10.出会い
―――あれは、いつのことだったか。
遠い過去の記憶。まだ田舎にいた頃。
その日少年は、一人で森に遊びに出掛けた。
始まりは軽い気持ちだったのだ。大人たちは『一人で森に行ってはいけない』と言うけれど、彼はその忠告に耳を貸さなかった。
舐めていたのだ。人生経験の浅い子供には、魔物の恐ろしさなど分からなかった。
そして、案の定、彼は遭難した。
太陽は既に沈んでいた。辺りは真っ暗で、何度も木の根に足を引っ掛けて転んだ。身体中が擦り傷だらけ。寒くて、怖くて、たまらなかった。
そんな中で魔物に襲われて、絶対絶命で────その時助けてくれたのが、一人の魔術師だった。
『────大丈夫か?』
魔物の牙を障壁で弾き、振り返らずに魔術師は問うた。
ぶっきらぼうだったけど、その声音は優しくて、暖かくて。その背中はとにかく格好良くて。
冷たい孤独の中で震えていた子供は、その一言でさっきまでの恐怖を吹き飛ばせた。
────大昔の偉い学者曰く、魔力には、人を惹き付ける力があるという。
それは時に人を狂わせ破滅に誘うが、人を導きその行く末を照らす篝火にもなる。
きっと、彼はその時魔力に魅せられたのだろう。
あの背中に憧れた。
俺もあんな風になりたいと、そう思った。
その憧れは幼い少年の心に深く刻み込まれ、やがて成長した少年は故郷を出てデルタミヤ魔術学園に入学することになるのだが────。
自らの才能の無さという現実に打ちのめされた、かつての純粋な少年──アレン・クリアコードの心には、その憧れの記憶は残っていなかった。
歪みきった少年の心は、そんな記憶は忘れてしまっていた。
『自分にとっての原点』を失った彼は、今日も何かが欠けた日常を漠然と過ごす―――。
◆
──夢を見ていた、気がする。
眠っていたという意味でも、憧れを抱いていたという意味でも。
……強いて言うなら、夢見ていた頃の夢を見た、というのが正しいのかもしれない。
でも、もう忘れてしまった。
どちらも忘れてしまった。
忘れてしまったということは、忘れてしまっても良かったことなのだろう。
大切なことなら、きっと覚えていられるはずだから。
忘れてしまったのなら、それはきっと──忘れたかったことなのだろう。
風に吹かれて、ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んで来たのは緑色。青々と茂る葉が時折風に揺れ、隙間から溢れた金の日差しが俺の顔に降り掛かる。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
木の下で横になっていた俺は上体を起こし、大きく伸びをした。
目の前を流れる川は緩やかに。
せせらぎの冷涼な音が耳に涼しい。心まで洗われるかのような錯覚と共に、疲れた精神が癒やされる。
相変わらず、ここは昼寝スポットとしては最適だ。
学園の建っている山。俺がバルバトスを召喚した場所だ。
ここには基本的に人は訪れないし、何かの術でも施されているのか獣も住み着かない。
多分生態系とかぶっ壊れてると思うが、その代わり安心して惰眠を貪ることができる。
俺のような劣等生にとっては憩いの場だ。からかってくるような連中とも顔を合わせずに済むし。
枕代わりにしていた畳んだ外套を腕に掛けて立ち上がる。
ズボンの尻に付いた土を払っていると、ポケットからくしゃくしゃになった紙切れがはらりと落ちた。
───今朝受け取った成績表だった。
「……」
無言で拾い上げて、ちらりとも見ずにまたポケットに突っ込む。もう結果は知っている。
わざわざ自分の心を痛めつけるような馬鹿な真似はしない。
どうせならいっそのこと燃やし尽くしてしまいたいくらいだったが、ここは緑溢れる森の中。火が移ったりでもしたら大惨事なので、そこは自重する。
──その紙に書かれた大量の『不可』の文字は、朝から俺の頭にまとわりついて離れてくれない。
そもそも俺がこうして昼寝をしていたのも、一度眠れば嫌なことを忘れられると思ったからなのだ。
