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32.責任という名の重荷

 徒歩で行くより遥かに速く、俺は学園に戻った。

 まだ授業は終わってはいないのか。校舎の外に生徒たちの姿はない。

 俺は誰もいない校庭を走り、同じく誰もいない男子寮へと入る。



 そして自室の前で止まった。

 扉を開く。



「……早かったな」


 中には屹立する影。

 悪魔の少女。

 こちらを見ず、窓から外を眺めている。


「……」


 開け放たれた窓から入ってきた風が、バルバトスの黒髪を揺らした。

 美しい。

 こんな時なのに、そんな感想がふと浮かんでくる。


「───何を言いに来たのかはわかっている。貴様のその目を見れば、向こうで何があったのかも、貴様が何をしに戻ってきたのもわかる」


 バルバトスが振り向いた。

 その顔に表情はない。

 いつもの不敵な笑みも、俺を馬鹿にするときのような嘲笑も、その顔からは一切見受けられない。

 真剣そのものだった。


「……バルバトス」


 名を、呼ぶ。

 その魂を、願いで拘束するために。


「俺と契約しろ。……そして、俺の使い魔になれ」


 力が必要だった。

 弱い俺が強い敵を倒すには、同じく強い者の力が必要だった。

 そして俺が頼れる強い者は、この悪魔しかこの場にはいないのだ。


 故にその力を望む。

 その力を願う。

 永遠に。この命が尽きるまで。

 これから何度クラリスの命を狙う敵が現れようと、その度に俺が守れるように。


「……」


 バルバトスは無言だった。

 何も言わず、ただ俺の目を見ていた。


 静寂が空間を支配する。

 やがてそれを破ったのは、バルバトスの静かな声だった。


「……私の力を望む人間よ」


「!」


「貴様に一つ、(ただ)すことがある」


 射抜く、刃のような鋭い視線。

 唾を飲み、無言で頷く。


 厳かな声は続ける。


「我ら悪魔の手にあるのは、貴様ら人間が持てる力の中でも最上のもの。一度この力を手にすれば、貴様に勝てるのは同じく悪魔の力を有する者のみになる。───だが、強大な力には、相応の代償と責務が伴うものだ」


「……」


「貴様に、その代償を払う覚悟はあるか。私の力を預かり、その責務を背負う覚悟はあるか」


 俺は眉根を寄せ、唸った。


「責務……?」


「私の力は七十二柱の中でも特に強大だ。単純な破壊力だけならば、悪魔の中でも一位二位を争う。故に私は、私の力が正しいことに使われることを望む。私が道を違えた時、その責務を担う者を主に望む」


 一度深呼吸。

 頭の中で、バルバトスの言葉を反芻(はんすう)する。


 責務を担え、と。

 自分が道を踏み外したとき、その責任を背負えと。

 要するに、この悪魔はそういうことを言っているのだ。


「……」


 俺は自分の目付きが険しくなっていくのを感じた。


「……悪魔ってのは、下級とはいえ神の一種なんじゃないのか」


「その通り」


「人間より遥かに上位の存在の神様が、いざって時の責任を人間風情に押し付けるのか? すべてにおいて正しい存在こそが神なんじゃないのか。正しいはずのお前らが道を踏み外すのか」


