにはいられなかった。それに美緒を長年世話して来た彼女なら、もしかして事情を知っているかもしれないとも思った。

 静かに襖が開き、はつ女は丁寧に挨拶した。それを満定は布団の上に座り寝間着のまま迎えた。

「あら」

 うろたえたのははつ女の方だった。一方の満定はまったく気にかける素振りもなく話を切り出した。

「まったく不思議な夢を見た。俺はその中で美緒殿に会った」

「はい」

 はつ女は落ち着いて応えた。やはり何か事情を知っている。

「どうもよくわからんのだが、俺は結局、本当の美緒殿とは会っておらんのじゃないか」

「いいえ。貴方様は確かにお嬢様とお会い頂いております」

「ならば、あれは現実であったか……」

「この世の理とは不思議なもので御座います。現や幻と申して、果たして両者の間に目に見える如く境などがありましょうや」

 そう告げたはつ女の目の奥に、満定は妖しげな光を見たような気がした。

 それから毎晩、満定は美緒に会いに行った。あの朝の別れ際、はつ女の言葉が満定をして屋敷に向かわせる縛りとなっていた。

「お嬢様のお命は偏に満定様に架かっております。どうぞお嬢様とのお約束を違える事のなきよう、何卒お願い申し上げます」

 律儀な満定にとって、その言葉は何より重い命令となって彼の行動を制約した。だが、一方で、たとえ夢の中とは言え、美緒との逢瀬は満定がこれまで知らなかった別の世界へと彼を導いた。そして、日を重ねる毎に、美緒の表情は血色を帯び生き生きとし、その立ち居振る舞いも若い娘らしく快活になっていた。

 満定が通い始めて三月になろうとしていた。いつものように部屋で待っていると、常なら香の匂いと共に眠り薬を吸い込み眠りに就く筈が、その晩は一向に香が漂って来なかった。不審に思っていると、正面の襖が静かに引かれた。この三月の間というもの、桜吹雪の描かれた襖絵に紛れ込んで二人は逢瀬を楽しんでいた。その襖が今晩は引き開けられ、その向こうに現れたのは、襖絵の娘その人であった。満定は目を見張った。ニコリと微笑んだその顔は、彼が夢の中で出会う娘と寸分違わぬ美しさだったからである。ついに幻と現との境が消えてしまったのか。満定は暫く声さえ出なかった。

「どうされたので御座います?」

 満定の驚きようを可笑しがる美緒であった。

「い、いったいどうなってしまったのか。もう既に俺は夢の中へ入り込んでいるのか」

「いいえ。これは夢では御座いません」

 これまた、いつもと違う美緒の言いようだった。

「そなたは美緒なのか」

「はい。本当の、元気になった美緒で御座います。生身の美緒で御座います」

 美緒が部屋に進み入ると、襖はまた静かに閉められた。


「満定。お前、最近おかしいのではないか」

 声を掛けて来たのは大久保道場の主佐門だった。ここ数ヶ月、後継者と認める男の変貌振りに心配しての言葉だった。

「以前であれば、お前の振り下ろす剣は、たとい木刀と雖も凄まじい念を感じた。しかし、今はどうだ。まったく魂の抜けた抜け殻が棒切れを振り回しているようではないか。いったいどうしたと言うのだ」

 恩師に諭されても満定の反応は鈍かった。確かに、彼の頬はこけ落ちやつれ、漲っていた筋肉も細く痩せ関節ばかりが目立つ身体となっていた。光を斬ると賞された彼の太刀筋はすっかり影を潜め、時折鈍い風切り音がするだけだった。見るに見かねた佐門は満定を自室に呼び寄せた。

「何があった。その顔は尋常ではない」

 愛弟子が目の前に座るよりも早く、佐門はたまらず口を開いた。

「いいえ。何も変わりは御座いません」

 言葉通り話し振りはいつもと変わらぬ満定であった。

「偽りを申すな。その顔はどうした。その身体とて、まったく生気がないではないか」

 満定を見据える佐門の眼光は鋭かった。まるで目の前に座る弟子の身体の髄まで抉り出してしまう程の強さだった。そして、師の脳裏をふとよぎった考えに彼自身が驚いて目を見張った。

「お前、まさか、何かにとり憑かれておるのではないか」

「藪から棒にそのような事を。師匠が何をおっしゃりたいのか、この満定にはまったく理解出来ません」

 昔から頑固さでは佐門に負けず劣らずであった。言い出したら聞かない。それが間違いと気付いても押し通す。融通の利かない男であった。反面、それが満定の強さであり、屈強な意思の現れでもあった。そうした弟子の気性を知っているだけに、佐門は愛弟子が深みに嵌り込んで抜け出せないようになってはいないかと心配した。

「満定。お前の気性はわしがよう知っておる。意地を張る必要はないのだ。有態を申せ」

 師匠の心配顔をじっと見つめる満定であったが、やがて目を逸らすと横顔で微笑んだ。

「何を取り越し苦労されているのか存じませぬが、ご心配は無用に御座います。私の身体をご案じなのであれば、一層の研鑽を積まんと食を押さえ心身共に追い詰めているところ。身体が痩せて見えるはその為に御座います。間もなくそれも終えようとしており、その後は以前よりも増して逞しい満定となりましょう。もし何かにとり憑かれているとしたら、それは将に剣精に違いありません」

「そうか。ならば、よいが。しかし、あまり根を詰めるではないぞ。精神の鍛錬は重要じゃが、身体が壊れては元も子もない。よくよく頃合を見定める事が肝要じゃ。よいか。くどいようじゃが、もう一度言っておく。何事も己をよく見極め、進むばかりでなく、時には退く事も大事ぞ。お前にはお前の間合いがある。それを決して忘れてはならん」

「ははっ。師匠の教えしかと心に刻みまして御座います」

 満定は一礼して部屋を出た。師匠にはすっかり見透かされている。それはわかっている。長年の師弟関係で、隠し通す事などむしろ難しかった。それを知っていながら敢て隠した。美緒は順調に回復しつつあった。だが、ここでもし自分が通う事を止めれば、また元の病床に、いや、或いは、募るあまりに気を狂わせ死んでしまうかもしれなかった。別れ際に時折見せる美緒の沈んだ表情が、満定をしてそう思い巡らさせずにはおられなかった。身体はすっかり回復したかに見えても、彼女の心の奥には油断出来ぬ危うさがまだ見え隠れしていた。そんな美緒を見捨てる事など満定には出来なかった。あと今一歩のところまで来ている。もう少しで彼女に巣食う陰を払い落とせる。それが果たせる時まで、師匠と雖も打ち明ける訳には行かないのである。そう満定は心に決めていた。そして、彼自身薄々は気付きながらも、その思いが頭をもたげる度に否定している事があった。美緒はやはりただの女ではないのではないか。ただの女ではないという言葉に、満定は含みを持たせ自らの思考をそこで踏み留めていた。人か、或いは、異なるものか。知らず知らずそこに行き着く思考に気付き、その都度妄想を掻き消した。信じたくない思いだった。既に満定の中で美緒は大きな存在となっていた。こうして道場の喧騒の中にありながらも、ふと彼女の肌の温もりを感じ、あの柔らかな感触が蘇るのだった。二人はもう別れられない仲となっていた。佐門の言うように何かにとり憑かれているとしたら、確かに美緒の白い肌に満定は虜とされていた。

 稽古を終え道場を出た満定はここ数ヶ月の定められた道標のように美緒の屋敷へ歩いた。しかし、今日の彼の足取りはいつもと違った。佐門の言葉が顔が脳裏から離れないでいた。佐門の忠告は、これまで沸き立っていた満定の心に一石を投じ徐々に彼の心を平らげて行った。彼をして初めて冷静に自己を見つめる余地を作らせた。今まで忘れていた剣への思いを蘇らせた。満定は自分に問いかけた。

 俺はこのまま剣を捨てるのか。捨てていいのか。捨て去れるのか。我は剣に生き、剣に死す。そこにいかばかりの曇りやあらん。この信念にこれまで確かに一片の曇りもなかった。それが、ただ一人の女によってかくも見事に打ち消されてしまうとは。果たして俺に人生を以って剣一筋に委ねる資格があるのか。剣のみが生き甲斐と信じて来た過去の俺は偽りだったのか。しかし、美緒への思いも捨て難い。我が思いに固持する訳ではないが、俺が見捨てればあの女はきっと死ぬだろう。それを覚悟で……いや、出来ない。どうすればいいのだ。俺はいったい、どうすれば……。

 満定は葛藤した。しかし、心とは裏腹に彼の足は一歩一歩確実に美緒の屋敷へと彼を運び、気付けばその門の前まで来ていた。引き返すか。そう思った時だった。まるで彼の心を見透かすように引き止める声がした。

「お待ち申し上げておりました」

 はつ女が門から出て来た。

「本日はお越しが遅いので、お嬢様が心配されて、様子を見て参れとそれはもうやきもきされまして」

 はつ女は可笑しげに笑った。その様子から、美緒の心配げな愛らしい表情が想像出来た。無論、満定の苦悩など彼女たちは知る由もない。

「少々藪用があって、遅くなりました。心配かけた」

 満定は苦渋な思いなど極力見せぬよういつになく胸を張り、門を潜った。

 いつもの部屋に通されると、今日は既に美緒が待っていた。余程心配していたと見えて、少し拗ねた仕草で迎えた。元々勝気な娘であったようで、病状の治癒と共にその生来の気性が表に現れて来ていた。

「どうされたのですか。今日は遅いお越しではありませぬか。もう美緒のことがお嫌いになったのではありませぬか」

 言葉の端々に駄々っ子のような甘えた声音が混じっていた。この女を前にすると、先程までの葛藤が遠い昔のように思えて来る。剣術の道だの、男の本懐だのと言った言葉が霞んで来るようだった。

「ちょっと藪用があって、遅くなった」

「どんなご用で御座います? 美緒にはおっしゃりたくないご用で御座いますか」

 心配を通り越して少し怒り気味な口調になっていた。

「そのような事ではない。師匠に呼ばれたのだ」

「お師匠様に? 何かあったので御座いますか?」

 吊り上がっていた目が下がった。恋人を想う可憐な眼差しであった。

「最近の稽古に身が入ってないと叱られたのだ」

「それは、もしや、美緒の所為で御座いましょうか」

 その潤んだ瞳を見ただけで、満定は抱きしめたくなる衝動に駆られた。それを辛うじて押さえ込みながら、満定は笑みを作った。

「案ずるでない。そなたの所為ではない。稽古の方法に思うところがあって、気力が集中出来ていなかっただけのことだ」

「誠に御座いますか」

 満定は頷いた。それを受けて美緒は微笑み、改めて恋人の来訪を歓迎すべく頭を下げた。そして、一つ手を叩くと、襖が開いて膳が運び込まれた。

 満定は酒は飲める方だったが、常に口にする事はなかった。また、飲んだとしても分をわきまえ、まして泥酔した事など一度もなかった。剣を志す者にとって、前後不覚の状態など有り得べからざる失態と心得ていた。しかし、今宵は違った。酔いに任せ美緒を抱き、何もかもを忘れて彼女の身体に貪りつきたかった。彼女の温もりが吐息が自分の苦悩などすべて包み込み覆い隠してくれるような気がした。たとい一時でも、その庇護の中に身を委ねていたかった。明日は明日の風が吹く。彼女を抱き締めていると、悩みがゆるゆると溶け出して行くような錯覚を覚えた。

「そなたはいったい何ものなのかと時折思う事がある。そなたと初めて逢ったのは夢の中であった。およそ尋常な巡り逢いではない。俺は今でもその夢から覚めていないのではないか。本当は、そなたは俺の心の中に住んでいて、稽古に疲れた俺を慰めに現れてくれているのではないか」

「そうだとしたら、如何されます?」

 美緒は横たわる満定の胸に頬を寄せて、彼を見上げた。手を伸ばし、指で彼の口元に触れた。その手を取り、満定は美緒を見つめた。見つめ返す彼女に、満定は返す答えに迷った。男の困惑を目敏く察したか、女はすぐに微笑んだ。

「美緒は美緒で御座います。貴方様の前にこうして生きております。どこにでもいる、普通の女で御座います。ただ、違うのは……」

「違うのは?」

「美緒には、人の夢の中へ入り込める不思議な力があるという事に御座います」

「そうか。その力でそなたは俺に逢おうとしたのだ」

「はい。恐ろしゅう御座いますか?」

「いや。そのお陰で俺はそなたに逢えた。そなたは自らの病を治す事が出来た。その力は人を滅ぼすような魔力ではあるまい」

「はい」

 美緒は嬉しそうに笑った。

 男は急に女の手を握った手に力を込めた。女はすぐに男の心の変化に気付いた。

「何を考えていらっしゃいますか」

 先程の笑みは消え、女の心を不安が襲った。

「何も、何も考えてはいない」

 男は嘘を吐いた。

「嘘です」

 女の勘は鋭かった。

「いつまでもこうしていたい。でも、それは適わぬ事と知っております。せめて時々、私に会いに来て下さい。美緒はいつまでも貴方様をお待ち申し上げております。なれど、これだけは覚えておいて下さい。貴方様にお会い出来ない日が一日あれば、美緒の命は一日短くなります。二日あれば、二日。美緒は命を縮めて貴方様をお待ち申し上げている事を、どうぞお忘れにならないで下さい」

 美緒の涙が満定の胸を濡らした。

 美緒は見送りに姿を見せなかった。家人に一礼して門を出て行く満定は後ろ髪引かれる思いでいっぱいだった。もうこれで会えなくなるのではないか。そんな予感が彼を包んでいた。理由の知れない、拠り所のない不安が打ち消しても打ち消しても波のように押し寄せた。

 翌朝。それまでまったく音沙汰のなかった城からの使いが突然やって来た。無論、登城せよとの主命であった。満定が急ぎ登城すると、先日謁見した大広間ではなく、奥まった小部屋へ通された。そこには家老たちといった取り巻きはいなく、満定一人が座らされた。暫く待つと、藩主忠道ともう一人の男が入って来た。その男、小姓にしては些か年を取り過ぎている。

「面を上げよ、満定。久しいのう」

 聞き覚えのある張りのある藩主忠道の声であった。

「ははーっ。過日は身に余るお役目を賜り、恭悦至極に存知申し上げます」

「堅苦しい挨拶はもうよい。実はそちに会わせたい男がおる。河合道臣じゃ。河合。これが噂の権藤満定じゃ」

 満定は斜め前に座っている河合に目をやった。

「河合道臣でござる。以後、お見知りおきを」

 物静かな言い様であった。

「はは。権藤満定に御座います。どうぞよろしくお願い申し上げます」

 満定は深く頭を下げた。

 河合道臣の名は政治に疎い満定でも知っていた。前藩主忠以の時に藩政改革の中心的役割を担ったが重臣の反対で失脚し、しかし、また忠道によって再登用され、傾いた姫路酒井家の財政を見事に立て直した功労者である。

 その河合が俺に何の用なのか。

「権藤殿。そこもとはお城の天守にまつわる噂を耳にされた事はあるか」

「お城の天守閣で御座いますか」

「無論。大天守である」

 満定は首を傾げた。

刑部(おさかべ)姫という妖怪が住んでおると、巷では専らの評判なのだ」

「刑部姫?」

 満定は知らなかった。

「ご存知ないか。まあ、それはどうでもよい。そこもとに頼みたいは、その刑部姫なるものの正体を暴いて頂きたい」

「正体」

 合点のいかぬ顔の満定を眺めて、忠道も河合も共に笑った。

「河合。有態に言い聞かせよ」

 忠道の言葉に河合は一礼して、話し始めた。

「みどもが殿の命を受け、お家財政の立て直しを行っている事はご存知か」

「はっ。父よりご高名は伺っております。」

「ならば詳細は省略するが、改革には何かと不都合を唱える輩がおる。先代忠以様の時には残念ながらその輩の勢力に打ち負け辛酸を嘗めたが、今再び殿のご下命を受け、先に成し得なかった事業に着手し、漸くその成果が実り始めたところでござる。そうなると、以前より改革の非を唱えていた者共の風向きは怪しくなり、声高に反対していた者もその声は小さくなっては来た。しかし、そうした者達は決して諦める事はなく、往生際悪く闇に潜む。つまりは、あらぬ噂を流すなどして、あれやこれやの妨害を図って参る次第だ。」

