44.煉獄の破
開放された魔力が竜巻のようにうねる。
地鳴りのような振動。魔力の奔流。
その中で俺は、勝利を確信した。
すぐ目の前に獣の爪が迫って来ていても、勝利を確信していた。
さあ、こいよ。
逃げる必要はない。隠れる必要もない。
正面から防いでやる。
魔法陣の輝きが一層強まる。
そう思った瞬間、魔法陣の中央から影が飛び出した。
飛び出した影は、俺と爪の間に滑り込む。
その攻撃を阻むように。
そして、手の平を前にかざした。
「……Barriere」
ぶわりと膨れ上がる魔力。
琥珀色の障壁が広がる。
鉄壁の盾によって、獣の爪は阻まれた。
「……まったく」
障壁を出したまま人影が振り返る。
揺れる黒髪。
俺を見つめる琥珀色の瞳。
「無茶をしてくれる……。だが、よく頑張ったなアレン」
バルバトスは空いている方の手を俺に向けた。
温かい魔力が傷に流れ込んでくる。
血は止まり、傷はみるみる塞がっていく。
「応急処置のようなものだが……。ま、無いよりはマシだろ」
「むしろ十分なくらいだよ、相棒」
痛みは完全に消えた。
流石は悪魔の治癒魔術だ。
これで戦える。
立ち上がり、バルバトスの隣に立つ。
並んだ俺たちを見て、クレイグは引きつった声を上げた。
「……あり得ねえ」
顔を強張らせ、たじろぐクレイグ。
信じられない、というように首を振る。
「なんだよ……何なんだよ、お前は……! 俺の……俺の使い魔の攻撃を受け止めるなんて……あり得ねえ……! 何者だお前!」
「何者、か……」
バルバトスは軽く笑った。
マントを翻し、わざとらしく名乗る。
「我が名はバルバトス。この横にいる男アレン・クリアコードの使い魔であり、七十二の悪魔が一柱」
どこからともなく弓と矢を取り出し、バルバトスはそれをクレイグに向けて構えた。
「──人間、私の敵はお前か」
バルバトスの言葉を受け、クレイグは声を上げた。
「悪魔、だと……!? あの悪魔か……!」
「だからそう言ってるだろ。理解が遅いぞ」
動揺するクレイグを、バルバトスは鼻で笑う。
と、彼女はこちらを向いた。
「そろそろ始めるか。……で? 私はあのデカい犬の相手をすればいいのか? 雑魚の方はお前がやるんだろ?」
「ああ。でも気を付けろ。あいつ、再生するぞ」
「ほー、それは厄介だ」
ちっとも厄介じゃなさそうに言う。
俺は彼女に訊いた。
「倒す手段があるんだな?」
「ある。『切り札』を切れば、あんな大きさしか取り柄の無い犬など恐るに足らん。だが……」
そこで目を伏せると、バルバトスは俺に耳打ちをした。
「お前こそ気を付けろ」
「……?」
「……治癒魔術を掛けたとはいえ、お前の体は万全じゃない。普段ならともかく……今の状態では、『切り札』の反動には耐えられないかもしれない」
「!」
「悪魔の力は非常に強力だが……その強さゆえに、ときに契約者の寿命を縮めることすらある」
そういうことはもっと早く言えよ、とも思ったが……いや、結果的にはこれで良かったのかもしれない。
もしも早い段階でその話を聞いていれば、俺は怖気づいて立ち向かう覚悟と勇気を失ってしまっていた。
覚悟完了した今だからこそ、俺はバルバトスの言葉を正面から受け入れることができる。
「……構わない。遠慮なくぶちかませ」
「そうか」
短くそう言った後、バルバトスは一言だけ付け加えた。
「時間は稼ぐ。だからお前はできるだけ手早く終わらせろ。私が『切り札』を切る前に、あの男を大人しくさせておけ」
「……了解」
クレイグと獣に向き直り、構える。
俺は拳を。
バルバトスは弓を。
「悪魔……悪魔だと……!? まさかアレンが……そんな強力な使い魔を……、クソッ!」
クレイグは目を剥いた。
そして傍らの獣に叫ぶ。
「やれ! どっちの使い魔が最強か、思い知らせてやれ!」
森に響き渡る咆哮。
獣が飛びかかる。
悪魔がそれを迎え撃つ。
俺はクレイグの元へ走った。
クレイグも俺に向かって来ていた。
拳を振りかぶる。
(クレイグ……! 目を覚まさせてやる……!)
