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妖魔道中記  作者: 岸 一彦
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萩の怪猫

 雨。

 池の水面にポツリポツリと落ち始めた雨は其処ここに波紋を描き、時に睡蓮の花びらに当たってはその花弁を揺らした。やがて激しく水面を叩き、自ら描いた波紋を打ち消した。草木はざわめき、鳥たちは身を木陰に縮めた。しかし、束の間の通り雨か。雨はその勢いを瞬く間に失い、雨雲に隠れた陽射しは再び池に射し込み、睡蓮の花びらが水滴の鈴を付け輝いた。

 ギンサは水面から僅かに顔を出して天を仰いだままずっと動かないでいた。先程の雨の中でさえ彼はその姿勢を崩さなかった。彼は精霊の中で水に由来する一族の若者だった。二つの瞳孔と上に鋭く尖った耳を除けば姿形はまったく人間と変わらない。彼ら精霊が着る衣服は、人間の狩衣によく似て、しかし、より行動的に身体に密着していた。そして、その布は水を吸い込む事がなかった。

「ずっとそのままでいたのか。如何に恨めしく天を仰ごうとも、エンネは戻るまいぞ」

 コダマはギンサの頭上まで飛んできて腕組みした。彼は風の精霊である。

「そんなことはわかっている」

 やり切れぬ顔をしてギンサは身体を反転させ岸まで泳ぎ、陸に上がった。コダマも彼を追って水面すれすれに飛び、陸に上がったギンサの傍に降り立った。

「気まぐれな通り雨だ。(あめ)(みかど)のご機嫌でも誰か損ねたか」

 コダマは空を見上げた。

「そのような仕儀ではなかろう。(あめ)(もり)(みや)(さま)(帝の弟)がどこかに動かれたのだ」

 対照的にギンサは俯いている。

「煩わしいことだ。なにもこの地上界に累を及ぼさずとも。お召しの衣にきっと解れがあるのであろう」

「急いでおられたのだ。また兄君から難題を突きつけられたのではないか」

 ギンサは苦笑いした。コダマもそれに呼応した。

「エンネが行ってから、幾日になる」

「まだ十日は経つまい」

「そうか。まだ十日も経たぬか」

 コダマはギンサの肩を軽く叩いた。

「エンネは出世したのだ。帝にその才を認められ天上界へお召し上げになったのだ。栄誉ではないか」

「ただ帝の前で歌うだけのどこが栄誉だ」

「しっ」

 コダマは辺りを窺った。

「滅多なことを言うではないぞ。帝は気難しいお方だ。もしその耳にでも入ってみろ。そなたは永遠に冥界へ追放だぞ」

「それも厭わん。こうなればとことん落ちるまでだ」

「投げやりだな。エンネ以外にも女はいるだろう」

「俺にはあいつだけがすべてだ。あいつのいない世界なら、地上界も冥界も同じだ」

 コダマは弱り切った表情でギンサを見つめた。これ以上何を言おうと、ギンサの厭世は収まりそうになかった。

 そこへ枝を踏み鳴らす音がした。一人の娘が森を抜けて現れたのだ。彼女の傍らには用心棒代わりの犬が寄り添っている。

「千代か」

 ギンサが呟いた。犬は低く唸った。二つの精霊の気配に反応したのだ。しかし、人間の千代にはわからない。

「どうしたの? ハヤテ。何を怯えているの?」

 千代が優しく撫でてやるとハヤテは安心したのか大人しくなった。

 千代はこの池が好きだった。時折こうしてハヤテを連れ散歩に来ていた。花を愛で、池の水面を吹き渡る風に歌声を乗せた。眩い程に純白な生地に鮮やかな朱や淡い桜色の花柄を散りばめた小袖がよく似合う美しい娘であった。

 今日もそうして気ままに詩を歌い、花を摘み、帰って行った。

 ギンサとコダマの二人はしばし彼女の歌に聞き惚れ眺めていた。

「千代は佐用(さよ)の生まれ変わりであろう」

 千代の後姿を見送りながらギンサが言った。

「そうだ。あれで何代目の輪廻となるのか」

 コダマは心当たりを指折り数えた。

狭手彦(さでひこ)はどうした」

「噂では、狭手彦の魂だけが天上界に昇天したらしい」

「そんな筈はない。魂はもともと天上界から地上界に下りた時、人間の男と女に分かれて生を成すのだ。また天上界へ昇天するには、元の魂として一つにならねばならん。その為には、分かれた男と女が再び出会い生涯を全うせねばならん事ぐらい、そなたも承知しておろう」

「無論、知っている。だが、狭手彦は帝のご配慮で特別に天上界へ戻ったと聞く」

「帝か。あり得ん話ではないな。ならば、佐用はどうなる。永遠に巡り合えない狭手彦を求めて輪廻を繰り返すのか」

「俺を責めてどうする。もともとこうした仕組みをお作りになった帝のなされた事だ。俺たち精霊ごときに何がわかる」

「俺は不満だ」

「おいおい、ギンサ」

「何故この世のすべてが帝の思いのままなのだ」

「仕方なかろう。この世をお作りになったお方だ。神なのだから」

「その神はいつまで神なのだ。俺たちや人間どものように尽きる事はないのか」

「知るかっ! ただわかっているのは、俺たちも人間どもも帝には逆らえんという事だ」

「何故だ……」

 ギンサは空を険しい眼差しで見つめ、やがて池に飛び込んだ。


「何故で御座いまするか。何故佐用をお連れにはなれないので御座いましょうか。佐用は如何なる異国の地でもお供すると心に堅く決意申し上げておりまする」

「許せ、佐用。やはりそなたをかの地へ連れ行く事は適わぬ。私が向かうのは戦場じゃ」

「元より覚悟の上」

 狭手彦は佐用の眼差しを直視出来なかった。すればその情に溺れそうだった。

「はっきり言う。私には多くの兵がいる。皆は故郷に家族を残し、勅命の下に参集した者どもじゃ。それを私だけが……」

 狭手彦の言わんとする胸の内を佐用は痛いほどわかった。一方で、それを押し切ってでも我が思いを貫き通したい切なさがあった。佐用はその両方の思いに挟まれ胸が押し潰されそうだった。愛しい男の胸に縋りただただ泣いた。このまま泣き潰れ死んでしまいたかった。

 明朝、狭手彦を乗せた船は松浦川を出港し、朝鮮へ向かった。新羅の侵攻を受けた同盟国百済援軍だった。

 佐用はそれを遠く鏡山から見送った。間近で見送れば胸が張り裂けそうだった。我が身を見れば狭手彦の堅い信念も揺るぎかねないとの配慮もあった。

 佐用は()()(長い薄手の布)を打ち振り別れを惜しんだ。この領布の靡く様を遠く見れば、狭手彦も佐用と気付いてくれよう。

 しかし、佐用は思いがけない光景を目の当たりにした。船団の先頭を行く軍船の舳先に一本の布が巻き付けてあった。あれは……昨夜我が分身と思いを込めて渡した佐用手縫いの領布であった。狭手彦も佐用の配慮を思い、遠くからでもそれとわかるあの領布を目印にしていたのだ。ああ、なんということ。佐用の感情ははち切れ、ただただ愛しさばかりが募った。気付けば鏡山を下り、佐用は松浦川を目指していた。この時、佐用が手に持つ領布はいつしか翼の如く気流を掴み、佐用の身体を持ち上げまるで鳥のように大空を翔けた。

 船団は川の流れに乗り緩やかに玄界灘へと進んだ。一方、佐用は船団に遅れは取ったがその後を追い、加部島まで行き着いた。しかし、天命か、佐用の領布はここで力尽き破れ、天童山の頂上に彼女は降り立った。大海原に遠ざかる船団を臨み、佐用は破れた領布を必死で振った。もう狭手彦の領布は見えなかったが、それでも佐用は腕が千切れんばかりに自分の領布を振り続けた。そして、声の限り、何度も何度も、何度も何度も、狭手彦の名を呼んだ。きっとこの声は愛しい男の元へ届く。言霊となって届く。そう信じて呼び続けた。

 佐用はそのまま加部島に留まり、願を懸けた。狭手彦の戦勝を祈願して七日七晩の水垢離をした。その噂を聞き佐用の両親が駆けつけたのは、八日目の朝だった。愛する娘は生死の境を彷徨い、両親はそれを必死で介抱した。その甲斐あって娘佐用は一命を取り止め無事屋敷へも帰ることができた。

 そして、ひと月の時が流れた。ある晩のこと、一人の男が佐用の元に忍んで来た。

「佐用。佐用」

 簾越しに名を呼んだ。聞き覚えのある声に佐用は表へ出た。そこは裏門に通じる内庭である。佐用は男の顔を確めようとしたが、月明かりを背中に受けて相手の様子が窺えない。

「そなたは誰じゃ」

 訝しがる佐用の前に男はただ黙って立っている。佐用は恐る恐る近寄り男の傍らに立った。それに応じて男は身体を反転させ佐用に正面を向けた。すると、先程まで背にしていた月光が男の半身を照らした。男の顔がはっきりと見えた。その時、佐用はハッと息を呑んだ。

「狭手彦様……」

 後を継ぐ言葉よりも溢れる感情が頬を伝った。

「佐用」

 男は佐用の震える肩に両手を伸ばし抱き寄せた。

「狭手彦様」

 佐用は男の胸に泣き伏した。

 その夜、男は佐用の部屋に泊まった。しかし、夜が明けると知らぬ間にいなくなっていた。それからそうした夜が幾日か続いた。不審に思った佐用はある夜、意を決して男に尋ねた。

「どうして毎夜こうして佐用をお訪ねになり、夜明けを待つこともなくいなくなっておいでなのでしょうか」

 だが、男は何も応えなかった。佐用はそれ以上を問い質すことができなかった。男に余念を残しながらも、今目の前にある幸せを失いたくなかった。その夜も佐用は我が身を男に委ねた。

 そして、次の日。佐用は下女に頼んで男の後を付けさせた。男の脱いだ衣服に麻糸を縛りつけ、まだ明けやらぬ内に屋敷を出る男を待ってその後を辿ったのだ。下女と二人して行き着いた先は鏡山の麓にある蛇池だった。もしやあの男の正体はこの池の主ではないか。二人が慄く姿を待ち受けていたかのように、男は二人の前に現れた。しかし、身体は人の形ではあっても、顔はもはや狭手彦にあらず、恐ろしき大蛇の本性であった。

「佐用よ。わしの后となれ。さすれば永遠の命を授けて進ぜよう」

「い、いやで御座います」

 佐用は気丈にも池の主の願いを断った。

「ならば仕方ない。そなたの命貰い受けん。そなたを食らえば、またそなたの命だけわしは生き長らえることとなる」

 佐用は下女を屋敷に走らせた。助けを呼べと。しかし……。

 下女が屋敷の男衆を連れ立って池に戻った時には既に佐用の姿も、あの主の姿もなかった。そして、池の端に佐用の衣が脱ぎ捨ててあった。翌朝、男衆がその池に潜ると、底に多くの人骨が散乱していた。男衆はその人骨を引き上げ丁重に葬った。その中に佐用の亡骸もあったに違いない。


 ギンサは深い溜息を吐いた。岩鏡が映し出す佐用の哀しい生涯に心が震えた。佐用を襲った池の主はヨウザ(闇の精)に違いなかった。帝の力で彼は冥界に追放され、その後を受けて我ら一族がここに住み着いている。それまで負の力が支配していたこの池を何百年もかけて我が一族が浄化した。今では穏やかな澄んだ池となっていた。

「帝は何故ヨウザの所業を見逃されていたのか。もし帝がもっと早くヨウザを追放されていれば、佐用は数年後に無事帰国した狭手彦と結ばれ、生涯を全うしたことであろう。何故、帝は……」

 ギンサはエンネへの思いを重ね、胸が熱くなった。そして、帝への翻意の念がいよいよ強まった。

「帝は勝手過ぎる。この世があの方の掌の上にあるというのなら、何故このような酷いことをされるのか! 俺には理解できない」

 ギンサは水底の社を飛び出し、水面も突きぬけ空へ昇った。ギンサは白龍となって空を翔けた。たちまちコダマがギンサを追い駆けてきた。

「無茶をするな! お前の身が滅ぶだけだぞ!」

「そんなこと誰が決めた。やってみなきゃわからん!」

「後悔した時はもう遅いんだぞ! 引き返せ。引き返せ、ギンサ!」

 コダマは叫んだ。しかし、ギンサは聞く耳持たずコダマを振り切った。

 ギンサは幾つもの雲を突き抜けどこまでも高く飛んだ。身体は次第に硬直し自由が効かなくなった。自慢の尾で蹴り上げる大気も徐々に薄くなり、突き進む力は小さくなっていった。やがて、宇宙の闇の中に淡く輝く光が見えた。天上界である。ギンサは死に物狂いで尾を蹴り上げ天上界を目指した。しかし、意識は薄れ視界に注ぐ光も途絶え勝ちになった。

「もう駄目なのか。俺の力では天上界に辿り着くことさえできないのか……」

 ギンサは自分の命が尽きて行くのを感じた。そして、微かな視界の中で、淡い光の中から小さな影が現れこちらに向かって来るのが見えた。だが、ギンサの目は闇に途絶えた。

 ギンサが目を覚ますと、やわらかな褥の上だった。

「目が覚めた?」

「え?」

 声をかけたのはエンネだった。

「エンネ。ここは?」

「天上界よ。ギンサが目指したところ」

「どうしてそれを……」

「帝が教えて下さったの」

「帝が……」

 ギンサは起き上がろうとした。しかし、頭がふらつき目が回った。結局起き上がれず、また横たわった。ギンサは人の形に戻っていた。

「まだ無理しちゃ駄目よ。ずっと眠っていたのだから」

「眠っていた? どれくらい?」

「そう。この天上界では僅かな時間かもしれないけれど、地上界では三四日は眠っていたかしら」

 エンネはその愛らしいえくぼを見せて微笑んだ。愛しいエンネだ。俺の愛するエンネだ。ギンサは抱きしめたくなる衝動をぐっと堪えた。

「エンネ。帝は俺がどうしてここに来たのか、話してはいなかったか。」

「ううん。何もおっしゃってはいないわ」

「そうか」

 しかし、帝はすべてお見通しの筈だった。こうしてようやくエンネと再会できたものの、その内帝の命を受けた近衛兵が俺を捕らえに来るだろう。束の間の再会。そして、永遠の別れがすぐそこまで忍び寄って来ている。エンネの笑顔が一層ギンサの胸を締め付けた。

 できることなら、今エンネの手を取りここから、この天上界から逃げ出したかった。だが、たとえ無事地上界に逃げ果せたとしても、所詮は帝の手の内を逃げ回るに等しかった。どこをどう隠れても、この世のすべてをお作りになった帝から逃げ切ることはできなかった。

「馬鹿だな、俺は」

 コダマの諫言が今頃身に染みた。

「エンネ。俺はそなたに会いたかった。会いたい一心で我が身を省みずここまで辿り着いた。そして、今、こうしてそなたと再会できた。この上ない幸せだ。しかし、これが今生の別れとなるだろう」

「ギンサ、何を言っているの?」

 エンネは本当にギンサの意図を理解できずにいるようだった。

「エンネ。俺はもうすぐ帝の近衛兵によって囚われの身となるだろう。俺は掟に背いたのだから」

「ギンサ……」

 エンネはギンサをじっと見つめた。

 そこへ部屋の外から声がかかった。

「ようやく目覚めたようですね」

 柔らかなよく透る声だった。男のそれというより、むしろ女性に近い声音だった。

「誰だ」

 ギンサはエンネを見つめ呟いた。

「帝よ」

 エンネの答えはギンサの予想した通りだった。

 ギンサはまだふらつく頭を抱えながらも懸命に起き上がり、床に跪いた。その横にエンネも並んだ。

 床を見つめる彼らの耳元に緩やかな足音が近づいて来た。そっと見上げた視線の先に衣の裾が見えた。目の前に帝がいる。言い知れぬ重圧をギンサは感じた。数千年に渡る一族の歴史の中で、こうして直に帝に拝謁するのはおそらくギンサが初めてであった。帝に対する畏怖の念と余りに違い過ぎる身分の差が彼を身体の髄から震わせ、どうしようも止める事ができなかった。一時でも帝に翻意を抱いた自分を嘲笑った。そして、自分の無力を思い知った。一瞬でも仇と憎んだ相手を前に面を上げる事さえできない。まるで目に見えない大きな力で首筋を押さえつけられているようだった。

「そのように怯えることはありません。ギンサ」

 帝にはギンサの心が透けて見えているようだった。ギンサはいよいよ身動き一つできなくなった。

「そう畏まらずともよいのです。それでは満足な話もできません」

 言葉にせずとも心の内はお見通しではないか。ギンサは思った。

「そうかもしれぬ。しかし、それでは私とギンサ、そなたとの会話しか生まれぬ。エンネが可愛そうではありませんか」

 ギンサは顔面が蒼白となった。何も隠し立てができない。これ程の恐怖があるだろうか。絶対的な力の前に、心の中にさえ逃げ込めないのだ。

「ギンサ。そなたは私を誤解しているようです。その誤解を私は解きたい。まずは顔を上げなさい」

 穏やかな帝の声だった。必ずしも帝は自分に怒りを抱いてはいない。ギンサは帝に対して作り上げていた像に疑問を持ち始めた。気難しく近寄りがたい。この世で最も気高く、そして、恐ろしい存在。抗うことの出来ない絶対的な力。それが天の帝と信じて来た。しかし、今手を伸ばせば触れる程の身近におわすお方が本当にそうなのか。このお方があらゆる生命の根源、神なのか。俄に信じ難く、だが、一方で、崇め奉る神であるならばむしろ、このように穏やかで静かな存在であるべきとも思った。