「それが刑部姫で御座いますか」

「然様。河合は刑部姫と結託して殿を惑わし、ゆくゆくはお家を乗っ取る算段だと噂が流れておる。愚かな」

 河合は最後の言葉を吐き捨てた。

「河合様が刑部姫と結託」

「有り得ん話だ。相手は妖怪じゃぞ。それも昔から伝わる伝説だ。ありもしない化け物とどうやってみどもが手を結べると言うのか」

 河合は自分で言いながら、その話の下らなさに苦笑いした。

「ただ、政というのは時に脆く、そのような愚かな噂話に崩れ落ちる事がある。火のない所に煙は立たぬが、無用な流布は早めに打ち消すに越した事はない。そこでだ。そこもとにお願いしたい」

「刑部姫の正体を突きとめるのですか」

 河合は大きく頷いた。

「ただ突きとめるだけでは実がないであろう。何かを持ち帰ってもらいたい。それが刑部姫の正体と言って」

「刑部姫の正体を持ち帰るので御座いますか」

「そもそも刑部姫というのは、この姫路城竣成以来の世迷言である。大天守の最上階にはこの辺りの地神である刑部明神をお祀り申し上げておるがその化身だの、或いは、お城築城の際に立てた人柱の霊であるとか、はたまたお狐様とか蛇神だとか諸説がある。要は、誰も見てはいない。ただ憶測だけが流布されておる。お城の奥のまた奥だ。滅多な事で余人の入れるものではない。殿とて格別の事なくばお上がりにはならん」

「あんな上まで上がるのは、ちと疲れるわ。はっはっは」

 忠道の冗談に二人も笑った。

「つまりは、幽霊の正体見たり枯れ尾花だ」

「成る程。では、その枯れ尾花を持って参れと」

「然様。そろそろ人騒がせな伝説にも決着を付けねばなるまい。だが、誰でも良いという訳ではない。それでは枯れ尾花を捏造として、逆に噂の信憑性を高める事とあいなる。そこで、そこもとに白羽の矢を立てた次第だ。そこもとであれば、まず、腕が立つ、性質も実直で有名である。刑部姫退治には打って付けなのだ」

 河合の説明を受け満定は一つ一つ頷いていた。ただ一点だけ懸念が湧いた。

「如何された。何か言いたそうではないか。申してみよ」

「はっ。では、忌憚なく申し上げます。もし、実際に刑部姫なるものが実在しておりましたら、如何されますか」

「ふはははは」

 満定の問いかけに忠道も河合も大笑いした。

「その時は、当の刑部姫を連れ帰るが良かろう。何よりの証拠だ。その姫を前に、この河合との結託などない事を皆に証明出来るというものである。ただ、安心召され、そのようなものなどこの世にはおらぬ。はははは」

「承知仕りました」

「そなたを選んだは、先にも申し上げたが、そなたの実直な性格を見込んでのこと。有りのままを報告すればよい」

「はっ。畏まって御座います」

「では、早速だが、これより大天守へ案内させよう」

「これからで御座いますか」

「うん? 如何した。臆したか」

「い、いえ。心得まして御座います」

 突然の進展に驚いたが、特に準備がいる必要もないと満定は気持ちを切り替えた。

 大天守の外観は五層に見えるが、内部は地下一階と地上六階の造りとなっている。二階までは河合が付き添って案内したが、そこから上へは満定一人で行く事となった。

「妖怪のこととて、この昼間に現れるとは思えん。今晩一晩は夜を明かしてもらわねばならんだろう。ま、現れる筈もないものを待つ事になるが、ここは形だけでも残さんとな。証拠品を忘れるでないぞ」

 河合は笑顔で満定を見送った。一晩を明かすと聞いて、満定の脳裏に美緒の顔がよぎったが、今更もうどうにもならなかった。

 もしや、昨夜の不吉な思いはこの事であったのか。

 見上げた階段の先は、窓が閉められたままなのか暗かった。河合の家来が燭台を満定に手渡した。

「武運を祈っておるぞ」

 河合は戯言を言った積りなのだろうが、嫌な事を言うと満定は思った。

 三階へ上がると格子窓を開けた。帰りを考えての明り取りであったが、射し込んで来た陽の光を受けると、その明るさに少しほっとした。妖魔などと強がってはいるが、やはり多少の恐怖心はあった。相手の得体が知れない事ほど厄介なものはなかった。戦法が読めないのだ。敵が人であれば、その得物を見て対処も決められようが、この度の相手は妖魔。どのような化け物なのか。姫と言うからには外見は女なのであろう。しかし、その正体は恐ろしい他の物に違いない。蛇か狐か、或いは、想像を超えた未知なる物か。いずれにせよ、相手を見極めるしかあるまい。殿様も河合様も「刑部姫など根拠のない伝説に過ぎない」と口を揃えたが、確証があれば自分の目で確めるであろう。確かに俺を使えば、万人への説得にはなる。剣の腕前を見込まれての頼みで有難い話ではあるが、それはあくまで木刀を持った同輩相手でのこと。果たして俺の剣が妖魔などに打ち勝てるのか。思えば、三月前に突然殿様に呼び出されて過分な加増を頂戴したのは、このお役目を見越した上での事だったのか。

 ふーっ。満定は溜息を吐いた。政治の事はよくわからん。俺は命じられた責務を果たすまで。早く片付けて、美緒の元へ行こう。不安の暗闇に美緒という灯りを照らして満定は先へ進んだ。

 四階五階と上がる度にその階の格子窓を開け陽射しを入れた。それは城外への標にもなる筈だった。満定が刑部姫退治に向かっている事は、河合の手によって城中に知らされているかもしれなかった。そうすれば皆が注目し、満定が持ち帰った証拠品は噂話を霧散霧消にしてくれる。河合はそう計算しているに違いない。確かに三階の窓を開ける内に、下に見物人が何人か集まってこちらを見上げているように見えた。成る程と気付いた満定は、階を上がる度に格子窓を次々と開けて行った。こうして窓を開ければ、満定が刑部姫の元へ向かっている事が皆にもわかるというものだ。

 そして、いよいよ最上階へと向かう階段に足をかけた。見上げた先は同じように暗かったが、そういう目で窺うからか、その暗闇にはこれまでとは違う、何か蠢くような不気味さがあった。満定は左手を剣にかけ鯉口を切った。登る足取りも慎重に気力を集中させた。静かだった。踏み上がる階段の軋みが異様に響いた。もし何物かが潜んでいれば、満定の侵入には疾うに気付いている筈だった。

 階段を上がり切り、これまでと同じく格子窓に向かった。引き戸に手を掛け力を込めたが、戸は一向に動こうとはしなかった。カタカタと音は立てるが、動く気配はなかった。何度試しても応じぬ引き戸に満定はあっさり諦めた。そして、覚悟を決めた。燭台を翳し辺りを照らした。蝋燭の灯りが届く限りには何の姿も見えなかった。満定はその場に腰を下ろし、燭台も傍に置いた。

 やはり今晩一晩明かさねば帰れんということか。腰から剣を抜き、それを抱えるように腕組みして目を閉じた。

 微かに風を感じた。隙間風か。目を閉じると心は落ち着き、気は研ぎ澄まされた。何もない筈だった。しかし、満定は闇の中に、確かに自分を見つめる何者かがいる気配を感じていた。それは遠巻きに満定の様子を窺っているようだった。時折床板を踏む僅かな音がした。それは音と呼べる程でもなく、空気の歪を満定の五感が捉えているのだった。

 不思議と恐怖はなかった。落ち着いて相手の様子を探る事が出来た。我ながらこんな能力が自分にあるとは思わなかった。長年の鍛錬がこのような力を培ってくれたのか。満定は笑みさえ浮かべた。

 相手は徐々に満定に近付いて来た。満定はゆっくりと目を開いた。まずは蝋燭の灯りが目に入って来た。そして、闇に視線を漂わせると、時折白いものがちらちらと見え隠れした。

 あれが刑部姫なのか。

 満定はその白いものに集中した。剣を立て、いつでも抜けるよう肩膝ついて身構えた。

 満定が身構えた事を知ったか、相手は動きを止め、空中の一箇所に留まった。すると、何処からともなく笙の音が響いて来た。

 なんと雅やかな。流石は姫と呼ばれるだけのことはある。満定は早く姫の正体が見たくなった。妙なことに、姫が化け物であるという前提が彼の脳裏から消えていた。ただただどんな顔をした女なのかという興味心が先走った。それはおそらく鳴り響く雅楽の調べがそう錯覚させたのかもしれない。今に白拍子のような見事な舞を見せて刑部姫が姿を見せるに違いない。満定はそんな期待の眼差しで闇を見つめ続けた。

 暗闇の切れ目から身体を入れ込むようにそれは現れた。まるでその先に別の世界があるようだった。そこに光源がある訳ではなかった。だが、その衣装は白く眩しかった。それ自体が光を放っているのだ。袖で顔を隠し、それはゆっくりと満定に近付いた。そして、一間程手前まで来て立ち止まった。顔を隠していた袖をゆっくりと下げた。二本の角が覗いた。かっと見開いた目が鋭く睨み付けた。耳元まで裂けた口が赤く笑った。鬼だ。夜叉だ。満定は一瞬ぐっと息を呑み込んだ。しかし、すぐに冷静に相手を見る事が出来た。その恐ろしげな形相は面であった。夜叉の面を被っていたのだ。

「そなたは誰か。よくぞここまで来た。恐ろしゅうはないか」

 面越しに声を出している所為か、籠もった低い声だった。だが、男の声ではなかった。

「俺は権藤満定。当酒井家の家臣だ。主命によりそなたの正体を確めに参った」

 満定は相手から視線を逸らさぬように立ち上がり、剣を腰に挿した。

「ふほほほほ。面白い事を言う。わらわの正体を確めるとな」

「そなたは何者か。蛇の化身か、狐か。それとも」

「わらわは神じゃ」

 満定の声を打ち消して刑部姫は言い放った。

「わらわはこの日女(ひめ)()の地を治める神じゃ。いにしえより守り神としてここに在る。人間どもの勝手な都合でこの天守に遷され、以来ここで生きとし生けるものたちを見守って来た」

「守護神と言うのか。ならば、その証拠を見せられよ」

「証拠? ふほほほほ。たわけたことを。その証拠を如何する。持ち帰って手柄とでもするのか」

「いかにも。それが主命を受けた俺の役目だ」

「人間とはつくづく滑稽な生き物じゃ。とかく目に見える物、形ある物に拘る。のう、皆の者」

 たちまち辺りは明るくなった。そして、いつの間にか満定は魑魅魍魎の類に取り囲まれていた。なんということか。ひしめく化け物たちに圧倒され、満定は息を呑んだ。逃げ場はなかった。一斉に襲われれば抵抗の余地もなく、彼の肉体はこの化け物たちに引き裂かれるに違いなかった。彼の頬を冷たい汗が流れた。

「この者どもは人間に殺された獣たちの魂がわらわに救いを求め化身したものじゃ。人間への恨みは骨髄まで染みておる。そなた、如何する」

 刑部姫の言葉を受けて、化け物たちは口々に人間への恨み辛みを叫んだ。その喧噪に包まれ、満定はいよいよ追い込まれた。中には長い舌を伸ばして満定の身体にちょっかいを出す者や威嚇して来る者もいた。それを払いつつ威嚇には気圧されぬよう満定も必死の形相を作って対抗した。そして、剣の束に手を掛け握り締めた。しかし、剣を抜くに抜けなかった。いざ抜けば、それをきっかけに化け物たちは満定に襲いかかって来る事は必定だった。それは即ち彼の死を意味した。じりじりした緊張した間合いが続いた。

「静まれ。静まれ、皆の者」

 刑部姫が両手を上げて、いきり立つ化け物たちを黙らせた。

「この者をここで血祭りに上げたところで、そなたたちの恨みが収まるのか。どうだえ。収まるのかえ」

 刑部姫は化け物たちを見回した。誰も声を上げる者なく、中には目を閉じ涙する者もいた。

「この者を殺したところで、そなたたちの魂は安らぐのか。安らぐのかえ」

 咽び泣く声が四方から聞こえた。

「わらわに良い考えがある」

「どのようなお考えに御座いましょうか」

 誰かが聞いた。刑部姫はそれに応えて頷いた。

「この者はわらわの正体を見定め、その証拠を持ち帰り下衆どもに披露する役目を負っておる」

「姫様の正体を見定めるとは、不届き千万」

 その声にまた化け物たちはざわめいた。

「まず聞け。者どもよ」

 刑部姫の一喝に再び静まった。

「人間とはいえ、わらわの元へ物怖じすることなく参ったは天晴れである。その勇猛誉めてつかわす。おそらくは、その勇猛を見込まれての役目であろう。ならば、この者にそなたたちの無念を伝えてもらおうではないか。この者であれば、必ずや誠実に伝えてくれるに違いない」

「姫様。姫様のお言葉では御座いますが、人間は所詮人間。信用に足るとは思えません」

「そうだ。そうだ」

 化け物たちは騒いだ。

「静まれ。静まるのじゃ。……よいか。我らは天の帝のお定めになった掟に逆らう事は出来ぬ。みだりに人間を害すれば、冥界に追放となるのが定めじゃ」

「不法じゃ。何故天の帝は人間をかばい立てなさる」

 その声は居並ぶ化け物たちを代弁していた。誰もが頷いた。

「いかにも不法じゃ。だが、やむを得まい。生けるものの中で人間は、天の帝を長とする天上の一族に最も近いと言われておる。天上に生まれし魂は二つに別れ人間としてこの地上界に生を受ける。地上界はいわば魂の修練の場とされておる。ここで人間となった魂は数々の試練を乗り越え浄化される。そして、幾度かの生と死を繰り返す内再び元の魂同士が巡り会い一つとなった時、その魂は天昇して天上界へ戻るのじゃ。それが天上人の成り立ちである。中には試練に耐え切れず、或いは目先の欲得に溺れ、また或いは持ち得た己が形ばかりの力に奢り他を害する。そうした者たちは畜生道に落ちると言う。これが天の帝がお作りになった輪廻天昇の理じゃ」

「もしや姫様。我らはその悪道を犯した成れの果てで御座いましょうや」

「悲しい哉。その通りじゃ」

「なんと。われは前世を恨みまする」

「詮無いこと。そなたたちには身に覚えのない事であろうが、そなたたちの魂を遡れば、前世に非道を犯しておるのじゃ」

「ううううう。理不尽で御座います。我らは人間の、しかも、罪深き者の成れの果てとは……」

「されど、そなたたちにもまだ救いの道はある。成仏することじゃ。さすれば再び畜生道を抜け出し人間として生まれ変われば、いつの日か天昇出来るやもしれん」

「成仏とは、如何すれば良いので御座いましょうや」

 刑部姫に縋るように化け物たちは懇願した。

「非業の死によって、そなたたちの魂には恨みが深く宿っておる。その恨みを消し去らねば、成仏は出来ぬ」

「して、その恨みを消し去る方法は」

「供養を施すことじゃ。魂が安らえば、自ずと恨みは消え去る」

「供養。されど姫様。我らが自らを供養など出来ませぬ」

 そう嘆いた化け物たちは俄に満定を振り向いた。

「姫様。この者にその供養をさせるので御座いますか」

 取り巻く者たちを退がらせ、刑部姫は満定に歩み寄った。

「そなたに頼みがある。この者たちの供養をして欲しい。その代償として、そなたにはわらわの証を授けよう。さすれば、そなたの役目は果たせるのであろう」

「供養とは、如何なる事を言うのか」

 見た目は化け物とは言え、それに至った事情に満定は同情していた。出来得ることなら力になろうと思った。

「造作はない。人間どもが心から悔い改め、この者たちの前で祈りを捧げよ」

「この化け物、いや、以前は獣であった時に彼らを惨い目に合わせし人間は彼らと同じ数だけいるであろう。その者たちを一同に集め、しかも懺悔させるなどは無理な話ではないか」

「この者たちを殺害せし人間を集めよとは言わん。総代となるべき者が祈れば、それで事は足りる」

「まさか、その総代とは、殿のことであるか」

「察しが良いではないか」

「うーむ」

 満定は唸った。聡明な忠道候にこのような荒唐無稽な話が通じる筈がなかった。まして、傍には河合が控えている。二人は即座に否定するであろう。笑い飛ばされるのが関の山だった。

