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先生の想い。

カフェ“オルヌ”は、西通りにある小さなお店だった。ぼんやり歩いていた私は、もう少しで見逃すところだった。

ガラス扉を開けると、落ち着いたジャズ音楽と、強烈なコーヒーの薫りに全身が包まれた。

モダンな造りの店の奥には、5人掛けのカウンターがあり、カウンターの中から50代くらいの男性がカップを拭きながらこちらを見た。

「いらっしゃい」

カウンター以外に、2人掛けのテーブルが4つ。

マスターらしき人に軽く会釈をしてから、奥から2番目のテーブルの椅子に座る。

テーブルに備えてある小さなメニューを見ていると、マスターと同い年くらいの女性がお水を運んできた。

夫婦で営んでいるお店なのだろうか。

お客は私1人だ。

「こんばんは。何になさいます?」

「あ・・じゃあ、カプチーノを」

「はい。少々お待ち下さいね。」

女性は笑顔を向けると、マスターに「カプチーノ」と伝えた。


携帯電話を開くと、21時になろうとしていた。

先生は、仕事が終わったら必ず来ると言っていた。

このお店は何時まで開いているのだろう・・

水の入ったグラスの氷がカランと鳴った。


前田先生が来たら、何と言えばいいだろう。


聞きたいことはたくさんある。


ちゃんと言葉にできるだろうか。


2年前のように、何も言えずに、何も聞かずに、後悔するようなことだけはしたくない。


やっと見つけたのだから


やっと会えたのだから



♪♪♪

手に握りしめていた携帯電話のメール着信音が鳴り、ハッとした。

和晃だ。


『はるか、食事は済んだ?俺は今、梅田にあるホテルに着いたよ。こっちに到着した直後から食べっぱなしでお腹いっぱい。今から今井さんと部屋で飲みます。また寝る前にメールするよ』


返信はせずに、そのまま閉じた。


運ばれてきたカプチーノから、ふわふわと立つ湯気をぼんやり見ていた。


先生はいつ来るだろう


どのくらいで来るだろう


忙しい時に、邪魔をしてしまったのではないか


後ろ向きな考えばかりが、浮かんでは消える


そういえば、先生にはいつも待たされている


初めて駅前の“ブレイク”で2人で会ったときも


ラグビー観戦の日の競技場でも


そして1年半


こんな日が来るのを、私は心のどこかで待っていた





「いらっしゃい」というマスターの声につられて、入口の方を見た





   前田先生





走って来たのか、鼻の頭に少し汗を滲ませて、私に微笑みながら近づいてくる。


「マスター、僕、エスプレッソ」


先生がマスターに声をかけると、マスターは何も言わずにただ頷いた。


先生は黒のジャケットを着て、手には何も持っていない。

優しく笑いながら、テーブルの向かいに座る。

「ごめんね・・・待たせて」


あの頃と同じ、変わらない笑顔


私はこの笑顔に、ただ惹かれていくばかりだった


「すみません・・突然・・・」

「いや・・いいんだ・・・。よく、あそこ(クリニック)がわかったね」

「あ・・、ネットで見つけたんです・・先生の名前を・・・」

なんだか、まともに先生の顔が見られない

「そっか・・。・・・元気だった?はるかさん・・」

「ー・・・はい」

先生が目の前にいるのに、どことなく実感が湧かない

現実なのに、現実ではないような気分

「神戸に・・お帰りになったんじゃなかったんですか・・?」

「ー・・ああ・・まあ、一度は帰ったんだけどね。でもやっぱり、こっちに10年以上いたから、暮らしやすくてね・・また戻ることにしたんだ。」

「・・・」

「今働いてる・・あそこさ、大学の時の同じラグビー部だった伊戸田っていう先輩が開業したんだけど、こっちに戻ろうかって考えてる時に、院長やらないかって誘われてね・・」