 ギンサはいつしか全身に張り詰めていた力がゆるゆると抜けて行くのを覚えた。まるで手足をきつく縛り上げていた縄が解けた後の痺れを感じながらも、心と身体の自由を取り戻した感覚だった。自然と視線が立ち上がり、それに釣られるように上体が起き上がった。

 ギンサは帝を見た。いや、正確には見ようとした。しかし、あまりに眩しくて、ギンサは帝をまともに見る事が出来なかった。

「眩しいか、ギンサ。誰にでもあるように、この輝きは私の宿命です。しかし、時と共に少しは慣れるでしょう。私を直視出来ずとも、話は出来ます。声音だけは俯かないように」

「はっ。畏まって御座います」

 ギンサは深々と首を垂れた。

「ギンサ。そなたの忌憚のない思いを聞かせなさい。それに私は可能な限り応えましょう」

「はっ。畏まって御座います」

 ギンサはもう一度跪いた。そして、そのまま微動だにせず沈黙した。ギンサは迷っていた。どう話を切り出すべきか。どう訴えるべきか。いくつもの言葉が脳裏を掠めては消えた。心だけが急いた。

「如何しました。迷うことはありません。有態を打ち明ければいいのです」

 そう。声に出さずとも帝には聞こえている筈だった。ギンサは漸くふと思い付いた言葉から切り出した。

「輪廻転生は帝のお作りあそばされた揺るぎなき定めかと存じます」

 そう言ってギンサは帝を見上げた。先程のような眩しさはなかったが、帝の表情を窺い知る事は出来なかった。

「いかにもそうです」

 光が縦に揺れたことで帝が頷いたとわかった。

「ならばその定めを御自ら違え賜う事は如何かと存じます」

「誰の事を申しているのですか」

 うそぶいているのか、それともあの噂は空言だったのか。

「我らが住まう姫池の近く鏡の里に千代という娘が暮らし居るをご存知でしょうか」

「知っています。美しい娘です」

「かの娘は、今より遡ること千三百余年前、帝により冥界へ追放せられたヨウザ、あれがまだ地上界にて悪行を働きおる際その犠牲となりて落命した佐用の生まれ変わりで御座います」

「いかにもそうでした。佐用には酷い生涯でした」

「もしヨウザの悪行なくば、佐用は夫大伴狭手彦とその生涯を全うし、この天上界へ無事昇天できたものと推察申し上げます。しかしながら、無念にも佐用は狭手彦と死に別れ、千三百年の時を経ても未だその魂は夫との再会を果たせず迷うております」

「そなたは何故ヨウザのような悪しき精霊を放置していたかと問いたいのですね」

「はっ。畏れ入り奉りまする」

 ギンサは額を床に擦り付けんばかりに低頭した。

「確かにあれは私の犯した罪です」

 意外な帝の言葉にギンサは思わず呼吸を止めた。

「だが、許して欲しい。私とて完全ではないのです。私はあらゆる物事の理を作り、定めました。しかし、その中には矛盾もあるのです。時と共にそぐわないものもあります。その矛盾を修正、或いは取り繕う為に、私はあのような闇のもの、悪しき精霊も生み出しました。あの者共を忌み嫌い、或いは、恐れ避けんとする中で、人間は独自の掟を作り出し、自らを戒めて来たのです。それは私の思い及ばざる彼らの知恵であり、私の庇護を離れた彼らの成長です。善だけでは世の仕組みは成り立ちません」

「しかしながら……」

 そう言いかけてギンサは言葉を躊躇った。それにしても佐用があまりに酷過ぎる。帝は佐用を見殺しにされたのではないか。その疑念はさらに強まった。だが、これ以上の追求はギンサ自身を窮地に追い込みかねなかった。

「遠慮には及びませぬ。そなたの怒りは私の心にも響いております。そなたが私を疑うのは尤もだと思います。世の出来事を私はすべて知り尽くしている。それが私の定めであるから。しかし……」

 帝は急に声を落とした。

「それは地上界に生けるものが作り上げた私に対する虚像です。そなたたちは私を買い被り過ぎている。この天上界であればその隅々まで我が気を巡らせ微かな変化も読み取る事は出来ますが、地上界は時の精霊が届ける報せ以外他に知る術がないのです」

「時の精霊。そんな一族がいるのですか」

「います。彼らはそなたたちにも見えません。地上界を覆う大気に紛れ込み、そこで起こるさまざまな出来事を報せてくれます。しかし、彼らが届ける出来事は彼らが選びます。その選択はこの天上界に災いを将来もたらすものから順位が付けられ、彼らが影響ないと見定めたものは私の耳には届きません」

「なれど、当時のヨウザの悪行は目に余り、現に、帝御自らヨウザの冥界追放には手を差し出されたと聞いております。その時の精霊よりの報告が遅かったと仰せで御座いましょうや」

「実は、ヨウザの所業を伝えたるは、そなたたちの住まう鏡の里を見張る時の精霊ではなかったのです」

「え?」

「地上界には多くの時の精霊がそれぞれの割り振りを持って見張っているのです。当然、鏡の里の出来事は鏡の里を取り仕切る時の精霊がいます。しかし、あの時伝えて来たのは鏡の里と程近い厳木からの報せだったのです」

「鏡の精霊はお役目を果たしていなかったので御座いましょうか」

「わかりません。何故なら、その時より鏡の精霊は居なくなってしまったのですから」

「え? 逃げてしまったのですか」

「おそらくそれは違うでしょう。彼らの所在は私にはわかります。それが、私も気付かぬ内に忽然と消えてしまったのです」

生命(いのち)を奪われてしまったのでしょうか。しかし、私たち精霊にも見えないものを誰が……」

「それは天上界の限られた者になります」

「天上界の……。何の為に……」

「ギンサ。それ以上の詮索は慎みなさい。天上界となれば、そなたの力及ばぬこと」

「はっ。畏まって御座います」

 ギンサは無理矢理でも詮索を中止せざるを得なかった。続ければ彼の身に災いが降ることは必定だった。天上界に手出しは無用なのだ。それが地上界と天上界の間にある厳格な格差だった。

「なれば、今一度お願いが御座います」

「申してみなさい」

「佐用の魂は千三百年地上界を彷徨っております。かの者を不憫と思し召しならば、どうぞ狭手彦と娶わせ、この天上界へお引き上げ適いませぬでしょうか」

「狭手彦は既にこの天上界にあります」

 やはり。ギンサは頷いた。

「何故佐用も共に昇天させなかったかと、そなたは思っていますね」

「はっ。仰せの通り」

「実は佐用も狭手彦同様この天上界へと考えたのです。しかし、残念ながら、佐用の魂はヨウザによって穢れていました。そのまま引き上げれば、この天上界にその穢れが広まってしまいます。天上界という処は余りに清く、穢れに抗う力がないのです。そこで私は佐用の魂が浄化するまで待ちました。そして、ようやく機は熟したと思います」

「佐用もやっと天上界へ昇天して狭手彦と再会出来るので御座いますね」

「本来の昇天は、もともと一つであった魂が地上界で男女に別れ、再び巡りあい生涯を全うすることにあります。狭手彦を天上界に呼び寄せたは私の温情、いや、むしろ私の手落ちから招いた悲劇への罪滅ぼしであった。ギンサ。そなたが言うように、私は私が作った定めを自ら破った。その報いか、やはり片方だけである狭手彦はこの天上界では不完全でした。今一度、彼を地上界に解き放ち、幾多の経験をさせて後佐用と再会させ、この天上界へ昇天して来ることを望みます。そこで、ギンサ。そなたに頼みがあります」

「はっ。何なりとご拝命下さい」

「そなたは如何なる理由があろうとも、掟を犯しこの天上界へ入った」

 ギンサは一瞬息が止まる思いだった。天上界への不法侵入は即ち冥界への追放を意味した。

「そなたに頼みたい事とは……」

 部屋の外から馬の嘶きが聞こえた。屋敷を近衛兵が取り囲んでいる。これまでの話は帝の時間稼ぎだったのか。ギンサは帝の言葉に固唾を呑んだ。

「そなたはこれより地上界に戻り、狭手彦の生まれ変わりを見つけ、佐用の生まれ変わりである千代と娶わせ見事この天上界へ昇天させよ」

「狭手彦の魂と共に地上界に戻るので御座いましょうや」

「狭手彦の魂はこの天上界を離れて一旦ある女の腹に宿る。それは狭手彦自身が選ぶもので、私にもわかりません。また、千代と年を同じくする為には、やや時を遡り狭手彦を地上界に戻す必要があります。そこまでは私が行います。ギンサ。その後をそなたに頼みたい」

「しかしながら、地上界はかなり広う御座います。そこに生きる人間も数多おり、その中から狭手彦、それも生まれ変わりを見つけるなどは至難の業と心得ます」

「今から話すことは特別のことと聞いて欲しい」

「はっ」

 ギンサは緊張した。いわゆる神自らが下す特命なのだ。

「私は今より地上界で言う二十年の時を遡って狭手彦の魂を解き放つ。場所は坂東相模です。かの地に嘗ての栄華を究めた鎌倉があります。そこで狭手彦を転生させましょう。しかし、それ以上は私にも決められません。そこから先は狭手彦が決めることなのです。ただ、生まれ来る赤子に印を付けることは出来ます。そう。ならば、右足の付け根に、そなたにちなんで龍の模様を浮き上がらせましょう。それは年を経ると共に明らかに見えて来るでしょう。龍の模様は人間界では珍しいもの。その地へ赴けば評判が立っているかもしれません」

「相模の国であれば海路を南へ取り薩摩を経て北東へ向かえば10日もかからぬかと存じます」

「そなたにはもう一つ頼みがあります」

「もう一つ……」

「世を取り繕う為に闇の精を生み出したことは先にも話しましたが、ちと増え過ぎて困っております。中にはヨウザの如く人の生命を脅かすものもいて、そうしたものを私の代わりに冥界へ追放して欲しいのです」

「そのようなこと、私に出来ましょうや」

「これを授けましょう」

 帝は一振りの長刀をギンサの前に差し出した。それをギンサは恭しく押し頂いた。

「その剣を振り下ろせば閃光が走り、その光に当たったものはたちまち冥界へ落ちて行きます。銘を天牙と言う」

「天牙。天牙の剣。このような有難い名刀を私のような者にお預け頂くのでしょうか」

「そなたの真実を見据えんとする眼差しを信じて授けるのです」

「幸甚の極みに存じます」

 ギンサは落涙した。自分のような下賎にそこまでの言葉を頂くとは。

「そなたの住む鏡の里から坂東鎌倉に至る街道沿いに棲む七体の妖魔を退治して欲しい。彼らが潜む巣窟はこの絵図に書き記してあります」

 ギンサは帝の手より絵図を受け取った。

「そなた一人では困難な事もあるでしょう。また、旅すがら一人では心もとない事もあるでしょう。共をお連れなさい。そなたが鏡の里を立って最初に声をかけて来た男を共とするが良いでしょう」

「帝。お言葉ですが、闇に穢れた妖魔であれば兎も角、私たち精霊は普段人に見られる事はありません」

「それも心得ております。この旅の間に限り、そなたを人間にしましょう。無論、姿だけです。そうすれば、狭手彦の生まれ変わりを捜し出すにも都合が良いでしょう。但し、三月を越えて人間の姿のままでいる事は出来ません。それ以上の変化(へんげ)はそなたを二度と精霊に戻れなくしてしまうでしょう。心して当たって欲しい」

「はっ。必ずや帝のご命令を成就させ奉ります」

「この願いきっと叶えて下さい。その代償として、そなたの罪を許すだけでなく、そなたをこの天上界に迎え入れようかと思います」

「え!?」

 ギンサは思わず帝を見上げた。帝が発する輝きに徐々に慣れて来た彼の目はおぼろげに帝の輪郭を捉える事が出来た。黒い影絵のように見えるその顔は顎が細く小顔であった。声の質といい、帝は予想外に女性的だった。

「そ、そのようなお話、身に余る光栄に存じます」

 知らず知らず見惚れていた自分に気付き、ギンサは慌てて平伏した。

「決して楽な旅ではありません。そなたを脅かす者は妖魔に限らないでしょう。人間界はなかなか気の許せぬところです。くれぐれも用心しなさい。それから、これも持って行きなさい」

 帝が差し出したのは巾着だった。

「中には金子(きんす)が入っています」

「金子?」

「そなたたちには生涯無縁のものですが、人間界ではとても重宝で、しかし、時には命の代償ともなる恐ろしいものです」

 ギンサは巾着の紐を解き中からひと際大きい金子(小判)を取り出した。その山吹色に輝く薄い楕円形のものをギンサはじっと見つめた。

「この天上界では何の役にも立ちませんが、火振(ひふ)りの宮(帝の弟)に作らせました。人間界ではそれに決まった価値を与え、物品と交換させる仕組みを作り上げたのです」

「これで木の実や池の魚を得る事が出来るのですか」

 ギンサの目は好奇で満ち溢れた。

「ほほほほ。まあ、そういう事ですね」

 帝はギンサの欲のない例えを微笑ましく思われたようだった。

「人間界に行けばすぐにそなたも気付くと思いますが、その金子なるものはそなたの想像を超えた物までそなたに与えてくれます。例えば人間の女子とか」

 帝の言葉にエンネがすぐに反応して、ギンサをきつく見た。

「そ、それは如何なる事で御座いましょう」

 エンネの視線にギンサは少し慌てた。何も悪い事はしていないし、考えてもいないのだが。

「その金子と物品と交換する事を、人間界では買うと言う」

「買う……」

 エンネを横目で見たが、まだその視線は険しかった。何を誤解しているのか。

「つまり、女も食べ物も衣も何もかもが、その金子で買う事が出来るのです」

「これでそのようなものがすべて私の手に入るのですか」

 先程までとギンサの目が変わったように見えた。エンネの先走った嫉妬は決して外れてはいなかった。

「それ故に、その金子は人の心を惑わし、時に人同士を命のやり取りまでさせるのです。使い道を誤れば、ギンサ。そなたとて例外ではない。それは人間が作り出した魔物と言ってもよいかもしれません」

「魔物ですか……」

 ギンサはその輝きに見入ってしまう自分に気付き、すぐに小判を巾着に仕舞った。

「さりながら、人間界を旅するそなたには無くてはならないものです。それなしでは3日と生きられないでしょう。心すべきは使い方を誤まらない事です。ギンサ。そなたなら大丈夫。必ずや私の願いを成し遂げてくれるでしょう。エンネがそなたの帰りを待っていますよ」

 ギンサはエンネを振り向いた。そこには先程までとは違ったエンネの熱い視線があった。ギンサはエンネの手を取り、固く握り締めた。

「痛い、ギンサ」

 エンネはギンサの頬にそっと口づけした。ギンサは照れながら握った手を緩めた。エンネはギンサの肩に頭を寄せた。

「二人の仲を裂くようで申し訳ないが、外に近衛を待たせています。ギンサは今より近衛と共に地上界へ行きなさい。そして、地上へ降り立った時すでに身は人間となっている事でしょう」

「わざわざ近衛の方々にお見送り頂かなくとも、私一人でよろしゅう御座います」

「今はまだ理由は言えませんが、そなたを守らせる必要があるのです」

「え? ……はっ。承知仕りまして御座います」

 天上界に何か不穏な動きがある事をギンサは直感して、それ以上の詮索を控えた。

「それではギンサ。よいか」

「はっ」

 ギンサは立ち上がり帝に従うべく一礼した。エンネが名残惜しそうにギンサの身体に手を添えた。その手を取りながら、ギンサはエンネを抱き寄せ口づけした。

 館の外には数十頭の馬が居並び、鎧兜に武装した近衛兵たちが整然と連なっていた。その景色は実に壮観だった。

 隊列の前面中央に誰も騎乗していない白馬がいた。帝はそれを指し示して、ギンサの前に曳かせた。

「これよりこの馬はそなたのものです。千里を駆け抜けても疲れを知りません。そなたは人となれば疲れを覚えます。手足が思うように動かなくなる事です。その時この馬がそなたを助けてくれます。無闇に走らせてはいけません。この馬は利口です。そなたの裏を掻く事ぐらい造作もありません。この馬と接する時は友と接するように心がけなさい。よいですね」

「はっ。畏まって御座います」

 ギンサは深く頭を下げた。そして、頭を上げその馬を見ると、まるでそっぽを向くように横を見ていた。少々梃子摺りそうな予感がした。それでも、手綱を引き鐙に足を掛け一気に馬上へ跨った時は特に抵抗する気配もなかった。

「では、行って参ります」

「武運を祈っています」

 帝は小さく手を振った。馬上から見た帝はあの眩しさも感じられず初めてその姿を正視出来た。それは美しい女性のようであった。髪もながく肩まで垂らし、しかし、きりりとした眼差しが凛々しく美丈夫な若者にも見えた。その横でエンネが手を振っていた。その顔は別れを惜しんで涙で濡れてはいたが、恋人の晴れやかな門出を祝して微かに微笑んでもいた。