「この話、受けて事成らざれば、どうなる」

「そなたの命貰い受けねば、この者たちが納得せぬであろう」

「ならば、この場で断れば」

「即座に皆が襲い、そなたの身は引き裂かれ、そなたの魂はこの者たちと同じ運命を辿るであろう」

「そうか」

 進むも退がるも、待ち受けるものは同じか。ならば、進んで活路を見出し、駄目であれば覚悟を決めるしかあるまい。

「わかった。そなたたちの申し出、この満定しかと引き受けた」

「やはりわらわの見込んだ通りの男であった。では、約定通り、わらわの証を授けよう」

 刑部姫は顔に付けていた夜叉の面を取り、満定に差し出した。

「この面はわらわの分身じゃ。これをそなたが持ち帰れば、わらわを連れ帰ったも同然。場合によっては、この面を通して語り掛けてもよい」

 刑部姫の話を満定は上の空で聞いていた。

「如何した。そなた、わらわの話を聞いておるのか」

「そなた、美緒ではないか」

「美緒? 誰じゃ、それは」

「とぼけるではない。そなたは確かに美緒だ」

「おまえ。姫様にその暴言、許さんぞ」

 化け物たちは色めきたった。

「まあ、待て。こやつの話を聞こうではないか」

 刑部姫は両手を広げ、満定に襲いかからんとする化け物たちを押さえた。

「本当に美緒ではないのか」

「わらわは嘘は吐かぬ。美緒ではない。会うたこともない。美緒とは、そなたの女か」

「そうだ。妻にと考えておる」

「ほう。その女は果報者じゃな。そなたに見込まれる程であれば、気立ての良い女であろう。わらわに瓜二つとならば、また美しくもある」

「そうじゃ。姫様に似ておるなら、さぞかし美しかろう」

 化け物たちが囃子立てた。それをさも当然と言わんばかりの顔で刑部姫は頷いた。神を名乗るにしては些か自惚れが強い。

「しかし、いかに瓜二つとは申せ、わらわと人間の女とを見誤るはいかにもおかしいではないか。訳があるな。そなた、その女に尋常ではない不審を抱いておるな。人間ではない、魔性の匂いがするのであろう」

 そこまで問い詰められて、満定は否定出来なくなった。だが、もし美緒の不思議な力の事を話せば、彼女に災いが降り懸かるかもしれない。満定は固く口を閉ざした。

「そなた言わぬ積もりらしいな。ふん」

 刑部姫は鼻で笑った。だが、すぐに表情を戻すと、今度は真っ直ぐに満定へ視線を注いだ。その眼光は鋭く、見つめられた満定は金縛りにあったように身動き出来ず、視線さえその目から逸らせなかった。そして、自分の意志に逆らって足が勝手に姫の元へ歩き出した。満定の身体が近付くと、姫は両手を広げた。両袖が延び壁のように彼を覆った。幾重にも姫を包んでいた着物が一枚一枚めくれて、やがて白い肌が現れた。その肌に吸い寄せられるまま満定はその裸身に抱きついた。いつしか彼の意識は虚ろとなっていた。朧気な彼の視界に美緒との情事が蘇った。唇を重ねる相手は姫か美緒か、満定の意志はもうその判別が付かなくなっていた。顔だけでなく、身体も嗅覚にまとわりつく匂いまでもが同じなのか。彼の五感は美緒を抱いている錯覚に落ちていた。

 気付くと、満定は壁に背をもたせ床に腰を降ろしていた。驚いたようにざわめき退がる物音がした。彼の意識が戻るまで化け物たちが様子を窺っていたようだった。満定は立ち上がろうとしたが足腰に力が入らなかった。精力を抜かれたような虚脱感があった。暫く茫然とした。記憶が飛んでいた。微かに覚えているのは、姫の白い肌と耳に残る切ない息づかい。しかし、あの吐息は美緒の記憶ではなかったか。はっと思い、満定は股間に手を伸ばした。袴の上からまさぐると、僅かに冷たい感触があった。

 まさか俺は妖魔の中で果てたのか。

 悔恨の思いが満定の胸を締め付けた。

 なんと情けない。意識を奪われたとは言え、それでは畜生と変わらぬではないか。俺はもう武士はおろか、人間でもない。このまま生き恥を晒してはおられぬ。せめて最期は武士らしく……

 満定は腑抜けのような足腰に力を込め、なんとか正座した。そして、脇差しを腰から抜くと前に置き、着物の襟を広げた。

「おい。何をする!」

 誰かが叫んだ。すると、前に置いた脇差しが滑るように転がり、化け物たちの足下へ吸い込まれた。それを化け物たちが避けながら見送ると、その先に刑部姫が横たわっていた。脇差しは姫が翳した手にすっぽりと収まった。それに気を取られていた満定の腰から今度は長刀も引き抜かれ姫の元へ吸い取られた。

「な、何をする」

 叫んだ積もりが、満定の声は嗄れて大きく出なかった。

「死なれては、困るでな。そなたには我らとの約束がある」

 刑部姫はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと満定の方へ歩いた。一歩一歩近付く度に姫の着物が煌めいた。

「そなたの心を覗かせてもらった。美緒という女。面白い力を持っているようじゃ」

 何かを企むような声に満定は不安を覚えた。

「美緒に、美緒に何をしようと言うのだ。あの女に手出しすれば、俺が許さん!」

 満定の声に力が蘇った。

「それは、そなた次第じゃ。ここで犬死にすれば、女を守れん。どうじゃ」

 満定は唇を噛んだ。

「おまえ。姫様と契りを交わせるなど、この地上界には誰もおらんぞ。羨ましいと思え」

 そう言った化け物の顔を満定は鋭い眼差しで睨み返した。

「おお、こわっ」

 睨まれた化け物は肩をすぼめた。

「実を明かせば、もう一人おる。武蔵とか申しておった」

 刑部姫はニヤリと笑った。その時の情交を思い出したか。

「武蔵。宮本武蔵か」

 満定の脳裏を二刀流の剣豪が浮かんだ。ならば、あの方も失念の思いを背負いながら生きたと言うのか。

「そなたはわらわを妖の類と思うておるようじゃが、違う。わらわは神じゃ。神に見込まれ契りを交わしたは、誉れと思うがよい」

「わかった。腹は切らん。切らんから、剣を返せ」

「誠か」

「武士に二言はない」

 刑部姫は頷くと、手に持つ剣を満定に差し出した。その時、遠くで鐘の音が響いた。

「もはや夜明けのようじゃ。そなたは戻らねばなるまい。我らとの約束、努々(ゆめゆめ)忘れるでないぞ。違えれば、そなたには死が待っておる。よいな」

 満定は黙って頷いた。

 刑部姫は両手を高く掲げた。そして、振り下ろすと化け物たちの姿は消えていた。姫もまたゆっくりと遠ざかり、やがて闇に消えるように見えなくなった。その直後、満定の背中を激しい痛みが襲った。その痛みに耐えかねついには気を失った。

 美緒がいる。じっと満定を見ている。恨まし気な表情で。何も言わず、ただじっと見つめている。満定が手を伸ばすと、美緒はかぶりを振った。満定が一歩近付くと、美緒は一歩退がった。それでも構わず近付くと、美緒はどんどん遠ざかった。そして、追いかけると、美緒は消えていなくなった。

 脂汗を掻いていた。その気持ち悪さに目が覚めたようだった。起きあがろうとすると背中に痛みが走った。頭も重かった。熱があるようだった。どうして背中が痛むのか。満定はまったく身に覚えがなかった。化け物たちに襲われた訳ではないのに。

 何故だ。

 痛みを押して立ち上がると、足下に夜叉の面があった。

 あれはやはり夢ではなかった。俺は刑部姫に会い、契りまで交わしてしまった。そして、逃れられない約束まで。

 満定は夜叉の面を懐に入れ、天守閣を降りた。二階まで来ると人が二人待っていた。河合の配下の者だった。その内の一人が慌ただしく下へ降りて行った。河合を呼びに行ったのだろう。残った一人へ倒れかかるように満定は身体を預けた。

「如何した。大丈夫か」

「刑部姫に会った。これがその証拠だ」

 そう言って懐から夜叉の面を取り出すなり、満定は再び気を失った。

 意識を取り戻した満定の枕元には河合の姿があった。そして、横に視線を移すと、忠道もいた。

「あっ」

 慌てて起きあがろうとしても身体が言う事を聞かなかった。まるで何かに縛られているような上体に固い違和感を感じた。

「無理をせずともよい。そのままで構わぬ」

 忠道が声をかけた。

「刑部姫に会ったそうだな。これが証拠か」

 河合が夜叉の面を持ち上げた。

「しかし、そこもとの背中の傷はどうした。まるで獣にでも引っ掻かれたようではないか」

 そうか。背中の傷を手当して晒でも巻かれているのだ。満定は上体にある違和感の訳を知った。

「さては、刑部姫と刃を交えたか。この面はその戦利品であるな」

 忠道たちの思い違いを正さねばならないと満定は思った。それに刑部姫との約束もある。

「いえ。その面は刑部姫との約束を果たす代償として受け取った物です。背中の傷は残念ながら覚えがありません。姫が去った後に気付いたので御座います」

「約束? 如何なるものだ」

 忠道も河合も怪訝な顔付きで満定を見た。満定は一瞬迷った。どう切り出すべきか、言葉が浮かばなかった。しかし、言を労して二人を説き伏せる程の技量など満定にはなかった。実直のみが彼の取り柄であった。

 満定は天守閣であった出来事を彼なりに言葉を費やして二人に伝えた。だが、流石に刑部姫と契りを交わした事だけは伏せた。

「うむ。だが、俄に信じ難い。さりながら、そこもとの傷を見れば、天守閣に何かがある事は否めん」

 満定の話を聞いて河合は呟いた。

「それで? その魑魅魍魎どもを安らげる供養とは如何なるものか」

「獣たちを殺めし人間すべて集める事は不可能に御座います」

「無論じゃ。大体誰が恨みを持たれておるのか調べようがない。姫路中の人間すべてを集めねばならん」

「そう拙者も言いました。すると、刑部姫は総代を立てよと申しました」

「総代」

 河合は横に座る忠道に視線をやった。それに気付くや、満定は無理にでも起きあがろうとした。寝たままでは到底進める事の出来ない重大な要件であった。

「無理をするなと言うておる」

 藩主忠道の気遣いではあったが、満定は顔を歪めながらも起き上がり、二人の前に平伏した。

「如何した」

 忠道は驚くばかりだった。その横で河合は苦い顔をしていた。

「畏れながらお願い申しあげます。刑部姫が申す総代とは」

「それ以上は申すな」

 河合が一喝した。しかし、それに怯んではいられなかった。満定の命が懸かっていた。そして、或いは、美緒も犠牲になるかもしれなかった。

「畏れながら、総代とは」

「それ以上申すなと言っておる」

「殿の事で御座います」

 満定は言い切った。その瞬間、河合は立ち上がり満定を蹴上げた。だが、蹴り跳ばされ、背中の激痛に耐えながらも、満定は再び平伏して叫んだ。

「総代は殿を置いて外に御座いません」

「たわけっ!」

 河合は脇差しを抜き放って満定に迫った。それを忠道が羽交い締めにして止めた。異様な光景であった。

「待て、河合。待て」

「殿。お放し下さい。こやつの暴言、許し難し。こやつを成敗して、みどもも腹を切る覚悟で御座います」

「ならん。ならんぞ、河合!」

 若い忠道は勝る体力で河合を払い倒し、手から脇差しを奪い取った。その拍子に切ったか、忠道の指先から血が流れていた。

「そちも満定も俺の大切な家臣だ。勝手は許さん。両名共気を落ち着けよ」

 河合は茫然とうな垂れた。満定はうち臥したまま動かなかった。

 その後、忠道の指示で一旦河合は屋敷へ引き戻された。本来なら、城中での人情沙汰は重罪となる。それを忠道は不問とした。騒動を目撃した者は極く限られていて、忠道はその者たちに堅く口止めして、事を大きくせず収めた。一方、満定は傷の療養を理由に城中に留め置かれた。

 翌朝、満定の元へまた忠道がやって来た。

「よい。そのままでよい」

 起き上がろうとする満定を言葉だけでなく自ら手を添えて制し寝かせた。

「申し訳御座いません」

 満定には忠道の気遣いが身に染みた。殿様とは単にお家の旗印かと思っていたが、昨日の件もあって、忠道には違う感情を抱くようになっていた。

「その後、傷の具合はどうだ」

「はい。多少の痛みはありますが、熱も下がり、明日にでも起き上がれようかと存じます」

「そう急くではない。回復か否かは医者が看立てるものだ。焦って、毒を体内に残したままでは、後に大事に至るというもの。ここはじっくり治す事が肝心だ」

「はっ」

 満定の頬を涙が流れた。

「どうした。剣の達人がそれでは面目立たぬぞ。はははは」

「はっ。申し訳御座いません」

 満定は手で涙を拭った。

「ところで、昨日の話を蒸し返すようだが、そちの申しておった供養の件だ」

「はい」

「俺に供養をせよと、刑部姫は申しておるのだな」

「はい。畏れ多い事では御座いますが」

「ふむ」

 忠道は腕組みした。あれから一晩あった。忠道なりに何らかの思案はして来た筈だった。無論、結論が出ているとは限らない。

「ありのままを話せば、俺としては受けても構わん。大切な家臣の命を救う為だ。頭の一つや二つ下げる事は一向に構わん。元を質せば、俺が命じなければこのような仕儀には到らなかった。責任は俺にある訳だ。しかし、俺はこの酒井家の当主だ。徳川譜代という大屋台を背負っておる。それがやはり大きく立ちはだかるのだ。俺が頭を下げれば、即ち、酒井家が膝を屈して畜生共に頭を下げることになる。それでは重臣共が賛同せぬであろう。大義名分がない」

「確かに。尤もな仰せに御座います」

 いかに物分りの良い殿様と雖も、やはり無理な話であったかと満定は思った。ならば、覚悟を決めればよいのだ。俺一人の為に酒井家が恥を掻く必要などない。だが、気掛かりは美緒の事であった。しかし、その美緒とて、俺が会いに行けなくなって二日は経つ。しかもまだ、もう数日は動けそうにない。刑部姫の手に罹らなくとも、自ら命を縮めるであろう。美緒には気の毒だが、このような定めの男に関わってしまったと諦めてもらうしかない。満定は心の中で美緒に手を合わせた。

「そこで一案だが」

 覚悟を決めた満定を他所に、忠道は思わぬ事を言った。

「そもそも刑部明神はこの地の地神を姫路城築城により天守閣へ移設して祀ったもの。今となってはあらぬ噂もあって、最上階は開かずの間のようになっておるが、昔は年に一度当主が上がって拝んだと聞く。近年は簡素化して仮社への参拝で済ませておるが、今一度復活させようかと思う」

「え?」

 満定は耳を疑った。目の前にいるこの若殿は何を言っているのか。満定はすぐに理解出来なかった。

「本来はお家の安泰とその一年の神占を賜るものだが、その次いでに詫びを入れても構わんだろう。ま、それで刑部姫が納得するかどうかは別だが、俺が出来る事はそれまでだ」

 身分の差なくば、両手を取りしっかりと握り締めたいところだった。事がうまく行くかどうかはもうどうでもよかった。ここまで自分の為に心を砕いてくれる人間に出会ったことなどなかった。まして相手は殿様である。満定は感極まり嗚咽した。

「何を泣いておる。感謝するにはまだ早いぞ。何もしてはおらんのだから」

 そう言って忠道は笑った。

「早速準備いたそう。あまりぐずぐずしておっては、その内刑部姫が業を煮やして祟ってくるやもしれんからの。それから、満定。祭礼にはそちも出よ」

「え? 拙者もで御座いますか」

「そちには用心棒を頼みたい。なんせ、刑部姫と約定を交わしたほどだ。かの者の信頼を得ているであろう。何よりの用心棒だ。早く傷を治せよ」

「はっ。畏まって御座います」

 溢れる涙で忠道の後姿が霞んだ。

 若さと日頃の鍛錬が物を言い、満定の傷はみるみる回復した。それに合わせるように祭礼の準備も進んだ。日取りは明後日との連絡が満定の元にも届いた。

 美緒と別れてから十日の時間が経っていた。もう、あの女はこの世にいないかもしれない。気掛かりはそればかりだった。この頃には、満定は起き上がって日常の事はすべて自分で出来るようになっていた。流石に以前のように剣を扱うまでには到らなかったが、務めて嘗ての感触を呼び覚ますよう心がけ常に剣に触れた。二日後には殿と共に刑部姫の元へ行くことになる。いざという時、命に代えて殿を守らねばならない。師匠の名前に傷を付けぬ為にも、たとえ非業の死を遂げる事になろうが、無様な姿を晒す訳には行かない。

