後編
あいつの試食をさせてもらったが、やっぱり『美味しい』と言えるものではなかった。そんなこんなで、まだ無意義な一日を提供させてしまった。
あれから数か月後のある日、俺は歯車を動かした。
あの夜、あいつと彼女の深い関係を想像して吐き気を感じた。
『俺は、俺。あいつはあいつ。』
いくら不快に思って口ずさむようにしても、まるで自分のことのように、現場を見てしまったかのように喘ぎ声や招き声、形やしぐさまでもが、頭という脳みその真ん中で想像を掻き立て苦しくなる。まるで誤飲注意の薬品を、試食の中に注入されて症状が出た感覚に陥った。そもそもなぜ、そのようなことを考えてしまったのだろうか…。
そうして俺は携帯から遠ざることにした。
皆が手放しっていたガラケーを、俺はとうとう違う意味で見放した。
だけどその数か月後、古い時代が戻ってきたかのように、またガラケーを再度手にした。あの本当に真っ二つに割れた感触から、まだゆとりのある二つ折り携帯が手元に帰ってきた。
そして嬉しさの反面、あの怖さも戻り襲ってきた。それでも、勇気を振り絞って基礎設定を組みなおして電波を発信して受信した。未受信だったあふれるメールの中で、あいつからの連絡が一件あった。しかも、昨日付で封してあった。
ただあいつのメールは、いつもとは違う空気が余白に漂い、一つ一つの文字に何か気持ちがこもっている気がした。 新しい携帯とはいえ、それとは別の何とも言えない胸が苦しくなるような香りも、身体に吸い込まれていった。
携帯から放った文字は
「試食、お願いできるか?」
だけなのに。
それよりあれからの数か月ものの間、あいつなりの自信作が出来なかったのだろうか?留守電にも、メールもないまま、昨日の日付で試食とは…。よっぽどこだわり抜いたということなのだろうか。俺は迷わず、返事をすることにした。いつの間にかあの怖さは、緊迫感にすり替わっていた。
次の日、隣の席にあいつの彼女の姿はなかった。あいつによると、彼女は自分から去って別れたらしい。それはどんな理由からで、どんな経緯でそんな結果になったのか伝えてこなかったが、あいつはまるでようやく独り立ちが出来た赤ちゃんのような立ち姿で俺を見つめて呟いた。
俺は何も云えずに、いつもの小さい席に腰を掛けた。
そしてあいつは、今までとは違う丁寧なおもてなしで俺に試食を作り始めた。ここから見る台所とあいつの姿は、シェフという姿ではなく別な姿にも見えた。
「どうぞ。」
あいつは、そっと俺のテーブルの上に白い大皿の華を提供した。
そこに広がるのは、今まで見たこともないような、いやどこか懐かしいような親のような存在のスパゲティだった。パスタはイタリア生まれなのに、ナポリタンは日本生まれという意外さと懐かしさに、親しみやすさが胸をこみ上げさせた。
試食の第一番目に初めに食べさせてもらった時以外提供されてこなかったものが、急に出てきて驚いて一瞬躊躇をした。俺が一時停止したのをしりながらも、あいつはいつもながらに急かすわけでもなく、声を発することもなく、どこか太陽が燦燦と慈悲を注ぎ込んでいるかのような表情で見つめ、口にするの見ていた。
俺は、慌ててフォークをカトラリーから取り出してスパゲティに手を付けた。具の一つ一つ、麺の一本一本が生きているかのように光輝いて見えた。少しとろみがかかったケチャップソースが、息をするかのように…プク、プクっと泡の息を吐いて小さくなった。そしてまた、パスタが沈んで大きくなったように見えて心臓に見えた。
そして口に含んだ瞬間なんかは、踊りだすようにあいつらしさが思いっきり風味とともに広がったのだ。なんて『美味しいのだろう』。それが、全身へと貫いた。まるで、片想いを両想いにしてくれた、愛の告白を待っていた嬉しさに涙が止まらない気持ちになった。口にしてしまっては終わってしまいそうな美味しさを、俺はひたすらに食べ続け鼻水が止まらなかった。
何日も、何か月も、何年も待っていたかのような…。
そして、皿に汚れひとつ残さず食べきり、あいつの目の瞳のさらなる奥を見てつぶやいたんだ。
「こちらこそ。」と…
そしたらあいつは、今までにない笑顔を見せてくれた。