正真正銘、ラストバトルが始まった。
◆
突っ込んでくる巨獣を華麗に躱す。
軽く周囲を見渡し、バルバトスは胸中で独りごちた。
(アレンとははぐれたか……)
辺りを見渡しても、主である少年の姿はない。
どうやら戦っている間に離れてしまったらしい。
だが、むしろ好都合だ。
自分が繰り広げるのは、まさに人智を超えた戦いだ。
下手に周りでうろちょろされて巻き込まれるよりかは、離れていてくれた方がずっと良い。
「さて、と……」
バルバトスは大きく後方へ跳躍した。
と、次の瞬間、獣の爪が空を掻く。
「実は、私はどちらかというと犬よりも猫の方が好みでな……。悪いが、正直お前と戯れたいとは思わないんだ」
再び跳躍。
またしても獣の攻撃は外れる。
「ああ、猟犬は好きだぞ? そこは勘違いしないでくれ。ただ……お前のような知性の欠片もないケダモノは好かん」
再度突進を仕掛けてくる獣。
マントを翻して回避。
跳躍と同時に矢を番え、放つ。
「Starten」
びょう、と光が走る。
一瞬反応が遅れた獣の片目に、光の矢が突き刺さった。
「どかん」
合図と共に矢が弾け、小さな魔力の爆発が起こる。
それを、獣は眼球に直接食らった。
「■■■■■■■────ッ!?」
絶叫が轟く。
獣は激痛に身をよじる。
「私の主を随分と可愛がってくれたみたいだからなぁ。今のはそのお礼だ。ありがたく受け取れよ?」
「■■■■■……!」
唸り声を上げながら、獣は残った片目でバルバトスを睨んだ。
殺意と憎悪の炎が踊る。
「おいおいどうした? 嫌味の一つも言えないのか? ちっこい奴らは一応喋れたはずだが……。図体がデカくなった代わりに脳みそは縮んだか?」
瞬間、怒りの咆哮と共に爪が飛んでくる。
が、バルバトスはそれをヒラリと避ける。
容赦なく連続で振るわれる爪。
流石に避けきれないと判断したのか、バルバトスは障壁を張る。
現れる琥珀色の盾。
分厚い魔力の壁が獣の爪を受け止める。
「■■■■!?」
ガキンッ、と硬い音。
飛び散る火花。
しかし障壁が割れることはない。
傷一つ付いてさえいない。
「……」
余裕の表情で攻撃を捌きながら、バルバトスは獣を観察していた。
正確には、先程爆破して弾き飛ばした眼球を見ていた。
(既にほぼ再生しきっているな……)
矢が突き刺さり、直後の爆発で完全に潰れたはずの獣の片目は、既に形が出来上がっていた。
数秒前から狙いが正確になってきている辺り、実はもう見えているのかもしれない。
(これがアレンの言っていた……。なるほど、自動治癒能力……改めて厄介だな)
こういう手合いへの対抗策は二つある。
一つは、『再生の追い付かないほどのダメージを一度に与える』こと。
しかし、そのためにはバルバトスは『切り札』を切らなくてはいけない。
今はまだその時ではない。この作戦は使えない。
が、かと言ってもう一つの手段も使えない。
それは、『再生のストックを使い切らせる』ことだ。
いくら自動で傷を治す力を持っていたとしても、無限に回復するなんてできやしない。
バルバトスは一人例外を知っているが、あれは特別だ。
自然治癒以外で傷を治すのには必ず魔力が必要。
つまり、自動回復も魔力が枯渇すれば使えない。延々と傷を負わせ続ければやがて限界がくる。
(……しかし、そこまで戦いを長引かせることもできないか)
この敵はかなり強力だ。
いくらバルバトスとて、主を気遣って本気を出せない状態で、いつ訪れるかもわからない自動回復の限界を待って戦い続けるのは厳しいものがある。