 武士の面目

 背中に傷を負って寝込んで以来、満定の脳裏に何度も浮かんでは消えて行った言葉である。身体の自由が効かなくなるとは、自分を見つめ返す時間を神が与えてくれたものらしい。剣の修行の中でも自分に問い掛ける事はあったが、これ程どっぷり浸かる事はなかった。疲れるとは己が肉体の未熟さ故と思っていたが、真の疲労は頭を徒に費やす事にあると知った。

「面目」とは何か。好んでその言葉の意味を捜し求めた訳ではなかった。しかし、他の事を考えようとしても、気付けば「面目」とは何かと自問自答していた。それまで漠然と承知していた積りが、実は確かな意味など突き詰めずにいた自分であった。人は死を意識すると意外な言葉に固持するものらしい。それまで関心すら寄せていなかったと思うものが、不思議と大きく居座って自分に問い掛けて来るのだ。「お前はこれまでどう生きたのか」と。時に父の姿を借りて、時には母に、そして、師匠にと姿を変えて、「面目」という言葉が問い掛けて来るのだった。その誰にも満定は明確な答えを返す事が出来なかった。それは潔い死なのか、もがきながらも生き続ける事なのか。昔師匠が言った。剣術とは、死中に活路を見出す人生道であると。死を意識しながらも、いかに修羅場を掻い潜り生き抜くかを学ぶ道であると。武士の本懐は何か。どこに重きを置くべきか。死に様か、生き様か。そのどちらを選ぶのか。その選択を迫られているような気がした。

 翌朝、あの騒動以来、初めて河合が満定の元へ顔を出した。

「どうだ。傷は癒えたか」

 河合はあの時とは打って変わって穏やかな笑顔であった。

「はい。お陰様で、もうすっかり大丈夫で御座います」

「先だっては悪い事をした。だが、わかってもらいたい。みどもの立場としては、ああするより仕方がなかった」

「元より存じております。河合様は殿を、いえ、この酒井家の面目をお守りになろうとされただけで御座います」

「わかってくれるか。忝い。しかし、みどももあれ以来つくづく考えた。武士とは厄介なものだと」

「厄介?」

「然様。そこもとが申した面目の為に、武士は生き死にする事がある。それが自身の面目ならばまだ良しとするが、時に、いや、大部分はお家の面目の為に武士は腹を切る。不条理だとは思わぬか」

「河合様。河合様からそのような言葉が出ようとは夢にも思い及びませんでした」

 満定は驚きの表情を隠せなかった。

「みどもとて一介の人間に過ぎん。あの時は激昂して腹を切るなどと口走ったが、まだ道半ば、己が仕事の途中で死にたくはない。幸い、殿の温情によってこの腹を切らずに済んだ」

 河合は自分の腹をさすって笑った。

「しかし、そこもとのあの時の懇願にはただならぬ気迫があった。ま、お陰でその気迫に気圧されまいとみどもも感情が高まった訳だが、そもそもそこもとには何か特別の理由があったのではないか。刑部姫と約定を交わしただけで、あのような切羽詰った行動に出るとは思えん。他に大きな理由があるのではないか」

「はい……」

 河合の分析は正しかった。美緒の出現は、剣術一筋だった満定にとってこれまでの人生に疑問を投じる存在となった。もはや美緒は剣術に代わる心の拠り所となっている。美緒を守りたい。その一心で懇願したのだ。

「実は拙者には惚れた女がおり、刑部姫との約束を違えると、その女に累が及ぶのではないかと恐れて、あのような暴挙となりました。申し訳御座いません」

 満定は深く頭を下げた。

「殿は思慮深い反面、情に篤いお方だ。そこもとの行動にただならぬ事情を察せられたのであろう。無論、そこもとの身を思ってのご配慮でもある。此度の件では、みどもの浅慮が原因でもある。改革反対派のつまらぬ策略など無視すればよかったのだ。そこもとに身の危険を背負わせてしまったばかりか、反対派を増長させんとも限らん。明日の祭礼では、身を潜めていた者共が一斉に声を高めるであろう。みどもの改革に刑部明神が警鐘を鳴らされているとか申しての。今から頭の痛い事だ。だが、負けん。もう、改革の成果は次々と実り始めておるのだ。ここで退く訳には行かんからの」

「申し訳御座いません。拙者がいま少しうまく立ち回れる男であれば、このような仕儀とはなりませんでしたでしょう」

「気にするではない。そこがそこもとの良い処。みどもはそれを見込んでそこもとに依頼したのだ。今でもそこもとを人選した事は後悔しておらん」

「有難いお言葉。恐悦に御座います。明日の祭礼では身命に代えまして殿をお守り致します」

「それにしても、まさか本当に刑部姫なるものが大天守にいたとは。この世は摩訶不思議なものだ」

 河合は盛んに首を振った。

「明日の祭礼を前にお願いが御座います」

 満定は平伏した。

「何だ。申してみよ」

「一度自宅に戻り、身支度を整えて参りたく存じます」

「身なりであれば、お城で用意されておるであろう」

 と言いかけて、河合は満定の見上げた目をじっと見つめた。

「よかろう。一度戻って来るがよい。殿には伝えておく。久々に親御殿にも会って来るとよい」

 言葉に出さなくとも、満定の覚悟を河合は悟った。いざとなれば刑部姫と刺し違えても殿を守る。その決意が窺えた。今日の帰宅は両親に今生の別れを告げに行くのだ。そして、愛しい女との惜別もあるに違いない。それをどうして引き止められようか。

 程なく満定は城を出た。久し振りに見る姫路の城下であった。自宅に着くと、既に両親が門の外で待っていた。河合の配慮か、先触れがあったのだろう。父は息子の姿を認めると二三歩懐かしげな顔で歩み寄ったが、すぐに気持ちを切り替えたように立ち止まり丁寧に一礼した。父の仕草に合わせるように母も父の後方で頭を下げていた。

「只今戻りました。長く留守に致し申し訳御座いません」

 父たちの挨拶に応えるように満定も丁寧に頭を下げた。

「お勤めご苦労様です。暫時身体を休めて行くがよい」

「はい」

 取分け会話を交わすこともなく、父は息子を屋敷の中へ請じ入れた。息子を見つめる父の目も母の目も潤んでいた。明日という日に与えられた息子の役目を父も母も承知しているようだった。

 満定はまず風呂に入った。禊ということか。身体を洗い流し清め、身に着ける物すべてが新調されていた。風呂を出ると父の部屋に呼ばれた。酒宴の用意がされていた。その場には珍しく母も同席した。

「今晩は泊まって行けるのか」

 我が家というのに父はそんな言い方をした。

「いいえ。帰らねばなりません」

 息子も同様であった。

「そうか。まずは一献。飲め」

 息子が差し出す盃に父が酒を注いだ。その盃を息子は一気に飲み干し、今度は父の盃に酒を注いだ。父はそれをゆっくりと飲み干した。

「明日は帰ってまいれ。何があろうとも、お前はこの権藤家の人間だ。息子の不手際はこの父が補う。お前一人で決めず、父を頼ってまいれ。母も心配しておる」

 横で母がすすり泣いた。

「これ。武家のおなごが無闇に泣くではない」

 そう言いながら父の頬も濡れていた。

「父上、母上。この満定、お二人のご恩は決して忘れません」

「満定……」

 満定の言葉が両親の涙を一層誘った。

「覚悟は決めております。されど、ご安心下さい。私は死に行く訳ではありません。殿を妖魔共からお守りし、いざという時には斬り伏せる腕も持ち合わせております。必ずや元気な姿でお二人の許へ戻ってまいります」

「必ずですよ」

 母は念を押してまた泣いた。

「はい」

 満定は殊更明るく頷いて見せた。そして、この時を措いて他に機会はないと考えた。

「父上、母上。お願いの儀が御座います」

「なんだ。そのように畏まらずとも、遠慮せず申してみよ」

「はい。有難う御座います。では、遠慮なく、単刀直入に申し上げます」

「うん。申せ」

「明日、無事お役目を果たしてまいりましたならば、祝言を挙げたいと存じます」

「祝言!?」

 二人は余りに唐突な息子の言葉に驚いた。

「そのようなおなごがそなたにはあったのか」

 まったく寝耳に水の父の表情だった。

「隠し立てする積りはありませんでしたが、ひょんな事で知り、時を重ねる内に情が厚くなりまして御座います」

「いや、驚いた。息子ながら堅物とばかり思っておった。だが、目出度い。目出度いぞ。それで、どちらのご息女か」

「それが、未だ知りません」

 満定は申し訳なさそうに首を捻った。

「なに。素性も知らぬ女を嫁にと申すか」

「いえ。おそらくは裕福な商家の娘と心得ますが、まだはっきりと確認していないだけで、すぐにわかるものと存じます」

「お前にしては片手落ちな事よのう」

「あなた」

 横から母が父に釘を刺した。父は頷き言った。

「ま、お前が見初めたおなごであるなら、間違いはなかろう。その願い、しかと承知した」

「有難う御座います。さすれば、これよりその女の許へまいり、承諾を得てまいります」

「なに。まだ先方の返事も聞いておらんのか。はは。ははははは。呆れたものだ」

 父も母も泣き笑いした。

 満定は美緒の許へ急いだ。今更急いだところでどうなるものでもなかったが、気持ちが急いた。

 屋敷はいつものように静かな佇まいを見せていた。ただ、満定が足繁く通った日々はいつも開いていた門が、今は閉じられていた。その門を数度叩くと漸く中から声がした。

「俺だ。権藤満定だ。美緒はどうだ。元気でいるか」

「あ、み、満定様」

 中から慌てたような声が聞こえたかと思うと、閂の外される音がしてすぐに門が開いた。顔を出したのは五助だった。

「ど、どうぞ、お入り下さいまし。お嬢様がずっとお待ちで御座いました」

「美緒は如何した。身体は大丈夫か。臥せってはおらぬか」

「はい。ここのところは臥せりがちでは御座いますが、幸いご心配頂く程の重病では御座いません」

「そうか。それは一先ず安心した。早く美緒に会いたい」

「はい。畏まって御座います。すぐに奥へお伝え申し上げます。はつ様、はつ様―っ」

 五助は奥へ声を掛けながら忙しく入って行った。その五助と入れ替わるようにはつ女が姿を見せた。

「満定様……」

 そう言ったきり涙で声が詰まった。

「美緒は元気か。少し臥せりがちだと五助が言っておったが」

「少しお気持ちがお弱くなっておいでですが、大丈夫です。満定様のお顔をご覧になれば、すぐにでも元気になられます」

「そうか。よかった」

 はつ女の言葉にほっとする余り全身の力が一気に抜けてしまった。満定はその場にしゃがみ込んだ。

「満定様。大丈夫でいらっしゃいますか」

 はつ女が驚いた。

「心配には及ばん。はつ殿の顔を見て、安心したのだ。この十日というもの、美緒の事ばかりが気になっておった」

「なんと有難いお言葉。早くそのお声をお嬢様にお聞かせ下さいませ。さ、こちらへどうぞ」

 はつ女は満定をいつもの部屋へ案内した。

「この部屋でよいのか。美緒は臥せておるのなら、俺が出向くぞ。それともまた、夢の中で会うのか」

「いいえ。間もなくお出ましになります」

 はつ女はにこりと笑った。

「大丈夫か。無理せずともよいのだが」

 満定の心配を他所にはつ女は微笑むばかりだった。そして、暫くすると衣擦れの音が襖の向こうから微かに聞こえた。その音が止まり、襖が静かに開いた。女が一人三つ指突いて首を垂れている。美緒だった。ゆっくりと面を上げ、そして、にこりと笑った。愛らしい美緒の笑顔だった。

「美緒」

 満定は人目も構わず美緒に歩み寄り抱き締めた。

「会いたかった。ずっとそなたの事ばかり気に掛かっておった」

「美緒も、美緒もお会いしとう御座いました。こうして再び満定様の胸に抱かれ、嬉しゅう御座います」

 その声に十日前に聞いたような張りはなかったが、懐かしい声音だった。

「心配しておったのだ。俺がそなたの許へ通えなくなって十日もの間、そなたは死んでしまうのではないかと、俺はそればかり……」

 満定の頬を涙が伝った。

「心細う御座いました。されど、満定様のお噂がこの山里にも聞こえ、ご無事でいらっしゃる事がわかりましてからは、美緒も気持ちをしっかり持つよう心掛けました」

「俺の噂?」

 満定は抱き締めていた手を解き、美緒を見つめ返した。

「はい。お城の天守閣にお登りになって、刑部姫にお会いになったと。そこで妖魔たちと刃を交えられ討ち伏せ、その時に傷を負われたが命に別状はないのだと。戦利品として刑部姫から夜叉の面をお受け取りになり、お戻りになったと」

「そんな話がここまで広がっておるのか」

「はい。それから、お殿様が御自ら天守閣にお登りになって、刑部姫とご対面遊ばし今後のお国の行方をご相談されるのだと。そして、もしもの備えに再び満定様もご同行されるのだとか」

 無邪気に話す美緒の顔を満定は少し険しい表情で見ていた。この噂話はいったい誰が流したものだろう。体よく内容が詐称されている。おそらくは河合の手によるもので、しかし、改革反対派の創作も混じって、それがこんな田舎に流布されるまでに聞く側の都合で作り変えられ、面白げな物語風になっているようだった。そんな物語にありがちな英雄に、満定は仕立て上げられていた。

「話は他にはないか」

「いいえ。私の耳に届いておりますのは、それくらいかと」

 満定は少しほっとした。自ら告白していないのだから、噂に上がる筈もないのだが、兎に角このような話には尾ひれが付き易い。それがどう回りまわって真実に近い話になるやもしれない。刑部姫との情交は満定痛恨の極みであった。

 やはりあの後の夢見は俺の懺悔する思いが自らを戒めんと見せた美緒の幻であったか。美緒には隠し事が出来てしまった。許せ、美緒。

 満定は夢の中で見せた美緒の悲しげな顔を懸命に振り払った。

「如何されました?」

 無意識に表情に出たのか、美緒が満定を怪訝な目で見ていた。

「いや、何でもない」

 満定は慌てて表情を切り替えた。

「満定様はまた明日お殿様をお守りする為に刑部姫の処へお越しになるので御座いましょう?」

「心配か」

「いいえ。満定様の腕前はもう妖魔たちも存知おろう程に二度と手出しはして来ないでしょう。ご無事のお戻りを美緒は信じております」

 円らな瞳がきらきら輝いて見えた。その輝きを満定は消せないと思った。

「今宵はお泊りには……」

 美緒は少し甘えた声で聞いた。満定の答えがわかっているだけに、ねだる想いが声音に出たようだった。

「今日はこの後また登城せねばならん。明日の支度があるのでな」

「そうですか」

 ねだった甲斐もなく残念が顔に出た。

「それよりそなたに話があって来たのだ」

「なんで御座いましょう」

 これから切り出す話の内容を美緒はまったく予期していない様子だった。

 この女は端から俺の妻になる事は諦めているのかもしれない。

 そう思うと、満定の心に一層の愛しさが湧いた。この女の幸せは俺の幸せでもある。そう心から素直に思えた。

「明日、無事お役目を果たせたら、そなたと祝言を挙げたいと思っておる」

「……」

 美緒の表情が変わった。だが、それは満定の発した言葉の意味を呑み込めず、ただ何を言われたのか訳わからず戸惑った顔であった。

「美緒。よいな」

「え? え? 満定様、今何とおっしゃったので御座いますか?」

 美緒の高鳴る鼓動が満定にも聞こえて来るようだった。

「そなたを妻に娶りたい」

「え?」

 そう言ったっきり押し黙り、やがて大粒の涙が零れ落ちた。

「嫌か」

 満定の問い掛けに美緒は激しくかぶりを振った。

「意地が、意地が悪う御座います」

 崩れるように美緒は満定に抱きついた。

「嫌かなどと。嫌な筈がありません」

 嬉し涙に肩を震わせた。満定は美緒の細い背中に手を回しそっと包んだ。

「でも、ご両親がお許しには。身分が違います」

「案ずるな。先ほど了解を得た。身分など関係ない。そなたは身一つで俺の許へくればよい。そうだ。そなたの両親へ挨拶をせねばならん。いつがよいかのう」

「はい……はい……」

「どうした。浮かぬ声ではないか」

「このような幸せ、信じられませぬ。何か急に明日のお役目が不安に思えてまいりました。胸騒ぎが致します」

「何を言うておる。そなたが太鼓判を押したのだぞ」

「はい。どうぞご無事でお戻り下さい。火中の栗を拾うような真似はなさいませぬよう。忠義と思われても、恥と思われても、美緒が待っているとご自身に言い聞かせて、一時の感情を飲み込んで下さい」