まあ、結果はこのとおりだが。
俺が悪魔召喚を試みたあの日から五日。
悪魔バルバトスに協力を拒否された俺は、やむを得ず自分自身の実力だけで試験に臨むことにした。
だが、結果は見ての通り。
巨大スケルトン戦での脚の怪我もあって、満足に戦うことのできなかった俺は、案の定不合格だった。
まあ満足に戦えたところで結果は変わらなかったかもしれないが……。
いや、そもそもバルバトスがさっさと協力してくれれば、それで済んだ話なのだ。なのに色々と文句を言いやがって。
これじゃあアイツを召喚した意味がわからないじゃないか。
俺は傍若無人なぐーたら悪魔を召喚したかった訳じゃないのに。
アイツのせいで、ここ数日はずっと床で寝ているのだ。
部屋の主は俺なのに、あの悪魔がベッドを占領するせいで。
苛立ちを紛らわすように、俺は足元の石を拾い上げて目の前の川に向けて放った。
ポチャン、と小さな音。
水面に波紋が広がる。
「……ここにいたんだ」
呆れを含んだ声色に振り向けば、一人の少女が腕組みをして立っていた。
胸元まで伸ばした、毛先に軽くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪。瞳の色は鮮やかな桔梗。
学園指定の制服を身に着け、頭には三角帽子。
いかにもな感じの、クラシックな女魔術師の装いだ。
ルフィナ・ミラー。
俺と同じデルタミヤ魔術学園の生徒であり、同郷の幼馴染。
「ルフィナ」
「呆れた。また寝てたの? 寝癖ついてる……」
ルフィナは自分の頭をトントンと叩いた。
彼女の示す所を触ってみれば、確かに毛が一房ピンと天を突くように立ち上がっている。
手櫛で髪を落ち着けていると、ルフィナは俺の元に歩み寄って来た。
「午後から式典があるって言われてたでしょ」
「あ……、そういえば今日だっけ……」
我がデルタミヤ学園は今年創立二百年を迎えた。──いや、この古い学校のことだから遡ればもっと長いだろうが、とにかく記録に残っている上では、めでたく二百年を迎えたのだ。
その記念に、今日は卒業生や有力な貴族などを呼んで式典を開くことになっている。
歓迎のパフォーマンスにと、一部の生徒が必死になって魔術を使った芸を練習していたのをよく覚えている。
……だが。
正直なところ、そんなものどうだっていい。
学園が創立百年だろうが二百年だろうが、そんなものが俺に何の関係があるというのだろうか。
若干だが自暴自棄気味になっていた俺の心の中では、変な意地が生まれ始めていた。
知るか式典なんて。俺は絶対に出ないぞ。と、そんな鋼の意思で────
「領主様も来るんだから、身だしなみはちゃんとしないと……。あー、もう! ほら、頭! 貸して!」
いつまで経っても寝癖を直せない俺を見兼ねたのか、ルフィナが苛立たしげに声を上げた。
ずいっと手を伸ばしてくる。
が、俺は咄嗟にそれを払ってしまった。
「え……」
「あ……わ、悪い」
ルフィナは一瞬戸惑うような、傷付いたような表情を浮かべた。
まずい、と思ったがもう遅い。一瞬だけ浮かべた表情をすぐに取り繕って薄く笑みを浮かべると、彼女は後退りして三歩下がった。
だが、その笑顔に一抹の寂しさを感じ取れるのは、決して俺の勘違いではないのだろう。
「……ごめん」
「いや、別に……」
「……私、もう行くね」
「あ……」
ルフィナは俺に背を向け、走り去る。
その背中に声をかけようとしたが、果たして俺に何かを言う資格があるのだろうか。
伸ばしかけた手が虚しく空を切る。
「何やってんだ、俺は……」
あいつに嫉妬するなんて。
やるせない気持ちに、傍らの木を殴りつける。
俺とルフィナは幼馴染だ。同じ村で生まれ、同じ村で育った。そして、同じ年に入学した。
───だけど、まさかこんなにも実力が開くなんて。
学年最下位の俺に対して、ルフィナは学年トップ5に入る実力者だ。
村にいた頃は片鱗すら見せなかったというのに、彼女は入学してからメキメキと力を伸ばしていった。
才能の差、というものだ。