「・・・そうですか・・・」

「うん・・・」

「いつから・・あのクリニックで・・・?」

「そろそろ1年くらいかな・・正式に院長になったのは最近なんだけどね」

だから、名前はずっとヒットしなかったんだ・・

1年も前から・・こっちに・・

「ー・・・神戸に・・・行ったんです・・」

「え・・・?」

「1年半前・・。先生がいなくなったって知った後に・・・」

「・・・・」

驚いた表情で、どこを見るというわけでもなく、先生の目が動く

「・・・僕を・・・探しに・・?」

先生は、遠慮がちな苦笑いを浮かべた

「ー・・・いえ・・、そんな途方もないことは・・・」

「あっ・・ハハッ、そうだよね」

「ー・・先生が、生まれ育った街を見てみたくなって・・」

「・・そっか。そうだったんだ・・。どうだった?神戸は」

「素敵な街でした・・すごく。初日は、北野を歩いて、夜はメリケンパークに夜景を見に行って・・。ポートタワーが綺麗で・・ホントに」

「うん・・神戸の夜景は僕も好きなんだ。そっかあ・・行ってきたのかぁ・・」

少しだけ、張り詰めていた空気が和んだ気がした


「はい、エスプレッソお待たせ」

マスターが先生の前にエスプレッソを置いた。

新しいコーヒーの薫りが漂う。


先生は、ゆっくりカップを持ち、薫りを楽しむように一口飲んだ

「・・・どうして・・、前のクリニック、お辞めになったんですか?」

思い切って聞いてみると、先生は口元に笑みを浮かべて下向き加減に答える

「んー・・いろいろあってね・・総院長との考え方の違いとか・・他にもね」

「ー・・・定期検診で、次の春にまたお会いできると思ってたんです」

「うん・・・ごめんね。僕が診てあげるって言ったのに」

謝られると、胸の奥が、きつく締め付けられる

「・・・ストラップ・・・ありがとうございます」

「あ・・ちゃんと受け取ってくれたんだ」

「・・・はい。加護先生から渡されて」


いなくなった先生を想い、絶望感に苛まれていた時だった


「何か・・残しておきたくてね。はるかさんには、ラグビーも一緒に観に行ってもらったし、お礼のつもりだったんだ」

「お礼・・・」

ペアであるはずのもう1つのストラップは、先生が持っているんですか?

