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35.交わす契約

 俺は目を開けた。

 混濁していた意識が次第に覚醒していく。

 まどろみから覚めるときの感覚にも似ていた。


「────……」


 俺を覆っていた闇が消え去っていく。

 やがて、光を取り戻した視界に唖然とする悪魔の姿が見えた。


 目を見開き、口をポカンと開けている。

 信じられないものを見るような表情。

 目の前で起きていることが信じられない。彼女は無言だったが、そう表情が雄弁に語っていた。


(……間抜け面)


 普段なかなか見せないバルバトスの以外な表情に、俺は思わず小さな笑みをこぼした。

 コイツがこんなに驚いたことなんて、今まであっただろうか。幽霊屋敷の時だってここまでの反応じゃなかった。


「……馬鹿な」


 ぽつり、と呟く。


「あり得ない、到底あり得ないことだ……。悪魔の作った時の牢獄を、ただの人間が突破するなど……!」


「……」


 驚愕の様子を見せるバルバトスとは対象的に、俺の心はやけに静かだった。

 あれだけ心に吹きすさいでいた風も、今は凪いでいる。


「貴様……一体何をした……!?」


 何かをした、という訳でもない。

 むしろ俺は何もしていない。


 ただ、一つだけ言うとしたら。

 俺にとっての『最悪の記憶』は────俺が心の何処かで『最悪の記憶』だと思っていたそれは。

 俺自身ですら忘れていた、俺の『始まりの記憶』だったというだけだ。


「……礼を言うよ」


「!」


「お前のおかげだ。お前のおかげで、俺はずっと忘れていたことを思い出すことができた」


 忘れてしまったのなら、それは忘れたかったことなのだろう。

 以前はそう思っていた。


 ───そんなはずがあるか。


「あれは、とても大事な記憶だった。忘れちゃいけないことだった。だってあれは、俺が魔術師を目指した理由であり────俺の原点だ」


 脳裏に浮かぶのは、憧れの背中。

 あの背中に憧れた。

 俺もあんな風になりたいと素直に思った。

 その時の気持ちが、憧れがずっとこの心の奥底に残っていた。たとえ記憶は無くても、忘れてしまっていても───俺の魂は覚えていたんだ。


 だから学園をやめたくなかった。

 やめたらきっと後悔すると思っていたのは、いつかの憧れの背中に追いつけなくなると、本能的に悟ったからだ。


「……ようやく取り戻すことができた。俺にとっての原点を。俺が魔術師を目指す理由であり、生きる理由でもあるものを」


 胸の前で拳を握る。

 とくん、とくん、と鼓動の音。

 肉体に血が通う感覚。

 熱い衝動。


 ────生きている。

 俺は今、生きている。

 今までとはまったく違う意味で、この瞬間を生きている。


 漠然と生きてきた。何かが欠けていた日常を。

 ───その、ずっと欠けていた何かを、俺は今取り戻すことができた。


 アレン・クリアコードは、ここに蘇ったんだ。


 俺はバルバトスを見た。

 彼女も俺を見た。

 俺たちは向かい合った。

 彼女の琥珀色の瞳に映る俺の目は、なんだか輝いて見えた。


(─────ああ)


 ルフィナが言っていた『キラキラしてる』って、ひょっとしてこのことなのかもしれない。



「……少しだけ、昔話をしようか」


 時間はあまりない。

 だから手短に。

 ───俺の始まりの話を。


「俺は昔、魔物に襲われたことがあった」


 バルバトスの見せた、あの記憶。

 暗い森の中。怖くて、寒くて、俺は震えていた。

 そして、そこを魔物に襲われた。

 死ぬかと思った。

 いや、死んだと思った。


 でも、その時、

 危機一髪で、ある魔術師に助けられた。


『────大丈夫か?』


 あの背中。

 俺を救ってくれたあの背中こそ、俺が魔術師を目指す理由になったものだった。


 ────俺も、あんな風になりたい。

 心の底から思った。

 趣味なんて無く、何かに対して強い関心も無く。ただ漠然と、生まれた村で骨を埋めるものだと思って生きていた俺の心に、その体験は『進むべき道』を示してくれたのだ。


 だから魔術師を目指した。

 俺も彼のようになりたくて。

 あんな風に───誰かの命を助けられる魔術師に憧れた。



「……でも」


 でも、俺は。

 俺は、まだ────。


「俺はまだ、あの子に対して何もしてやれてない……!」


 助けると約束したのに。

 守ると誓ったのに。

 それなのに、クラリスを無駄に傷付けて、あろうことか簡単に敵に攫われた───!