今の時点では大した相手ではないが、戦いが長引けばそれもわからない。
決して油断できる相手でないのだ。
(アレンの為に時間を稼ぐ必要があり、かといって下手に戦い続ければこちらが追い詰められることになるかも、か……。まったく、世話の焼けるご主人サマだ)
──バルバトスは知る由もないことだったが、クレイグはこの戦いが始まる前に使い魔のコントロールを破棄していた。
自分が操るよりも、自由に暴れさせた方が強いと判断したからである。
故に、今の獣は、アレンとの戦闘時よりも数段強化されていた。本来のあるべき姿に戻った、ただ本能のままに目の前の敵を狩るだけの、文字通りの『獣』だった。
───しかし。
『獣』であるが故に、いや『獣』である以上。
『狩人』である彼女には、決して勝てないのである。
「───ふっ」
矢を放つ。
今度は右前足に突き刺さる。
「まずはその機動力を奪わせてもらう。図体の割には素早いからな。不意打ちでも食らったらかなわん」
その言葉の直後に矢が弾けた。
閃光と共に魔力の爆発が巻き起こる。
獣の足が吹き飛んだ。
「■■■■■────!」
叫びを上げ、しかしそれでも目に宿る殺意は消えない獣。
瞬時に吹き飛んだ足を再生させ、バルバトスに襲いかかる。
ぐっ、と獣の体が沈む。
次の瞬間、巨体が跳躍。
体格差にものを言わせた突進が迫る。
「ぐ……っ!?」
ギリギリの所で障壁が間に合う。
ダメージはない。
が、衝撃で軽く吹き飛ぶ。
「チィ……ッ」
舌打ち。
今のは危なかったかもしれない。
まさか、再生のスピードが本人の意思次第で早まるとは。
流石にそこまでは予想外だった。
「■■■■■■■ッ!」
すかさず、畳み掛けるように連続攻撃。
手加減など一切ない。まるで命を刈り取る鎌のように振るわれる爪。
一撃、一撃、全てが首筋を狙って放たれる。
だが、それらがバルバトスを傷付けることはない。
悪魔は華麗な身のこなしで獣の連撃を避けていく。
「■■■■ッ! ■■■■ッ! ■■■■ッ!」
次第に、獣の雄叫びにも苛立ちが混ざる。
バルバトスは涼やかな笑みでそれを受け流す。
「■■■■■■■■■─────ッ!」
しびれを切らし、遂に獣は勝負に出た。
下方から、アッパーのように爪を繰り出す。
「ッ!」
途端、現れる障壁。
案の定阻まれた。
が、悪魔の小さな体では衝撃までは殺しきれない。
バルバトスの体が浮き上がる。
それを見て、獣は勝利を確信した。
飛び上がる。
自分で打ち上げた敵よりも、更に上へ。
空中で回転。ぐるんッ、と勢いを付ける。
そしてその長大な尾を、敵に叩き付け─────
「……愚かな。私がされるがままに打ち上げられたと、本気でそう思ったのか?」
「!?」
獣は目を見開いた。
───悪魔が、冷めた目で自分を見ている。
「だとしたらお気楽な奴だ。自覚が無いのなら教えてやろうか? お前がどれだけ愚かなのか」
彼女は、既に弓を構えていた。
弓に矢を番えていた。
──鏃は、自分に向けられている。
「ッ、■■■■■■■■────ッ!」
雄叫び共に、獣が尾を振り下ろす。
そしてバルバトスは────。
「Starten」
それを、正面から打ち破った。
光線が獣の目を焼く。
と同時に、全身を焼く痛み。
今のは、『矢』ではない。自分の知っている矢ではない。矢という概念を超えた攻撃だ。
これが……これの力が悪魔の本気か。
地面でのたうち回りながら、獣は戦慄した。
「本気? 馬鹿を言うな。この程度が本気などと……それでは同胞に顔向けができん。悪魔の名が泣く」
「……!」
愕然とする。
今ので本気ではない?
