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代わり映えのしない、山頂の景色で二人は構えたまま姿を崩さない。まるで、一つの絵のように固まった二人の姿が景色に溶け込むかのようであった。
そこに舞い込んだ一匹の小鳥が上空で旋回を始めた。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回目の旋回を始めようとした頃、二人は動きを早める。
先に行動を始めたのは李怜だった。
今までで、頭蓋を揺らし、腹部を圧迫させた。満身創痍の愁。どこを壊しても弟子にとってそれが致命的になる。理解した上で、胸部に狙いを定めた。心臓をつき、今度こそ、決意を遂げる。常人では目が追いつかない速さで腕を引く。弓のように引いた右手をときはなつ。
これで、よかったはずだ。
右手は確かな感触を李怜に伝えた。熱くたぎる手の先が伝える硬い感触。
「がら空きだぜ、師父」
病魔とは違う衝撃が李怜の身体を貫いた。
己が師父から独り立ちをしてから、久しぶりに感じた、同じ流派の痛み。
左肩を貫かれた愁の右手が李怜の胴を貫いた。
けふっ・・・。
師父の身体から力が抜ける。すべての体重が愁の腕にのしかかるが、それが愁を戸惑わせた。
(なんて、軽いんだ)
まるで、中身など入っていないかのような師父。うつむいたまま、動かない。
「師・・・」
「よくやった、愁」
か細い声が師父から聞こえる。彼女が発するとは思えないほど、弱々しい声だった。
「これで、私も安心して向こうに逝ける」
「なに、言ってるんだ! あんたなら、これくらいの怪我すぐに治るだろう」
「腸破られて、生きられる人間なんていない。それに、そうであろうと、私の命は長くない」
顔を見せてくれ、と師父の願いに、答えられない。
「私はずっと、間違っていたと思っていた」
師父は、静かに弟子に向かい、語りかける。
「私がお前と出会い、旅の供として連れ添う前から、師父からこの流派を受け継いだとき、否、お前と同じ孤児だった私が生きたいと強く願ったときからずっと」
じっと弟子に立ち向かいながら。
「私みたいな小娘が、一人前にお前を育てられるとは到底、信じられることができなかったからだ」
「師父…あんた…」
「流派を受け継いだ人間も、ろくな結果にはならない。ならば、当代の己で断ち切るのも、責任だとそう信じていたが」
間延びしていくような師父。言葉を紡ぐための力も失われつつあったようだった。
「そうではなかった、ようだ。お前みたいな弟子を遺せた。私はそれだけでも、価値があったのかもしれない」
「お前の勝ちだ。愁雨」
地に伏した師父は静かにそう言った。「私が教えられるものはすべて教えた。お前は私を超えたんだ」
愁は息を整えるのに必死だった。殺す気でかかってきた師父を相手に精一杯で、倒すためにも力加減ができなかった。
「師父…」
「袂を分かつとき、お前か私が死ぬことになる。その結果がこれだ。私がお前の立場になっていたかもしれないがな」
「言葉が過ぎないか、師父」
「過ぎることもない。私はもうじき死ぬ。それが定めだ」
「ふざけるな!俺はあんたからまだ何も学んじゃいない」
「充分学んだ結果がこれ、だ」
「俺を一人にするな!くそ師父」
「ひとつだけ願いがある」
「?」
「身体を抱きしめてくれ」
「……なん、だよ…」
「一人ぼっちだと、寂しいんだ。人のぬくもりがほしい。最期の願いだ、叶えさせてくれ」
師父の願いに、愁は彼女を抱きしめた。
師父はただ、ため息のようなか細い呼気を漏らし続ける。
そして、それが弟子ですら消え入る様を感じさせていた。
やがて、師は弟子の胸の内で息を引き取った。
土にまみれた両手を払う。汗なのか、涙なのかわからないものを拭うには、汚すぎた両手。
気がつくと、陽はとうの昔に沈んでいた。
真っ暗な夜更けに、済んだ空気が星をいつもより瞬かせる。
師父の亡骸は、大木の脇へと埋めた。
彼女が思い出の地だと言っていた、この場所に。
大木から伸びる、ことさらに太い枝を鷲掴みにして、折り取る。
柔らかくなった地面に突き刺す。
それが、師父の墓標となる。
「あんたの名前なんてすぐに忘れ去られるくらい、俺は名を轟かせてやるよ。あんたの名前を覚えているのは、俺だけになるくらいにな」
永遠の眠りについた師父をしばらく眺め、愁は背中をぶるりと震わせた。夜明けとともに、山を降りようと、愁は決めた。それまでは、彼女の傍らに寄り添うのだ。




