05.悪魔は目覚めた
SSR……?
その悪魔は、狩人の姿をして現れるという。
序列は八位。得物は弓矢。
動物の言葉を解し、高貴な四人の王を従える。
その悪魔、名を―――
「―――我が名はバルバトス。七十二の悪魔が一柱なり」
◆
―――その輝きを、美しいと思った。
開放された魔力が、琥珀色の光となって迸る。気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな程に激しい魔力の奔流。山が震えるような錯覚を覚える。
その中で俺は、呼吸も忘れて目の前の光景に見惚れていた。
描かれた魔法陣は、変わらず琥珀の光を放ち続けている。まるで、心臓の鼓動のよう。
輝きは秒をまたぐごとに力を増し、やがて鮮烈な光が空間を飲み込む。
瞼が焼かれたかと思った。
────ようやく取り戻した視界。
そこにあったはずの人形は光となって弾け、消えた。
そして──────
「───────」
魔法陣の中央に、一人の少女が佇んでいた。
艶のある長い黒髪。
同じく長いまつ毛と、大人びた綺麗な顔立ち。
背格好から見ても、歳は十六、七ほど。俺と同じ程度か。
身に纏うのは、灰色のマントと見慣れない服。狩人の着るものに似ていた。
―――まるで美術品のような、均整の取れた綺麗な身体だ。
肌は磁器のように白く、闇の中に映える。スレンダーな身体付きをしているが、そのシルエットは女性らしく丸みを帯びていた。
やがて少女が目を開く。
琥珀色の瞳が俺を見た。
「―――我が名はバルバトス。七十二の悪魔が一柱なり。……人間、私を喚んだのはお前か?」
凛とした、冷涼な声。
思わず聞き惚れる。
「おい、聞いているのか?」
「え、ああ……。ごめん、何だって?」
「私を召喚したのはお前か、と訊いているんだ」
「えっと……俺、です。はい」
何故か敬語。この少女―――バルバトスの放つ独特なプレッシャーのせいだろうか。
いや、プレッシャーもそうだが、この美貌。
まるでこの世のものとは思えないほど美しい。爪の先から髪の毛の一本まで、全て神が計算して創ったのではないかと疑いたくなるほど整った容姿。
対峙しているだけで舌の根が乾き、喉の奥で声が絡まる。
「なんだ、見惚れてるのか?」
「!」
悪魔はクスリと笑った。
「……さてはお前、童貞だな?」
「なっ……!」
な、なぜバレた!?
「反応がいちいち童貞臭いんだよお前は。……それにしても、この程度ですぐ動揺するあたり、魔術師としてはあまり優れているようには思えんな」
バルバトスはじろじろと品定めをするかのように俺の全身を見回す。腕を組んで、上から下、頭のてっぺんから足先まで。
やがて十分だと判断したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「やはり私を召喚出来るほどの魔術師とは到底思えないが……。まぐれか。まあいい、そういうこともある」
ちらりと俺を見た。
目が合う。
「で? 私を喚んだ要件を聞こうか」
「!」
俺は息を吸った。
真っ直ぐバルバトスを見る。
俺の覚悟を感じ取ったのか、彼女の琥珀がついと細められた。
「バルバトス」
―――名を呼ぶ。
俺はこいつの契約者。名を呼ぶことは、俺の『願い』で彼女の魂を拘束することを意味する。
そしてそれは同時に、俺の魂を差し出すことを決めたという意思表示。
魂と魂を結ぶ。それこそが契約。
「叶えてほしい願いがある」
「ふ、言ってみろ。とりあえず話だけは聞いてやろう」
唾を飲み、息を吸う。
一度心を落ち着けなければ、プレッシャーの前に挫けてしまいそうになる。覚悟を決めたものの、やはり心の準備が必要だった。
―――でも、もう大丈夫だ。
「明日の試験、お前の力で俺を合格させてくれ」
────不敵な笑みを浮かべていた悪魔の顔が、崩れた。
「は?」