「俺は……弱い」


 絞り出した声は、今にも泣きそうなくらい弱々しかった。

 こんなにも悔しいのは始めてだった。

 ────そういえば、あの敗北の日以来、何かに対して『悔しい』と思うことが少なくなっていた気がする。

 きっと、感覚が麻痺してしまっていたのだろう。


「もっと……俺は、もっと強くならなきゃいけないんだ」


 クラリスを助けられる力が。

 助け続けられる力が。

 もっと沢山の人を、彼らの命を守れる力が、俺には必要なんだ。


 世界中の人の命を守れる魔術師こそが。

 『世界一の魔術師』なんだ。


 だがそこまでの道は、決して易しいものではないだろう。

 かつて憧れた背中は、未だ遠い。

 道程は果てしなく長く、荒野のように険しい。

 先は見えない。目標は地平線の遥か彼方だ。


「だから────」


 神でも、悪魔でもいい。

 ただ、純粋に願う。


「どうか俺に、誰かを守れるだけの力をください……!」


 俺は、弱い。

 それは自分のせいだ。

 努力を嫌い、面倒を嫌い。

 目の前の問題から逃げ続けた俺に対する、当然の報いだ。

 それはわかっている。


 でも、こんなところで終われるか。

 弱いままでいられるか。

 俺の人生はまだ何も始まってない。

 あの日から、俺は一歩も前に進んでない。


 どうせ無理だから、と。

 そこで諦めてしまえば、それは今までの俺と同じだ。


 人は変われない。

 クレイグはそう言った。

 ───果たして本当にそうだろうか?


 いや、違う。きっと違う。

 まだ断言はできない。確証はない。

 でも、俺はそう信じる。


 自分の弱さを自覚しておきながら、それでも変わろうとしない奴こそが、きっと一番のクズだ。


 弱いからといって、弱いままでいることを受け入れてしまえば、俺はもう一度死んでしまう。

 それこそ、腐っていた頃に逆戻りだ。


 だから、欲する。

 望む。───悪魔に願う。


 力を。大切な人を守れる力を。

 あの子を救える力を。


「……」


 バルバトスはしばらく黙っていた。

 俺が不安すら抱き始めた頃、彼女はようやく口を開いた。



「……覚悟は」


 彼女の口調は落ち着きを取り戻していた。


「私に相応しい主であり続ける覚悟は、できているのか」


「……」


 ある、と断言はできない。

 いや、しない。あえて即答はしない。

 ここで即答するのは────きっと、それは弱い。

 俺は弱いが、弱いままでいたいわけじゃない。

 強くありたい。だから、即答はしない。

 覚悟も中途半端な癖に、自分を偽って答えるなんて、そんなのは弱い奴のすることだから。


 それでも、逃げない。

 即答はしないが、逃げもしない。

 俺は、毅然とその場に立った。


「……答えられない。今の俺に、弱い俺に、そんな覚悟は無い。無いものは示せない」


「……」


「答えられない。それが、俺の答えだ」


 逃げるでもなく。

 隠れるでもなく。

 目を背けるでもなく。

 正面から、自分の弱さを受け入れる。


「覚悟を示せない限りは、貴様が私の主になることはないぞ」


「確かに、今の俺には、お前の力を背負う覚悟なんて無い」


 でも、だからなんだ。

 今すぐ結果が出せないのなら、それで諦めるのか?