「何を申しておる。確かに、そなたの顔を見るまでは、或いは今生の別れやもしれぬ覚悟でここまで来たが、そなたの確信に満ちた言葉を聞いて、勇気付けられたはむしろ俺の方だ。励ましてくれたそなたがそのような弱気では困る。安心せよ。俺はきっとここへそなたを迎えに戻って来る。心して待っているがよい」

「はい。そのお言葉を支えに、美緒はお待ち申し上げております。必ずですよ。必ず戻って来て下さいね」

「わかった。もう余り時間がない。行かねばならん」

 満定はもう一度美緒をしっかり抱き締め口づけした。

 今日は美緒も見送りに出て来た。先ほどまでとは違い、侍女に身体を預け幾らか疲れた顔をしていた。満定の前では気丈に振舞ってはいたが、やはり本来の彼女ではなかった。その頼り無さ気な姿を見て、満定は自分が守るべき女なのだという思いをいよいよ強くした。

 一旦自宅に戻り裃に着替えた。父母たちの見送りを受け門を出たところで、師匠佐門に出会った。

「戻っていると聞いたので、顔を見に来た。登城途中であるなら、道すがら話をしよう」

 そう言って師匠は満定と同行した。

「お前、家老の河合隼之介という男を知っておるか」

 暫くの沈黙を置いて師匠は珍しく政治向きの話を切り出した。

「はい。先だってより懇意にさせて頂いております」

「やはりな。あやつが黒幕であったか」

 師匠の言い方からして、よく思わぬ人物として評価されているようだった。満定は恩ある師匠とは言え迂闊な事は口に出来ぬと思った。

「此度の刑部姫騒動もあやつが企んだ事であろう」

「それは存じませぬ。私は殿に命じられたまで」

「ふふん。白を切るな。お前大分河合に洗脳されておるな。あやつは奸賊じゃ。お家財政立て直しの大義名分を楯に武士の精神を蔑ろにしておる。許せん。断じて許せん」

 佐門は一人憤慨した。政治向きにはまったく関心のなかった師匠がこれ程に感情を露にするのは珍しかった。洗脳されているのは師匠の方ではないか。満定は密かにそう思った。

「明日は殿と共に刑部姫に面会するそうではないか。今後の国の行く末を伺うと聞いた。お前は聞いたままの事を話せよ。お前の言う事なら万人が信用する。お前にはそれだけの人望がある。決して河合の意のままにされるではないぞ。俺は信じておる。お前は嘘の吐けぬ男だ」

 そう言って佐門は満定に別れを告げた。大手門が見えていた。夕陽を半身に受けながら満定は門を潜った。

 満定が、背中に傷を負って倒れて以来宛がわれている部屋に戻ると、河合が待っていた。

「早く戻ってまいったな。もっとゆっくりして来ればよかったのだぞ」

「長居をすれば気持ちが萎えそうで御座いました」

「そこもとの決意見上げたものだが、何もそう死に急ぐ事はあるまい」

 河合は自宅に戻る前と今とを比べて、満定の表情に幾分の明るさが射している事に気付いた。やはり孤独に物事に執着するよりは、親しい人間に会い言葉を交わせば、生への希望も取り戻す筈だった。短い時間とは言え、一旦自宅に帰した事は正しかった。河合は一人頷いた。

「決して死のうとしている訳では御座いません。それ程の覚悟なくば、殿の護衛など出来ぬと思う次第です」

 こやつ言う事も違って来た。何か将来に託す物が出来たな。女か。

 河合は満定の若さが羨ましかった。逸る血気も若さなら、切り替えの柔軟さも若さ故の事なのだ。

「ところで、河合様。世間では、明日の祭礼に面白い枝葉が付いて噂されておりまする」

「ほう。如何なる枝葉かな」

 しらばっくれるかと満定は内心思った。この噂は間違いなく河合が意図的に流した筈だった。その噂とは

「世間では、殿が刑部姫に面会し、国の将来に関わる神占を賜ると専らの噂で御座います」

「神占はこれまでも受けて来たもの。何をとやかく申しておるのかのう」

 満定は河合に初めて政治家としての顔を見た気がした。いわゆる狸顔だ。

「これまでの形ばかりの神占とは違いまして、此度は刑部姫の存在を皆が信じております」

「確かに。それはそこもとの貢献するところ大であるな」

 そら来た。いよいよ狸の尻尾が見え隠れして来た。

「さすれば、明日の祭礼で披露される神占は何よりも重く神聖で、皆を服従せしめるにはこれ程都合のよい」

「権藤殿」

 河合は満定の言葉を遮った。

「そこもと、このみどもがその神占を利用せんが為に流した噂と言いたいのだな。確かに流した。だが、私利私欲の為ではないぞ。お家立て直しの為、嘘も方便じゃ」

「無論、河合様にそのような邪念があるとは思うておりません。ただ申し上げたいのは、刑部姫は神占など行わないという事で御座います」

「ふむ」

 河合は渋い顔をして見せた。

「行わぬか」

「はい」

 満定はゆっくり頷いた。

「先日も申し上げましたように、此度の刑部姫の申し入れは、非業の死を遂げた畜生共の弔いに御座います。殿もそれを承知で頭を下げると仰せになられました。誠に有難い仰せに御座います」

 満定は忠道の姿を思い描き頭を下げた。

「従いまして、或いは、刑部姫はその姿さえ見せるとは限りませぬ。まして国の将来を占うなど、そのような約定は交わしておりません」

「権藤殿」

「はい」

「そこもとに一つだけ問い掛けたい事があるが、よいか」

「何なりと」

「そこもと、一度だけ嘘を吐かぬか」

「嘘。畏れながら、そればかりはお受け出来ませぬ」

「やはりそうか」

 河合は困った顔をした。

「嘘を吐けば、この権藤満定。最早武士は愚か、人間でもありませぬ」

「そこまで言うか。そこもとらしいのう」

「はい。正直だけが拙者の取り得で御座います故」

「いやいや、そればかりではあるまい。そこもとには剣もあれば、長年の鍛錬に培われた精神とそれに伴う何よりの人望がある。若者にしては見上げた人物と、この河合隼之介、日頃より感服しておる」

 河合は深く頭を下げた。

「勿体無い事で御座います。天下のご家老がそのように低頭されては、拙者の居場所が御座いません」

「そう思うてくれるか」

「え?」

「私を幾らかでも敬ってくれるか」

「敬服致しております。河合様の政策は見事にお家を持ち直させております」

「だが、未だ道半ばなのだ。今一度の後押しが必要なのだ。のう、権藤殿」

「はあ……」

 じっと河合に見つめられて満定は窮した。見事なまでに河合の術中に陥ったと言ってよかった。

「先ほども申したように、嘘も方便という言葉もある。そこもとの嘘で皆が幸せになる。だとすれば、決して悪い事ではなかろう。杓子定規に言葉面だけに囚われず、それによりもたらされる利益を想像してくれぬか」

 河合の熱弁を聞きながら、一方で満定の脳裏に師匠佐門の顔が過ぎっていた。佐門はこの事を見越していたのか。どうやら両者の綱引きに満定は巻き込まれてしまった。

 どの言葉を信じればいいのか。何に自分の判断を委ねればいいのか。満定は答えに詰まった。

「よく今晩思案されよ。念の為申して置くが、これはみども一人の頼みではない。殿も同じご意見なのだ。よいな。では、期待しておるぞ」

 己が生き方、信念を取るか。目を閉じて忠義に務めお家の大事を救うか。一方は人としてあるべき、もう一方は家臣としてあるべきかを問われている。嘘を一度も吐いた事がないとはそれこそ方便。しかしながら、今度の嘘は姫路酒井家に関わるすべての者に影響を及ぼす。それは是か非か。改革の遂行、お家再建がすべてに優先するのか。その為なら、皆を欺いてもいいのか。だが、酒井家が破綻すれば、皆が路頭に迷う。無論、我が権藤家も同じだ。皆を欺いたとて、皆の生活を守る事が先決ではないか。しかし、この改革実行の先に真の幸福が待っているのだろうか。……わからん。俺などにわかる筈がない。

 堂々巡りの思案を繰り返し、満定は結局一睡も出来ず夜を明かした。

 朝。姫路酒井家当主忠道は権藤満定を始めとした護衛三名と神事を司る神官・巫女二名を従え大天守最上階へと登った。二階三階と登る内は良かったが、四階に着いた頃異変が起きた。巫女の一人が気を失ったのだ。倒れた巫女は霊感鋭く、天守閣を登り出した初めより身体の悪寒を訴えていた。いよいよ刑部姫の棲み処へ近付くに連れ耐え切れず悶絶したのだろう。神事に差し障りがあったが、急場の事とて巫女は一人そこに残し先へ進んだ。へたに下へ下がり人手を補えば、他の神官や巫女が怖気づく事は必定だった。無理を押しても、不安がる彼らを進むよう促した。この差配を見ただけでも、忠道の腹は据わっているとわかった。微塵の迷いもなく先へ進もうとする彼の眼は涼やかだった。満定は頼もしげに若き当主を眺めた。

 五階までは先だって満定が窓を開けておいたお陰で朝の陽射しが差し込んでいた。しかし、それとは対照的に付き添う神官と巫女の表情は蒼ざめていた。神官が呟いた。

「もう我らは取り囲まれております。襲って来る様子こそありませんが、遠巻きに彼らはじっとこちらを見据えております」

「魑魅魍魎共か」

「然様に御座います」

「如何なる顔をしておる」

 平然を装っているが、流石に忠道の顔にも緊張の色が見えた。

「それはもう恐ろしゅう。様々な怨念が渦巻いた顔かたちに御座います」

「そうか。見えぬ俺が幸せか」

「御意」

 一行の足取りは五階に至って急に重くなった。まるで幾重もの目に見えない幕を一枚一枚突き破って行くようだった。そして、ついに最上階へ繋がる階段へと着いた。一行は足を止め、その階段の上を見上げた。その先には闇が広がっていた。ただの闇ではなく、闇そのものが一個の生き物の如く来る者を呑み込むような不気味さがあった。

 一同がそれぞれに目を合わせた。誰が先に行く。その牽制だった。

「拙者が行きましょう」

 やはりこの場では唯一経験のある満定が先頭を切るしかなかった。火打石を打って燭台の蝋燭に火を灯した。護衛三名がそれぞれに燭台を翳し、先頭を満定、次に護衛、それから忠道、護衛、神官、巫女、そして最後を護衛の三人目が勤めた。

 化け物たちが襲って来ない理由を満定は知っていた。彼らは彼らなりに期待を寄せているのだ。これから行われる神事で無事彼らが供養されれば、畜生道から開放される。上手く行けば天上界への昇天も遠い将来適うかもしれない。刑部姫の言葉を信じ、彼らは固唾を呑んで我らを見守っているのだ。だが、上手く行かなかった時、供養が結実しなかった時、彼らの怒り、怨念は倍増するだろう。その時こそは命に代えて殿をお守りしなければならない。満定は自分の身体が万全でない事に幾ばくかの不安を感じた。そして、もう一つ彼を悩ませる種があった。神占が降るのかという問題だった。無論、刑部姫との約束にその件はない。刑部姫自身がこの人数を前にして姿を現す保証もなかった。元より姿を見せなければ神占など有り得ない。見せたとしても、彼女が神占を降さねばならない道理もない。そもそも神占とは、人間の勝手な言い分で作られた政治道具の色合いが強い。刑部姫自身に神占という言葉さえ通じるのか、疑問であった。人間は勝手に「神は人間を守るもの」と思い込んでいるが、いざ神からすれば人間は自然界の一因に過ぎない。もっと言えば、神が創り賜う自然界を我が物顔で蹂躙し続けている悪者かもしれない。その奢った人間に対し果たして神占という意識が神にはあるのか。満定は思考すればする程、神占の可能性は低いと思えて来た。ならば、やはり次に考えるは、ないものをあるとするのか、それとも有りのままを皆に伝えるのか、だった。昨夜一晩考え抜いて見出せなかった結論を、この短い間に出さねばならない。どうするか。満定の顔が曇った。

 一行は無事最上階へ登り詰めた。先日のようにこの階の格子窓だけはどうしても開かなかった。仕方なく、柱にある燭台に持参した蝋燭を立て、手持ちの火で次々と灯した。

 前は気付かなかったが、部屋の一画に社があった。刑部明神である。

 神官と巫女は手を震わせながらも神事の支度をした。護衛三名は忠道を囲み警戒した。常人に化け物たちの姿は見えなかった。それは彼らがじっとこちらの様子を伺っているからだろう。むしろ彼らの姿が見えた時は、おそらく彼らの怒りや恨みが現れた時で、最も危険な時であると言えた。

 支度が整い、巫女が笙を鳴らした。本来ならもう一人の巫女が笛を吹く筈だったが倒れたので、護衛の一人が身に覚えありと代わりに吹いた。その音の響く中、神官が社の前に立ち二礼二拍手の後祝詞を唱え始めた。忠道初め満定ともう一人の護衛も流石にこの時ばかりは着座して静かに首を垂れた。神事は粛々と進められた。

 一頻り祝詞も終わり笙と笛の音も止んだ。すると、やおら忠道が前に進み神官と入れ替わって社の前に立った。そして、懐から何か取り出すと台座の上に置いた。夜叉の面だった。満定が刑部姫から預かったあの夜叉の面であった。忠道は一連の儀礼を行いもう一度恭しく頭を下げると、再び懐から手紙を取り出し祝詞のように読み始めた。満定が耳を傾けよく確めると、どうやら酷い仕打ちをした人間に代わり懺悔と謝罪、そして、慰霊の念を込めて石碑の建立を約束するという内容だった。

 忠道が誓文を読み終え最後に深々と一礼すると、其処ここから咽び泣く声が聞こえて来た。満定たち護衛は警戒し身構えた。

「今の誓い、偽りではあるまいな」

 声が響いた。しかし、どこを見ても、その主は見当たらなかった。

「面だ。あの面から聞こえた」

 神官が台座に載せられた夜叉の面を指差した。すると面は独りでに起き上がり、こちらを見つめた。

「今一度問う。今の誓い、誠であろうな」

 確かに面が話し掛けていた。

「偽りではない。既に石工師に依頼は掛けてある」

 忠道の答えを聞くと、面は緩やかに宙を浮き上がり、やがて止まった。そして、その面から湧き出るように黒髪が伸び、それを起点に煌びやかな衣装が現れた。刑部姫だ。

「こなたは刑部姫におわすか」

 忠道が訊ねた。

「いかにも、わらわは刑部である」

 夜叉面を被ったまま取ることはなかった。忠道や護衛に対する威嚇の積りか。

 刑部姫の登場に合わせるように魑魅魍魎たちが次々と姿を現した。その群がる異様さに皆息を呑んだ。神官は無様に床にひれ伏しガタガタと震えた。巫女は奇声を発して気絶した。忠道も彼を護衛する三人も流石に震えこそしなかったが、射竦められたように動けなかった。満定一人が刑部姫に歩み寄った。