「俺の願いは今行った通り。……ああ、お前の評価は正しいよ。俺は学園最下位の落ちこぼれ、三流以下のクソ雑魚魔術師――にすらなりきれないゴミクズだ。だけど、今回の試験だけは合格しなくちゃいけない。留年がかかってるからな。最悪、退学すらあり得る。でも、俺の力じゃどうにもならない。―――だからお前に力を借りたいんだ。文句あるか、あるなら言ってみろこの野郎」
改めて客観視してみると情けないことこの上ないな。自分で言ってて何だか悲しくなってくる。涙が出てくるかと思った。
それを隠すために、後半はもはや喧嘩腰だった。
「くくっ……」
一気呵成に捲し立てた反動で肩で息をする俺に、バルバトスは喉の奥を鳴らす。
「過去にも私達の力を望んだ身の程知らずな奴らがいたが……ふふ、試験に合格させて欲しい、か。しかも入学試験でもなく、ただの実力試験とはな……ふふっ」
「う、うるさいな……」
聞けば聞くほど阿呆らしい話だった。
そっか、俺本当に馬鹿だったんだな……。
「そもそもそんな状況に陥るような奴が悪魔の召喚に成功するとはな……ふふふっ。追い詰められた人間は信じられない力を発揮すると言うが……本当に面白い」
肩を震わせくつくつと笑う悪魔。
一方、一種の麻酔のような興奮からようやく目を覚ました俺は、自らの馬鹿馬鹿しい動機に顔が熱くなるのを感じた。
「最高だよ。こんなに楽しませてもらったのは……いつ以来だったか」
「じゃ、じゃあ」
恥ずかしい思いはしたが、どうやら悪魔からの評判は悪くない。第一印象としてはそこそこだろうか。
魔導書には、悪魔の協力を得るためには彼らからの信頼や好感度が重要とあった。ここで好感度を稼げたのは大きいんじゃないだろうか。
「俺の願いのために、協力して──」
「断る」
……え?
「な、なんで……!」
「なんでも何も、そんなものは私の自由だろう。協力などしたくないと思った。だからしない。それだけだ」
「な……っ!」
そうだな、強いて言うなら……。
と、悪魔は考える素振りを見せる。
「お前のようなつまらない男は嫌いだ」
「………さっき、面白いって」
「それは断られることを含めての『面白い』だ。くだらない理由で私を喚んで、その上で断られる。これ以上面白おかしい話があるか。傑作だよ」
鼻で笑い飛ばす悪魔。
その態度に、流石に腹が立つ。
「くだらない理由って……! こっちは必死なんだよ!」
「必死? ほう、必死なのか。だったら人に頼ったりせず、まずは自力でなんとかしようとするものじゃあないのか?」
「ッ、自力じゃどうにもならないからお前を頼ってるんだろうが! じゃなかったら召喚できるかどうかもわからない悪魔なんか頼りにするかよッ!」
「努力が足りないんだ、努力が。大それた力が、何の努力もせず、リスクも負わずにいきなり手に入るだなんて思うなよ。甘いんだよ小僧、お前は」
「……っ」
努力。またそれか。
いい加減聞き飽きたんだよ、そんな言葉。
「頑張ったって……!」
「……」
俺は知ってる。努力が、どれほど無意味か。
どんなに頑張ったって、才能の前では無力なのだ。
「頑張ったって、望んだ成果が出るとは限らないだろ……!」
「だが、何もしなければ何も変わらないぞ」
「わかってるよそんなこと!」
これ以上の言い合いは無意味だ、と思った。
どれだけいがみ合ったところで平行線。俺とこの悪魔の考えはまったく別のもの。決して相容れることはない。
向こうもそれを悟ったのか、俺に背を向けた。
と、ようやくここが山中だと気付いたのか、悪魔バルバトスはきょろきょろ辺りを見渡し始めた。
「……なんだここは」
「俺が暮らしてる学園が建ってる山の中だよ」
ぶっきらぼうに答える。
「なんだお前、こんな辺鄙なところに住んでるのか」
「辺鄙って……。こういう所で魔道を探求するのには、ちゃんとした理由があってだな────」
「あーあー、別にいい。聞きたくない聞きたくない。どうせ長い上につまらん話だろう? そんな話は聞きたくない」
耳に手を当てて首を降るバルバトス。