「いざ。出立で御座います」

 近衛兵の長官(かみ)が高らかに号令した。それを待ち兼ねていたように騎馬は5頭ずつが隊列を組み悠然と動き始めた。その中に加わるようにギンサも鐙を蹴って馬を歩かせた。

 宮殿を出ると騎馬は一気に舞い上がり、馬たちの足元を雲が覆った。そうした雲の軍団が幾つも出来て一定の間隔を開けて地上界へと下った。ギンサが天上界を目指した時と同じように何度も雲を突き抜け、やがてギンサの故郷鏡の里へと近づいた。ギンサがふと気付くと、彼はいつのまにか旅装束となっていた。羽織袴に草鞋を履いて、もしやと思って頭に手をやるとてっぺんが剃り込まれて触り慣れないものがちょこんと乗っかっているようだった。ちょん髷である。苦笑いしながらも、仕方ない事と気持ちを改めた。

 姫池に降り立つと、近衛兵の長官が近づいて来た。ギンサは馬から降り、片膝突いて頭を下げた。

「そなたはこれより人間でいる間、池上銀佐と名乗るがよい」

「池上……銀佐」

 ギンサは不思議な面持ちだった。

「それと、これを持って参れ」

 長官は懐から押し畳まれた書面を出して広げて見せた。

「通行手形じゃ」

「通行……手形?」

「人間界には関所という人々の通行を規制する場所がいくつかある。その際、これを見せれば問題なく先へ進める」

「はあ……」

 ギンサは物珍しそうにその通行手形を受け取り少し眺めたが、すぐに折り畳み懐に仕舞った。

「では。そなたの無事を祈っておる。……ああ、そうそう。念の為言っておくが、そなたの旅の名目は仇討ちじゃ」

「仇討ち?」

「しかと励めよ」

 近衛兵たちはまた空へ舞い上がり天を目指し去って行った。

「有難う御座います。お気をつけて」

 ギンサは一人それを見送った。

 すると、ずっと木陰からその様子を見ていたのであろう、コダマが恐る恐る近づいて来た。

「おー、コダマか。どうだ。俺の姿は」

 ギンサに声を掛けられコダマは初め驚いたような目つきだった。そして、しげしげとギンサの顔姿を見つめた後で、ようやくそれと気付いた顔をした。

「お前、ギンサか」

「おお、そうだ。紛れもなくギンサさ」

「お、お前、人間になったのか!」

「あ? ああ、そうだ。俺は人間になった」

「ど、どうしてだ。どうして、人間なんかに」

「冗談だよ。これは仮の姿だ」

「仮の姿?」

 コダマは訝しがった。ギンサは天上界に何とか辿り着いたこと。そこで帝に会い、帝に命じられた使命があることを話した。

「狭手彦の生まれ変わりを捜し出す事は何とかなるにしても、七体の妖魔を退治するなど、お前に出来るのか」

 コダマは本当に友達思いだった。

「帝から授かったこの名刀、天牙の剣がある」

 ギンサは腰に挿した剣の柄に手を当てた。

「どうやって使うんだ。妖魔はただ斬っただけでは死なんと聞くぞ」

「この剣の切っ先から閃光が走り、それが妖魔に当たると冥界へ追放されるのだと、帝は仰せだった」

「試したのか」

「え?」

「試してみたのかと聞いておる」

「試してなどおらん。まさか帝が偽りを仰せられるとは思えん」

「偽りではなくとも、その剣にはそれなりの使い方というものがあるのではないか」

「使い方?」

 ギンサは少し不安になった。

「抜いてみろよ」

 コダマが促した。

「うん」

 ギンサは剣を抜いた。それ程重くは感じなかった。二三度振り下ろしてみた。刀身が草に触れると、草の破片が飛び散った。よく斬れる証拠であった。

「閃光はどうやって出す」

 コダマが聞いた。

「こう振り下ろせば、出る、筈だ」

 しかし、それから何度振り下ろしても、剣の切っ先から閃光が走ることはなかった。

「今妖魔が俺たちの前に現れたら、どう戦うんだ」

 コダマは腕組みして剣を振り続けるギンサを見つめた。

「何かのコツがあるのだろう。いずれ帝が教えて下さる」

 ギンサは剣を鞘に収めた。

「そんな事でいいのか」

「帝とて、俺がやり遂げる事を願っておいでなのだ。いざとなればきっと助けて下さる」

「お前すっかり帝贔屓になったようだな」

「悪いか」

「悪くはないが、わずか数日でこうも変わるとは、驚いたと言っているのだ」

「勝手に驚いてろ」

「俺も行ってやる」

「なに?」

「俺もお前の共をしてやるよ」

「無用だ」

「何故だ」

「俺には帝が約束された人間の共がいる」

「そいつは当てになるのか」

「なるもならないも、帝が仰せだ」

「お前すっかり帝の虜だな」

「当たり前だ。お前もあの天上界へ行って、あのお方の神々しさに触れてみろ。根本から考え方が変わる」

「ふーん……」

 コダマはニヤニヤしながら傍らで草を食んでいる馬に目をやった。

「この馬も天上界から降りて来たのか」

「そうだ。俺の友とせよと仰せられた」

「馬を友に?」

 コダマは笑って馬に手を伸ばした。すると、馬はそれを嫌うように首を払い、コダマから二三歩遠ざかった。

「コダマ。お前、馬に嫌われたようだ」

 ギンサがからかった。

「なんだと!」

 コダマはむきになって馬に近寄った。と、突然、

「そんな汚い手で気安く触るんじゃあらへんで」

 と馬がしゃべった。

「え!?」

 二人とも驚いた。

「さっきから聞いてりゃ、馬、馬言うて、わしにもちゃんと飛龍丸いう名前があるんや」

「へえー」

 二人とも開いた口が塞がらない。

「それに馬と雖も、わしは天上界のもんやで。邪気に扱いなや」

 飛龍丸は少し興奮したのか嘶いた。

「これは失礼しました」

 ギンサは頭を下げた。コダマは納得のいかぬ顔だったが、ギンサが無理矢理頭を下げさせた。

 そこへ犬が吠える声がした。振り向くと、千代が歩いて来る姿が見えた。

「千代」

 ギンサはいつものように彼女を見守った。だが、今日の彼女はいつもと違った。いや、本当に違うのはギンサの方だった。ギンサは人として千代の目に映っていた。千代はギンサに気付くと立ち止まり小さく会釈した。その仕草に驚いたのはギンサの方だった。これまで千代にその存在を知られた事などなかったのだ。戸惑い、どうすればいいのかわからなかった。

「お前も会釈を返せばそれで済む」

 ギンサよりは人間界に詳しいコダマが教えてくれた。ギンサはコダマに言われた通り軽く頭を下げた。

 犬のハヤテはギンサの妖しさに気付いたらしく、ギンサから少し離れたところで止まって盛んに吠えた。

「これっ、ハヤテ。お武家様に失礼ですよ。申し訳御座いません。お許し下さい」

 千代はハヤテを宥めながら頻りと頭を下げて詫びた。

「どうぞ、お気になさらずに。千代殿を守ろうとして吠えているのでしょう」

「え? どうして私の名前をご存知なのでしょうか」

 ギンサはしまったと思った。

「千代殿は家中では評判の器量良し。知らぬ者などおりません」

 なんとかうまくいい訳できた。しかし、それはコダマの入れ知恵だった。

「まあ、お上手ですこと。失礼ですが、お武家様はなんとおっしゃいますか」

「ギンサ」

「え?」

「あ、いや、池上銀佐と申します」

「池上様。……これからどこかへお出かけでいらっしゃいますか」

 ギンサの旅装束を見れば誰でもそう思う。

「はい。これから遠く相模は鎌倉まで参ります」

「それはお勤めご苦労様に御座います」

 千代は深く頭を下げた。

「では。先を急ぎますので」

 ギンサは会釈して千代に別れを告げた。

 しばらく歩いて、先程の余りにも愛想のない別れ様にギンサは少し後ろ髪引かれて千代を振り向いた。すると、千代は手を振ってギンサを見送ってくれていた。ギンサはそれに応えて手を振り、それからはもう振り向くことはなかった。

「どうだ、ギンサ。俺が付いていれば、何かと役に立つだろう」

 歩き始めたギンサの傍を飛びながらコダマが着いて来た。

「わかった。お前も一緒に来てくれ」

 ギンサは飛龍丸の手綱を曳きながらコダマに頼んだ。

「ギンサ。その馬には乗らないのか」

 風の精霊であるコダマは文字通りそよ風のようにギンサの後を着いて来る。

「馬って言うな言うたやろ」

 飛龍丸が憮然と言った。

「帝から無闇に乗るなと釘を刺されている。馬上にあるは火急の時だけだ」

「ふーん。なんの為の馬かねえ」

 コダマは首を捻った。

「馬言うな!」

 飛龍丸は嘶いた。

 ギンサたちは鏡山を下り一旦虹ノ松原に出た。この景勝地を目に焼きつけ、これから待ち受けているであろう苦難に向けて気持ちを引き締めた。

「人間の共とはどんな奴なんだろう」

 コダマが盛んに話を振って来てもそれはギンサにも想像付かないことだった。

「俺に最初に声をかけて来る男だということだ。それ以上は俺にもわからん」

 時折通りがかる通行人に注意を払いながらギンサは足を進めた。

 筑前との国境付近に差し掛かった頃、道の脇にしゃがんでいる男がいた。

「おい。あんなところで男が倒れているぞ。ひょっとしてあいつか?」

 コダマはギンサの肩を突っついた。

「違うだろ。ただ居眠りしているだけだ」

 ギンサたちは知らぬ顔して行き過ぎようとした。すると、

「助けて。助けて」

 男は呻くようにギンサたちに助けを求めた。

「おい。声を掛けて来たぜ」

 コダマは振り向いた。ギンサは足を止めた。

「まさか」

 ギンサも振り向いた。

「天命だ。お前の共はきっとあいつだ」

 コダマは一人頷いた。

「そうなのか……」

 ギンサは半信半疑だった。その男の元へ歩み寄り声をかけた。

「どうした。具合でも悪いのか」

 ギンサが声を掛けても男はただ頷くだけだった。

「腹でも痛むのか」

 ギンサの問いかけにも男は黙って首を微かに動かすだけだった。

「それではわからんぞ。何とか言え」

「……」

 依然男は黙ったままだった。

「ちっ」

 ギンサは相手にならんという顔をしてコダマを振り向いた。

「おい。こいつ何か呟いていないか」

 コダマが男の傍に寄ってその口元に耳を近づけた。

「なに? なんだ?」

 ギンサもしゃがみ込んで男の声に耳を傾けた。

「腹減った。腹減って、もうだめだ」

「え? あ、ははははは」

 ギンサもコダマも大笑いした。

「こいつはとんだ道連れだ。こんなやつがお前の相棒だとよ」

 コダマの大笑いに、一緒に笑っていたギンサは急に表情を変えた。

「こんなやつが大事な旅の道連れである筈がない。帝のご下命なのだぞ」

「しかし、こいつしかあるまい。帝の言われた最初に声を掛けて来たのは、こいつなのだから」

「そんな筈はない」

 ギンサは立ち上がって歩き始めた。

「おい。放っておくのか」

「知るかっ!」

「世は情けだ。人間界ではこうした行き倒れは放っておかないものだぜ」

「俺は人間じゃない」

「今は人間だろ。帝のご命令で人間になったのだろ。人間界の習いに溶け込まなければ、帝のご命令を果たせないのではなかったか」

「ああ。わかった」

 ギンサは後戻りした。

「だが、共とはまだ決まってはいないからな。こいつの素性をよく見極める」

 ギンサは男に肩を貸して立ち上がらせた。しゃがみ込んでいてわからなかったが、男は腰に刀を挿していた。侍のようだった。だが、その身なりからして、下級武士のようであった。年は若そうだ。人間界の年齢で二十歳を少し過ぎた辺りかとコダマが言った。

「飛竜丸。こいつを乗せてくれ」

「ええ? こんな卑しいやつをわしの背に乗せるんかいな」

「帝のご命令だ」

「せやけど、お前。今違う言うたばかりやないか」

「帝が仰せの共かどうかはわからんが、それは後で確かめる。しかし、もし帝が仰せの人間であったら、どうする」

「あいよ。わかった。乗せたらええがな」

 飛竜丸は渋々応じた。

 一行は前原宿を目指した。当初はもう少し足を延ばして宿泊する予定だったが、男の具合ではそこまでの旅程は無理なようだった。

 前原宿は肥前と筑前の国境に位置した宿場町である。肥前からの入り口(前原宿の西口)には関番所があって、関番と呼ばれる役人が通行人の身元を検分していた。男の身元は不明であったので、男の長刀をコダマが抱えて隠し脇差しだけ残し、男をギンサの中間に仕立てた。元より男は口も禄に聞けない程弱っているから、ギンサたちの企てに抵抗する術もなかった。しかし、馬に乗せたまま関番所を通れる筈もなく、また仕方なく男をギンサが担ぎ下ろし検分を受けた。

「仇討ちとな。これはご苦労に存ず。して、敵の姓名は」

「え? あ、はい……」

「如何した」

「あ、荒木叉重と申す豪の者で御座います」

「荒木又重……ふむ……」

 役人は思い当たる節がないという顔をして首を傾げた。

「三年程前に我が父池上作左衛門と口論の末喧嘩となりまして、その場は父に打ち伏せられましたところ、それを逆恨みに持ち、後日卑怯にも父を待ち伏せ騙し打ちして、そのまま出奔致しまして御座います」

「そうであったか。それはさぞかしご無念な事であったろう」

「それがこの程ようやく荒木の居所が掴めましたので、こうして鎌倉まで参る次第で御座います」

「おお。鎌倉におったか」

 まるで芝居の口上でも聴くように役人は身を乗り出した。いつの世も人の不幸は酒の肴になるのだった。まして仇討ちともなれば、こんな田舎では滅多にお目に掛かれる話ではなかった。

「拝見すれば、そこもとはまだお若いと思われるが、その荒木又重なる人物の人相はご存知なのか」

「残念ながら私は一度も会ったことはないのですが、この伊助が存じております」

「その伊助と申す者は具合でも悪いのか。先程からそこもとに寄りかかっておるが」

「はい。昔年の恨みがようやく晴らせるとばかりに、昨夜は深酒をしたようで御座いまして、これこの通りすっかり二日酔いで御座います」

「はっはっは。それは気の早いこと。いや、その様子ではちと気の毒じゃな。今夜はどちらに宿を取られる」

「はい。こちらの旅籠にと思っております」

「そうか。ならば、早く休ませて、鋭気を養われるがよかろう。どうぞ。お通りなさい」

「はっ。忝なく存じます」

 ギンサは一礼して伊助の肩を担いで関番所を出た。

 関番所を出たところで再び男を飛竜丸に乗せようとしていると、先程まで高見から見ていたコダマが下りて来て手を貸した。

「お前よくあんな出鱈目が言えたな。感心したぜ」

「俺自身不思議だよ。必死になれば、なんとかなるもんだな」

 ギンサは苦笑いした。

 一行は、関番所近くの旅籠日野屋では流石に気が引けて、宿場町中程にあった千福屋に宿を取った。

 宿の女中は小気味良くギンサたちを案内した。と言っても、コダマの姿は女中には見えない。大変だったのは男を二階へ上げる時だった。ギンサが背中に担ぎ、男の尻を女中が下から押し上げた。部屋に入るなり、女中は布団を敷いて男をそこに寝かせた。ギンサが男の腰から脇差しを取り、預かっていた長刀と併せて男の枕元に置いた。

「難儀ばいね。どげんしんさったとですか」

 慌ただしさの中で気づかなかったが、女中はなかなか器量のいい若い女だった。

「ちょっと具合が悪くてね。すぐに夕餉の支度はできますか」

 ギンサはまず男に何か食わせようと思った。

「はい。ただ今。ご用意いたします」

 女中は挨拶もそこそこに部屋を出て行った。

「いい女じゃないか。こんなだったら、俺も人間にしてもらおうかな」

 コダマはゴロリと横になった。

「馬鹿。俺たちには使命があるのだぞ。そんな気楽でどうする」

 ギンサはコダマを叱りながら、男の枕元に腰を下ろした。

「おい。気分はどうだ。もうすぐ飯が来る。腹一杯食わせてやるから、腹が落ち着いたらお前の素性を教えろ」

 男は起きているのか寝ているのか目を閉じていたが、首だけは少し動かせて頷いた。

 しばらくすると先程の女中ともう一人の女が膳を運んで来た。もう一人は期待外れの年増だった。コダマが大きく舌打ちしたが、幸いにも女たちにそれは聞こえない。

 ギンサは椀を男の口元まで寄せて箸で飯を掴むと男の口へ入れた。男は口に入った飯粒をゆっくり噛み、飲み込んだ。それを数回繰り返す内に男の噛む動作がしっかりとし始め、開ける口も大きくなって行った。そして、男自身が手を伸ばして来たので、ギンサは男を起き上がらせ、男の手に箸と椀を握らせた。男は弱々しく箸を使う手もおぼつかなかったが、その椀に盛られた飯を平らげる頃にはすっかり顔に精気も戻り、ギンサが膳を男の前に据えると、そのおかずにも箸を延ばすようになった。