 俺の言葉を受け、バルバトスは片眉を吊り上げた。

 その顔に、いつもの不敵な笑みが戻る。


「神ならば常に正しいとでも?」


「正しいからこそ神だろ」


 俺がそう言うと、バルバトスは声を上げて笑った。

 さらに眉根を寄せる俺をよそに、バルバトスは腹を抱えてケラケラ笑う。

 ひとしきり笑い終えた後、バルバトスはさっきまでの大笑いが嘘だったかのように真面目な表情に戻る。


「貴様はどうにも、神というものに幻想を抱いているように思えるな。神というのは、善悪の概念から外れたもののことを言うのだ。正しさなんて無縁さ」


「は……?」


「いい。その誤った認識は後で正すとして、今は────」


 切っ先を思わせる視線が俺を見据える。

 思わず息を呑む俺を、悪魔は冷ややかに笑った。


「───小僧」


 いつもの凛とした冷涼な声。

 だが普段と違い、その声には凄みがある。


「私たちを生み出し、悪魔という名を与えたのは貴様ら人間だ。人間の欲望が私たちを作った」


「……待てよ。人が悪魔を生み出しただって?」


 そんなことはあり得ない。

 だって悪魔は、俺たちが生まれるずっと前から存在しているはずなのだから。


「お前ら悪魔───いや神は天地創造の前からいるんじゃないのか。この世界を創ったのが神だとすれば、俺たち人間が悪魔を生み出したなんて………」


「そんなことはどうでもいい。一つ言うなら、貴様の知っている歴史が全てじゃないということさ」


 バルバトスは冷たく言い放つ。

 激しく光る琥珀の目に見据えられ、俺は押し黙る他に何もできなかった。


「私たちは本来、人の欲望を叶えるために生まれた存在だ。初めから人間に使役されるために作られた。故に悪魔が道を違えるとするならば、それは貴様ら人間の欲望のせい。主の命令を受けてに他ならない。一度契約すれば、使い魔は主の命には逆らえないのだからな」