「我らを必要以上に脅かす事はありません」

 満定が手を伸ばしても、刑部姫に抵抗する様子はなく、満定の手は難なく姫の顔から夜叉面を外し取った。

「おお」

 一様の声が上がった。刑部姫の美しさに驚いたのだ。

「なんと美しい。この世のものとは思えん。無論、神でおわすが」

 忠道は感嘆した。

「刑部姫よ。刑部明神よ。それなる権藤満定との約定、しかとこの酒井忠道が果たした。もはや潔く呪いを解き放ち賜え。満定をそなたの魔手から解放されよ」

 忠道の言明に刑部姫は大きく頷いた。

「皆の者よ。よいかあーっ!」

「おおー」

 刑部姫の呼びかけに化け物たちは一同に応えた。

「ならば満定よ。そなたの責はもう問わん。これよりそなたは自由の身じゃ」

 刑部姫の微笑みに満定は一礼を以って返した。

「時に刑部姫よ。いや、刑部明神にお訊ね申し上げる」

 満定は咄嗟に思い付いた奇策を投げかけた。

「いにしえより我々人間は祭礼と称し祀り上げたる社に詣でその年の神占を奉じておりました。されど、これは人間のまったく勝手。誠に神の御言葉を頂いた事などありません。叶うことなら、今ここで神の御言葉を頂戴出来ませぬでしょうか」

 満定の横で忠道が何度も頷いた。

「神占とな」

 刑部姫は目を細め両手を広げ遠くを望む姿勢を取った。

 と、その直後だった。護衛の一人が剣を抜き刑部姫の胸に飛び込んだ。一瞬の出来事だった。誰も制止する余地などなかった。刺し出した剣は見事姫の身体を突き通した。

「ひ、姫様―っ!」

 化け物たちが悲鳴を上げた。飛び込んだ男はその姿勢のまま動かず、興奮して叫んだ。

「妖魔の神占などに惑わされてたまるか。どうせこれも河合の仕組んだまやかしであろう。これよりその化けの皮剥いでくれるわっ!」

 こいつ反対派の一味か。満定は抜刀してその男を斬り伏せようと近付いた。だが、その前に刑部姫の凄まじい形相が立ちはだかった。満定はその身の毛も凍る恐ろしさに一歩も動けなかった。

「そなた、何をしておる」

 聞かれて男は姫を見上げ、たちまち顔面蒼白となった。総毛立ち、歯の根が合わぬ程震えた。姫の顔は夜叉の如く、いや、それ以上に口は裂け、目は爛々と輝き、返り血を浴びたように顔面真っ赤に染まっていた。

 姫は己が胸に刺さった剣を抜き取った。

「愚かな人間よ。この剣でわらわを屠れるとでも思ったか。わらわは神ぞ。身の程知らずめ。そなたの剣、返してやろうぞ」

「ぐえ」

 姫が突き出した剣は男の胸を突き通した。

「皆の者。好きにするがよい」

 姫は男を突き刺したまま持ち上げ、化け物たちの中へ放り込んだ。男に群がる化け物。すぐに男の絶叫と共に、肉が引き裂かれ、骨が砕ける惨たらしい音がした。しかし、血の匂いが漂い始めると静かになり、群がっていた化け物たちも散らばった。

「満定。そなた、わらわを裏切ったな」

 刑部姫は満定に迫った。その目からは血のように赤い涙が流れ落ちていた。

「違う。あいつは間者だったのだ。殿や俺達を欺いていたのだ」

「偽りを申すな」

「誠だ。誠なのだ。殿が先ほど仰せられた事も、そなたたちに誓われた事も、すべて真実だ!」

「そうだ。俺は嘘は吐かぬ。皆に誓う。供養されねば、皆成仏出来ぬのであろう。俺達を殺せば、もう誰も供養などしてはくれぬぞ」

「もうよい。お前達のような人間に供養されたところで、我らは成仏など出来ぬわっ。」

 化け物共は満定たちに迫った。このままでは、殺られる。満定は必死で活路を捜した。

 じりじりと追い詰められた。極限の恐怖が覆い被さっていた。それに耐えかねたか、神官が立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。目は既に常人の物ではなかった。彼は自らを供するように化け物の群れへ入って行った。ところが、不思議なもので、化け物も狂人は苦手と見えて皆彼を見送った。神官の行く手を広げるように化け物共は道を開けた。すると、その先に階段が見えた。満定は素早く忠道の手を取り階段へ走った。化け物が次々と襲い掛かったが、間一髪早く掻い潜り、先を行く神官を突き飛ばして入れ替わり、脱兎の如く忠道もろ共階段を転げ落ちた。奇跡的に神官も二人を追うように転げ落ちて来た。狂人を気味悪がった化け物が思わず突き落としたのか。しかし、満定を追った残り二人の護衛は無残にも化け物の餌食となった。その悲鳴を背中に聞きながら、満定は必死で忠道を担ぎ上げさらに下の階へ急いだ。だが、その先には既に刑部姫が立ち塞がっていた。

「そなたたちを逃がす訳にはまいらん」

 姫は両手を広げた。後方を窺えば、徐々に化け物が迫りつつあった。

「俺達は裏切ってはいない。誠を以ってそなたたちを供養せんとしているだけだ」

「聞く耳持たぬ」

「うぬ。こうなっては死中に活路を見出すのみ。殿。満定にお命預け下されっ」

「おう。預けた」

 忠道はにやりと笑った。この期に至ってなんと豪胆且つ潔いお方か。満定の決意は固まった。

「行きますぞ!」

 忠道の肩を抱き包むように満定が壁となって二人一つとなり刑部姫に突進した。流石の姫もその圧力に気圧され怯んだ。その向こうに階段が見えた。満定はすぐさま忠道を階段に押しやり、自分は楯となった。転げるように忠道は下へ降りた。その様子を満定は誇らしげに見送った。四階に着いて、忠道は満定が一緒でない事に気付いた。忠道は振り向き叫んだ。

「満定! 早まるな! 下りてまいれっ! 満定。満定―っ!」

 だが、満定は忠道の叫びに背を向けた。対峙するは刑部姫。

 満定一人を前にして、姫の顔からは恐ろしい夜叉が消え、哀しみに満ちた女の表情であった。

「そなたを殺したくはない。なれど、皆がそれを許さん。何故逃げぬ」

「逃げ切れぬ。この有様だ」

 満定の腹部から夥しい血が流れていた。逃げる中で深手を負っていた。

 刑部姫は両手を広げた。

「満定。わらわの胸に抱きつけ」

「え?」

「あの者たちが来る。早く抱きつくのじゃ」

 満定は姫の胸に倒れ込むように抱きついた。それを姫は袖で覆い隠した。

「許せ、満定。そなたをあの者たちから守るにはこうするより他にない。許せ」

 姫は顔を上げ涙を呑んだ。

 満定たちを追いかけ、化け物が次々と押し寄せた。

「姫様。今何かお隠しにはなりませんだったか」

 目敏く見つけた者が訊いて来た。

「何も隠してはおらん」

「解せぬなあ。確かに見たような」

 そいつは盛んに首を傾げた。

「姫様。早く残った二人を追いかけましょうぞ。腹がぐうぐう鳴って適わん」

 別の者が追いかけんと勇んだ。

「もう散々食ろうたではないか。まだ足りぬか」

「あんなもの、皆で分ければ幾らもありませぬ」

「だが、これより先にはもう進めぬぞ」

「何故で御座いますか」

「これを見よ」

 刑部姫は覆っていた袖を解き後ろへ下がった。姫がいた場所には人間程の大きな石が残った。

「これは何で御座いますか」

 化け物の一人が触れようと手を伸ばした。

「触れるでない! 触れればたちまち冥界へ落ちるぞ!」

「ひえっ」

 その化け物は後ろへ跳び下がった。

「姫様。これはいったい何で御座いますか。よく見ると、人間のようでも御座いますが」

「これは満定じゃ。満定が石になったのじゃ」

「石。人間が石になったので御座いますか」

「忠節の頑強な心が自らを石と化して、主君を守らんとしたのじゃ。その凄まじき業は近付く者を容赦なく冥界へ追放せんとする。それをわらわが今程、念を以って弱めた。されど、満定残余の念強く、触れた者はたちまち冥界行きじゃ。退がれ。退がれ!」

 刑部姫の号令と共に化け物たちは恐る恐る退がり、一人二人と消えて行った。

「満定。そなたは見事な男であった。天晴れじゃ」

 刑部姫は微笑むと袖を翻し消え去った。


 天の帝より使命を受けた水の精ギンサ、そして、そのギンサを気遣い友連れとなった風の精コダマの二人は、長州萩の妖魔ニンガを倒し、次なる妖魔求めてここ姫路まで来ていた。天上界より下界に下る際にギンサは人となっている。途中行き倒れのところを助けた宗介を連れての二人、いや、コダマを加えて三人旅である。


「おお、見事な城だ。なんと美しい」

「そうだな。唐津の城も立派だが、この城の壮大な姿には適わんな」

「天下に姫路ありと言われる名城だ。他に肩を並べるとしたら、江戸城くらいだろう」

 ギンサもコダマもつい足を止め見惚れた。

「次なる妖魔はこの姫路か。何と言う名だ」

 ギンサは絵地図を広げた。

「オサカベとある」

「オサカベ。何者だ」

「わからん。コダマ。またすまんが」

「わかってるよ。この辺りの風の者に聞いて来よう」

 そう言ってコダマは飛び立った。

「おーい。池上殿」

 遠くから呼ぶ声がした。宗助である。飛龍丸の手綱を引き、いや、どちらかと言えば、飛龍丸にいいように曳きずられながらこちらへ近付いて来る。そして、漸くギンサの処へ追い着き肩で息をした。

「この馬どうにかなりませんか。言う事は聞かんし、馬の癖に足は遅いしで」

 宗助の苦情に飛龍丸が嘶いた。

「あほ抜かせ。こいつの誘導が下手過ぎんねん」

 飛龍丸の言葉はギンサにしか聞こえなかった。だから、飛龍丸に悪態を吐かれても、宗助は一向に気付かない。知らぬ宗助は飛龍丸の悪口を続け、それが一層飛龍丸の怒りを買った。とうとう飛龍丸は手綱を宗助の手から振り払い、走り出した。宗助に足が遅いと馬鹿にされたが、やはり馬、それも天上界の馬である。本気を出せば、人間の足など比べ物にならなかった。

「いかん、止めろ! 暴れ馬は重罪だ。我らの首が跳ぶ!」

 宗助は血相を変えて追いかけた。ギンサもその後を追った。

 しかし、馬の足に適う筈もなかった。あっと言う間に見失い、宗助たちの息は上がり、追い続けようにも身体が言う事を聞かなかった。それでも、重たい足を引き摺り、やがて姫路の城下に入った。

 ところが、心配に反して、城下の様子はいたって落ち着いていた。馬が乗り手もなく一頭だけ駆け込んで来れば、当然城下は騒動となっている筈である。だが、誰も何事もなかったように歩いている。飛龍丸はここへ来なかったのだろうか。しかし、城下へは川沿いの一本道。脇へ逸れたとしたら、川へ落ちたか。

 盛んに不思議がる宗助を横目にギンサは涼しい顔をしていた。きっと空へ駆け上がったのだろう。天上界まで行ったとは思わないが、憂さ晴らしにその辺を駆け回っているのだろう。気持ちが収まればその内戻って来る。天の帝のご命令で共をしているのだ。このままいなくなるとは思えなかった。

「池上殿。池上殿は全然心配そうではありませんなあ。大事な馬がいなくなったのでござるよ。もうちょっとは深刻そうな顔が出来ませんか」

「いえいえ、心配しております。顔に出ないだけです」

 そう言いながら、益々にやけた。宗助の困り顔が可笑しかったのだ。宗助は飛龍丸に馬鹿にされた事は知らない。ただただ、手綱を任された自分が易々と馬を逃がしてしまった事に責任を感じているのだ。無論、暴れ馬を城下に走らせた失態もあったが、それは城下に来て現に馬が暴れた痕跡のない事にまずはひと安心の顔であった。

 城下を具に歩き回ったが、飛龍丸の手掛かりはなかった。ひょっとしたら上空から俺達の様子を眺めているかもしれない。感情に任せ空に上がったが、冷めてみるとばつが悪く、戻る頃合を計っているのかもしれない。ギンサは時折上空を見上げた。

「どうも不思議だ。これ程捜してもおらんとなれば、やはり川に落ちましたか」

 宗助はふたたび深刻な顔になった。ギンサはそんな筈はないと思った。天上界の馬が川で溺れる訳がない。

 と、そこへ声を掛けて来る者がいた。

「貴殿らは先ほどから何をお捜しですか。もしかして、馬をお捜しではあらしまへんか」

 人の良さそうな侍がにこやかな顔を向けていた。

「い、いかにも馬を捜しております。いずこにおりますか」

 宗助が急き込んだ。

「いやあ、よかった。先ほどからお見受けしておりましたら、馬がとか、手綱がとか言っておいでやったんで、ひょっとしたらと思いましてね」

「それで、どこに。どこにいるのでしょう」

 畳み掛ける宗助の肩をギンサは軽く叩き宥めた。

 飛龍丸は好古堂の敷地内にいた。好古堂とは姫路酒井家の藩校である。その好古堂へギンサたちを案内してくれた人物は権藤満安と言って、この好古堂で学ぶ若侍であった。

「私が帰宅しようと門を出たところ、いきなりこの馬が入って来まして」

「一人で入って来たのですか」

 宗助は嬉しそうに飛龍丸の手綱を取った。飛龍丸は少し抵抗しかけたが、諦めたのかすぐに大人しくなった。

「一人と言いますか、一頭で入って来た訳で、そりゃもう驚きました。なんせ乗り手のいない馬を見るのは初めてでして、実際私自身馬を扱った事などありまへんので、どうしたものかと思っておりましたら、意外に行儀良くて手綱を引いても暴れる気配がありません。そこで、その木に繋いで、それから、近くに持ち主はおられんかと捜しておった訳です」

「それは申し訳ない事でござった」

 宗助は軽く会釈した。

「それにしても、立派な馬で御座いますなあ」

 褒められて、飛龍丸は嘶いた。

「ほれ、みてみい、わかるもんにはちゃんとわかるんや」

「私には馬の良し悪しはわかりまへんが、その背に乗った鞍の誂えを見れば、さぞかし名のある馬なので御座いましょう」

「なんや、鞍かいな」

 ふて腐れた飛龍丸の首をギンサは撫でた。

「我らは仇討ちの為に旅する者。この馬は主君より拝領された大切な馬でござった。権藤殿には篤く御礼申し上げる。誠に助かりました」

「おお。仇討ちですか。それは大変な旅で御座いますな」

 誰もがそうするように、満安も好奇な眼差しを向けた。仇討ちを捜して旅する者にそうお目にかかれるものではない。

「それにな。この池上殿は修行の為として、道中で妖魔退治もされるんじゃ」

 宗助が余計な事を言った。

「佐々木殿。それは」

 言う必要のない事と諌めたが、意外に満安が関心を示して来た。

「妖魔退治をされるのですか」

「……」

 ギンサは宗助に苦情の目を向けた。宗助は頭を掻きながら下げた。

「以前にはどんな妖魔を退治されましたか」

「え? いやあ……」

「狢を」

 ギンサが答えに困っていると、横から宗助が口出しした。

「佐々木殿」

「なにやら訳ありのようではござらぬか。馬を助けて下さった恩もある。話だけでも、ここは聞くべきだ」

 自分の失態を棚に挙げ、宗助は胸を張った。一方、ギンサも、オサカベの手掛かりがあるかもしれないと思った。

「過去に妖魔を斃したは、長門国萩で狢の化け物を退治しました」

「最初は化け猫という話だったのですが、追い詰めたら狢だった訳です」

 ギンサの説明を宗助が補足した。

「狢の化け物ですか」

 満安は難しい顔をした。

「そちらはどんな化け物にお困りか」

 まるで自分が引受人のように宗助が訊いた。

「それが、正体はどうも神のようなのです」

「神!?」

 ギンサも宗助も声を揃えた。

「ちょっとここでは話辛ろう御座います。本日はどちらにご逗留で御座いますか」

「いえ、まだ宿は決めておりません」

 そうギンサが答えると、満安は少し微笑んだ。

「ならば、当家にお泊り下さい。何もおもてなしは出来ませぬが、酒でも飲みながらじっくり事情をご説明したい」

「酒ですか。それはいい」

 酒好きの宗助はもう決めたとばかりに満安に賛同した。ギンサは仕様がないという顔で答えた。

「馬を助けて頂いた上に一晩お世話になるとは誠に申し訳ない次第。ですが事情がお有りのようですので、ここは厚かましゅうござるが、宜しくお世話になります。誠に忝い」

「どうぞご遠慮なく。父も喜ぶ事と存じます。大きな声では申せませぬが、お家の大事にも関わろうかという難題です」

「お家の大事。その妖魔、いや、神が酒井候に悪さでもしておりますか」

「しっ」

 満安は慌てて宗助に口止めした。

「詳しい事は当家で」

 ギンサたちは満安の屋敷に向かった。

 権藤家は代々勘定方として姫路酒井家に仕えて来た。先々代佐平治の時、その息子満定が技量を認められて当事の藩主忠道の側近に列せられた事もあったが、抜擢は後にも先にもその満定だけである。ただ、満定の一命を懸けた武功により権藤家の扶持は本来より倍増された石高となっていた。現当主の満元は、先の満定早世により急遽養子縁組となった満武の子で、満定との血の繋がりはない。