「お、お代わり」

 男は椀をギンサに差し出した。ギンサは呆れた顔をしたが、その椀を受け取り米櫃の飯を盛ってやった。

「お前、名前はなんていうんだ」

 しかし、男は目の前の膳に夢中で、ひたすら食うばかりだった。ギンサは仕方ないとばかりに、男の腹が満足するのを待って、自分も食事を取った。人間の身体になって、ギンサは初めて空腹という感触を経験した。精霊でも木の実や魚を食べるが、それ程の量も必要なかったし、数日に一度食せば事足りた。現に、コダマは貪り食らう男の様子を好奇な目で見ている。

 男は二杯の椀飯と膳のおかずすべてを平らげ最後にお茶を啜った。そして、ふーっと大きく満足げに息を吐き出すと、やおら膳を横にずらしてギンサに頭を下げた。

「俺は、いや、拙者は佐々木宗介と申す。この度は危ういところを助けて頂き、お礼の言葉もござらん。誠に有り難く、この通り御礼申し上げる」

 宗介はそう言ってもう一度頭を下げた。平伏に近い頭の下げ様だった。

 ギンサはそれまで胡座をかいていたが、座り直さざるを得なかった。横にコダマも座った。ギンサに口添えしようという訳だ。そのコダマにギンサが目で合図した。どう切り出すのか早速助けを求めたのだ。

「お見受けしたところ、どこかのご家中のようですが、どちらのご家来か」

 コダマが伝えたようにギンサは宗介に聞いた。

「生国は相模に御座います。どこの藩かは仔細あって申し上げられません」

 コダマがギンサの肩を小突いた。そらこいつだという顔だった。

「相模? もしや、鎌倉辺りでは?」

 ギンサは身を乗り出した。

「いえ。それ以上はご勘弁願いたい」

「そうですか」

 ギンサは残念といった表情で上げかけた腰を下ろした。

「相模の方がどうして肥前の片田舎で倒れておいでだったのか」

 これもコダマの口移しだった。

「実は……」

 宗介はギンサの顔をじっと見つめた。いろいろと訳ありのようで、それを話すべきかどうか迷っているようだった。

「こうして助けて頂いた方に隠し事はよろしくないかと存じます」

 宗介は決めたという覚悟を表情で示した。

「拙者、いみじくも勤皇を志し、同志と共に相模を出奔して京都にてしばらく活動致しておりました」

「おお。勤皇の志士か。」

 コダマは感嘆の声を上げた。それを真似てギンサも感心してみせた。しかし、ギンサは勤皇の意味をまったく知らなかった。

「それが二月程前。同志の会合で、長崎平戸にある夷狄共の商館を焼き討ちする計画が持ち上がり、拙者もそれに加わり遠路平戸に到着したのが先月。それから準備を進めいざ決行という前夜に長崎奉行所に宿所を取り囲まれ、計画は破綻。その囲いをなんとか突破して命辛々逃げおおせて山野を逃げまどい、今こうして貴殿の前に生き恥を晒しておる次第です」

 宗介はそこまで話すとその時の無念がまたこみ上げて来たのか、すっかりしょげ返り涙を浮かべた。

「計画が事前に漏れていたのでしょうか」

 ギンサが言った言葉にコダマが手を振って注意したが、遅かった。

「まさか我が同志の中に裏切り者がいたとは思えません。まさか……」

 宗介は同志の一人一人を思い浮かべては、何度もかぶりを振った。

「我が同志に限って……」

 宗介の無念は一気に募った。膝に顔を埋め嗚咽した。なす術もなくギンサたちはただそれを見守るだけだった。そして、一頻り泣いて再び顔を上げた宗介の表情は先程までとは別人のように鬼気迫るものがあった。

 宗介は姿勢を正すと一つ大きく息を吐き出し着物の胸元を大きく広げた。コダマはその様子にただならぬ気配を察して、ギンサの袖を引いた。

「いかん。止めろ」

 コダマが言った。ギンサは何の事かわからなかった。

「かくなる上はこれ以上の生き恥は耐え切れん。腹かっさばいて先に逝った同志たちに三途の川で相見えん。こうして同席頂いたのも何かの縁。貴殿には介錯をお願い致す」

「早く止めろ!」

 コダマが叫んだ。

「え!?」

 ギンサはどうすればいいのかわからず中腰になったまま躊躇った。先に動いたのはコダマだった。宗介の背後に跳び移り両手で宗介を羽交い締めにした。しかし、悲しいかな精霊の力ではその動きを鈍くさせる程度で、宗介はコダマの必死な制止とは気づく筈もなく、着物の締め付けとでも思ったか上半身脱ぎ捨て、振り向いて枕元にあった脇差しに手をかけた。その拍子にコダマは振り払われ仰向けに倒れた。ようやく事の次第に気づいたギンサは宗介よりも早く脇差しに飛び込み、それを奪い取った。

「何をする!」

 宗介は怒鳴った。

「何をするもあるか! この刀でどうする積もりだ!」

 ギンサも応戦した。その間にもう一本の長刀も奪った。宗介の目論見は絶たれた。力なく腰を落とした。

「頼む。死なせてくれ」

 一転今度は懇願した。

「一度は助かった命ではないか。それをあたら無駄にしてどうする」

 ギンサは諭すように言った。

「しかし……」

 宗介は袴を両手で握りしめた。

「貴公の志はどうなる。死んで成就するのか。それでは亡くなった同志たちも浮かばれんぞ。貴公に後を託したのではないか」

 コダマが言った。それをギンサは宗介に繰り返した。

「申し訳ない」

 宗介は突っ伏し声を上げて泣いた。その様を見ながら、人間とはなんとも大げさな生き物だとギンサは思った。

 ギンサたちの騒動が部屋の外にも聞こえたのか、先程の若い女中が覗きに来た。

「何でもありません。心配かけた」

 ギンサはまた宗介に騒がれてはと思い女中を退散させた。

 ギンサは抱えた刀をコダマに預け、脱ぎ取られた着物を宗介の肩に掛けた。宗介は起き上がってそれに腕を通し、萎らしくギンサに頭を下げた。大泣きして感情が吹っ切れたのか、鬼のような形相は消え穏やかな表情であった。

「忝ない。貴殿には二度も救われた。何かお礼をしたいのだが、今の拙者に施す物は何もない。実に情けない」

 宗介はうなだれるばかりだった。その様子に、また騒動を起こされてはとギンサはむしろ警戒した。

「そうだ。先程の関所で、確か貴殿は仇討ちの旅であると伺ったが」

「え? あ、い、いかにもそうだが」

 意外な問いかけにギンサは少し慌てた。あの死に掛けた状態で話は聞いていたのだ。もしや、コダマや飛龍丸とのやり取りも聞こえていたのでは。ギンサの不自然な独り言としかこの男には聞こえていない筈だった。さぞかし変な男と自分を思っているのだろう、とギンサは思った。

「拙者に助太刀をさせては下さらんか」

「え?」

 ギンサは驚いた。

「元より無理にとは申さん。ただ、腕には多少の覚えがある。決して足手まといにはならん積もりだ。仇討ちとなれば、敵も用心しよう。助けは要りようと思うが、如何」

「ほら。やっぱりこいつがお前の共だ」

 コダマが嬉しそうに言った。ギンサはそんなコダマに一瞥をくれてやりながら、迷った。この男が本当に帝が予言した男なのか。まだ判断が付かずにいた。

「しかし、貴公には勤皇という大儀があるではないか」

 勤皇という言葉の意味はギンサにはわからなかったが、この男にとって大切な存在である事は推察できた。

「無論。その志は捨ててはいない。されど、時に武士の面目がそれに先んずる事もある。受けた恩義をお返しする事こそ先決。勤皇は、貴殿の本懐を遂げた後でもまだ間に合う」

 自分の言葉に酔いしれたように宗介はニヤリと笑った。

「ギンサ。こいつに間違いない。こいつがお前の共連れだ」

 コダマの言葉にギンサは心を決めた。まだ半信半疑ではあったが、この男を信用しようと思った。

「わかりました。助太刀お願いします」

 ギンサは宗介に頭を下げた。

「いや、こちらこそ。これからの道中お願い致す。情けない話だが、あまり持ち合わせを持っておりません。路銀の面倒も併せてお願いしたい」

 宗介は頭を掻いて両手を合わせた。それにはギンサが呆れた。結局そういう事だったのか。助太刀の申し込みや剣の腕前も当てにはならないかと思った。

「いや。仇討ちの助太刀は方便ではない。恩義に報いる拙者のせめてもの償いだ。それに、借りた金は必ず返す」

 宗介はギンサの顔色を目敏く悟って弁解した。

「実は先程、鎌倉の出身かと聞かれて、言葉を濁したが……」

「では……」

「いかにも鎌倉の生まれでござる。いや、生まれです」

 ギンサは帝が告げた共がこの男であるように思えて来た。

「これからの長い道中、わだかまりを抱かれたままでは、いざ敵に出会った時本懐遂行の邪魔となるやもしれません。拙者の素性を明らかにして、貴殿の不信を取り除いておく事が大事と心得ます」

 勤皇の志士とは回りくどい人間のことを言うのかとギンサは思った。

「拙者、このような出で立ちですが、生家は庄屋で、実は侍ではござらん。ただ、古く遡れば佐々木源氏の流れを汲み、残念ながら北条の滅亡と共に士分を失い、徳川の治世下にあっては代々の庄屋という訳です。従って、我が身体の奥には武家の血がふつふつと通っております」

 ギンサには訳のわからない理屈でどうでもいい事だったが、この男には譲れない出自のようであった。

「だから、実家に戻れば金はある」

 ああ、それが言いたかったのか。ギンサは冷笑するしかなかった。

「それに剣術道場にも通い、免許皆伝とは行かなかったが、それに近い腕前は保証します」

 聞けば聞く程、男に対する信用が薄れて行くようだった。

「わかりました。貴公の事は信用しましょう。鎌倉に着いたら、用立てた金は返して頂ければ結構。父の敵、荒木又重に巡り会えた暁には、どうぞよろしくお願いします」

 ギンサは心とは裏腹な事を言った。元々仇討ちの話はこちらの空事なのだから、鎌倉に着いた時の狭出彦探しに役立てばいい位の受け流しだった。

「心得た。どうぞ当てにして下さい。」

 宗介は満面の笑みで応えた。

「なんだ。勤皇かぶれか。妖魔退治に幾らか役に立つのかな」

 コダマの声も少しがっかりしたようだった。自分の思いも代弁してくれて、ギンサは苦笑いした。

「では。本日は貴殿の本懐成就に向けた門出だ。まずは一献。盃を酌み交わそう」

 宗介は立ち上がって部屋を出て女中に酒を頼んだ。人の金なのに図々しい奴だとギンサは呆れた。

 翌朝は頭が割れる程疼いた。これが二日酔いというものかとギンサは身を以て知った。人間界の酒という物を初めて口にした。精霊の間でも木の実を発酵させた飲み物はあったが、あんなに匂いのきついものでも、まして翌朝にこんな目に会った事もなかった。一口飲んであまり旨い物とは思わなかったが、宗介の勧めに応じる内にその味に慣れてしまったのか、麻痺したのか、知らぬ内に酔いつぶれ、朝を迎えていた。一方の宗介もギンサと同じ、いや、ギンサ以上に具合が悪そうだった。役人に言った出鱈目が今朝は現実となっていた。出された朝餉に箸を出す気になれなかった。できればもう一度寝直したかった。しかし、帝から与えられた日数に余裕はなかった。三月を越えてこのまま人間の姿でいれば、二度と元の精霊には戻れないのだ。七体の妖魔を冥界に送り、鎌倉では狭出彦の生まれ変わりを探し出し、しかもまたその者を鏡の里まで連れ帰り千代と娶せなければならない。鎌倉までの道中だけでも一月以上の道のりだった。旅の体力を養う為にも、ギンサは無理に飯を喉に流し込んだ。そんな二人を他所にコダマは朝の陽光を楽しむように宿の上空を旋回して帰って来た。

「今日もいい天気だ。」

 コダマは上機嫌でギンサの顔を覗き込んだ。

「顔色よくないぞ。どうした、ギンサ」

 コダマはギンサの二日酔いを知っていた。

「あまり飲み過ぎるからだ。俺が途中で止めたのも聞かずにいた罰だ」

「仕方ない」

 ギンサは憮然と答えた。とても笑える状態ではなかった。一方の宗介は知らぬ間に横になっていた。この宿に担ぎ込まれた時の様とまるで同じだ。

 それでも何とか旅装を整え出立した。途中、街道脇の林に幾度か駆け込む二人であった。お陰でその日の道中は散々なものだった。特にギンサは無理に押し込んだ朝餉が仇となった。補給する筈の朝飯が逆にギンサの体力を消耗させた。次の宿に着いた頃には、二人の姿は疲労困憊、見るも無惨であった。ギンサは二度と人間の酒など飲むものかと後悔した。


 萩の怪猫

 帝から授かった絵図には最初の妖魔の名前ニンガの文字が長門国萩にあった。

 初日こそ酒でしくじったが、それ以後は用心した。それでも宗介は飲みたがった。何かに付け理由を作っては酒を注文した。だが、ギンサが一切付き合わないので、彼の酒量も度を越える事なく、萩までの旅は順調であった。

 その頃、萩はまだ長州藩の政庁である。それからしばらくして政庁は山口に移る。阿武川の河口に出来た三角州。萩の城下はその小さな平野にあった。門司から下関へ船で渡り、そこから北浦街道を日本海側周りで歩いた。あの有名な吉田松陰は既にこの世になく、彼の教えを受けた門下生たちが幕末の動乱へ名乗りを上げ始めた頃であった。元よりそんな人間界の騒がしさなどギンサには関係ない事だった。しかし、宗介は感動しきりだった。

「何故萩に? 山陽を行った方が余程近いかと思うが」

 宗介は疑問を投げかけながらも、萩への迂回はむしろ歓迎する気持ちを隠せずにいた。

「こちらで片づけなければならない用事があるのです」

 ギンサが萩迂回の理由を言っても、宗介は自分で聞いておきながら町並みに目を奪われ上の空だった。

 宿に入り旅装を解くと、ギンサがコダマに目配せして、二人は宗介を残し部屋を出た。

「ニンガか。何物だ」

 ひとけを気にしながらコダマが口を開いた。コダマの声が人間に聞かれる事はなかったが、コダマと会話するギンサの声は知れてしまう。それへの配慮だった。

「わからん。この萩の何処に潜んでいて、何をしているのか、さっぱりだ」

 ギンサは腕組みして弱ったと首を傾げた。

「ここは俺がひとっ飛びして精霊たちに聞いて回ろう。ここらを根城にする風のものがいる筈だ。そいつらなら何か知っているかもしれない」

 コダマは飛び上がり茜色に染まりかけた空へ消えて行った。その姿を見送りながら、ギンサは友の有難さを噛み締めていた。

 コダマが宿に帰って来たのは夜だった。宗介は既に高鼾で、ギンサも床に就いてはいたがコダマの帰りを心配して眠れずにいたのだった。

「遅かったな」

 宗介に気遣いながら、ギンサはコダマの労をねぎらった。

「どうだった。何かわかったか」

「いやあ、まいった。ここら辺の精霊は頭が堅くていかん。俺を警戒するだけで、何も話しちゃくれん」

「それでは、収穫はなしか」

 残念がるギンサにコダマはニヤリと笑った。

「このコダマ様を見くびってもらっちゃあ困るね」

「なんだ。わかったのか。もったいぶるなよ」

「ニンガってやつは、猫だな」

「猫? 人間の屋敷で暢気に暮らしている自分勝手で気まぐれな、あの猫か」

「そう。その猫だ。だが、正体は化け猫だ。おそらく長く生きた猫に妖魔がとり憑いたのだろう。人間界では猫又というそうだ」

「猫又……どこにいる」

「日が明るい内は屋敷内で大人しくしているらしいが、夜になると本性を現して、路地裏などに潜み人間を襲って食うそうだ」

「恐ろしい奴だな。帝がご命じになるのも無理からぬ事だ。……よし。行くぞ」

「今からか」

「その猫又は夜に正体を現すのだろう。他の猫と変わらぬ姿では見分けがつかんが、夜ならはっきりわかる。今が好機ではないか」

「わかった。で、どうする」

「どこに潜んでおるのかわからんのだろうが、俺が歩いていれば必ずや向こうからお出ましになるさ」

 ギンサは帝から拝領した剣に一礼して腰に挿した。いよいよ戦いの始まりであった。武者震いしてギンサは部屋を出た。

 深夜の城下は静まり返っていた。時折遠くで犬の吠える声がした。月が通りを照らしていた。

「コダマ。相手は妖魔だ。人間と違って、お前の気配に気付くかもしれん。上空から様子を見ていてくれ」

「わかった」

 コダマは高く舞い上がった。

 ギンサはわざと通りの真ん中を歩いた。妖魔に自分の存在を知らせおびき寄せる為だ。剣の鍔にかけた左手で鯉口を切りいつでも抜刀できる準備をした。ギンサは真剣勝負は初めての経験だった。微かな物音に緊張が走り、その度に心拍数が上がった。剣を持つ手だけでなく、袖に隠した右手も汗を掻いていた。