 違うだろう。

 それこそ、今までの俺と同じ。

 成長していない証拠だ。


「俺は諦めない。たとえ今は無理でも、必ずお前の力を手に入れる。制御してみせる」


「口で言うだけならば簡単だ。人間とは偽る生き物。中身の無い戯言で私を惑わせると思うなよ」


「いいや────」


 お前は、絶対に信じるさ。

 俺のこの言葉を、この三週間で誰よりも俺のことを近くで見て、接してきたお前なら、必ず。




「俺は、必ずお前に相応しい主になってみせる。そうなれるように『努力』する」


「……!」


「だから今だけは俺に従え。バルバトス」


 ────俺は覚悟を示した。

 『バルバトスに相応しい主であり続ける』という覚悟ではなく、『相応しい主になってみせる』という覚悟を。

 以前の俺では絶対に言わなかった台詞を言った。俺は口だけではないということを、言葉で証明してみせた。


「……今だけでいい。少しでも俺の言葉を信じる気持ちがあるのなら、俺に力を貸してくれ」


 契約なんてしてくれなくて良いんだ。

 今は主である必要はない。

 いつかコイツに認めてもらえるような魔術師になれれば、それでいい。


「……自分が滅茶苦茶なことを言っている自覚はあるのか」


「ああ」


「いくらお前が頭を下げたところで、私が力を貸す保証はない。仮に私が力を貸したとしても、敵を退けクラリスを救った後、二度目三度目はないかもしれない」


「それでもいいさ。先のことなんて、その時になってから考えればいい。その時までにもっと強くなるか、お前を手懐けるかでもすればいい」


 でも、今は。

 今はバルバトスの力が無くてはクラリスは救えない。


 気を失う寸前に見た、巨体の使い魔。

 アイツには多分勝てない。

 あんな怪物を従えるヴィルムリンドには、俺一人では絶対に勝てない。


「時間があれば努力を重ねるのも手段の一つだった。でも今は時間がない。今すぐにお前の力が必要なんだ」


「……変われるはずがない。人は変わることなどできない。そんなことは不可能だ」


 それはクレイグが言った言葉にも似ていた。

 だが─────。


「できるかどうかは俺が決めることだ。変われないだの何だの、お前たちにどうこう言われる筋合いはない」


 それはバルバトスへの言葉というよりも、ここにはいないクレイグへの言葉だった。

 あの時何も言い返せなかったアイツの言葉への、反論だった。


「……そうか、お前はもう既に……」


 消えるような小さな声でバルバトスが何かを言った。

 それは独り言だったのかもしれない。

 俺の耳にはよく聞こえなかった。


 再び、バルバトスは沈黙した。

 琥珀の瞳を閉じ、考える。



「……少しだけ」


「!」


 やがて、口を開いた時、

 ────彼女は、微笑んでいた。



「少しだけ、成長したな。アレン」



 アレン、と。

 バルバトスは俺の名を呼んだ。

 小僧、でもなく。人間、でもなく。

 アレンと。俺の名を呼んだ。


「お前の覚悟はしかと見定めさせてもらったよ。そしてその上で言おう。───お前は、もうつまらない男などではない。我が主に相応しい男だと」


「……!」


「元より清廉な魂など求めていない。人は誰しも汚れた生き物だ。……私が真に契約者に求めるのは、清廉な魂などではなく、自らの恥部を受け入れて前に進もうとする心」


 そう言いながらバルバトスは指を伸ばした。

 そして俺の胸をトン、と突く。


「以前のお前にはそれがなかった。だが今のお前にはある」


「……」


「お前は自分の弱さを知った。未熟さを知った。愚かさを知った。自分がどれだけ恥じるべき人間か思い知った。……そして、変わろうとした」


 クラリスに出会い。

 一連の事件に巻き込まれ。

 お前は新たに生まれ変わろうとした。


 バルバトスは静かにそう言う。


「……何かを成すための苦労を厭わない奴は、強い。それが自分以外の誰かのためならば、余計にな」


 と、バルバトスの話を聞き、俺の頭にあることが思い浮かんだ。


「じゃあ、最初のあれも……」


 要するに、最初に覚悟を問われた時も、俺が変わろうとする意思を示せればそれで良かったということなのか。


「ああ。最初に覚悟を問うた時、お前が今のような返答を返していれば、その時点で認めるつもりではあった。一体何を迷ったのかは知らないが………まあ、結果として色々と見失っていたものを取り戻せたようだし? 怪我の功名、というヤツだな」


「……」


 こっちは割と凄惨な体験をしたんだが。

 永遠に繰り返す死の中に閉じ込めるって……考えうる中でも最悪の拷問だろ。

 まあ抜け出せたんだから何も言わないが。


 それに、あの体験をしたからこそ得たものもある。

 時の牢獄に囚われなかったら、きっと俺はその場の勢いで覚悟を示すだけの口だけ野郎だったに違いない。

 そうなれば、もしバルバトスが認めてくれても、その先の未来に待っているのは破滅だっただろう。


 そう考えれば、あの繰り返す死を経て俺が取り戻した『始まりの記憶』は、とても大きな収穫だ。

 だって、あの記憶がある限り、俺が道を踏み外すことなどあり得ないのだから。


「────さて」


 ちらり、と悪魔がこちらを見る。

 口元には悪戯っぽい笑み。


「こうしてお前は私の契約者となる資格を得たわけだが……。どうする?」


「……決まってる」


 考えるまでもない。

 俺は頷いた。


「結ばせてもらうよ。契約ってやつを」


「いいだろう」


 バルバトスも頷き返す。


「ならば汝の名を告げよ。そして意思を示せ。私がお前を認めた以上、それで契約は完了する」


 唾を飲む。

 昂ぶる心臓を抑え付け、俺は息を吸った。


「我が名はアレン・クリアコード。七十二の悪魔が一柱、第八の悪魔バルバトスよ。我が使役となれ!」


 ───告げる。

 自身の名を。

 契約の内容を。

 全ては、アイツを倒すために。

 クラリスを救うために。

 ───いつか世界一の魔術師になるために。


 高らかに声を張る。

 その言葉を聞き、悪魔はふっと笑った。


「未熟者なへっぽこ魔術師の行く末を、特等席で見守ってやるのも悪くない。……いいだろう」


 力強い目。声。

 彼女の宣言が耳朶を叩いた。


「────結ぼう、その契約」


 瞬間。

 俺の胸の奥から、何か温かいものが流れ出していくのを感じた。

 そして、代わりにバルバトスの方からも何かが流れ込んでくる。


 ─────繋がっている。

 そう直感した。

 今この瞬間───俺とバルバトスは、契約によって魂と魂の繋がりを得たのだ。


(この感覚────)


 温かく、心地良いものが流れ込んでくる。

 だが同時に、自分の中から大切なものが失われていく喪失感もある。

 恐らくバルバトスも同じ感覚のはずだ。


 ───これが、契約。

 魂と魂が繋がった感覚。

 俺とバルバトスは、ある意味で一つになったのだ。




「────契約は、ここに完了した」



 静かで冷涼な声。

 俺はこくりと頷いた。


 部屋の隅に掛けてあったローブ取り、身にまとう。

 背後でバルバトスがマントを翻す気配。



「……行こう」




 クラリスが、待っている。

お待たせしました。

遂に契約完了です。

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