一瞬で全身を焼き尽くした今の攻撃ですら、この悪魔にとってはまだ手加減の範囲内だというのか。
既に獣の肉体は回復していた。
が、傷こそ無かれど、全身を焼かれた痛みはまだ残っている。
そのせいで、今の獣は身動きが取れなかった。
バルバトスが片眉を吊り上げる。
「……ほう。どうやら動けないと見える」
「!」
「好機、だな」
まずい。
これは駄目だ。今すぐ動かなければ。
この場から逃げ出さなければ、自分は死ぬ。
「……二十二分だ。充分すぎる程に時間は稼いだよな、アレン」
バルバトスは弓を構え、矢を獣を向ける。
そして、冷笑を浮かべた。
「冥土の土産に教えてやろうか。私の能力を」
───悪魔バルバトス。
召喚の魔導書において、その名はこう記されている。
『四人の高貴な王を従えて現れる』と。
「四人の高貴な王……それこそが、私の真の能力」
四大元素の高等魔術。
水。風。火。地。
これら四つの強大な力を操ることこそが、バルバトスの持つ真の能力。
「今から貴様に見せてやるのは、私の能力の一端。第三の王、火の高等魔術……」
ぐぐぐ、と弦を引く。
いつでも放てる体勢。
獣は必死で逃げ出そうとするが、体が動かない。
「其は破壊の王。名を───」
手を、離す。
「《煉獄の破》」
放つのは、真紅の熱線。
大地を削り、木々を燃やし、獣を飲み込む。
「────────ッ!」
断末魔すら焼き尽くす。
肉体も。精神も。魂も。全て、全て。
一切を灰燼に。
「────……」
やがて炎は消えた。
残されたのは、物言わぬ灰の山と化した獣。
それすらも、ふいに通り過ぎた風に溶けて消えた。
「……こっちは終わったぞ、ご主人サマ」
そう言って、バルバトスは主を探して歩き出した。
◆
繰り出した拳が、クレイグの顎を捉える。
そのままの勢いで振り抜く。
「ガッ……!」
吹き飛ぶクレイグ。
地面に尻餅を付く。
魔術戦でならともかく、肉体を用いた近接格闘戦ならば、俺の方が有利だ。
なにせ、こっちには死線を潜り抜けた経験がある。
魔術では学園内でも最底辺の俺だが、こと格闘においては上位だ。正直、オールラウンダーのジェイル以外には負ける気がしない。
「諦めろクレイグ。俺の勝ちだ」
「黙れ……! 俺はまだ……、ッ!」
立ち上がろうとして、よろめく。
もう何発も顎に食らっている。
戦える体ではないのだ。
「もうやめろ。……俺と一緒に来い。ヴィルムリンドの手下なんて辞めて、もう一度やり直そう」
「やり直す……? そんな、そんなこと……」
土を握り締める。
目に涙を浮かべ、クレイグは叫んだ。
「出来るわけがない! 今更どんな顔して学園に戻れっていうんだ!? 俺はもうこの道を進むって決めた! 決めたんだ! クズには……クズにはクズの生き方しかないんだよ!」
「そんなことない! 人間は変われる!」
「綺麗事言うんじゃねえ! もう聞き飽きたんだよ!」
悲痛な叫びと共に、クレイグは立ち上がった。
思わず目を見開く。
もう限界なはずなのに。
「俺は……俺はクズなんだ……! まっとうな生き方なんてできねえんだよ! 放っといてくれよ!」
ふらふらと歩き、拳を振りかぶる。
飛んできたパンチを、俺は受け止めた。
「放っておくなんて、できる訳ないだろ」
「なんで……!」
「俺は人を救う為に魔術師になったから。あと、お前が俺と同じだからだ」
「!」
クレイグは、俺なんだ。
数時間前の、生まれ変わる前の俺と同じだ。
努力を嫌い、面倒事を疎い、何もしないで幸福が降ってくるのをただ待つだけ。それが間違っていると知っていたのに、何もしてこなかった。
そう、自覚はあったんだ。
なのに変わろうとしなかった。
それは、とても勿体無いことなのに。
「わかるよ。前に進むのは辛いよな。苦しいよな。でも……一歩踏み出しさえすれば、後は簡単なんだ」
「……ッ」
「こっちに来いよクレイグ。俺たち側に来い。お前も変われる。やり直せる。お前の人生は、これからのお前次第なんだ」
「……ッ、ぐ……ぁ……ッ!」
意地っ張りの子供のように涙を堪え、クレイグは唸った。
彼は葛藤している。
あと一押し。あと少しで、心を救えるかもしれない。
「一歩を踏み出すんだ、クレイグ! 一度、こっち側から世界を見てみろ。びっくりするくらい綺麗なんだ!」
「うる……さい……ッ!」
ぶんッ、とクレイグが手を振るう。
もはや攻撃ではない。
駄々っ子が暴れるのにも近かった。
「言うんじゃねえ! 哀れんでんじゃねえ! お前が……他でもないお前が……! 成功した人間が俺を見るんじゃねええええ!」
「クレイグ! よせ!」
腕を振り、暴れるクレイグ。
直感した。もう、何を言っても届かない。
彼は心を閉ざしてしまっているのだ。
俺はクレイグの闇の深さを見誤った。
今の俺では、彼を救えない。
「ハア……ッ! ハア……ッ!」
血走った目で俺を睨むクレイグ。
ふと、その足から力が抜ける。
「クレイグッ!」
地面に倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す。
俺は彼に駆け寄ろうとし、止まった。
───俺に、何ができるのか。
俺が何を言っても、クレイグには届かないのだ。
クラリスの時とは違う。俺は、俺だけはクレイグに何かを言ってはいけないのだ。
クレイグは自分の罪を自覚している。
どんな人間なのかを理解している。
俺自身がそうだったからわかる。そういう人間は、他人から指摘されることも、背中を押されることも、大嫌いなんだ。
無駄にプライドの高い生き物なんだ。俺たちは。
だからこそ、自分の弱さを自覚しつつも、現実として受け入れることができない。
俺はそれを知っているからこそ、何も言ってはいけない。
それは、クレイグの成長の妨げになる。
真の今で救うことにはならない。
───じゃあ、どうすればいい?