せっかく説明してやろうとしたってのに……。
「そんなことよりだな。お前、ここに住んでるってことは寝床は近くにあるんだろう? とっとと案内しろ」
「は……? おい待て。まさか住み着く気か?」
「当然だろう。他に行く場所もないんだし。それに、住処を提供してくれるというのなら、いくらお前がつまらん男でも契約は考えてやらんでもない」
「……そーかよ」
俺は傍らに置いていた魔導書を持って立ち上がる。
いつまでもここにいても仕方ないしな。
「仕方ないから案内してやる。俺も部屋に戻って早急に調べたいことがあるからな」
「調べたいこと? 何だそれは」
首を傾げるバルバトス。
俺は抱えた魔導書をポンと軽く叩いた。
「お前を消す方法」
────悪魔の動きが、止まる。
「……。何だと?」
「お前みたいな役立たずを近くに置いておいても意味ないだろ。さっさと送り返して、新しい別の悪魔を召喚し直さないと。もっと役に立つ奴をな」
バルバトスは信じられないものを見るような目で俺を見た。
「小僧、お前正気か? せっかく私を召喚したのに、何にも使わずに送り返す? お前のようなヘナチョコが、天文学的な確率によって起こったまぐれで私を召喚できたのに?」
はあ、とため息。
そして心底呆れたような声を出した。
「自覚が無いようだから言ってやる。私の親切に感謝するんだな。……お前、馬鹿だろ」
「俺に使われる気がないって言ったのはそっちの方だろ……」
「確かに使われる気はないさ。だが、お前と契約しない限り私は自由なんだ。しばらくこの世界を満喫しようとしたのに……それを異界に送り返すだと? ふざけるな」
バルバトスは目尻を吊り上げて、手をずいっと出してきた。
「……何だよ」
「寄こせ。その魔導書」
「……。嫌だと言ったら?」
「力ずくでも奪い取る」
「……」
「……」
しばらく沈黙。
そして――――――
「っ、ざっけんな誰が渡すか!」
「ええい、いいから貸せ! こんなもの、燃やして灰にしたあと水に溶かして海に流してやる!」
「あー! やめろバカ返せ! だいたいお前生意気なんだよ使い魔だろうが俺に従えよ!」
「誰がいつ貴様の使い魔になったんだ馬鹿者め! まだ契約も済ましていない癖に何を偉そうなことを!」
岩の上で取っ組み合いながら、ぎゃーぎゃーと騒ぐ。
激しい格闘の末、俺はなんとかバルバトスの手から魔導書を取り戻したのだった。
はあ、はあと肩で息をしながらバルバトスを睨みつける。
「お前が俺を認めないと言うのなら、俺はお前を異界に戻す! 絶対に、何としても! いいか? これは決定事項だ!」
交渉―――というか、もはや脅しである。
こんなことをしても、この悪魔が素直に応じるとは、どうしても思えない。そんな気持ちが心のどこかにあるが、果たして―――。
「チッ」
悪魔は舌打ちした。
俯き、ブツブツと何か呟く。
「このガキ……この場で射殺してやろうか……。いや、死ぬよりももっと苦しい目に合わせてやるか……? 幸いそれができる状況だからな……」
……なんかメチャクチャ物騒なこと言ってるんだけど。
命の危機を感じ、すぐにでも逃げ出せる体勢を取ろうとしたところで、悪魔は顔を上げた。
「……いいだろう。お前のことを認めてやろう。一度は殺してやろうとも思ったが、誇り高く懐の深い悪魔である私は寛大にも、生意気ほざくクソ童貞野郎を見逃してやることにした」
「……そりゃどーも」
「ただし! 私を従えるのには、一つ条件がある」
条件。
ごくり、と唾を飲む。
「いや、条件という言い方は適切じゃないな。言うならば、これは試験だ。その試験で私の契約者に相応しいと証明できれば、お前と契約してやる。しかし、できなければ契約はしない。お前は私に住処と食事を提供し、私の快適な現世ライフのために協力するんだ」
「……わかった。で、その試験って何だ」
ふっ、と悪魔は笑った。
「―――お前、その辺で魔物を狩ってみろ」