 猫又とはどんな奴なのか。化け猫とは。人を襲う程なのだから、かなりの大物である筈だった。それを迎え打つにはどうするか。きっと相手は鋭い爪と牙で応戦して来る。それを受けるのか、かわすのか。いざ立ち向かう為にも、今の内に戦法を決めておくべきと思った。相手の体格が大きければその腕力に弾かれてしまう。まともに受ける事は危険だった。よし。かわす。かわして、かわして、その中で相手の隙を窺う。弱点はどこだ。およそ獣なら、腹が一番弱い部分だった。しかし、振り回す爪を掻い潜り腹に飛び込めるか。それは難しい。一か八かで勝負するには、もしもの代償が自分の命というのは釣り合いが合わない。帝が教えてくれた閃光の使い方がわかれば苦もないのだが。未だにそのきっかけさえ掴めないでいる。ただわかったのは、どんなに振り回したところでこの剣の切っ先から閃光のかけらも出ないという事だった。この時に至って、ギンサは焦った。帝から拝領した剣があれば鬼に金棒の気持ちであったが、いざ戦いを前にしてその最大の武器を使い切れない自分に苛立った。

「きゃっ!」

「わっ!」

 同時に男女の驚く声がした。振り向くと女が駆けて来てギンサの背後にしがみついた。一方、男の声がした方からは、その男らしき人物がギンサの方へ近づいて来た。ギンサは怪しみ身構えた。

「ま、待て。池上殿。俺だ」

 男は両手を振りながらギンサに歩み寄った。

「なんだ。貴公か」

 男は宗介だった。

「水臭いぞ、俺に内緒で何の夜回りだ」

 宗介に気取られぬように出た積りだったが、後を付けられていたようだった。

「実は、この辺りに怪猫が出るとの噂を聞き付け、その退治をせんと回って……」

 そこまで言いかけて、ギンサはふと背後の女が気になった。こんな夜中にこの女は何をしていたのか。そもそも物騒な夜に女の一人歩きなどある筈がない。もしや……

 ギンサは跳び下がりながら振り向いた。すると女は顔を上げニヤリと笑った。目が輝き、瞳が縦に細く見えた。猫の目だ。

「お前、ニンガか!」

 ギンサは剣を抜き放ち振り下ろした。しかし、それを女は軽くかわし後方に二三度宙返りした。ギンサは女を追い駆け太刀を浴びせようとするが、それを嘲笑うように女は素早く身を翻す。ギンサの剣は虚しく空を切るばかりだった。

「俺も助太刀するぞ」

 宗介は女の背後に回り込もうとしたが、それを逆手に女は宗介に飛び掛り、宗介の頭を踏み台にして高く商家の屋根まで飛び上がった。屋根の上から見下ろす女。そこへ上空からコダマが急降下して女に体当たりした。女は堪らず屋根から落ちたが、猫のように身体を捻り見事着地した。そこへあかさずギンサは斬り付けた。だが、女は仰け反って避け、そのまま走って暗闇に姿を消した。まったくそれは突然消えたようだった。或いは、猫本来の姿となって、路地に逃げ込んだのかもしれなかった。そうなっては厄介だ。ギンサは剣を鞘に収め、コダマを見上げた。しかし、上空からもその姿は見えず、コダマは見失ったと首を横に振った。

「い、一体何事なのか」

 宗介は女に踏み台にされた頭を手で押えていた。

「あの女が怪猫ですか」

「きっとそうです。あの身のこなし。人間ではない」

「しかし、池上殿は化け物退治もされるのですか」

「え? ええ、まあ。腕を上げる為。武者修行です」

「成る程。人の為にもなり、良い心がけですな」

「さあ、今夜はもう現れますまい。休むこととしますか」

「もしや。あの化け物を退治するまで、この萩に滞在するのですか」

「その積りです」

「ほう。そうですか。明日はこの佐々木にも声を掛けて下さい。お願いします。今日の仕返しをしてやらなければ、気がすみません」

 宗介はまた頭に手をやった。

「わかりました」

 ギンサは笑いを押し殺した。

 次の夜。ギンサたちは同じように通りを歩いたが、昨夜の女は姿を見せなかった。ギンサたちを警戒しているに違いなかった。

 翌朝。コダマが不思議な事を言った。

「あの女はどうも違う」

「違う? 何がだ」

 前夜の空振りで明け方近くまで見回りをして、宗介はすっかり疲れてまだ起きて来なかった。

「あの女がニンガなら、お前にしがみ付いた時点で女はお前を襲えた筈だ」

「おお、確かに、そうだ。ならば、あの女はなんだ。少なくとも人間ではないぞ」

「それ以上はわからん。調べてみないと」

「コダマ。もう一度聞き回ってはくれないか。夜回りして行き当たらぬのなら、先方のねぐらを襲うしかあるまい。ここで徒に日数はかけられんのだから」

「わかった。もう一度行って来る」

 コダマは風のように空へ飛んだ。

 コダマが戻って来たのは、ギンサが遅い朝飯を終えた頃だった。宗介はまだ正体なく眠りこけている。

「わかったぞ、ギンサ。ニンガは円光院で飼われていた猫らしい。もう三十年近く前のようだが、猫好きの住職がいて、何匹かの猫を飼っていた。ところが、その内の一匹が恩ある住職の喉首を噛み切って殺し、その生き血を飲んで化けたのがニンガということだ」

「なんと酷いことを。許せん奴だ」

「そんなことがあって、以来寺は空き家。今ではすっかり荒れ果てているようだ。逆に妖魔にとっては格好の隠れ家、案外今でもその寺のどこかに潜んでいるかもしれん」

「よし、行こう」

 ギンサは宗介を振り向いた。

「そいつも連れて行くのか」

 コダマは反対のようだった。

「仕方ないだろう。俺の助太刀なのだから。それに、本当の腕前も見ておきたい。いざという時役に立てば、それに越したことはないからな」

「本当に役に立つのかよ」

 コダマの嘆きに苦笑しながら、ギンサは気持ちよく眠っている宗介を揺り起こした。

 円光院はギンサたちの宿からそれ程遠くはなかった。城下町のほぼ中心にありながら、その荒れようはそこだけ人里離れた廃寺を思わせた。境内へ一歩足を踏み入れると、一種異様な臭いが漂った。その異臭は何かが腐敗したような、そこから中へ命ある者の侵入を警告するような臭いだった。

「こ、これは薄気味悪い寺だ」

 宗介は笑ったようだったが、表情はすっかり強張っていた。そして、本堂まで進むと、その痩せ我慢は一気に切れた。

「ひーっ!」

 息を吸い込んだまま吐き出せずにそのまま後ろへたじろぎ、ついには足が縺れて尻餅突いた。

「どうした。何が……」

 宗介が指差す方をギンサも見上げて一瞬息を呑んだ。本堂の戸口の上に大きな天狗の赤ら顔がぶらさがっていた。長く伸びたあの鼻がギンサたちを威嚇するようだった。

「作り物ではないか」

 そう言いながら、ギンサも最初は驚いた。

「い、いや。あの目は生きているぞ! よ、よせ! 近づくな!」

 宗介は制止したが、ギンサは歩み寄って手を伸ばした。そのままでは届かなかったが、飛び上がれば鼻先くらいには届きそうだった。コダマがギンサの代わりに天狗の鼻やかっと見開いた目に触れて見せた。どんなに触れても叩かれても天狗はその表情を崩すことなく不動だった。宗介の指摘は取り越し苦労だった。

「当院に何かご用ですかな」

 ふいに背後から野太い声がした。驚いて振り向くと、僧侶が立っていた。恐ろしく大柄で、包み込む僧衣がはち切れそうだった。白髪の顎鬚を蓄え、その顔も広くつやつや脂ぎって見えた。まったくこの廃寺には似つかわしくない恰幅の良さは、却って老人の怪しさを際立たせた。

「この寺はもう何年も空き家となっていると聞き及びましたが、ご住職がおられたか」

「いえいえ。拙僧は旅の者で、この寺が廃墟となっております旨を聞き、何かできはしまいかと数日前より勝手に逗留しておるだけでございます」

 僧侶は片手で拝む仕草を見せた。

「そうですか」

 頷きながらも、ギンサは警戒を怠らなかった。天狗の面と戯れていたコダマはふわりと浮き上がって僧侶が立つ庫裏の屋根に飛び移った。その様子を僧侶は微かに目で追い駆けたように見えた。人の目には見えない筈のコダマをこの僧侶は気付いた。やはりただの坊主ではない。しかし、ギンサは敢てそれに気付かぬ振りをした。

「私どもは物見遊山です。この寺に化け物が出ると専らの噂で、怖いもの見たさで遊びにまいりました」

 先程の僧侶の一声でいよいよ腰でも抜かしたか、宗介は地面でもがいていた。それにギンサが手を貸して、どうにか宗介を立ち上がらせた。何とも頼りにならない助っ人である。

「ほう。化け物でございますか。拙僧は数日前よりここに寝起きしておりますが、まだ一度もそのような物に会うてはございません。一体どのような化け物にございましょうや」

「猫です」

「猫? それはまた可愛らしい化け物でございますな」

「それが残念ながら、ただの猫ではありません。昼日中はよいのですが、夜になると本性を現し、夜な夜な人を襲っては食らうそうです」

「それはそれは恐ろしい。拙僧もいつかは食われるのでございますかな」

 言葉とは裏腹に僧侶は含み笑いした。仏門に帰依する者がそのような世迷言に心乱されることなどないと装った積りのようだったが、ギンサにはそう映らなかった。

「御坊の信心に化け猫も近づけないのでございましょう」

「そう願いとうございます」

 僧侶はそう言って低く念仏を唱えた。それが果たして本当の念仏なのか。きっとまがい物に違いない。真の念仏であれば、自分で自分の首を絞めることになる。

「それで? その化け猫は見つかりましたか」

 どこにもいる筈がないと言外に匂わせた顔つきだった。そう。他にいる筈がない。お前自身なのだから。ギンサはそう思ったが、それは胸の内に納めた。

「まだこれから探し出そうとした時に、御坊にお声掛け頂きました。失礼ながら、その庫裏の中を拝見出来ませんでしょうか」

「おお、そうでしたか。それはお邪魔しました。この庫裏をご覧になりたいと。拙僧の寺ではございませんが、今は誰もお務め致す者もない荒れ寺。誰も咎めだては致しませんでしょう。どうぞお入り下さい」

 そう言って僧侶は庫裏の扉を開け、我が身が先に入り後からギンサと宗介を招いた。宗介はすっかり怖気づいたようでギンサの背後にぴったりと寄り添い歩いた。ギンサは屋根上のコダマに目配せした。コダマは頷いて庫裏の向こう側に降りて行った。裏口から侵入して僧侶が本性を現した時挟み撃ちにする戦法だ。

 中に入ると悪臭は一段と際立った。台所を兼ねた土間から板の間に上がり、そこからもう一部屋奥の畳の間へ二人は通された。そこは十畳程の昔は書院として使われたらしい部屋だった。だが、今はその面影もなく、天井や壁はかび付き、襖は破れ、畳も朽ちて所々黒ずんでいた。悪臭はここで最高潮に達したのか、そのあまりの臭いに宗介は咽て咳き込んだ。

「御坊。よくこの中で平気でいらっしゃる」

 悪臭の強い刺激がギンサの目にも痛かった。

「これも修行の内でございます。三日もすれば意外と慣れるものでございます」

 ケラケラと笑った。まったく、化け物でなければ、怪僧であった。

「何もございませんが、お茶でも差し上げましょう」

「どうぞ。お気遣いなく。すぐに退散致します」

「ま。ゆっくりしておいでなさい。滅多に人の訪れることなどありません。拙僧も退屈しておりました。お見受けしたところ、この萩の方ではないようです。旅をなさっておいでか」

 僧侶は先程の板の間へ退がって、お茶の用意を始めた。姿はすっかり奥へ消え、あの野太い声だけが聞こえた。しかし、いつまで経っても火を熾す音などしなかった。この夏に火鉢はないだろう。どうやって湯を沸かすというのか。

 庫裏の中は昼間というのに薄暗かった。襖で間仕切られて隣に部屋があったが、その間仕切りも折角の襖が破れ抜けて、隣の部屋が筒抜けだった。ギンサはその破れ目に首を突っ込んで念の為様子を窺ったが、がらんとした何もない部屋だった。元に戻り他に目をやると、これまた破れ襖の向こうに廊下が見えて、そこにコダマの笑った顔があった。どうやら裏口を見つけ出しうまく侵入できたようだ。ギンサは頷いて見せて、コダマの視界が届く位置に腰を下ろした。

 畳は腐り、体重を掛けると泥沼のように沈んだ。宗介もギンサの隣に座って、同じように沈む気味悪さに驚き両手を後ろ手で突いたら、その手が手首の辺りまでめり込んで抜けなくなった。それをギンサが加勢して抜いていると、僧侶が戻って来た。

「どうされました」

「面目ない。両手が畳にめり込み、抜けなくなりました」

 宗介は照れ隠しに頭を掻こうにも、その手は畳にあった。

「お気を付けなされ。この畳は人食いやもしれませぬ」

「え!?」

 宗介は声を上げ必死でもがいた。

「戯言でございますよ。」

 僧侶はまたケラケラ笑った。この状況で性質の悪い冗談である。

 僧侶も加勢して、宗介は無事畳に食われることなく、両手は元に戻った。

「ようございました。お心鎮めに、これをお飲みなさい」

 僧侶は盆に載せた湯呑み茶碗をギンサと宗介それぞれに差し出した。そして、残りの一つを自分の前に置いた。盆には皿が一つ残っていた。それには野草のようなものが漬けられているのか山盛りに載っていた。

 ギンサが湯呑みを持ち上げると冷たかった。やはり湯は沸かしていなかった。顔に近づけるとぷーんと酒の匂いがした。それを宗介も勘付いたらしく、ギンサを振り向いてニヤリと笑った。

「御坊。これは酒ではないか」

「いかにも、御酒です」

 僧侶は平然と言ってのけた。

「お茶よりこちらの方がと思いまして。酒は百薬の長。僧門でも古来より般若湯と申して縁がない訳ではございません。ささ、どうぞ。遠慮なさらずに」

 僧侶は二人に勧めながら、毒見とばかりに湯呑みを傾けた。その様子を見て、酒癖の悪い宗介は辛抱堪らず湯呑みに口を付けた。ギンサが止めようとしたが、遅かった。僧侶が飲む酒と二人に差し出された酒が同じ物とは限らないのだ。ギンサは飲む振りをした。

「あーうまい。これは何と言う酒ですか」

 宗介は急に気が大きくなって、皿に盛られた漬物にも手を伸ばした。

「おお。これはいける。酒に合いますな」

「お気に入られたかな。これは拙僧としても嬉しい限り。まず、この酒は拙僧秘伝のものでございます」

「秘伝」

「それから、この漬物はわらびやなずなを塩揉みして寝かせ、これまた秘伝のたれを染み込ませたものでございます」

「いや。諸国を回っていろいろな美味いものを食されて来られたのでござろう。実に酒呑みの坪を押えた味でござる」

 先程までの小心者がすっかり影を潜め、宗介は瞬く間に飲み干した。

「ほう。こちらのお武家様は大分お気に召されたようでございますな。どれ、お代わりをお持ちしましょうか」

「おお。それは忝い」

「そちらの方はまだよろしいか」

「ええ。おいおい頂きましょう」

 僧侶は自分と宗介の湯呑みを盆に載せ、また奥へ引き篭もった。

「佐々木殿。佐々木殿」

 ギンサは僧侶に聞こえぬよう小声で宗介に呼び掛けた。

「ん? なんだ?」

 もう既に宗介はほろ酔いで上機嫌だった。

「言わずもがなだが、ここは敵陣の真っ只中。それを忘れては、不覚を取るぞ」

「え? ああ、わかってますよ」

 宗介は軽く応えた。ギンサはその受答えを見て、やはり頼みにならないかと溜息吐いた。

 ギンサは僧侶が戻らぬ隙に湯呑みの酒を畳に染み込ませた。この腐った畳なら、酒の臭いを充分に吸収してくれた。

「はいはい。お待たせ申し上げました」

 僧侶は笑顔で宗介の前に湯呑みを置いた。

 それからどれ程呑んだのか。僧侶は途中で奥から酒甕を持ち込んで、二人の酒盛りは賑やかだった。宗介に負けず劣らず僧侶も酒好きで、二人は競うように湯呑みを空けた。

 当然の成り行きで宗介は酔い潰れた。それを追うようにギンサも身体を横たえた。無論、酔っ払ってはいない。狸寝入りだった。呑む振りをしては僧侶を欺き酒を畳の染みに注いだ。

 それからすぐ、宗介の高鼾が聞こえて来た。そして、僧侶の鼾も。しかし、鼾を掻いて寝入った筈の僧侶はやがてその巨体を持ち上げ立ち上がった。その様子をギンサは薄目を開けて見ていた。部屋の薄暗さが幸いした。僧侶はやおら宗介に近づくと、足で宗介の身体を転がした。だが、すっかり眠り込んだ宗介はまったく起きる気配がなかった。そして、今度はギンサを足で転がした。ギンサは心得て宗介と同じくしっかり寝入った振りをした。