「お城の天守閣には満定石という石がありまして」

「満定石。先ほど話された先々代の、あの満定殿ですか」

 盃に酒を注がれながら、既に宗助はほろ酔い加減である。

「はい。実際には先々代佐平治の息子ですが。その満定が当事の主君忠道候を守らんと獅子奮迅して最期に石となったと伝えられております」

「その満定石は大天守の五階、四階に繋がる階段の入り口に妖魔共の侵入を立ち塞ぐようにあります」

 息子満安の言葉を補うように満元は言った。親子共々人の良さそうな好人物である。

「その満定殿は忠道候を見事妖魔から守ったばかりか、その後も被害が及ばぬよう石となって皆を守っておられるのでござるな。誠に天晴れなご仁じゃ」

 宗助は次第に呂律が回らなくなっていた。

「それで、その妖魔とはいったい如何なるものかご存知でしょうか」

 ギンサが聞いた。

「大天守の最上階にはいにしえより刑部明神というこの辺りの地神様が祀られております。おそらくはその化身という刑部姫の事ではないでしょうか」

「刑部姫。オサカベ……」

 ギンサは次なる相手が刑部姫である事を確信した。

「しかし、神が妖魔となって人を襲うとは、少々考え難いかと思いますが」

「そこは私共にもわかりかねます。ただ、刑部姫に操られた魑魅魍魎の類が忠道候を襲ったと聞いております」

「神が魑魅魍魎を操る……」

 それは違う。真の神。つまり、天上人ではない。おそらくは、天の帝が送られた妖魔であろう。妖魔がその地に根を張り神のように君臨する事は良くある事だ。

「満定が石となって魑魅魍魎共が下界へ飛び出すのを防いだものの、暫くするとまた不吉な出来事が起きるようになったようです」

「不吉な出来事?」

「はい。今度は魑魅魍魎が時折夢に現れては、忠道候縁の一族や河合様の家の者を苦しめるように。河合様というのは代々家老の要職に就く名家で御座います。先代の寸翁様は特にお家の財政を立て直した功労者で御座います。殿様の家系やご家老の家系が狙われているというのは、当家にとりましては忌忌しき事態かと。そうした悪夢を見る方々の中には恐ろしさの余り狂人となった者や自ら命を絶つ者が絶えないと聞いております」

 満元親子の表情を見ると、その被害は深刻なようだった。

「人の夢に入る……満定石も夢の中までは守れんという事ですか」

「残念ながら」

 満元親子は肩を落とした。折角の権藤家に誇れる武功がこのままでは薄らいでしまう。そんな思いもあるのかもしれなかった。

「私をその天守閣へ案内頂く事は可能ですか」

「貴殿を天守閣にですか」

 満元は腕組みして考え込んだ。

「父上。ご家老の河合様にお願いしては如何でしょうか。河合様は養子とは言いながら、寸翁様のご遺志を誰よりも継承されている方と聞き及んでおります。大叔父満定と寸翁様とは懇意の間柄で御座いましたのでしょう。きっと寸翁様から満定石の由来については聞いていらっしゃいます。それに何より、当の河合家は刑部姫の祟りを受けて幾人かが犠牲になっておる由。必ず相談に乗って下さいます」

「河合のご家老は今それどころではないのではないか」

「それどころではない?」

「なんせ屏山様は今流行りの攘夷派。それも当姫路家ではその中心人物じゃ。長州薩摩といった他藩では既に攘夷の旗頭を挙げておるというのに、この姫路は徳川譜代の筆頭。幕府第一という藩風に苛立ちを隠せず、事有る毎に藩主忠績様へ意見されておるそうじゃ」

「この姫路にそのような憂国の志ある者がおるとは思わなんら。拙者何を隠そう尊王の志士でごらる。せ、先だっても長州の高杉さんと会って来たばかりでごらる」

 酔い潰れて静かにしているかと思われた宗助が俄に元気付いた。話がややこしくならねば良いがとギンサは思った。

「その河合某殿に是非とも会いらい。藩の重役でありながら尊王の志がお有りとは、話せる。実に話せるお方であ、ある」

 そう言い残して宗助はまた大の字になって寝転がった。彼の鼾が鳴り響くまで幾らの時間も掛からなかった。どこまで本気なのか。正体不明な男であった。

 翌朝早く、まだ眠りこけていた宗助を叩き起こし、四人は河合屏山の屋敷へ出かけた。屏山が登城した後では面倒だった。その前を捉えて話をしようという計画だった。

 予想通り、屏山はまだ登城前だった。登城前で余り時間はないが、という前置きで屏山は四人に面会した。満定の一件以来権藤家にとって、家老とは言いながら河合家の敷居はそれ程高いものではないらしい。

 河合家への道すがら、宗助にはギンサが散々忠告していた。尊皇だ攘夷だの話はするなと。その話を始めれば本題が遠のく。本題が終われば、時間の許す限り、屏山が応じる限り思う存分話せと。それが嫌なら屋敷の外で待てとまで言った。流石に宗助はむくれたが、行き倒れで死に掛かっていたところを助けてもらった恩義が彼を大人しくさせていた。

 ギンサに釘を刺された所為か、宗助は押し黙っていた。実は忠告する振りをして、ギンサは宗助に催眠を掛けていた。その術が解けるまで宗助は眠りの中にある。お陰で話の筋を満元は屏山に伝える事が出来た。

「そこもとらが妖魔退治を」

 ギンサは深く一礼して屏山の疑問を受けた。言葉よりも威厳ある姿勢がより能弁となる。ギンサの示した態度に屏山は無言で頷いた。宗助の微動だにしない姿勢も大きく物を言ったようだった。怪我の功名である。

「承知した。権藤満元」

「はっ」

「明日、お二人を連れて登城せよ」

「はっ。有難く存じます」

 満元に合わせてギンサたちも頭を下げた。宗助の頭はギンサが誘導した。

 権藤家に戻ると門にもたれてコダマが立っていた。無論、彼の姿はギンサ以外には見えない。ギンサは目配せしてコダマを中へ入れた。そして、客間へ向かう途中、一人厠へ分かれた。

「捜したぜ」

「すまん。急に飛龍丸が逃げ出して。それがきっかけでこの屋敷に世話になる事となった。お前に知らせる手立てがなかった」

「それ程気にしてないから、いいよ」

「よくここがわかったな」

「飛龍丸の声が聞こえたのさ。あいつ欲求不満じゃねえのか。四六時中何か言ってるようだぜ。ま、そのお陰でお前たちを見つけられたけどな」

 コダマは苦笑いした。

「ところで、オサカベの事わかったぜ」

「おお、こっちも面白い話を仕入れた。まずはそっちからだ」

「狐だな。九尾の狐を知っているだろ。あれの妹で二尾の狐がいる。それがオサカベだ」

「狐か。しかし、人間界では神の扱いを受けているようだぞ」

「稲荷信仰だ。御食津(みけつ)(かみ)、つまり、御食津の宮様を崇める信仰だ。御食津を人間界では勝手に三狐と当て字した事で狐を神の使いとするようになった。以来、お稲荷様はお狐様だ。稲荷神社は至る所にあるが、姫路城の天守閣という絶好の棲み処を見つけてオサカベは住み着いたのだろう。人間共に拝まれる内、オサカベも自分が神になった積りでいるのではないか」

「では、やはり妖魔か」

「妖魔も妖魔。ちと手強いぞ。それで、そっちの話は何だ」

 ギンサは権藤満元親子から聞いた話をコダマに伝えた。

「人の夢に入り込んで苦しめるのか。そんな妖魔聞いた事がないな。いかに二尾の狐と雖もそんな力があるのか」

 コダマは首を傾げた。

「それに、満定石というのも気になる。如何に忠節の思い強くとも、人間が我が身を石になど変えられるものなのか」

「話だけでは埒が明かん。百聞は一見に如かず。幸い家老の河合屏山殿より許可も得た。明日この目で確めてみることだ」

「だが、相手が相手だ。萩のニンガのような訳には行かんぞ。ずる賢い上に妖術を使うらしい」

「妖術。ならば、満定石はオサカベの仕業ではないか」

「それは違うだろう。そうだとしたら、オサカベは自らの術で自分を閉じ込めた事になる。それはあり得ん」

「確かに……ま、あれやこれや考えても仕方なかろう。いざとなれば俺達にはこの天牙の剣がある。強い味方だ」

「ギンサ。あまり剣の力を過信するなよ。如何に剣に未曾有の力があろうとも、使うのはお前なのだから」

「わかっているさ。策は後で練ろう。もう戻らねば不審に思われる」

 ギンサたちが客間に近付くといやに騒々しかった。酒でも飲んで盛り上がっているようだった。無論、その酒宴の中心は宗助に違いない。襖を開けると、目敏く宗助に見つかって引き込まれた。

「ほれ。こ、これ、これが今話しておった魔剣でごらる」

 宗助はべろんべろんになりながらギンサの腰にまとわりついた。天牙の剣を満元親子に見せようというのであろう。

「魔剣とは失礼な」

 ギンサはわざと不快そうな顔をして見せた。

「そうで御座いますよ、佐々木殿。池上殿が嫌がっておいでです」

 人の良い満元は気が気でない。酔った宗助が持ち上げようとしているのは人の剣、武士の魂なのだから。そういう点が根っからの武士ではない宗助の危ういところであった。だが、盛んに満元親子が気遣って仲介するので、流石に宗助も気付いたらしくばつ悪そうにギンサから離れた。

「も、申し訳ござらん。あの時の衝撃が鮮明に今も残っておってな」

 宗助は少し酔いが醒めた。

「いや誠にあれは凄かった。あの巨大な化け物が微塵に吹き飛んでしまったのだから」

 宗助ならずとも、ニンガを冥界に追放したあの光はギンサの目にも焼き付いている。

「お二人にも見せてやりたかった。誠に凄かったのです」

「はいはい。佐々木殿のお顔を拝見しておれば、私どもにも想像出来ます。なあ、満安」

「はい。それに明日は実際に拝見出来るので御座いましょう」

 息子の言葉に父も頷いた。

「え? お二人共天守閣に登るお積りか」

「はい。滅多にない機会で御座いますから」

 にこやかに話す満元親子であった。

「それはいかん。危ない」

 どうやら話の筋はその辺で盛り上がっていたようだ。

「その天、天が……」

 宗助は名前を覚えてはいないようだった。

「天牙の剣」

「そうそう。その天牙の剣があれば、懸念には及ばんだろう」

「佐々木殿。過信されては困る。まだ自在にこの剣を扱える訳ではないのだ」

 ギンサはつい本音を漏らした。

「え?」

 満元親子は急に腰を引いた。宗助に良い様に吹き込まれていたようだった。

「大丈夫、大丈夫でごらるよ。あんな事を申しておるが、いざとなればビカッと光を放って妖魔退散だ」

 酒が入ると気持ちが大きくなる宗助であった。

 結局、満元親子は天守閣の二階まで同行して、その後はギンサと宗助の二人だけで行く事となった。無論、コダマも行くのだが、それはギンサ以外知らない。

 酔い潰れた宗助一人を寝かせ、満元は遅い勤めに、息子の満安はギンサを伴って城下を案内に出かけた。コダマはオサカベの弱点を求めて情報収集に飛んで行った。

「佐々木殿は面白い方で御座いますな」

「少々酒に呑まれるのが悪い癖です」

「いかにも」

 二人は苦笑した。

「それにしても、お城はどこから見ても美しい」

「酒井家の誇りで御座います。ただ、維持管理に少なからぬ金がかかります」

 代々勘定方を勤めているだけあって、城普請の苦労は誰よりも身に染みている家系であった。

「これは亡くなった祖父より聞いた話なのですが、大叔父の満定には婚姻の約束を交わした娘がいたようです。しかし、大叔父があのような事になり、その娘は悲しみの余り発狂して中濠に身を投げたそうです。当家は大叔父の武功に浴し過分な俸禄を頂戴しておりますが、その影ではそんな悲劇があった事を忘れてはならないと思っております」

 満安は神妙な顔付きであった。

「そう、ちょうどこの辺りかと思います」

「この辺りとは?」

「ほら。そこに石碑が建っておりますでしょう。あれは娘を失った父親が娘の霊を慰めんと建てた碑なのです」

 満安が指差す方に小さな石碑が生い茂る雑草に埋もれて僅かに頭を見せていた。数十年の月日にその碑を見守る者もいなくなり、ただひっそりと佇んでいた。その在り様が、投身した娘の哀れを一層物悲しく語りかけて来るようだった。その時一陣の風が吹き、お濠に湛えられた水面にさざ波が立った。

 翌朝登城すると昨日の屏山が待っていた。

「昨日の内に殿のご了解は得ておる。遠慮なく渡られるがよい」

「はっ。忝く存じます」

 満元親子、そして、ギンサと宗助の四人は一礼して、早速準備にかかった。昨日、コダマが帰って来てギンサに伝えたのだ。オサカベの弱点はその特徴である二尾にあると。

「その一本でもいいから切り取れば、二尾の狐はただの古狐。なんの妖術も使えなくなるそうだ」

「しかし、どうやってその尾を切る。敵とてそれは充分に承知しておろう」

「勿論、そうだ。だから、油断させる事が必要だ」

「油断?」

「そう。二尾の狐とは言え、所詮は狐だ。自分の好物が目の前にあればそれに気を取られるだろう。その隙に尾を切る」

「そう上手く行くものかな」

「行くかどうか、やってみなければわからんだろ。俺の打つ手はそこまでだ。お前に考えはあるか」

「え?」

 そうコダマに訊かれて、ギンサは言葉に窮した。これといった策などなかった。

「わかった。やってみるしかあるまい。それで、狐の好物とはなんだ。

「それはやはりあれだろう」

 と言う訳で、ギンサは満元に頼んで、掻き集められるだけの油揚げと鶏・鹿・猪の肉を用意させた。それらの肉を細かく刻んで油揚げで包み、それからその包んだ油揚げ十ばかりを竹の皮で絡げた。そうした竹弁当を作り、今朝城に持ち込んで来た。その竹弁当を満元親子はギンサと宗助の腰や背中に背負わせた。

「よし。これで準備は整った。いざ、まいりましょう」

 ギンサの力強い言葉に宗助も強く頷いた。屏山の見送りを受け、満元の案内を先頭にギンサたちは天守閣へ向かった。

 姫路城の大天守は地下一階地上六階の七層となっている。厳重な二重戸を抜けるとまず地階となる。そこから最上階まではなかなかの行程である。二階まで満元親子は同行した。しかし、そこから先へはギンサたち二人で行く事となった。つまり、そこから上は妖の世界という訳である。そこで燭台の蝋燭に火を点けた。

 三階は何事もなかった。そして、四階。

「この四階から五階へ通じる階段の上に満定石があるという事だ」

 いつになく低い声で宗助は言った。妖魔を意識しての声だった。

「いつでも放れるよう、解いておきますか」

 ギンサは背中の竹弁当を一つ下ろし、縛ってある紐を解いた。それに倣うように宗助も自分の背中から竹弁当を下ろし解いた。

「無闇に投げてはなりませんぞ。数に限りがありますからな。相手は妖魔。食欲も並ではありますまい」

「心得た」

 宗助は小さく頷いた。

 解いた竹弁当を各々懐に入れ、先へ進んだ。

 コダマは二人と共に動いていた。しかし、いつものように先回りして様子を伺う事をしなかった。相手の妖術を警戒しての行動だった。

 そして、四階から五階へ上がる階段下に着いた。燭台を掲げると階段の上になにやら白っぽいものが立っているのが見えた。満定石に違いない。

「ほう。確かに石がある。あれは邪魔だわ。上から下りては来れんだろうが、下からも上がれんな」

 どうするといった顔で宗助がギンザを覗いた。

「道はこれしかないのだから、上がるしかないでしょう」

 ギンサは階段を上がった。その石へ近づくに連れ、それ程の大きさでもないと思っていたのが、やはり人程の大きさである事がわかって来た。それが階段の上がり口にでんと立ち塞がって、確かに邪魔であった。最初に押してみた。しかし、案の定びくとも動かず、今度はゆすってみたが微動だにしなかった。途中から宗助、そして、コダマも加勢したが、狭い階段で足場もなく、石は相変わらずその場に居座ったままだった。