「……」


「正しい者にこそ───道を違えぬ者にこそ、私は従う」


 ぶわり、と。

 バルバトスの体から魔力が立ち昇る。



「──なあ小僧。人間とは、愚かしく醜い生き物だな」


 悪魔の言葉が心に突き刺さる。


「嘘偽りを吐き、苦労を疎み、才気に恵まれた者を妬む。自分よりも優れた者を恨み、秀でた者を憎み、己の醜い部分は見て見ぬふりをする」


 悪魔の言葉は淡々としていて、その分容赦というものが無かった。

 冷たい刃のような言葉の数々が、俺の心を抉る。


「……っ」


 バルバトスの言うとおり。

 彼女の言葉は真実だ。

 すべてに間違いはない。


 人は汚く、狡猾で、また浅ましい。

 卑怯な生き物だ。

 ────俺自身がそうだ。


「人の理を超えた何者にも勝るほどの力を欲しておきながら、それに伴う重荷からは逃げたがる。……代償からも、責任からも」


 その言葉が示すものは、俺だ。

 俺のことを言っているのだ。

 すべてが中途半端なまま、欲望に任せて悪魔を喚び出した愚かな男のことを。

 禁術の行使という代償や責任には目も向けず、目の前のことに気を取られ、魔術師としての道を違えた、かつての俺のことを。


「そんな愚か者が、この私を……悪魔を使い魔にするだと? ───笑わせるな」


 バルバトスから立ち昇る陽炎のような魔力が、冴え冴えとした空気を帯びる。

 俺は自分の体が震えているのに気付いた。


「私には挟持がある。たとえこの身が、初めから貴様ら人間に従う他ない運命だろうと……それでも愚者を主と認める訳にはいかない。そのようなことは私の挟持が許さない」


「……」


「私が求めるものは覚悟だ、人間よ。薄汚い貴様らが、誇り高き悪魔の力を望むならば、それ相応の覚悟を示せ。代償を払う覚悟───そして、責を負う覚悟を」


 ────覚悟。

 背負えるのか、俺に。

 悪魔の、この強大な力を扱う責任が。


「───問おう」


 迷う俺に時間切れを突きつけるように、悪魔の声が耳朶を叩いた。

 目を見開く。

 まだ答えは出ていないのに。


「貴様に、私の力を背負う覚悟はあるか」


 ある、と。

 そう即座に言うことができたら、どんなに良かっただろう。


 答えようとはした。

 その苛烈な琥珀色の眼光に、正面から「背負ってみせる」と断言しようとした。

 でも、できなかった。

 それは、答えようとした途端に、頭の中にある言葉が響いたからだ。





『テメエはクズなんだよアレン! テメエの本性は俺たち側なんだよ!』




 焦った。

 なんでここで、こんな大事な時に、クレイグの声が浮かんでくるんだ。


 声が出なかった。

 唇を動かしても空気が漏れるだけで、音は出てこなかった。


「……っ……」


 ───そして、気付く。

 俺は、土壇場で迷ったのだと。

 あと一歩。その『あと一歩』踏み出せばそれで良いのに───踏み出してしまえばそれで終わりなのに、その一歩を迷った。


 俺に資格があるのか、と。

 そう思ってしまった。


 俺は、クズだった。

 嘘偽りを吐いた。苦労を疎んだ。才気に恵まれた者を妬んだ。優れた者を恨んだ。秀でた者を憎んだ。自分の醜い部分は見て見ぬふりをした。

 力を望み、代償や責任からは逃げた。

 まさしく、バルバトスの言う愚かな人間だった。


 目の前の悪魔の顔を見る。

 彼女は、彼女たち悪魔は神の一種。

 神とは聖なるものだ。

 ───正なるものだ。


 ───俺のような人間が、手を伸ばしてよい存在では、ない。



「……ぁ」


 気が付けば、俺は一歩足を引いていた。


 目が覚めた気分だった。

 力を望んだ。あの子のために。

 悪魔を従えて、ヴィルムリンドを倒して、ずっとずっとクラリスを守り続けて───。

 では、その先は?


 俺がこの力を欲するのは、クラリスを助け出し、二度とこんなことがないように守るためだ。

 だが、その先は。その過程は。

 彼女を守り続けていく中で、俺の心が少しも揺らがないと、そう約束できるのか。この悪魔の前で断言できるか。

 この力を薄汚い欲望のためには使わないと。常に正しくあり続けると。彼女に相応しい主であり続けると、そう誓えるか。


 ───悪魔を使い魔にするということは、彼女と契約を結ぶということだ。

 そして契約は、魂と魂を結ぶ。

 主の願いによって、悪魔の魂を束縛する。

 俺は契約が続く限り───この命が続く限り、彼女の魂を縛り付け続けるのだ。

 ───その覚悟が、果たして俺にあるか。


「……っ」


 あるはずが、ない。


 誇り高き悪魔。

 彼女の挟持は、とても綺麗で美しい。そして同時に────眩しすぎる。


 そんな綺麗なものを。

 聖なるものを。

 ───正なるものを。

 俺のような愚者が、従えられるはずがない。

 俺にそんな資格なんて、ない。



「……今」


 (おごそ)かな声。

 俺はのろのろと顔を上げた。

 悪魔はその体から苛烈な魔力を放ちながら、冷たい目で俺を見ている。


「今……貴様は、逃げたな」


 悪魔が見ているのは俺の足元だった。

 一歩分だけ後ろに引いた片足だった。


「……それが、答えか」


 失望したような声音。

 どこか悲しそうな琥珀の瞳。

 ───放つ魔力が、勢いを増す。


「覚悟無き者に、我が身を従える資格無し。愚者よ、身の程を知れ」


 すっ、とバルバトスは手を伸ばす。

 細い指が俺に向けられる。

 ゆったりとした仕草で開いた手を閉じていく。


 ぶわり、と膨れ上がる魔力。

 深い闇に変化した悪魔の魔力は、バルバトスの後ろから膨れながら迫ってくる。


「これがお前への裁きだ。時の牢獄の中で、永劫に繰り返す苦しみを味わうがいい」


 やがて、漆黒の闇が俺の全身を覆い尽くした。


 伸ばした手はどこにも届かない。

 発した叫びは誰にも聞こえない。

 冷たい暗闇の中で、段々と意識が遠のいていく。



 完全に意識が消える最後の瞬間。

 俺の耳は悪魔の声を確かに聞いた。





「───さよならだ、坊や」

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