「ふんっ。他愛もない。人間どもめ」

 僧侶の顔が次第に毛深くなっていった。いよいよ本性を現すか。ギンサは剣の位置を目で確認した。ひと転びすれば届くところに剣はあった。

「おい。おうの。もう良いぞ。出てまいれ」

 僧侶は誰かに声をかけた。すると、どこに潜んでいたのか一人の女が現れた。一昨日の女か。あの時は月明かりではっきり見た訳ではないが、まず間違いなくあの時の女だろう。

「どうだ。人間どものだらしなさよ。まさか、お前に斬りかかったは、こいつらではあるまいな」

「こいつらだよ。あたいを斬ろうとしたのは、そら。そこの侍さ」

 女は指差してギンサを示した。

「ふん。ならば、今宵からはわしたちの邪魔をする馬鹿はおらなくなるのだ」

 僧侶はニヤリと笑った。その口から覗いた歯は人間のものではなく、鋭い獣の牙だった。

「ねえ、ニンガ。いつまでこんな事するのさ。あたいもう、嫌だよ。いい加減、和尚様の袈裟を返しておくれよ」

『ニンガ。この僧侶がニンガだったのか。やはり女ではなかった』

 ギンサは胸の内で呟き、得心した。

「おうの。わしとの約束を忘れたか。お前は人間になりたいとわしに言った。わしがその願いを適えてやる代わりに、お前はわしの手伝いをする約定じゃ。わしは千人の人間を食らうのじゃ。さすれば、わしには無敵の力が宿る。あの方がわしに約束して下さったのじゃ。そして、その千人まであと三人。もう間もなくわしに強大な力が授けられるのじゃ。いつもならば、お前の色仕掛けで愚かな人間どもをここへ誘い込んでおったが、今日は向こうからのこのこやって来よった。それも二人。これでいよいよ、わしの希望が適う時も間近に迫っておる」

「それが適ったら、和尚様の袈裟を返してくれるんだよね。きっとだよ」

「ああ。約束は違えん」

 ニンガは女の肩を持って抱き寄せようとした。それを女は振り払って二三歩逃げた。

「なにすんだよ!」

「わしとお前の仲ではないか。本懐成就の前祝に少し楽しませろ」

「冗談じゃないよ。誰があんたなんかと。この色狂い狢めっ」

「貴様。言わせておけば図に乗りおって。誰のお陰で人間になれたと思うのだ」

「こんな事をするくらいなら、人間になどなりとうはなかった。あたいはただ、あたいは……和尚様の傍にいられたら、それでよかったんだ」

 女は泣きじゃくった。

「何を今更申すか。お前とて同罪じゃ。わしに力が備われば、この世に怖いものは一つとてないわっ。さすれば、お前をわしの后にしてやる」

 ニンガがもう一度女に手を差し出そうとしたが、女は頭を振り頑なに拒絶した。

「ふんっ。まあ、よい。その内、逆らえんようになる」

 ニンガは不適に笑うとやおら僧衣を脱ぎ、裸になった。しかし、その身体は全身長い毛で覆われ、顔も見る見る口が尖り目が吊り上がった。狢だ。ニンガの正体は狢だった。

 ニンガはゆっくりと宗介に近づいた。その口からは夥しい涎が滴り落ち、鼻息も荒かった。ギンサは身体を転がせて剣を掴み、起き上がりざまにニンガに抜き払った。切っ先が鋭くニンガの右目を斬った。

「ぎゃーっ!」

 ニンガは轟く程の悲鳴を上げ、後ろに仰け反った。

「貴様。酔い潰れてはいなかったのかっ! 騙したな!」

「お互い様だ」

 ギンサはニンガとの間合いを詰めながら、宗介の前に立ちはだかり楯となった。片目を失ったニンガは後退りしながらも時折牙を剥いて威嚇して来た。一方、女はと言えば、二人の気迫に呑まれたか、ただ茫然と戦況を眺めている。そこへ女の背後からコダマが現れ女を後ろから羽交い絞めにした。

「おい、狢の親分さんよ。相棒は俺の腕の中だ。大人しく降参しな」

「ふん。そいつにもう用などないわ。好きにするがいい」

「あれま。つれないこと」

 コダマは女を解き放った。

「そう言えば、もう一人おったのだな。忘れておった。だが、所詮は雑魚ども。二人も三人も変わりないわ。いっそ、これでお前たちを食らえば、千人達成じゃ」

「残念。俺たちは人間じゃないもんねえ」

 コダマは背中を向けて尻を突き出し叩いて見せた。

「なにっ。貴様ら、人間ではないのか。いったい、何者だっ!」

 狢はうろたえた。

「森の精霊だ。俺がコダマで、そっちがギンサ」

「森の精霊? それがどうして人間界におる。お前たちの縄張りではあるまい」

「ある方のご命令で、ニンガ。お前を冥界へ追放する為に来た」

 ギンサは剣を斜め上段に構えた。この真剣勝負で、果たして剣から閃光は走るのか。不安だった。しかし、念ずるより他に手段はなかった。そして、神経を目の前に対峙するニンガに向けながらも、後ろ足で眠っている宗介を蹴り上げ、懸命に起こした。

「小癪な。誰の命令だ。辞世代わりに聞いてやろう」

「お前如きに教えられるか!」

 ギンサは拒否した。しかし、コダマは違った。

「天の帝だ」

 すると、ニンガは驚いて、思わず攻撃姿勢を崩したじろいだ。

「馬鹿な。そんな筈があるかっ。戯言を言うな!」

「信用出来ぬと言うのなら、見せてやろう。ギンサが持つ剣は帝から拝領したものだ。その切っ先から放たれる閃光でお前は冥界に落ちるのさ。ギンサ、今だ! 振り下ろせ!」

 コダマの叫びに構え直した一瞬の隙を突いて、ニンガはギンサに飛び掛った。慌てて振り下ろした剣は中途半端に力なくニンガの頭上を襲った。しかし、ニンガに軽く撥ね返され、その反動でギンサの手から落ちた。武器を失ったギンサはニンガの両手の下に組み伏せられた。凄まじい力にギンサの肩は腐った畳にめり込んだ。

「ふん。何が帝のご命令だ。そんな空言、わしが信用するとでも思ったか。精霊だと。面白い。お前は人間の姿をしておる。お前を食らっても、一人と数えて構わんだろう」

 ニンガは牙を見せて襲い掛かった。と、悲鳴とも気合とも付かぬ奇声と共に鈍く肉を突き刺す音がした。

「ううっ」

 ニンガが呻き声を上げた。覚悟を決めたギンサが目を見開くと、ニンガの脇腹に剣を突き刺した宗介の姿が見えた。

「うおおおお」

 ニンガは宗介を振り払い仁王立ちになった。その隙を突いてギンサは身体を転がしてニンガから離れた。しかし、ギンサの剣は運悪くニンガの足元に残った。ニンガは宗介の剣を脇腹に突き刺したまま歩き、ギンサに迫った。先程ニンガに振り払われた宗介はその勢いで壁に激突して気を失っているようだ。

「ううううう」

 呻き声を上げながらニンガはギンサに迫った。ギンサの腰には元からあの天牙の剣一本しかなく、今は丸腰だった。迫るニンガにギンサはじりじりと壁際に追い詰められた。牙だけでなく、鋭い爪がギンサの目に入った。

「ギンサーっ!」

 ニンガの背後からコダマが叫んだ。それと同時にニンガの股間を潜り抜けて天牙の剣が飛んで来た。コダマの声にニンガの気が取られた間にギンサは剣を拾い上げ、ニンガの腹目掛けて飛び込んだ。

「うぎゃっ!」

 ニンガは断末魔のような声を出したが、しかし、ギンサの両肩を鷲掴みにして振り回し、剣ごと放り投げた。そして、脇腹に刺さったままの宗介の剣も苦しそうに抜き取り、その場に捨てた。剣を抜いた二箇所の傷口からはどす黒い血が吹き出た。

「おうの。おうの。わしの袈裟を。あの坊主の袈裟を持って来い」

 口からも血を吐き出し、ニンガはよろめきながら脱ぎ捨てた僧衣の元へ歩いた。その後姿から狢の猛々しさは消え、長く伸びていた毛も縮み、もう一度僧侶に化けようとしていた。

 女はニンガに命令されるまま袈裟を掴み、しかし、それを胸に抱き締めると頭を振って、ニンガをかわしてギンサの元へ走った。

「ぬお。な、なにーっ」

 ニンガはよろめきながらも怒った。

「貴様。今になって裏切るか!」

「あたいは約束は果たした。あんたの人食いを手伝ったじゃないか。もう、あんな事はご免だ。この袈裟さえあたいの元へ戻ってくれば、あんたなんかに用はないさ!」

 威勢のいい啖呵とは裏腹にギンサにしがみ付く女の身体は震えていた。

「ぬああああ。覚えておけっ!」

 ニンガはまた狢の姿となって壁を突き破り外へ逃げた。

「逃がすか!」

 ギンサが追い駆けようとしたが、女がしがみついて動けなかった。

「な、何をする! 逃げてしまう」

 だが、女は黙ってギンサにしがみついているだけだった。それは女の長年付き合った狢への最後の手助けだったのか。

 ギンサの代わりにコダマがニンガを追い駆けたが、しばらくすると戻って来た。

「身体を小さく出来るのか、床下にでも潜り込んだか、どこへ行ったやら」

 そう言って首を振った。

「あたい、ニンガが逃げた場所知ってる」

 ギンサたちの追跡を邪魔した償いか、女がポツリと言った。

「そなた、名前は、おうの、か」

 ギンサの問いかけにおうのは小さく頷いた。

「人間の姿はしているが、本当は猫なのだろう?」

 これにもこくりと頷いた。

「あたい、昔この寺で住職をしていた和尚様に拾われたんだ。おうのって名前もその時付けてもらった」

「その恩ある和尚をどうしてお前は殺したのだ」

「違う。違うよ」

 おうのは激しく首を振った。

「あたいは和尚様を殺してなんかいない。やったのは……」

「ニンガか」

 おうのは頷いた。

「その恩人殺しとどうしてお前はまた人殺しの片棒を担ぐような真似をしていた」

「あたい……」

 おうのは泣き出した。

「あたい人間になりたかった。人間になって和尚様の娘になって、和尚様へ少しでも恩返しがしたかった。ある日あのニンガがやって来て寺にいたあたいの仲間を次々と食い殺した。そして、あたいも襲われた時、後生だから一度だけ人間になりたい、人間になって和尚様に恩返し出来たらその時に食い殺してくれって、頼んだんだ。そしたら、ニンガの奴、人間になるには、人間の生き血を舐めろって言ったんだ。だから、あたい、夜に和尚様が寝静まった頃を見計らって、和尚様の首を少し噛んで出た血を舐めたら、ニンガが押しかけて、そんなんじゃ駄目だって、あの強い爪で和尚様の首を掻き切った。いっぱい血が噴き出して、和尚様はもがきながら死んでしまった。ううううう。今でもあの顔は忘れられない。和尚様は悲しい目であたいのことを見たんだ。あたいが、あたいが悪いんだ。あたいがあんな事言ってニンガに命乞いさえしなければ、和尚様は死なずに済んだのに……」

 おうのは激しく泣きじゃくった。

「それからお前たちは死んだ和尚の血を舐めたのか」

「ニンガが脅したんだ。お前も同罪だって。お前が手にかけたのも一緒だって。だから、この血を呑んで、俺の手伝いをしろ、と。そうすれば、お前の罪は全部俺が引っ被ってやるって」

「お前がその袈裟に執着する理由はなんだ。どうもお前はその袈裟を取り戻す為にニンガの言いなりになっていたようだが」

「これは和尚様の形見。ある晩、あたいの夢枕に和尚様が立って言ったんだ。お前の事は憎んでないよって、お前の心はわかっているよって。ただ、心残りはわしの身体は狢に食い荒らされて今はなく、骨も散らばってしまった。せめてわしの袈裟を供養して欲しい、と」

「そうか。ならば和尚の供養をしてやろう」

 ギンサは気絶していた宗介を揺り起こし、二人して寺の隅に穴を掘りそこに袈裟を埋めて石を積み上げ供養塔代わりとした。おうのがどこからか線香を探して来て石積みの前に立てた。線香に火は点けられなかったが、三人、いや、コダマも入れて四人で和尚の冥福を祈った。

「これできっと和尚も成仏されることだろう。人に道を教え導く僧門を全うした者はそれだけで天上界へ昇天出来ると聞く。きっと和尚の魂は天上界へと今昇り行くに違いない」

「本当にあんたたちは人間じゃないのかい?」

 おうのの口を閉ざすようにギンサは彼女に指を当てた。そして、宗介に気取られぬよう小声で言った。

「あの侍だけが人間なんだ。だが、俺たちが精霊である事は内緒だ。コダマの姿はあの者には見えない。お前も俺たちに合わせてくれ」

「あたい頭悪いから、うまく騙せないよ」

「よく言うぜ。散々騙して来たくせに」

「あれは色惚けした野郎たちが悪いのさ。あたいだけの所為じゃない」

 確かにおびき出されて狢の餌食となった人間にも非はないとは言えない。食われた人間に悪いとは思いながら、おうのの言い分にも一理はあるかとギンサは思った。

「なにさっきから仲のよろしいことで。池上殿。この娘はもしや先程の化け物に囚われておったのか」

 宗介は事の事情を一切知らないようだった。それは、ギンサたちにしてもおうのにしても好都合だった。

「まだ紹介しておらなんだか。この娘さんはこの寺の住職に縁のある方で、名前をおうの殿と申される。酷いことに先ほどの化け物に住職は殺され、このおうの殿も人質としてこの寺で囚われておいでだったのだ」

「それはお気の毒に。しかし、ようござった。こうして無事に開放されたのだから。……はて? そなたとは以前にどこかでお会いしたように思うが……」

 一昨日の夜、宗介はこのおうのに頭を踏み台にされたのだった。ギンサは拙いと思い、違う話を向けた。

「佐々木殿。先程は貴公に危ういところ命を助けて頂いた。感謝申し上げる」

「いやいや。ようやく助太刀の役目が果たせただけのこと。礼には及びませぬ」

「いえいえ。あの一突きがなければ、今頃私はあの化け物の胃袋の中でした。誠にお礼の申し上げようもない」

 ギンサは深々と頭を下げた。

「あはははは。池上殿。そのようなお礼など、照れるではありませんか」

 満更でもない顔をして宗介は高らかに笑った。

「しかし、あの化け物は貴殿がお探しの化け猫だったのでしょうか。拙者にはどうも違うように見えたのですが」

 化け猫と言われて、おうのは俯いた。

「狢でした。あの僧侶に化けて私たちを食い殺そうと企んだのです。私は当初、化け猫の仕業と思っていたのですが、正体は狢だったようです」

「そうですか。それで? その狢はいったいどこへ?」

「逃がしてしまいました。ですが、貴公の剣を受けてかなりの深手を負っています。仕留めるなら今でしょう。幸い、狢の逃げ延びた先をこのおうの殿が存知おる由。早速これからそこへ向かいましょう」

「そうですか。拙者の一突きが効いておるのですな」

 宗介はまたにこやかに笑った。

 おうのが案内したニンガの棲み処は萩城下を東に離れた松本川の向こうだった。田畑を越え、僅かな平野に覆い被さるように迫る山々。その谷間を縫うように通る細い道をおうのは先導した。その頃になるともう陽は陰り、少し涼やかな風が日暮れの近づきを教えた。

「どうした、ギンサ。何か気になることでもあるのか」

 思案気なギンサの様子を目敏く察して、コダマが問いかけた。

「俺の思い違いならいいと思ってな」

 ギンサとコダマは宗介からやや距離を置いて後方を歩いた。その宗介は美人のおうのに鼻の下をすっかり長くして彼女に従うように歩いていた。

「思い違いって何だ」

「お前、気にならなかったか。ニンガが言った事を」

「ニンガが?」

「あいつ確かに、俺たちが帝の命令であいつを退治しに来た事を強く疑っていた」

「おお。そう言えば、そんな事を言っていた」

「それに、あいつに人間を千人殺すよう唆した者がいるとも言った」

「ああ。そうだ、そうだ」

「まさか……」

「まさか?……まさか、お前、それが帝だと言うのか?!……あり得ん」

「そうだろうか。あの妖魔であるニンガが『あの方』と言っておった。妖魔からそのような言われようをするのは、帝を措いて他にはなかろう」

「考え過ぎだ、ギンサ。そもそも帝はこの世を作り、この地上界に人間をお作りにもなった。その帝がどうしてご自身の分身とも言うべき人間を、それも千人も殺せとお命じになるものか」

「そうだろうか」

「なんだ、ギンサ。帝への信頼が揺らいだか」

「そう言うお前はやけに帝に好意的ではないか」

「馬鹿言え。俺は客観的に物事を見ているに過ぎん。帝は神だ。そして、ニンガは妖魔。闇の精霊だ。白と黒ほどに違う」

「コダマ。お前は簡単明瞭で悩みがなさそうで、羨ましいよ」

「結構な褒め言葉。感謝申し上げる」

 コダマは大袈裟に首を下げ、それから顔を上げると言った。

「そんな事より、まずは目前の敵を倒すことだ。もしかしたら、ニンガを追い詰めればその真実が見えるかもしれんぞ」

「そうであればいいが……」

 ギンサは喉元で痞えるモヤモヤを飲み込めずにいた。

 その山道をしばらく行くと、おうのは何やら探す仕草をした。そして、山道に枝を突き出した一本の栗の木を見つけると、その幹を目指して斜面をよじ登った。そこからはまったくの獣道で、おうのの案内だけが頼りだった。生い茂る木々に囲まれただでさえ光を遮る中、陽も沈み、辺りは次第に暗くなり始めた。