遥か後ろにあったはずの気配は、いつの間にか追い付いてきて、いつの間にか俺を抜き去っている。
悔しいのは仕方がない。
でも、それを露骨に態度に出さないように気を付けていたはずなのに。それになのに、俺は今、彼女の手を振り払ってしまった。
俺の中で渦巻いていた劣等感や嫉妬心……それらのどす黒い感情は、気付かない内に俺とルフィナの付き合い方を変えてしまっていた。
「……っ」
後悔が身に沁みる。
俺は唇を噛んで立ち尽くしていた。
──と、その時だった。
何かの気配を感じて、ふと顔を上に向けてみると、一羽のフクロウが飛んできた。
前にも授業連絡の紙を寄越してきた、例の使い魔だ。
「またお前か……」
フクロウから手紙を受け取り、開く。
「……げ」
追試の知らせだった。
酷い成績を取った俺が全て悪いのだから文句を言う資格などないのだが、それでもやはりこんなものを渡されて良い気分になる奴なんていないだろう。
しかも、似たような通知が既に三通ほど来ている。合計四教科の追試。これから数日は勉強で忙しくなりそうだ。
そう遠くない内に訪れるであろう多忙な日々を思って、思わず嘆息する。
「……ん」
と、俺はフクロウとは別の気配を感じた。
息を潜め、こちらの様子を伺っている。
決して悪しきものではない。だが、覗き見されているというのも気分の良いものではなかった。
俺は無言で手を出す。
目を閉じて意識を集中すると、掌に力が集まっていくのが感じられた。
深い呼吸と共に目を開けく。
差し出した掌の上には拳大の光球が浮かんでいた。
「───Suche」
たった一節の、短い詠唱。
だがその一節で光球に『意味』が宿り、その与えられた使命のために光球は浮遊する。
しばらく俺の周りをふわふわと飛び回っていた光球は、やがて勢いを増してひゅんひゅんと高速で回転しだす。
そして少し離れた所にあった茂みに向けて、一直線にすっ飛んでいった。
「きゃあっ!」
「!」
小さな悲鳴。
それは確かに、光球の飛んでいった茂みから聴こえた。
「誰か、そこにいるのか?」
草木を掻き分け、茂みを覗き込む。
そこには少女がへたり込んでいた。
見慣れない子だった。
背中まで伸びた長い髪は、艶のある薄い金髪。その瞳は青空を思わせる澄んだ蒼。
その容姿から、なんとなく以前会った金髪女を思い出す。が、この少女はあの女より歳下だ。
それどころか俺よりも少し下だろうか。可愛らしい顔立ちにはまだあどけなさが残る。
───いや、そもそも学園の生徒じゃない。
デルタミヤの生徒は制服の着用を義務付けられているが、目の前の少女が来ているのは桃色のドレスだった。
この格好、まさか───。
「貴族……」
「そういう貴方は、学生さん。……よね?」
小首を傾げて確認してくる少女。
俺は黙って頷いた。
が、ほんの数秒前に自分がしたことに気付いて、慌てて頭を下げる。
「し、失礼しました! まさか高貴な方がこのような場所にいるとは思わず……!」
知らなかったとはいえ、貴族相手に魔術を使ってしまった。
攻撃用の術ではなかったものの、驚かせてしまったのは事実。怪我でもさせていたらと思うと、ぞっとする。
この裏山にいるという事は、今回の式典に呼ばれた貴族の娘だろうか?
いずれにせよ、この学園の教師の誰かと深い関係を持つ家の人間であることに間違いはない。
婚姻も前の貴族の娘に傷を付けたとあっては、留年を通り越して退学……いや、待て。最悪の場合、処刑すらありえるか――?
血の気の引く思いをしながら、ちらりと少女の様子を盗み見る。
どうか怒ってませんように―――。
「いいわ、顔を上げて。悪いのは覗き見をしていた私よ」
「ですが、自分はお嬢様に怪我を―――」
「怪我なんてしてないわ。驚いて少し転んだだけ。本当よ?
……ねえ、それより、一つお願いがあるのだけれど」
遠慮がちな伏し目でこちらの様子を伺ってくる少女だったが、俺が続きを促すと、恥ずかしげに頬を染め、そしてそれを隠すようにはにかみながら言った。
「道に……迷ってしまって……。案内してくださる?」