「池上殿。その剣を使われては如何か」

 宗助が思わぬ事を言った。コダマはすぐに反対した。

「その為の剣ではない」

 コダマの声に頷いてギンサは宗助に答えた。

「いかにこの剣でも石は動かせんでしょう」

「やってみねば、わかりますまい。このままでは先に進めませんぞ」

 宗助の意見にも一理ありとギンサは思った。首を横に振るコダマを他所に、ギンサは天牙の剣を抜いた。さて、どのような事になるのか。ギンサは剣を正面に構え数段階段を下りた。それに合わせるように宗助とコダマも下りた。呼吸を整え気を充実させた。微かな波動が身体の中から湧き出すのを感じた。それを身体から腕へ、腕から剣へと伝えんと念じた。すると、小さな光が剣の根元から剣先へ延びた。ギンサは剣を上段に振りかぶり、そして、振り下ろした。剣先から光が飛び出し石に当たった。石は見事に吹き飛んだ。

「やった。それみたことか。やってみなければわからんだろ」

 宗助は小躍りして階段を駆け上がった。

「ギンサいつの間にそんな使い方を覚えた」

 コダマが感心した。

「お前達が休んでいる間に稽古を積んだのだ。この剣には、お前達の命が懸かっておるでな」

 ギンサは微笑んだ。

「ひっ、ひぇっ!」

 上で宗助の声がした。ギンサたちは上へ駆け上がった。すると、尻餅突いた宗助の向こうに男が一人倒れていた。

「化け物じゃ。化け物に違いない」

 宗助は駆け寄ったギンサに助けを求めた。しかし、当の男はまるで何かに放り投げられたような格好で腰の辺りを擦っている。

「もしや、貴公は満定殿ではありませんか」

 ギンサが意外な事を言いながら男に近付いた。

「いかにも満定だが、いきなり後ろから突き飛ばすとは、卑怯ではないか」

 男は少し怒っていた。

「こ、これは申し訳ない。お許し下さい」

 ギンサはすぐに詫びた。

「それで? そなたたちは何者だ」

 むしろ訊きたいのはギンサたちの方だった。

「私は池上銀佐。こちらは佐々木宗助。それから」

 と言いかけて、ギンサはコダマの紹介を呑み込んだ。宗助にはまだ内緒なのだ。

「そなたは俺の事を知っているようだが、何故だ」

「満元殿から聞きました」

「満元? 誰だ、そいつは。俺は知らんぞ」

 満定は腰を気にしながらも立ち上がった。

「権藤満元殿。貴公の……」

 言い掛けてギンサは止めた。満定が知る筈がない。

「権藤? 俺と同じ姓ではないか。縁者にそんな名前の奴いたか」

 満定は記憶を辿っているようだった。

「貴殿。貴殿は何十年も石になって、ここに立っていたのだ」

 そう言った宗助を満定は睨んだ。

「俺が石に」

「そ、そんな怖い顔せんでも。事実なんだから」

「俺が石になっていただと!」

「本当だ。貴公はここで石となって、妖魔たちから姫路を守っていたのだ」

 ギンサの言葉に満定は少し昔が蘇ったようだった。

「今は何年だ」

「え?」

「今は何年だと聞いておる」

「文久三年だ」

「文久? 文久だと! そんな年は知らん。では、では、殿様は、殿様はどなただ」

「酒井忠績様だ」

「忠績様。忠績様……」

 満定は膝から崩れ落ちた。

「忠道様ではないのか……はっ。忠道様はどうされた。妖魔に襲われ、俺が逃がした。忠道様は無事逃げ切れたのか」

「安心されよ。貴公のお陰で、忠道候は天寿を全うされておる」

「そうか。そうだったか」

 満定はその言葉に救われたように穏やかな顔となった。

「それで。そなたたちはどうしてここにおる。この上は妖魔共の巣窟ぞ。魑魅魍魎共がうじゃうじゃおる。その物共に何の用じゃ。まさかお前達もその類か」

「違う。違う。拙者たちは妖魔を退治しに参ったのだ。決して妖魔ではない」

 宗助は血相を変えて弁明した。

「それに貴殿が石から生き返れたのも我らのお陰じゃ。むしろ感謝してもらわねば、割が合わん」

「お前らが俺を石から戻したと言うのか」

 満定の問いかけに宗助はすぐに頷いた。

「そうじゃ、そうじゃ。先ほど貴殿は後ろから突き飛ばす卑怯者と言って怒ったではないか。我らが突き飛ばしたお陰で貴殿は人間に戻れたのだ」

 宗助の説明に暫く茫然とする満定であったが、やがて座り直し両手を突いて詫びた。

「すまん。誠にすまん。俺は命の恩人に疑いを掛けてしまったらしい。申し訳ない」

「わかって頂ければそれでよいのです。どうぞお手を上げて下さい」

 ギンサが手を差し出した。その手を満定は握り締め笑った。

 ギンサたちは力強い味方を得る事となった。少なくともオサカベに会った唯一の生き証人なのだから。ギンサはここへ来た経緯を掻い摘んで満定に話した。話を聞きながら、満定は徐々に時間の隔たりを埋める努力をしているようだった。

 ギンサたちは愈々最上階へ通じる階段下に着いた。

「この上は魔界だ。覚悟して臨まれよ」

 満定が警告した。

「刑部姫とはどのような妖魔でしょうか」

 ギンサが訊ねた。

「いい女だ。俺の惚れた女によく似ていた。そう言えば、美緒はどうしたろうか」

 昔を懐かしむ満定に言うべきかどうかギンサは迷った。満安から、満定の許婚が投身自殺した事を聞いているだけに、ギンサの胸中は複雑だった。そして、ここでは言うまいと決めた。ギンサは話を振り替えた。

「どうやら本性は狐と聞きましたが」

「狐?」

 満定は虚を突かれたような顔をした。

「それも、二尾の狐らしいです」

「狐か」

 満定の表情が急に沈んだ。

「敵を前にあまり大声で言えませんが、あやつの弱点はその特徴の尾にあります。先方の気を惹いて背後が無用心となった隙に尾を切り落とす策です。満定殿も助太刀下さい」

「そうか、狐だったのか。俺は狐と……どうりで背中に引っ掻き傷があった訳だ」

「満定殿。何か気になる事でも」

 ギンサが心配した。

「いや、何でもござらん。気にしないで欲しい」

 そう言って満定は何かを思い切るように口を真横に結んだ。

「では、俺が先陣を切る。くれぐれも一人にならぬよう。敵は多勢。固まって対抗するしか戦法はない」

「心得た」

 武者震いか。宗助がぶるっと身体を震わせた。

 三人。いや、コダマを含めた四人はゆっくりと階段を上がった。一歩一歩上がるに従い、どんよりとした空気に包まれて行った。何かがいる。それも夥しい数だ。それらが声を潜め不気味に笑っている。

「これは大勢の歓迎を受けているようだ」

「そのようですね」

 満定とギンサは潜望鏡のように首を伸ばして四方を窺った。手に持った燭台を階段の両脇に置いた。蝋燭の炎におぞましい姿が映った。

「どうかな。何が見える」

 下から宗助が恐々訊ねた。

「久し振りじゃのう、満定。固まっておった身体が軟うなった感想はどうじゃ。わしらには旨そうに見えるぞ」

 化け物の内から舌を伸ばして来た。それを満定は剣を抜き様に斬った。

「うぎゃっ!」

 舌を切られた化け物はのた打ち回って消えた。その後に小さな蛍のような光が立ち上って、それもすぐに消えた。

「おのれ、満定!」

 化け物たちは怒り狂った。それを物ともせず満定は階段を駆け上がり、化け物たちの前に立ちはだかった。ギンサも遅れず続いた。コダマは天井高く飛び上がり、そして、宗助は恐る恐る顔を覗かせた。

 襲い掛かる化け物。満定は時に払いながら時に振り下ろし斬り上げては次々と斃した。ギンサも負けず寄る物は片っ端から叩き斬った。コダマは敏捷な動きで化け物たちの相打ちを誘った。宗助は初め萎縮していたが、化け物に腕をかじられかけてそれをきっかけに狂ったように化け物たちを薙ぎ倒して行った。懐に入れた稲荷玉も功を奏した。二つ三つ転がしてやると化け物は喰らいつき、それ目掛けて斬り殺した。四人の阿修羅の如き働きで魑魅魍魎は見る見る姿を消して行った。そして、ギンサが一つ目入道を横二つに斬り払うと、僅かに残った化け物たちは敵わぬとばかりに姿を隠し、辺りは一転して静寂の中となった。四人の荒い息遣いだけが響いた。

「オサカベは、刑部姫はどこだ」

「心配せずとも、もう現れる」

 満定がギンサの前に立ち辺りを窺った。

 フッと風が通り抜けた。床に置かれた蝋燭の炎が一瞬消えたように揺らぎ、また立ち上った。その炎に気を取られている内にそれは現れた。

「刑部姫」

 満定が呟いた。その声に喚起され他の三人も正面の刑部姫に気付いた。

「おのれ。わらわの可愛い兄弟をよくも」

 夜叉の如く目は吊り上がり口は裂け血を浴びたように赤い顔面を怒らせ、刑部姫は両手を広げた。

「いかん。妖術を使ってくるぞ」

 満定が警告した。

「稲荷玉を使え」

 ギンサも宗助も腰の稲荷玉を掴み放り投げた。途端に凄まじかった形相は冷め、足元に転がった稲荷玉に刑部姫は気付き盛んに匂いを嗅いだ。

「この甘い匂いは。おお、懐かしい。これは好物の」

 刑部姫はしゃがみ込んで稲荷玉を拾い口に入れた。

「ああ、うまい。ああ、止まらん」

「今だ」

 ギンサが小声で合図した。満定が素早く刑部姫の背後に回り着物の裾を大きく捲り上げた。するとあった。二本の大きな尻尾が。満定は剣を振り下ろし、その一本を根元から叩き斬った。

「ぎゃーっ!」

 けたたましい悲鳴を上げて刑部姫は跳び上がり、床を転げ回って苦しがった。やはり尾は弱点であった。満定は斬り取った尾を遠くへ捨てた。

「お、おのれーっ。大切な尾を。返せ」

 刑部姫は起き上がり、捨てられた尾を追いかけた。しかし、その前にギンサが立ち塞がった。

「ここから先へは行かせん」

「どけっ。邪魔をするな」

「そうは行かん。俺にはお前を退治する使命がある」

「使命? もしやそなた、天の帝の……」

「ん? なんだ?」

「ならば、力で押し通る」

 刑部姫の白装束は吹き出た己が血の上を転げ回った所為で真っ赤になっていた。踏み込む足は頼りなく、それが却って鬼気迫るものを感じさせた。

 ギンサはゆっくり後退りしながら気を集中させた。幾度かの稽古で、徐々にコツを掴みつつあった。体内に散在していた気が一点に集まりそこから波動が生まれた。その波動が腕に伝わり、剣に届き、剣の持つ力と共鳴した。剣の鍔元から光が出た。その光はすーっと剣先まで広がり、刀身が淡く輝いた。

「池上殿。その剣には尋常ではない力があるのか!」

 満定が叫んだ。しかし、気力を集中させているギンサに応える余裕はなかった。

「そ、その光は何じゃ。何の光じゃ」

 刑部姫は怯えた。

「やはりそれは、天牙の剣……」

 そう言った刑部姫が二人に分かれた。夜叉の恐ろしげな形相は消え、もの哀しい女の顔となっていた。

「そ、そなたは」

 満定は持っていた剣を落とした。

 天牙の剣に力が満ちた。ギンサは上段に構え、そして、一気に振り下ろした。剣先より放たれた光は真っ直ぐ刑部姫目掛け進んだ。

「待て、止めてくれ!」

 満定は叫んだ。

「あれは美緒だ。美緒なのだ!」

 しかし、光は刑部姫に命中し、姫は全身光に包まれた。

「美緒。美緒―っ!」

 満定は刑部姫に駆け寄り抱き締めた。彼もまた刑部姫もろ共光に包まれた。

「ギンサ。光を消せ! 止めるんだ!」

 コダマが叫んだ。

「駄目だ。止まらない。どうすればいいんだ!」

 ギンサが叫ぶと少し光は弱まったが、消えなかった。ギンサは剣から手を離そうと試みたが、手が動かなかった。むしろ、光が射す方へ剣先が誘導されていた。

「美緒。そなたは美緒であろう」

「満定様。ああ、満定様。お会いしとう御座いました」

「満定。この女に惑わされるな。ううっ。この女は怨念となってわらわにとり憑き、わらわを意のままに操っておったのじゃ」

「知ったような事を。私は満定様を死に追いやった者共に復讐をしたかっただけ」

「美緒。そなたまさか、殿様に逆恨みしておるのか」

「ふほほほほほ」

「美緒。美緒―っ。そなたはもはや俺の知っている美緒ではない」

 美緒はたちまち形相凄まじく大口開けて満定の肩に噛み付いた。

「ぐはっ。美緒―」

「く、苦しい。光をもっと強く。ひと思いに止めを刺せ!」

 刑部姫が苦しげに手を伸ばした。

「池上殿。構わぬ。俺もろ共葬り去ってくれ!」

 満定が叫んだ。

「え? し、しかし!」

「いいんだ。どうせ俺は死んだ筈の男。このままでは、妖魔だけでなく、この怨霊も野に放つ事になる。やれ! やってくれっ!!」

「満定。われを裏切るか」

 美緒は、いや、美緒の怨霊は満定から離れ逃げようともがいた。それを満定がしっかりと摑まえて離さない。しかし、光は満定の方に当たっていて、満定の命を先に奪いつつあった。このままでは美緒の怨霊が逃げてしまう。

「ギンサ。力を込めよ! 満定殿の思いを無駄にするな!」

 コダマの檄にギンサは頷き、再び気を集中させた。その漲る気と共に光は強く輝き、力を増した。増幅された光は満定の身体を貫き、美緒の身体も突き抜けた。

「ぐはっ。」

 美緒は血反吐を吐き息絶えたかと思うと再び目を開いた。しかし、その眼差しは優しく、本当の美緒に戻っていた。

 光は満定と美緒、そして、刑部姫を包み、呑み込むように三人を消し去った。

 光が消え、ギンサは尻餅を突くように座り込んだ。全身の力をすべて出し切ったような虚脱感が残った。そして、それ以上に、ギンサの心を悲しみと罪悪感が襲った。どうしようもなく涙が溢れ出た。

「池上殿。大丈夫ですか」

 宗助が近寄って来て心配した。

「止むを得ない事だったのです。あの怨霊も最期は恨みが消え穏やかな顔だったではありませんか。きっとあの世で満定殿と抱き合って喜んでいますよ」

「佐々木殿。この剣で斃した者は冥界へ落ちて行くのです。私はオサカベだけでなく、罪もない人間まで冥界へ追放してしまった。私がこの剣の力をもっとよく使えれば、このような事には……」

 ギンサはうな垂れた。

「そうなのですか」

 慰めに来た筈が宗助も俯いた。そんな二人の傍へコダマが歩み寄り、腰を下ろしてギンサの肩へ手をやった。

「酷い事を言うようだが、俺達は前へ進むしかあるまい。後悔したところで、二人は戻らぬ。先へ行こう。俺達には果たすべき使命がある。まだまだ妖魔共が待っているぞ」

 そう言ってコダマは立ち上がり、ギンサの手を取りその身体を引っ張り上げた。ギンサは物憂げに身体を持ち上げ、満定たちが消えた辺りに視線を漂わせ呟いた。

「わかっている。わかっているが、虚しい。此度の戦いで俺達は真に正義だったのか」

 ギンサたちが見つめる先にはただ闇があるだけだった。しかし、三人の目には冥界に消えた満定たちの残影がいつまでも残っていた。


                      続


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