・・聞きたいのに・・聞く勇気がない

「私の連絡先を、先生に伝えていただけるように頼んでみたんですが・・聞いていませんか?」

「え・・?そうなの?」

やっぱり・・伝わっていなかった

「いつ?」

「いえ・・いいんです」

今はもう・・そんなことどうだっていい

冷たくなったカプチーノの残りを飲み干す


「そろそろ・・時間なんだが・・」

申し訳なさそうに、マスターが近づいてきて言った。

「あっ、すみません、そうだった。お幾らですか?」

「1200円ね」

先生が財布を出して、お金を払う

「いつも来てくれてるのに、すまないね」

「いえ、時間は時間ですから」

マスターは先生から2000円受け取ると、カウンターにあるレジにお釣りを取りに行った。

「いつも・・いらしてるんですか?」

私が尋ねると、先生は残りのエスプレッソを一気に飲んで言った

「うん。いつもっていうか、時々だけど、ここ23時までやってるし、帰り道だしね」

「そうなんですか」

マスターが先生にお釣りを渡す。

「また来てよ」

「うん。ごちそうさま」

出口に向かう先生に、私も続く

「ごちそうさまでした」

「ありがとう。また来てね」

マスターが微笑む

「はい」

頷いてから、店を出た。







ネオン輝く夜の街を、先生と2人、並んで歩く。

「あのう、コーヒーのお金・・」

「ああ、いいよ全然。ごちそうさせて」

「スミマセン・・」

「家の近くまで送ろうか?」


先生の車に2人・・・自分の気持ちが、抑えられなくなる気がした


「あっ、いえ、いいんです。バスで帰ります」

「・・・じゃあ、バス停まで」

「ー・・・」

「ん?」

「前にも、同じようなことありましたね」

「前?」

「ハイ、先生が、学会で東京に行かなきゃいけない日に、一緒に“ブレイク”でコーヒーを飲んで、その後駅前のバス停まで歩いて・・」

「ああ〜、そうだ。そうだったね。クリスマス前かなんかだったよね」

「ハイ」

先生は、優しく微笑む

「今日はどこから乗るの?」

「あ、中央通りからです」

「そっか。じゃ、こっち通っていこうか。ちょっと遠回りになるけど。時間大丈夫?」

先生は、公園を指差す

少しだけ長く、先生と歩ける

「はい・・大丈夫です」


公園の遊歩道は、木々の間から差し込むネオンの光と、所々に建つ街灯の光で、比較的明るくなっていた。

中央広場には、遊ぶ子供のいない淋しげな遊具が、静かにそこにある。

「仕事の帰りにね、時々通るんだ。街中を歩くのもいいけど、こっちの方が空気が澄んでる気がしてさ」

「・・・そうですね」

2人並んで歩く足音と、お互いの声が、やけにはっきり聞こえる。

周りには誰もいない。

「ー・・・はるかさん」

トクンッ・・・

先生にそう呼ばれると、胸の鼓動が鳴り止まなくなる

「・・・会いに来てくれてありがとう」

「・・・いえ・・・突然で・・返って申し訳なかったかなって・・」

「いや・・正直、驚いたんだ。もう・・会うことはないだろうと思っていたし」

「・・・」


歩く足が、止まった


「先生」

「はるかさん」

私の言葉を遮るように、先生は私の目の前に立った


真っ直ぐな目


「もう・・・わかっていると思うけど・・」


その眼差しに、どれほど引き寄せられていただろう


「僕は・・・」


トクン


トクン


「・・はるかさんが好きです」


トクッ・・・









息が・・・・苦しい









「ー・・・・」

「・・・・・」




前田先生




「・・・2年前からずっと」




前田先生




「今も」




前田先生




「ー・・・」




先生の顔が滲んでいく




涙が   溢れ出す




「はるかさん・・・」




ふわりと、クリニックのにおいがする


先生の肩越しに、遊歩道の先だけが延々と見える


顔には先生の胸元が触れ、背中には先生の腕が回されている


耳元で先生の吐息を感じ、頬には先生の鼓動が伝わる



この瞬間を  どれほど夢見たことだろう



前田先生に抱きしめられる


体の全部で、「先生」を感じる


今ここに、「先生」がいる




「先生・・・」

「・・・ん?」

「・・・私も・・・」

「・・・・・」

「私も先生が」

背中の腕に、グッと力が入るのを感じた

「はるかさん・・・」

「・・・」

「あなたには・・ご主人がいる」

「・・・」

「僕は・・ご主人からはるかさんを奪うつもりはないんです・・」

「・・・」

「自分の気持ちを優先して誰かを傷つけたり、苦しめたりするのは嫌なんです」

「・・・」

「それはご主人だけじゃなく、はるかさんも苦しめることになる・・」


涙が、溢れる


「その後は結局、その罪悪感で・・幸せを感じられなくなる」

「ー・・・だけどっ・・」

「僕とはるかさんは・・2人でいてはいけないんです」

「ー・・・」

「いくところまでいって、僕を好きになったことを後悔して欲しくない・・あなたに、辛い思いはさせたくないんです」

「ー・・・」

「2年経った今・・こうやってあなたは、僕のところへ来てくれた・・いつまでもそんなふうに、想われていたいんです」


先生の想いが、痛いほど胸に響く


「これは2年前から出していた答えで・・・間違っていなかったと思ってる・・・」

「ー・・・」

もう、やめて

「はるかさんが治療に来るたびに・・僕は嬉しかった。あなたに会えることも、あなたに少しだけ触れられることも・・・」

「・・・・」

もう、やめて

「一緒にラグビーを観に行ったこと・・・僕にとっては最高の思い出です」

もうこれ以上、好きにさせないで・・・!


先生が右手で、私の後ろ髪を優しく撫でた

「一度でいいからこうして・・・あなたをこの腕に、抱きしめてみたかった・・」


涙が溢れて 瞼が痛い


「・・・・」

「・・・僕は今・・・本当に幸せです」


前田先生が好き


こんなに


先生が好きなのに




ゆっくりと、肩が離れる


先生が真っ直ぐ私を見て


やわらかく微笑む


「泣かないで、はるかさん」


私の頬の涙を拭う


あたたかな、先生の手


私の腕を伝って、両手を包む


「はるかさん」


「・・・はい」


「幸せになってください」


「ー・・・・」


「あなたの幸せが、僕の望みです」


「ー・・・・」

声が出せず、ただ、一度頷いた



先生が、そう 望むなら



「あなたに会えて、僕は本当によかった」


私も


「私も・・・先生に会えて・・・よかったです」


先生を好きになってよかった




先生の笑顔


先生の声


先生のぬくもり


先生の想い



忘れない



前田先生を



前田先生を好きになった



自分を・・・





先生は、私の右腕をグンと力強く引いた。



最後に



痛いほど強く



私を抱きしめた。














中央通りのバス停は、深夜の最終バス間近だというのに、昼間のように人が多い。


「バス・・・大丈夫?人多そうだけど」

「ハイ、大丈夫です」


きっと、これが最後


「じゃあ・・」

「・・・はい」


きっと、もう会わない


「・・元気でね、はるかさん」


先生が、優しく笑う


「・・前田先生も」


笑顔を向ける


「うん、ありがとう」



バスに乗り、窓から歩道に立つ先生を見つめる




貫くことの出来ない  想いがある




結婚しても、いつも一人だった私に



人に恋する喜びを



もう一度感じさせてくれた先生



私を好きだと



言ってくれた



先生





さよなら





先生





前田先生





遠ざかる窓越しの先生と



いつまでも見つめ合っていた






これが私と先生の



本当の意味での



最後だった















ガチャガチャと、玄関の鍵が開けられる


「ただいまあ〜」

「あ、おかえりい〜」

バッグとお土産の入った袋を持って、和晃が帰って来た。

「いやあ〜疲れた疲れた」

「どうだった?大阪」

「いいねー!大阪、すごくいいよ!」

「ホント?」

「ん〜、食べ物は美味しいし、人はみんな気さくでおもしろいしさ」

「へええ〜、いいなあー。」

「あ、はい、これお土産」

「わー!なになに??」

「えっとねぇ、はい、これが、たこやきまんじゅう、大阪あんプリン、たこやきせんべい、たこやき羊羹・・」

「ちっ、ちょちょちょ、待ってよ、なんでお菓子ばっかなの?たこやき羊羹??」

「そうそう、このたこやき羊羹がまた美味いんだな〜」

「お菓子ばっかりぃ・・」

「あ、一口餃子も買ってきたよ。なんかね、すごく有名な店なんだって」

「え〜!ホント!?食べよう今から!」

「じゃあ、オレが焼いてあげよう」

「やったー!」





前田先生






私はいま


       幸せです



前田先生の


       望み通りに




この物語を、歯科医師M・S氏に捧ぐ

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