「急がなければ。闇は妖魔の力を増幅する」

 ギンサは自分に言い聞かせるように呟いた。

 木立の迷路を抜けると、ふいにぽかりと広がった場所に出た。木々の遮りがなくなり、陽は山際に隠れようと空を茜に染めていた。

「なんだここは。寺か神社の境内ではないか」

 宗介は辺りを窺った。

「やはりそうだ。あれは寺の本堂ではないか」

 夕闇に浮かび上がるように建っている建物を指差して宗介は言った。

「あんな獣道など通らずとも、参道があったのではないか」

 尤もな宗介の言葉だった。しかし、おうのの記憶には獣道を通った記憶しかなかったのだろう。おそらくその時の姿は今の人間ではなく、猫本来の姿であった筈だ。ギンサにおうのを責める気持ちはなかった。

 おうのは宗介の言葉などまったく気にもしないといった態度で、その本堂を通り抜け、裏側へ回った。その先は寺の境内を囲む塀が廻らされていて、しかし、所々朽ちて板塀が崩れ、その向こうに見える山の地肌が剥き出しになっている。おうのはその幾つか破れた板塀の一つを指差した。その破れ口から覗く山肌に大きな穴が開いていた。きっとニンガの棲み処に違いない。穴の奥行きは深く、まして夕闇迫る中では、中の様子はまったく窺う事など出来なかった。

「ここか。ここに潜んでいるのだな」

 ギンサの言葉におうのは黙って頷いた。それを境に緊張が漲った。ギンサも宗介もやや腰を落とし、剣の柄に右手を掛け、いつでも抜刀出来る体勢を取った。コダマは浮き上がり塀の上から穴を覗き込んだ。おうのはいつの間にかギンサの背後に回り込み、彼に寄り添った。

 ジリジリとした時間が流れた。息を潜めたギンサたちの耳に穴の奥からニンガのものと思われる呻き声が地鳴りのように届いた。確かにいる。だが、このまま待って、果たして敵はその姿を現すのか。穴は意外に狭く、中へ侵入を試みてもニンガの牙の餌食になるだけで、とても剣を使えるほどの広さはなかった。ニンガは既にギンサたちの気配に気付いているかもしれない。深手を負っている以上、不用意に現れる事はないだろう。おびき出すか。しかし、その手段は……。ギンサたちが考えあぐねていると、ふいに背後で声がした。

「君たち。こんな処で何の騒動だ」

 振り向くと、薄闇に提灯が一つ浮かんでいた。無論、化け提灯ではない。持ち主が暗がりで見えないだけだ。

 その提灯はカランコロンと下駄の乾いた音を響かせてギンサたちの方へ歩いて来た。騒動だと言っておいて、声の主は至って暢気な足音をさせていた。

「やあ、なんだか面白そうじゃないか。僕も仲間に入れてくれないか」

 君だの、僕だの、聞き慣れない言葉にギンサも宗介も小首を傾げて、その訪問者を迎えた。訪問者は近づくと提げていた提灯を持ち上げて顔に灯りを当てて見せた。

「僕はこういう者だ。君たちほど怪しくはない」

 目が吊り上がった利かん気の強そうな顔つきだった。頭にあるべきちょん髷がなかった。その断髪はむしろギンサやコダマのような森の精霊の特徴だった。しかし、着流し姿で現れたその登場はとても精霊とは呼べるものではなかった。

「おや。不審の目で僕を見てますね。まずは僕から名を名乗るべきか。僕は高杉、いや、今は東行と改名して隠棲の身です。そちらは?」

「名を名乗っている場合ではない。危ないから退がって。今に、あの穴から狢の化け物が出て来ます」

 暢気に話しかける男にギンサは警告した。

「もしや、貴殿は、高杉晋作殿ではありませんか」

 宗介が確めるように言って、男に近づいた。

「いかにも、その高杉です」

 男は何故自分を知っているのかという声だった。

「おお。あの高杉殿ですか。これはお会い出来て光栄でござる」

 宗介は抱きつかんばかりに高杉に近寄った。

「君は?」

 高杉は馴れ馴れ過ぎる宗介の態度に迷惑そうだった。

「これは失敬した。拙者は相模は鎌倉の出で、佐々木宗介と申す」

「鎌倉ですか。それは由緒ある土地柄ですな」

 高杉は鎌倉という土地には好意を寄せたようだった。

「実は、高杉殿が行ったえげれす公使館焼き討ちに刺激されて、我々も平戸の商館を襲撃せんと計画を立てたのです」

「おお。君も勤皇の志ある同志か。それで、首尾はどうだった」

「無念ながら、決行の前夜に奉行所の捕縛に会い、どうにか身一つ逃げ、今はこうして醜態を曝しております」

「そうですか。いや、いや。命あっての物種ですよ。生きてさえいりゃあ、きっとまた本懐を遂げる時が訪れる」

「高杉殿。貴殿にそう言ってもらえると、これまで痞えていたものが、こう、すーっと消えて無くなった思いです。いや、誠に、誠に有難い。感謝申し上げる」

 少し涙ぐみながら、宗介は高杉の両手を掴んだ。過剰に感激されて高杉は苦笑した。

「しっ」

 ギンサが二人に警告した。

「出て来るかもしれない」

 ギンサの言葉に、高杉も宗介も固唾を呑んだ。ピンと張り詰めた空気をニンガの呻き声だけが揺らした。しかし、いつまで経っても、穴の奥からニンガが出て来る気配はなかった。

 ギンサは姿勢を弛め、高杉を振り向いた。

「高杉殿。その提灯の火を貸しては下さらんか」

「構わんが」

 高杉の同意を待つことなく、ギンサは塀の板を外しだした。

「何をするのだ」

 宗介が聞いた。

「燻り出す」

 ギンサは作業を続けながら簡潔に答えた。

「成る程」

 宗介も高杉もギンサの加勢を始めた。高杉が持っていた提灯はおうのが預かり、男たちの作業を照らした。おうのはその提灯を高杉から渡される時ふと思った。死んだ和尚様に面影が似ていると。

 三人の男手なら木屑の山を拵えるのに造作はなかった。燃え上がり易いように小枝を下に敷き詰め、また三人各自が提灯の火を手に持った小枝に移し、その火を敷き詰めた枝に次々と広げた。パチパチと乾いた音を立て、火は次第に大きくなった。ギンサがコダマに合図した。コダマは頷いて、緩やかな風を起こした。そして、火勢が強まると徐々に風の強さも上げた。煙が立ち上がり、コダマが吹く風に乗って煙はニンガの穴へ吸い込まれた。

 たちまち苦しげに咳き込む音がした。

「来るぞ!」

 ギンサが叫んだ。その叫びに呼応するように地響きがした。うおおおおおおお。呻くような吠えるような恐ろしい声を上げてニンガは燃え盛る炎を突き破り突進して来た。その巨体の圧力に三人は剣を抜く間もなく、かわすのがやっとだった。ニンガは突っ込んだ勢いのまま本堂に激突した。その衝撃で屋根の瓦が崩れ落ち、激しい音を立ててその破片が辺りに飛び散った。ニンガの身体は本堂の壁も突き破り、その周囲は瓦礫の山となった。飛散する瓦や壁の破片が細かい塵のように舞い上がり靄となって視界を閉ざした。しばらくの静寂があった。瓦礫に埋もれたか、ニンガはその気配を消した。

「どうだ。死んだか」

 宗介が小声で聞いた。すると、その声を待っていたのか、靄を突いてニンガが宗介を襲った。

「わーっ」

 ニンガの鋭い爪が横殴りで振り回されたが、幸いにも空振りだった。だが、その拍子に宗介は重心を崩し地面へ背中から落ちた。初手こそ攻撃に失敗したが、今度は宗介に跨り押さえ込み牙を立てれば、宗介の命はなかった。ギンサは剣を抜いて、ニンガの背後から肩に斬りかかった。しかし、ニンガの背中は厚い鎧でも着込んでいるように硬く、剣は鈍い音を立てて撥ね返された。力いっぱい踏み込んだ分撥ね返された反動も強く、危うく剣を弾き飛ばされそうになった。

 ニンガはギンサを振り向き、宗介への攻撃から矛先をギンサに切り替え迫った。威嚇する声は呻きとも低く吠えているようにも聞こえた。じりじり迫り来るニンガに押されてギンサは少しずつ後退した。

「おい、化け物。獲物はそいつだけじゃないぜ」

 高杉が右横からニンガに石を投げつけた。すると、今度はニンガの背後から宗介が挑発し、さらに左にはコダマが立って大声でニンガを罵倒した。その声は宗介や高杉には聞こえなかったが、ニンガは反応した。ニンガは四方を囲まれ動きを止めた。ギンサたちが立てた炎がニンガの半身を明るく照らした。塞がっていた刀傷がまた開いて赤黒い血が噴出していた。ニンガの息は荒く苦しそうだった。

 おうのは板屑を集めては火にくべた。その炎の明るさがギンサたちを助け、ニンガを追い込んで行った。

「おうの、貴様っ。」

 ニンガは凄まじい形相でおうのを睨み付けた。その恐ろしさにおうのは暫し射すくめられたように動けなかった。

「おうのは改心したのだ。もはやお前の言いなりではない!」

 ギンサは声を張り上げた。その声はおうのを励まし、ギンサ自らも鼓舞した。

「うるさいわ! 貴様ら全員わしの晩飯じゃ。これで千人成就じゃ。わしはこの世で無敵になるのだ。おうの、後悔しても始まらんぞ!」

「ニンガ。お前に千人殺しを唆したのは誰だっ」

「うぬの知ったことか。知りたければ、貴様がまず獲物になれ。わしの胃袋に入って、ゆっくり溶けながら真相を確めるがよい。うはははは」

 ニンガは笑いながら腕を振り下ろした。鋭い爪がギンサを襲った。それをギンサは剣を払い上げて弾き、すぐに体をかわして横に跳び退がった。まともに受けていたら、その腕力で強引に打ち伏せられていた。ギンサに二の手を浴びせようとしたニンガの足元目掛けて高杉が斬りかかり、その攻撃を止めた。ギャっとニンガは悲鳴を上げた。足は背中程硬くはなかった。ニンガは足を斬られ、自ずとその行動範囲は狭まった。もう一方の足を宗介が狙ったが、ニンガの振り回す腕に阻まれ、なかなか踏み込めずにいた。

 膠着状態が続いた。ギンサたちが踏み込もうとすれば過敏に反応してニンガが吠えながら腕を振り降ろし威嚇した。一方で、ニンガは、傷口から流れ出る血潮が彼の体力を奪い、積極的に攻撃を仕掛けて来る事もなかった。あの時宗介が突き刺した剣がニンガの肺まで達したのか、呼吸する事さえ苦しそうだった。とどめを刺すなら今だった。しかし、天牙の剣をどう使えばニンガを倒せるのか、ギンサは剣の柄に力を込めながら焦っていた。すると、ギンサの心に声が届いた。

『ギンサ。ギンサ』

「え? 誰?」

『私』

 それはエンネの声だった。

「エンネ?」

『しっ。私の声はギンサにしか聞こえていないの。コダマにも聞こえない』

「え?」

 もう一度声に出しかけてギンサは口をつぐんだ。

『帝からお許しを得て、あなたにだけ私の声が届くのよ。あなたとだけは心の会話が出来ます』

『心の会話?』

『そう。あなたが私に言葉を伝えようと願えば、私の元にその声は届きます』

『そう。そうなのか。ああ、会いたい。声だけでなく、早くそなたに会って抱きしめたい』

『ギンサ。私の愛しいギンサ。私も早くあなたに会いたい。だから、心を落ち着かせて聞いて下さい。天牙の剣はただ振り回すだけではその真の力は生まれません。心を鎮めて無にするのです。気を剣先に集中させなさい。あなたの体内に宿る気が剣先に漲った時初めて、天牙の剣はそれに応えて光を放ちます』

『そんなこと、この修羅場で出来る訳が』

『落ち着いて。あなたの心が乱れていては、剣も応えてくれません。初めこそその使い方に戸惑っても、二度三度使う内に剣はあなたの身体の一部となって、あなたを救ってくれると帝は仰せになりました。剣と一つになるのです』

『エンネ。俺に出来るだろうか。この剣を使いこなせるのだろうか』

『ギンサ。自分を信じなさい。あなたならきっと出来ます。私が愛するただ一人の男だもの。あなたは一人きりではありません。いつも私が見守っています』

『エンネ』

 ギンサは目を閉じた。不思議と傍にいない筈のエンネの温もりを感じた。彼女の柔らかな肌に抱きすくめられる感触がした。

「ギンサ危ない!!」

 コダマの叫び声がした。目を開けるとニンガの鋭い爪が目の前にあった。次の瞬間、ギンサの身体は何かに弾き飛ばされていた。気づくとコダマの下敷きになって倒れていた。コダマが身を挺してギンサを救ったのだ。コダマの背中からは血が出ていた。ニンガの爪にやられたのだ。

「コダマ。大丈夫か」

「なに、かすり傷だ。これくらい大した事はない。うっ」

 コダマは気丈に笑ったが、表情は苦痛で歪んだ。

「すまん。この仇は俺がきっと果たす」

 負傷したコダマを横に寝かせながらギンサは毅然と立ち上がった。そして、再び剣を構えたギンサの顔つきはこれまでの彼とは違っていた。深く息を吸い込み心を鎮めた。ギンサは自分の傍にエンネを感じた。剣を持つ手に彼女の優しい手が添えられているのがわかった。自然と全身の緊張が解け、身体の芯から湧き出るような気を覚えた。それが燃えたぎるように熱を帯び胸元まで満ちると、たちまち波動となって腕に伝わった。剣が小刻みに振動した。淡い光が剣の柄元から剣先に延びた。

『今よ、ギンサ。剣があなたに応えた!』

 この間、ニンガの攻撃を宗介と高杉が懸命に踏み止めていた。

「どけ! 二人ともどくんだ!」

 ギンサは叫んだ。そして、剣を上段に構えた。ギンサの叫びに宗介たちは一瞬たじろいだが、彼の様子に驚いた表情で左右に別れた。ギンサは気付いていなかった。彼が眩しい程の光に包まれていることを。ニンガもその光に一旦後退したが、すぐに雄叫びを上げると光目掛けて突進した。

「ギンサーっ!」

 コダマが叫んだ。しかし、次の瞬間、ギンサが振り降ろした剣から光線が放たれ襲いかかるニンガの圧力を物ともせず跳ね飛ばした。ニンガは空中に浮き上がった。光がニンガの肉体を突き抜けていた。ニンガはもがき苦しみ手足をじたばたさせた。ニンガに突き刺さった腹部を中心に光が広がり、ニンガの全身を包んだ。ニンガの身体一面がひび割れ、全身に出来た隙間から光を放った。まるで燃え上がる藁人形のようにニンガの命は尽きようとしていた。それに抗うか、それとも断末魔の叫びか、ニンガは耳をつんざく程の悲鳴を残し、消えた。

 ニンガが消えたと同時にギンサは後ろによろめき倒れた。剣先から出ていた光もかき消えた。ギンサの全身を疲労感が襲った。呼吸は荒く、汗が吹き出た。

「どうなったのだ」

 宗介がニンガのいた辺りを窺った。コダマが這うようにギンサに近づき、その肩に手を当てた。

「やったな、ギンサ。ニンガは冥界に追放された」

 そう言って笑った。

「疲れた。こんなに疲れるとは。この先が思いやられる」

「まずは一匹だ。あと六匹。道中は長いぞ」

「それを言ってくれるな。疲れが倍増する」

 ギンサは苦笑いした。しかし、その表情は晴れやかだった。

『ギンサおめでとう。天牙の剣をあなたは使う事が出来たのね』

『エンネ。そなたのお陰だ』

『ううん。私はギンサの手伝いをしただけ。あなたの中にある力が天牙の剣をつき動かしたのよ』

『エンネ。ずっと傍にいておくれ。そなたを感じていれば、俺は何より心強い』

『ええ。いつでも私はあなたを見守っています』

『ありがとう、エンネ』

 ギンサは目を閉じた。すると、閉じた視界にエンネの姿が見えた。彼女はギンサの頬に触れ、そっと口づけした。それに安心したのか、ギンサは深い眠りに落ちた。


 ギンサが目を覚ますと、彼は座敷に寝かされていた。横には宗介が大鼾をかいて寝ていた。気になって起き上がると、部屋の隅にコダマも寝ていた。誰かが自分を担いでここまで運んでくれたらしい。コダマは手負いながら自力で着いて来たのだろう。しばらくすると高杉が部屋に入って来た。

