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名を呼ばれて、はじめて愁ははっとした。
胸に一撃をくらったかのように、後ろに距離を取る。
「師…」
名を呼ぼうとして、真横からの圧を感じる。風となった不気味な予感に思わず、愁は止めそうになった足を動かす。
勢いがついた旋風が愁の鼻先をかすめる。首を刈り取るかのような回し蹴りが空振りに終わった師父の身体が止まることはない。一回りしてもバランスを失わない。しなやかに揺れる師父。四肢が波打つと思ったら、鞭のように愁に襲いかかる。
(くっ…)
思考の速度を遥かに上回る気迫。考えることすらおぼつかない愁は、身体が覚えているままを頼りに、師父の技をさばき続ける。
それでも、わずかに防ぎきれなかった打撃が少しずつ愁の身体に傷をつけて聞く。
嵐のような攻めが終わる頃、愁の全身に傷が生まれていた。師父の連撃を交わし切ることは、まだ愁にはできない。わずかに掠っただけで、擦り切れたような跡が腕や衣服についていた。
一撃でも食らったときのことは考えたくもない。
夢中になってかわしていたときには感じなかった痛みが愁の身体に熱を持つ。僅かでもうごくと、痛みに叫びたくなる。
「避けてばかりだと、いつまで立っても私を倒せない」
息が上がることがない師父。四肢を無尽に振り回しているのに。笑みすら浮かべている。
「師父の、勝手には、なりたくないんで」
軽口を言おうにも、息も絶え絶えな愁。
「どうして、俺を殺そうする」
「殺すも殺さないも、師匠である私の勝手だ。行き倒れになっていたお前を救ったのはどこの誰だ? 私にここまで生かされてきた事を感謝しろ」
「あんたが、そういう考えを持ってるとは思わなかった」
「お前が私を知ろうだなんて、まだ早い」
李怜は構える。
「死ぬ前に、私を楽しませてみせろ」
愁が構えようとする前に、師父は視界から消える。
師父の演武に似たような攻めに隙きは見当たらない。弟子とは重ねてきた修練の差が違うのだから。愁はどれだけ、修練を積み重ねても、師父に届いたような感覚も思えなかった。
受けようとした瞬間ですら、僅かにずれる。ずれただけ、皮膚が裂け、血液が滲む。
だからといって、攻めが止むわけではない。
僅かなずれが積み重なればなるほど愁の受けが間に合わない。それが十、二十と積み重なれば。
致命傷となるほどの隙が生まれてしまう。
がら空きとなった顎を、見逃す師父ではなかった。
まるで、コマ送りになったように。師父の身体が目の前から沈む。頭では、理解しているはずだというのに、身体が追いつかない。次の動作も理解しているというのに、身体が追いつけなかった。
言葉にすることも難しいほどの間が過ぎて。
愁の頭に衝撃が走る。
宙に浮いた愁の身体。真っ青の空が、ゆっくりと弧を描く。いや、弧を描いたのは愁の身体。砂埃が愁を隠す。
立ち込めたような砂埃がゆっくりと晴れたころに、地面に仰向けに倒れた愁の姿が現れた。
「がっ…」
顎に掌底が入ったとき、愁の頭蓋骨が揺れた。揺蕩っていた愁の頭の中が騒然となる。仰向けに倒れた今も、酒を無理やり飲まされたあとの朝のような気持ち悪さがめまいとなって愁を襲う。
目を白黒させながら、それでも手足をばたつかせる。
まだ、戦意は残っていた。たとえ、嘔吐感が全身を苛もうと、手足が満足に動かせないとしても。
それは、師父が激烈なしごきの合間に愁に叩き込んだことであった。
「あぅぁ…」
満足に言葉すら喋ることもままならないまま、愁は立ち上がる。ふらふらになりながら、戦意を見せようとする彼に違和感が襲った。
(どうして、師父は俺にトドメをささなかった。そうする時間はあったはずなのに)
嘔吐感を抑えるためにどうにも荒くなる呼気。
ピントが会い始めた視界がはっきりとした瞬間、愁は息を飲んだ。ダメージを負った己自身のことなど、吹き飛んでしまうほどのものが目の前に写っていた。
「師父!!!」
膝を折り、座り込んだ師父。その足元に、おびただしいほどの鮮血が飛び散っていたのだった