クレイグを救う為には何をすれば良いんだ。
この場で救うことを諦めるか。
クレイグを殴り倒し、気絶させて連行するか。
できるのか、俺に。そんなことができるのか。
「……ッ」
俺は迷った。
一瞬ではなく、数分は迷った。
倒れ込んだクレイグを見下ろし、無言で迷っていた。
───迷って、しまった。
そのタイムロスが、失敗だった。
「────ぐッ!?」
それは、突然襲ってきた。
突如、心臓を鷲掴みにされたような痛み。
呼吸が上手くできなくなり、思わず地面に膝を付く。
あまりに酷い目眩で視界が歪む。
そのままうずくまり、呻き声を漏らす。
「か……ッ、は……ッ!?」
頭痛がする。吐き気がひどい。ぐわんぐわんと視界が揺れる。
まるで頭の中を巨大な芋虫が這いずり回っているかのように、脳みそをかき混ぜられる。
体が熱い。バターのように溶けてしまいそうだ。
ドロドロに溶けて、流れ出してしまいそう。
叫び出したくなるはずの激痛。
なのに声は出ない。
声を出すための力すら残っていない。
急速に肉体が衰弱していくのがわかる。
───唐突に、全身を虚脱感が襲う。
苦痛は薄れ、代わりに何か大切な物を失ったような―――奪われたような喪失感が体を支配する。
奪われていく。
魂が。心が。精神が。
形なきものたちが失われていく。
「ぁ………、ああ…………!!」
これが、悪魔の力の代償か。
恐ろしい。元々のダメージが残っていたのもあるだろうが、一気に体力を奪われた。
これは……立つこともできないかもしれない。
「はあ……、はあ……。ッ!?」
目線を上げ、俺は息を飲んだ。
クレイグが俺を見下ろしている。
「ご────ッ!?」
腹に蹴りが突き刺さる。
地面を転がり、ようやく止まる。
仰向けになり、喘ぐ。
視界の隅に、背を向けて走り去るクレイグが見えた。
遠のいていく意識の中、手を伸ばす。
「まて……クレイ、グ……」
瞼が重い。体が動かない。
傷は塞がったとはいえ、体には疲労が残っていた。
それが悪魔の力の代償と重なり、一気に襲い来る。
どんどんと意識が遠のく。
ふと、耳に声が届いた。
「殺せ! そいつを殺せ──!」
すぐに周囲を気配が取り囲む。
聴こえる唸り声。
(これは……ヤバイ、な……)
ボンヤリとした頭で、どこか他人事のように考えた。
体は動かない。
このままじゃ抵抗もできずに食い殺される。
唸り声がじりじり近付く。
ぼやけた視界に、黒い影が映る。
白くぬらぬらと光る牙が、目の前に───。
「Barriere」
ふいに、声が聴こえた。
低い男の声が。
(あ……)
間一髪で滑り込んできた人影。
咄嗟に障壁を張ったその広い背中。
何故だか、見覚えがある気がした。
影が、振り返る。
「─────大丈夫か?」
ぶっきらぼうだけど、優しくて温かい、そしてどこかで聞いたことのあるような声。
その声を聞いた瞬間、不思議と安心感が押し寄せて来て。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
次回、エピローグを挟んで1章完結です。