「やあ、お目覚めですか、英雄殿」

 屈託のない顔で高杉はギンサの前に座った。

「ここは?」

 ギンサは不思議な面持ちだった。

「僕の庵です。あばら屋だけど、ゆっくりしていってくれればいい」

「これはすまない。厄介になります」

 ギンサは座り直し頭を下げた。

「なに。何もおもてなしは出来ないから、そんなに恐縮することはないさ」

 高杉は微笑んだ。

「それにしても君の剣は凄いな。銘は何と言うのかね。誰の作の物なのか、是非教えて頂きたいものだ」

「銘と言っていいものかわかりませんが、天牙の剣と呼んでおります。当家に古くから伝わる家宝です」

「天牙の剣……。そうですか。しかし、それは魔剣だな」

 高杉はギンサの枕元に置かれた天牙の剣を見つめた。その眼差しは好奇な物を見つめる目ではなく、じっと食い入るような一種異様な鋭さがあった。

「それがもし悪者の手に渡れば大変な災いを起こすでしょう。君は心してそれを守らねばならない」

「元より承知しています。この剣を手にした時から覚悟はしております」

 ギンサは昨夜の威力を目の当たりにして、その思いを一層強めた。

「聞いていなかったが、君たちはどういう一行なのですか。女連れというのも珍しい」

「私たちは仇討ちを求める者です。だが、おうのはこの萩で知り合っただけ。旅の道連れではありません」

「あの娘はおうの殿と申されるのか」

 高杉の表情が急に和らいだ。おうのに少なからず関心があるようだった。

「そう言えば、おうのはどうしていますか」

「別室で休んでもらっています。ご安心下さい」

「不躾ですが、あの娘は身拠りがありません。もし差し支えなければ、ご当家にお預かり頂くことは出来ませんか」

「それは構いません。このような処で良ければ、僕はいいですよ。あとは本人の気持ちですが」

 高杉は二三度頷いた。そして、腕組みすると、一つ咳払いした。何か重要な相談を切り出そうとしていた。

「ところで、話を戻して申し訳ないが、その仇討ちというのは、宛がある話ですか」

「相模は鎌倉に敵がいるとの噂を聞きつけ、向かっている途中です」

「鎌倉。そう言えば、その隣で寝ている佐々木君は確か鎌倉と言ってましたね。その伝ですか」

「いいえ。佐々木殿は道中で行き倒れになっていたところを助けて、その恩に報いようと助太刀を買って出て下さった訳です」

「おお。それは情に篤い人だ。なかなか勇敢そうで、何よりの加勢ではありませんか」

 高杉は盛んに頷いた。しかし、その表情は宗介の義理堅さに感心すると言うよりも、何か言いたくて言い出せないもどかしさの現れのようだった。

「何か相談事でもあるのですか」

 ギンサは自分に出来る事ならと話を向けた。その言葉に高杉は有難いとばかりに口角を上げた。

「実は、君もご存知の事と思うが、今、日本国は将に危難の真っ直中にある」

「申し訳ない。私はまったく世情には疎くて」

「そうですか。ならば、簡単に概略を説明しましょう。先年、めりけん国のペルリなる輩が四隻の蒸気船を引き連れて浦賀に来航して来た事はご存じか」

「はあ、まあ」

 ギンサは生返事をした。実際、精霊であるギンサにその件は知る由もなかった。

「かの者が武力を以て幕府に開国を迫って以来、我が日本国は開国か攘夷かで大きく揺れ動いている。勿論、我が長州は攘夷である。その証として、僕は同志と共にえげれす国の公使館を焼き討ちした。さらには、先日、馬関海峡を封鎖して異国船への砲撃も敢行した。あいつらは幕府の弱腰を良い事に難題を突きつけ、日本国を食い物にせんと押し寄せて来ている」

 高杉の弁は熱を帯びギンサに覆い被さって来る勢いだった。そして、気付くと、いつの間に起きたのか、宗介がギンサの横に座っていた。

「そもそもは幕府の弱腰がいかんのです。幕府さえもっとしっかりしていれば、水際でこのような事態は防げた筈だった」

「確かに」

 宗介が相槌を打った。それに高杉は強く頷いた。

「従って今、畏れ多くも帝の勅命を賜り」

「帝?」

 ギンサは思わず声を出した。

「え?」

 意外なギンサの反応に高杉だけでなく宗介もギンサに呆気に取られた。

「い、いや。何でもありません」

 ギンサは慌てて手を振った。盛り上がった話の腰を折られて、高杉は気を持ち直した。

「ああ、どこまで話したか……」

「帝の勅命を賜り」

「そう。そうだった。畏れ多くも帝の勅命を賜り、幕府に攘夷決行を迫り、その先陣を切って長州が馬関を封鎖して異国の輩共を追い払ってみせた。しかし、これはまだ序の口に過ぎない。この後、長州に続く雄藩が続々と出て来る。そうなれば、如何なる異国と雖もこの日本国に近づく輩は霧散霧消。延いては、この機に名乗りを挙げた雄藩が連合すれば、もはや幕府など無用の長物。我々が取って代わる日もあるやもしれん」

「え! 幕府に代わるのですか!」

 宗介が声を上げた。それを高杉は慌てて手で制した。

「しっ。この長州には幕府の間者が入っているやもしれん。大声は禁物だ」

 高杉が忠告したが、それ以前に、もし間者がこの屋敷のどこかに潜んでいたら、既に高杉の言葉は筒抜けであったに違いない。だが、次々と攘夷を行う高杉の姿は先駆者として宗介の羨望の的だった。宗介は素直に高杉の忠告に従った。宗介は小声で先輩高杉に聞いた。

「高杉さんの言われる通りなら、いずれ幕府を倒すことになるのですか」

「そうは言わない。そうなれば、戦となる。今、日本人同士で争っている場合ではない。一度は追い払ったとは言え、日本で戦が起きたと知れば、また異国共はそれに乗じて侵略の手を差し延べて来よう。それはあいつらの思う壺です。それは断じて避けねばならん。僕が言っているのは、世の流れとして幕府など不要と言っているのです。今や幕府など瓦礫の山に過ぎない。見た目は巨大でも、中身は空洞だ。こちらから攻めずとも、近い内に自ら倒壊するでしょう」

「幕府が倒壊。高杉さん。貴殿は凄い事を言われる」

 宗介は腕組みして何度も頷いた。彼はすっかり高杉に心酔したようだった。

「それで、その攘夷とかと私がどんな」

 関わりがあるのかと、ギンサは聞いた。まさか天牙の剣をその為に使おうとでも言うのか。ギンサは嫌な予感がした。そして、その予感は的中した。

「君が持っている剣の威力は素晴らしい。先程も申し上げたように、その剣がもし悪者、異国であれ幕府であれ、そんな者共に渡ってしまえば一大事だ。是非とも我が長州、いや、この日本国の為に使わせて欲しい。頼む。この通りだ」

 高杉は畳に手を突き頭を下げた。

「ちょっと待って下さい。私は仇討ちという大業を果たさなければなりません」

「それを承知で、無理を承知で頼んでいる。その剣があれば、攘夷は事もなく完遂出来る。如何に長州を始めとした各雄藩の兵が優秀でも、異国との戦となれば多くの血が流れる。その血を少しでも流さずに済む為には、その剣が必要なのだ」

 高杉の言葉はギンサの心に響いた。彼は動揺し、しかし、一方で困惑した。仇討ちは方便だが、天の帝に背く訳には行かなかった。世に潜む妖魔を退治することは、高杉が言う人間の命を救う事でもあるのだ。そして、高杉は人間の命を救うと言いながら、一方で人間たちを戦に向かわせようとしている。矛盾ではないか。そのような事にこの天牙の剣を使う事は、決して天の帝は許して下さらないだろう。ギンサは思案した。どう旨く断ればいいのかを。だが、良い言葉が浮かばなかった。こんな時、コダマなら、どんな口添えをしてくれるだろう。しかし、頼みのコダマは未だ深い眠りの中にあった。たとえ今起きてくれたとしても、事の子細を説明する暇もなかった。高杉は平伏したままギンサの答えを待っている。その面を上げない姿勢がギンサを威圧した。ギンサはいよいよ追い詰められる思いだった。

「池上殿。何を迷うておられる。日本国の為ではないか。武士だけでなく、民百姓も救えるのじゃ。迷う事など微塵もないではないか」

 宗介がギンサの肩を揺すった。

「しかし……」

 ギンサは二の句を告げられなかった。そして、苦しい胸中で無意識にエンネに問いかけた。

『エンネ。エンネ。俺はどう答えればよいのだ』

『ギンサ。私の愛しいギンサ』

 エンネはすぐに答えてくれた。

『あなたの考えは正しいのです。その方たちの言っている事は、一方で正しいのですが、一方で間違っています。その方たちは自分たちの思いに囚われ真実を見失っています。その方たちの暴挙に天牙の剣を使ってはなりません。帝は決してお許しにはなりませんよ』

『では、どうすれば、どう俺はこの二人を説き伏せればよいのだ』

『説き伏せるのではありません。無理押しすれば、考えの違うその方たちの反発を招くだけです。あなたは在りのままにお話をすればよいのです。そして、毅然として、真っ直ぐ前を見据えて、お話しなさい。きっとわかって下さいます』

『在りのままを? 本当に在りのままを話すのか』

『そうです。でも、あなたが精霊である事は伏せねばなりません。それは理解されないでしょう。ですが、昨夜のニンガはお二人共見ています。妖魔の存在は揺るぎない事実です。その事をお告げなさい。あなたに与えられた使命をお話しなさい。大丈夫。あなたの誠意はきっとお二人に伝わります。私を、そして、あなた自身を信じて』

『わかった、エンネ。やってみる』

 ギンサはエンネの言葉を噛みしめ背筋を伸ばした。

「高杉殿。どうかお手を上げて下さい」

 落ち着いたギンサの声に促されて、高杉はゆっくり上体を上げた。その様子をギンサはじっと見つめ、決して視線を逸らさなかった。高杉もギンサの目を鋭い視線で見つめ返した。

「やはり、このお話はお受け出来ません」

「池上殿!」

 宗介がいきり立った。それを高杉は目で制した。その目に押さえ込まれるように、宗介は腰を落とした。

「私には使命があるのです。この話は佐々木殿にも打ち明けてなく、申し訳ない」

「え? では、仇討ちの件は偽りだったのか」

 再び宗介は腰を上げかけた。それを今度は高杉が手で制した。

「最後まで池上君の話を聞きなさい」

 静かだが、威厳ある態度だった。

「いいえ。仇討ちは偽りではありません」

 ギンサは敢えて嘘を吐いた。これからの道中、仇討ちの大義名分は宗介との関係を保つ上で吐き通すべき嘘と決めた。ただ、今回の攘夷話で宗介が高杉に従ってしまえば、それは無駄になってしまう事だった。

「どんな使命なのか、聞かせて頂こう」

 高杉は落ち着き払っていた。或いはもう、彼の中で腹は決めているのかもしれなかった。

「昨夜の化け物。お二人もしかとご覧になった筈です」

 高杉も宗介も頷いた。

「あれは妖魔と申します。あのような化け物がまだ全国各地に潜み、人間を襲っては害を及ぼしております」

「妖魔。あんな化け物がまだ幾らもいるのですか」

 宗介が口を挟んだ。高杉は何も言わずじっとギンサを見据えたままだ。

「そうです。そして、その妖魔たちを私は鎌倉に向かう道中、退治して行かねばなりません」

「どうして君がそんな責務を果たさねばならんのだ」

 心配するよりも、やや憮然とした言い方を高杉はした。

「それが私の使命、いえ、天命だからです」

「天命?」

 高杉はその言葉に少なからず驚きの表情を見せた。

「或る夜のこと。私の枕元に天の帝、つまり、神がお立ちになりました」

「神!」

 高杉は思わず声を上げた。

「ええ。そして、私にお告げになったのです。全国に散らばる妖魔を平らげよと。その使命を果たした末に、そなたの仇討ちは見事成就するであろうと。その使命を遂げるべく、この剣と馬を授けると。ですから、申し訳ない。先程申し上げた当家の家宝というのは、偽りです」

 ギンサは天牙の剣を手に取った。

「その剣は神から授かった剣と言うのか」

 高杉は不思議な眼差しをギンサが手に持つ剣に注いだ。

「馬と言うのは」

「宿にいます。しかし、あれが神馬と言うのは、直ちに信じられん」

 宗介は盛んに首を傾げた。

「それから、これが同じく授かった妖魔が潜む場所を示す絵地図です」

 ギンサは懐から差し出した。それを高杉は好奇な目で食い入るように見つめた。宗介も腰を上げ高杉の隣で見つめた。

「成る程。昨夜の化け物を見ていなかったら、このような話信じるものではないが、今となっては信じるしかあるまい」

 高杉は絵地図をギンサに返した。

「信じて頂き、有難く存ずる」

 ギンサは高杉に頭を下げた。

「頭など下げる事はないさ。君の大役はこの高杉しかと納得した。僕には僕の役目があるように、君にも君の使命があるのだ。今回の件はどうぞ聞き流してくれたまえ。むしろ、君には余計な心を使わせてしまった。どうか許して欲しい」

 今度は高杉が頭を下げた。そして、頭を上げた高杉とギンサは目を合わせると一様に笑った。それを追いかけるように、宗介も笑った。

「なに。君のその剣がなくとも、我々が見事異国の侵略からこの日本を守ってみせるさ。いずれ幕府もそう遠くない日に瓦解するだろう。だから、安心して下さい。君のご武運をこの長州の地から祈っています」

「忝ない」

 ギンサは心から高杉に感謝した。

「ところで、君はどうする」

 高杉は宗介を振り向いた。急に話を振られて、宗介は面食らった顔をした。

「どう、するとは?」

 高杉の意図を宗介はすぐに呑み込めないでいた。

「池上君の使命は大変そうだ。一人でも多くの加勢が必要だろう。この長州から幾らかでも兵を出せれば良いが、先程からの事情で出したくても出せない。君は元々池上君への恩義で仇討ちを買って出たそうじゃないか。妖魔退治という大役も増えたが、仇討ちとそう大差はないだろう」

 無茶な比較だったが、高杉の真意はすぐにギンサにはわかった。盛り上がった攘夷熱に絆されて宗介がこのまま長州に止まる事を牽制してくれているのだ。一人でも多く同志を募りたいところを堪えて、高杉はギンサの為に宗介を説こうとしているのだった。

「そんな。あのような妖魔がこれからどれ程現れるのか、知れんのですよ」

 宗介は弱り顔だった。

「妖魔も異国人も変わりはないさ。どちらも得体の知れないものだ。僕は異国人を成敗する。君は妖魔を成敗してくれたまえ」

 高杉の強い眼差しが有無は言わせないと宗介を圧倒した。それを受けて初めは戸惑っていた宗介も、すぐに気持ちを切り替えたか、覚悟を決めたとばかりに背筋を伸ばした。

「わかりました。もう迷いはありません。一度は池上殿の仇討ちに助太刀すると誓ったのです。武士に二言はありません。ただ」

「ただ?」

「妖魔を退治し、仇討ちも本懐を遂げた時、もしまだ異国との戦火にあれば、高杉さん。この佐々木宗介、再び長州に馳せ参じ共に戦いたい。この願いお聞き届け下さいますか」

「無論だ。佐々木君。喜んでお迎えしよう。約束する。その時は誰よりこの高杉晋作をお訪ね下さい」

「忝ない。忝ない。そうすれば、我が思いに限らず、過日無念にも散った仲間も草場の陰で喜んでくれる事でしょう」

 言いながら宗介は男泣きした。その様を見ながら、高杉は苦笑していた。同じ勤皇の志士でも、それぞれの人間がいるものだとギンサは思った。

 翌朝、ギンサたちは高杉の庵を立つことにした。コダマはまだ痛みはあったが、飛べない訳ではなかった。高杉の使用人が早くにギンサたちが泊まっていた宿に出向き、飛龍丸を連れて来た。飛龍丸は不機嫌だった。当然だった。丸一日放ったらかしになっていたのだから。また先の道中が思いやられた。

 見送りの中におうのの姿もあった。

「元気でな。無事本懐を遂げたら、また立ち寄る」

「きっとだよ。待ってるからね」

 おうのは泣きじゃくった。高杉がそんな彼女の肩に手を掛けて慰めた。

「そうだ、池上殿。妖魔退治も仇討ちも早々に片づけてまた萩に舞い戻り、その剣で異国共を蹴散らしてやりましょう。それならば、貴殿も異論はあるまい」

「え? ええ、まあ……」

 話をぶり返した宗介にギンサは困惑した。それをすぐに高杉が助け船を出した。

「佐々木君。君らがまたこの萩を訪れた時は既に平和な萩になっているよ。異国成敗にそれ程の時間はかからんだろう」

「そうですか?」

 宗介は何とも残念な顔をした。そのしょ気返った姿に皆笑った。この和やかな人々の笑顔がずっと続けばとギンサは願った。その為にも、自分は妖魔を一日でも早く退治しなければならない。気持ちを新たにするギンサだった。

「池上君。君とは是非酒を酌み交わしたいと思っている。帰りには必ず僕を訪ねてくれたまえよ」

「はい。すべてを成し終えた暁にはまた再会しましょう。だが、私は少し酒が苦手です」

「拙者がその分お相手仕ろう」

 宗介が横から口を入れた。

「佐々木君。今度萩へ来るまでに、池上君の下戸を治しておいてくれるか」

「心得た!」

 宗介の安請け合いに一同はどっと笑った。

 この高杉との約束は結局実現されなかった。高杉にとって萩での隠遁生活は束の間の安らぎだった。この翌月、藩命により萩を離れた高杉は以後諸国を奔走し、二度と萩に戻ることはなかった。だが、今の彼らにそれを知る術はない。互いに再会を誓い別れる彼らだった。


 闇に蠢く二つの邪悪な炎があった。朧に青白く、二つの炎は重なり合っても燃え上がらず、ゆらゆらと何かを求めて彷徨うかのようだった。


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