34.螺旋を貫く
視界に、無数の目玉が映っている。
無数の目玉が自分を見ている。
────何匹ものゲイザーが、目の前にいる。
『───ここは永遠に続く時の牢獄だ。そんな簡単に終わるはずがないだろう』
女の声が脳内に響く。
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、思い出せなかった。
思い出している暇なんてなかった。
「うわあああああああああああああっ!?」
飛び起き、走る。
もう動けないと思っていたが、生命の危機に瀕した肉体は、想像以上の能力を発揮した。
火事場の馬鹿力と言うやつか。信じられない速度で、さながら爆走する暴れ馬のようにアレンは暗い森をひた走る。
『お前は決して逃げられない。時の牢獄とは、すなわち時の螺旋。囚われた者に終わりは訪れない。久遠の苦痛。それこそが覚悟なきお前への罰だ』
風を切る音が耳を過ぎていく。
音に紛れて、女の声が響く。
『私に慈悲はない。そして貴様に自由はない。赦しはない。死という救いもない。愚か者には、無限の粛清を────』
走る。
走る走る走る。
もはや少年の耳に女の声は届いていなかった。
ただただ無我夢中で走り続ける。
(なんで─────)
なんで自分がこんな目にあっているんだろう。
わからない。どうしてここにいるのかも。自分が何をしていたのかも。
あれだけ怖い目にあったはずの森に、どうしてもう一度来ているのかも。
怖い目にあった。
そうだ。前回も襲われた。
襲われたけど、助かった。自分は生きていた。だからここにいる。
あの時は助かった。
……どうやって?
オレは一体、前回襲われた時はどうやって助かったんだ?
走りながら、必死に思い出そうとする。
きっとそこに答えがあるはずだ。
思い出せ。
あの日、森に入って。
迷って、魔物に襲われて。
その後─────
「!?」
がくんっ、と視界が揺れた。
次いで衝撃。痛み。
倒れたのだと理解するのには、数秒掛かった。
「ひっ……!」
足首に触手が絡みついている。
両足に、何本も。
強く締め付けるように。
ぐっ、と触手が獲物を引き寄せようとする。
アレンは地面に爪を立てるようにして踏ん張って耐えた。
「ぐぅ……っ!」
爪と肉の間に土や小石が入り込む。
小さな痛みに呻きながら必死にゲイザーに抗おうとするが、子供の力では限界がある。
徐々に、徐々に引きずられていく。
地面に、少年の指の跡が線となって残される。
線は段々と伸びてく。
それはつまり、彼がゲイザーの元へと着実に引き寄せられていることを意味していた。
「ああ……ッ!」
何匹ものゲイザーが、大口を開けて待ち構えている。
爛々と輝く、血走った一つ目。
叫びだしたくなる恐ろしさ。
だがアレンは悲鳴を飲み込んだ。
冗談じゃない。死んでたまるか。
ここで死んだら、また繰り返しだ。
絶対にここから抜け出すんだ。
だって、俺にはやるべきことが────!
「────────あ」
ふっ、と手から力が抜けた。
限界を迎えたのだ。
子供の膂力で魔物の力に耐え続けるのは、いくら何でも無理がある。
一気に引きずられる。
湿った土の上を、少年の小さな体が滑っていく。
「あっ───がっ───!」
ずるずると、されるがままに。
もう、彼にできることはなかった。
両腕はびりびりと痺れ、力が入らない。指先は爪が割れ、血が滲んでいる。
これ以上の抵抗は叶わなかった。
(誰か────)
心の中で助けを求める。
誰にも届かないとわかっていながら。
それでも、今の少年には他人に縋ることしかできなかった。
(誰か……助けて……!)
足にかかる力は一層強くなる。
足首をへし折るほど強く絡みついた触手は、アレンを決して放すことがない。
(助けてよ─────!)
