18.砂漠のことは
―――ぴちょん、と雫が落ちる音。
床に弾けた雫は、赤。
傷口に舌を這わせ、その人影は滴る血を啜る。
「……なるほど、これは極上。よく見つけてきたものだ」
しわがれた老人のような声だった。
側に控えていた獣が恐縮したように頭を垂れる。
グルル、と唸る獣。
それを見て、影は小さく頷いた。
「ほう、生娘か。道理で」
『純潔であること』というのは、それだけで魔術的に大きな意味を持つ。
穢れを知らない清廉な魂。血の一滴が喉を通り過ぎる度に魔力が増幅していくのがわかる。
「……だがまだ足りぬ。この体に全盛期の魔力を取り戻すには、いまだ足りぬ」
思い起こすのは、輝かしき栄光の日々。
まだ足りない。あの頃の絶対的な力を取り戻すには────そして超えるには、まるで全然足りていない。
血を吸い尽くし、肉を咀嚼し終えた影は、ぐったりとした少女――だったモノを床に放った。
べちゃり、と湿気を帯びた音がする。
すぐさまおびただしい数の獣が死体に群がり、バリバリと骨を砕くような音が響く。
その中で、影は薄く微笑んだ。
弧を描いた唇の端が邪悪に歪む。
「――やはり狙うはあの小娘よ」
かつての力を取り戻す為には魔力が必要だ。だが強力な魔術師を狙うのはリスクが高い。
その点、以前に襲った少女は、ただの子供とは思えない魔力を秘めていた。魔道の家系に生まれていれば、きっと優れた魔術師に成長していたことだろう。
しかしそんな未来は訪れない。
あの少女は、我が糧となるのだから。
「……聞け、使い魔ども」
死体に群がっていた黒い獣たちが、一斉に顔を上げる。
「あの子供だ。あいつを攫ってこい。―――クラリス・ベルク。あの血肉を食らえば、儂はアイゼルすら超える力を手に入れられる」
くつくつ、と喉の奥で笑う。
「行け! クラリス・ベルクを儂の元へ連れて来い―――!」
獣たちが雄叫びを上げ、一斉に駆け出す。
その中で、影は一人、虚空を睨み付けていた。
「待っていろアイゼル。積年の怨み、晴らしてくれようぞ……!」
◆
この街で、人が消えている。
見えない影に人々は怯え、次の標的は自分ではないかとしきりに警戒しながら暮らしている。
―――そのことを、学園に通うほとんどの生徒は知らない。
彼らは基本的に寮生活だ。街の噂話が聞こえてくるはずもない。――それになにより、学園長が生徒たちに噂が広がらないよう裏で動いているからだ。
連続失踪事件のことを知れば、彼らは独自に動き出す。
特に成績上位者は必ず。
魔術学園の生徒となると、良くも悪くも自信を待つようになる。
自分は魔術を扱える。他の人間とは違う。そんな思いが彼らを増長させ、驕り高ぶらせる。
結果、自ら危険に首を突っ込むことになる。
『───そういった点でも、他の子たちと違って一歩引いた目線でものを見ることができる君は、この件に相応しいのじゃ』
危険だと思ったら、すぐに自分たちに知らせるように。
学園長たちは俺にそう言った。
それはつまり、危険が出てこない限りは先生たちが手を出すつもりはないということなのだろう。それもそうだ。彼らには手を出せない大人の事情があるということは、先日の説明で理解できた。
しかし、それだけではなく―――大人の事情絡みだけではなく、先生たちは手を出さないのだということも、なんとなくわかった。
信頼されている。期待されている。
俺に期待しているからこそ、彼らは本当に切羽詰まった時しか手を出さないつもりなのだ。
その期待に応えたい。
応えたいのだが……。
(どこから手を付ければ良いのか、まるで全然わからねえ……)
ロマイナの街は広い。
そこから張られた結界の入り口である『座標』をピンポイントで探し出すとなると、どれだけ大変か。
例えるならば、広い砂漠の中からオアシスを探し出すようなものだ。
いくら感覚的に探知できるからと言っても、シラミ潰しに当たるのは得策ではない。
事実、依頼を受けてから二日過ぎているが、どれだけ街中を歩き回ってもそれらしき『空間の歪み』は感知できなかった。
というか、俺自身、まだこの感知能力をうまく使いこなせていない実感がある。
その日の調子次第というか……体調で日によって精度が上がったり下がったりするのだ。
これでは『座標』の捜索もままならない。
「……むう」
占ってみる、という手もあったのだが、エルド伯爵のお抱え魔術師ですらあんな曖昧な結果しか出せなかったのだ。
俺が占ってみたところで、結果はたかが知れているというものだろう。
バルバトス……は論外だし。
開始早々、完璧に行き詰まった。
既にお手上げだった。
「……なあルフィナ。砂漠の中でオアシスを見つけ出す方法って、何かないかな?」
「はあ? ……急に何言ってるの?」
前に座っていたルフィナに声を掛けてみたが、返ってきたのは呆れたような声だけだった。
「いきなり何の話よ……そんな馬鹿なこと考えてる暇があったら、アレンは勉強をしなさいよ。べ・ん・きょ・う!」
追試も終了し、デルタミヤ学園はいよいよ夏の長期休暇に突入しようとしている。まだ二週間ほどあるのだが、もうこれと言ってイベントもないため、生徒たちの間には浮ついた雰囲気が漂い出していた。
しかし、俺にとってそんなものは関係ない。
長期休暇なんてものは、俺にとっては休暇ではないのだ。
どうせ故郷に帰ることもない。
俺の長期休暇は、他の生徒との差を埋める為の勉強期間でしかない。
と、いう訳で、図書館の自習スペースを使って、成績上位を常にキープするルフィナに教師役を頼んでいたのだ。
────が。
「アレン、さっきから全然集中してないでしょ」
「う……、そんなことは……」
正直な話、勉強に身が入らない。
今こうしている間にもロマイナに暮らす人々が危険に晒されているのではないかと思うと、どうしても教科書とにらめっこしている気にはなれないのだ。
ルフィナに教師役を頼んだのは、学園長からの依頼を受けるよりも前のことなので、今から『やっぱりキャンセルで』というのは筋が通らない。
彼女は俺の為にわざわざ特別カリキュラムまで組んでくれているのだ。その想いを無下にすることはできない。―――と、そう思いながらも授業に集中できない自分が情けなく、申し訳なく……。
「……何か、気になることでもあるの?」
「……いや、別に」
「嘘でしょ」
ふうっとルフィナは息を吐いた。
「何年幼馴染やってると思ってるの? ……アレンって嘘つくのが下手よね。絶対に左手でほっぺ掻くし、目がキョロキョロする」
慌てて左手を膝の上に戻したが、もう遅い。
気まずくて目を逸らす俺に、ルフィナは伏し目がちに訊いた。
「……。私には言えないこと?」
「ああ……。悪いけど、言えない」
「そう……」
学園長からは、『このことはくれぐれも他言は無用』とのことだった。理由は、先程の通り。生徒を危険に巻き込まない為だ。
……正直、俺はルフィナ自身は自分から危険なことに首を突っ込む奴じゃないと思っている。彼女は自分の実力を過信したりしないし、引き際を弁えている。冷静な女なのだ。
「……」
だが、一つだけ例外があるとしたら。
こいつは、俺がこの事件に関わっていると知れば、確実に協力を申し込んでくる。
それは駄目だ。
ルフィナを巻き込むのは、駄目だ。
「これは、俺がやるべきことだから、俺が解決しなきゃいけない。……ルフィナを巻き込むことはできない」
「そっか」
ルフィナは短くそう言うと、机の上に広げていた教科書の類を全て片付け、立ち上がった。
「え……?」
困惑する俺を、ルフィナは穏やかな目で見つめる。
「ウェイン君も言ってたけど……。最近さ、アレン、ちょっと変わったよね。……ううん、元に戻ったって言うべきなのかな」
今のアレン、昔みたいにキラキラしてる。
彼女はそう言った。
「キラキラ……?」
「うん。きっとアレン自身は『自分には手に負えない!』って悩んでのかもしれないけど、多分そっちの方が前のアレンよりもずっと良いと思う。エネルギーに満ちてるって言うか……。なんだろう……なんか、カッコイイ。見直したよ」
「そ、そうか……」
エネルギーに満ちてる。そう見えるのだろうか。
確かに、少し前までの苦痛に溢れた生活に比べれば精神的にも多少は楽になった気もする。失踪事件のことで悩んではいるが、『やらなければいけないこと』がはっきりしているせいか、以前のような息苦しさはない。
「ほら、もう行ったら? あるんでしょ? やらなきゃいけないことが。だったら、こんなとこで油売ってる暇なんて無いんじゃない?」
「でも、お前との約束の方が先で―――」
「そんなこと気にしてたの? ……別に良いのに。アレンに振り回されることなんて、私慣れっこだし」
まとめた教科書を、机を使ってトントンと揃える。
いまだ呆然としている俺に、ルフィナは笑いかけた。
「今更遠慮なんていらないわよ。さっきも言ったけどさ、何年幼馴染やってると思ってるの?」
「……ありがとう。恩に切る」
「気にしないの。ほら、行きなさい」
俺はもう一度ルフィナに礼を言い、図書館を後にしようと────
「あ、一つ言い忘れてたんだけど」
「?」
「砂漠のことは、砂漠の民に訊くのが一番良いと思うわ」
「……了解。何から何までサンキューな」
俺は、今度こそ図書館を出た。
◆
砂漠のことは、砂漠の民に。
なら────街で起きていることは、住民に訊けばいい。
なんだ。簡単なことじゃないか。
要は聞き込みだ。学園の中で考えていたって、何も始まらない。どうせ俺にできることなんて限られている。だったら、その限られた数少ないことを全力でやるしかないんだ。
そう思って廊下を歩いていた時だった。
「いた! クリアコード君!」
後ろから声を掛けられた。
振り向いた先には、ハーケン先生。
「探しましたよ、クリアコード君……!」
「? どうかしたんですか?」
肩を上下させ、息を荒げているハーケン先生。
尋常ではない様子だ。簡単な用事なら使い魔を飛ばせば良いだろうにらわざわざ本人が出てきたという事は、何か急ぎの用があるのか。
―――ハーケン先生が、俺に用。
十中八九、失踪事件のことだ。
自然と顔が強張る。
「ハーケン先生。一体何が────」
告げられたのは驚きの言葉だった。
「ベルク邸が……、正体不明の使い魔に襲撃されました……!」