無数の触手が絡みつく。
そしてアレンの意識は闇の奥へと─────
「Schneiden」
────絶叫が轟く。
急に体が軽くなった。
何が起きたのかを確かめる間もなく、アレンは必死で土の上を這う。
ゲイザーたちから逃げるために。
ふと後ろを振り返る。
ゲイザーたちは苦痛に悶ていた。
その気味の悪い触手は、アレンの足首には絡みついていなかった。
(何が……)
起きているんだ。
そう心中で呟こうとしたとき、一匹のゲイザーがこちらを見た。
────目があった。
ギロリ、と。
憎悪のこもった一つ目が少年を睨む。
「ひいっ!」
慌てて逃げ出そうとしたが、体が恐怖に竦んでしまって上手く動かせない。
逆にゲイザーは怒りで我を忘れているのか、呻く同胞たちを押しのけるようにしてアレンの方に飛んでくる。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、死ぬ。
そうわかっているのに、体は動かない。
石のように固まってしまっている。
「────────ッ!」
迫り来る魔物の牙。
アレンは思わず、目を閉じ──────
「Barriere」
次に目を開いた時。
アレンが見たのは、ある背中だった。
「──────」
間一髪で滑り込んできた影。
咄嗟に障壁を張ったその男。
─────その広い背中こそ。
アレン・クリアコードが人生で始めて、そして一番憧れたものだった。
「……あ」
記憶が蘇る。
あの時の光景が頭の中に浮かんでくる。
暗い森の中。
一人きりの自分。
襲いかかる魔物。
その時、助けてくれたのは─────。
「────大丈夫か?」
ぶっきらぼうだけど、優しくて温かい。
その声を聞いた瞬間、暗い森の中をまばゆい閃光が照らした。
◆
俺はゆるゆると目を開けた。
「───────」
そこはもう森の中ではなかった、
真っ白い、何もない空間だった、
木々も、魔物も。
全て消え去っていた。
当然といえば当然だ。
だってあの空間は、バルバトスが俺の記憶を元に再現した意識の世界。
すべて最初から存在しない、偽物だ。
そんな真っ白い世界で、俺はこちらに背を向けて立っている一人の男を見た。
────かつて憧れた背中を見た。
「……」
本当は、もう行かなくちゃいけない。
こんなことしている時間なんてない。
でも、ずっと言いたかったことがあった。
十年前の、あの日から。
「ずっと─────」
何かを考えるまでもない。
言いたい言葉はすぐに口から飛び出た。
「ずっと……ずっと、あなたに憧れてました」
男は答えない。
こちらを振り向くこともない。
当たり前だ。
彼は本人ではない。
この世界が偽物だとしたら、この目の前の男だって、バルバトスの力が俺の記憶から作った偽物だ。
だから彼は喋らない。振り向かない。
彼の声も、話し方も、顔も。
俺はもうほとんど覚えていないのだから。
そう、ここは記憶を再現する世界。
囚われた者の持つ最悪の記憶を再現し、最悪の形で追体験させる世界。
……本当、悪趣味な魔術だ。
でも、俺のこの記憶は、もう最悪の記憶なんかじゃない。
ゲイザーに襲われたのは───、まあ確かに嫌な思い出だ。
でも、それだけじゃないんだ。
あの記憶は、それで終わりじゃないんだ。
「あなたに救われた、あの瞬間────。あの時、俺は『始まった』んだ」
あれは、『始まりの記憶』だった。
どうして忘れてしまっていたのだろう。
あんな強烈な体験を。
俺が魔術師を目指すきっかけになった記憶を。
「……あなたみたいになりたいって思った。あなたみたいな魔術師になりたいって思った」
あの背中に憧れた。
俺を救ってくれた背中に。
あんな頼れる背中を持つ男になりたいって思った。
誰かの命を救える力が欲しい。
誰かの命を守れる力が欲しい。
世界中の人を守れる力を持った、世界一の魔術師になりたいって。
「俺はまだ、弱いけど……」
今の俺は弱い。
誰かを頼らなくちゃいけないくらいに。
力を望むあまり道を踏み外すくらいに。
大切な人を、守りきれないくらいに。
「でも、いつか必ず……あなたみたいな魔術師になってみせます!」
世界一の魔術師になる。
なってみせる。
俺は、そのために魔術師になったのだから。
夢のためなら、努力は惜しまない。
無駄なんかじゃないって、俺は知った。
知ることができた。
無駄じゃない。
続ける努力は無駄じゃない。
無自覚でも十年続けた鍛錬が、今はクラリスを救うための切り札を作り出したのだから。
男は相変わらず何も言わない。
だがその背中は、「行ってこい」と告げているようにも見えた。
錯覚かもしれない。
でも十分に嬉しかった。
────踵を返す。
時間はあまり無い。急がなくては。
俺は元の世界に帰還すべく走り出した。




