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遺恨  作者: 木下秋
5/6

2013/07/01

「……洋子」

 ドアの外には、シトシト降り続ける小雨こさめを背景にして、松原洋子が立っていた。そのなんとも形容しがたい表情に含まれている感情は、おびえのようであり、申し訳なさのようでもある。

 飴色のドアに体重を預け、立っている聡の顔も強張こわばっていた。今は笑顔をつくろって見せているが、その奥には別の感情が潜んでいるかのような、複雑な表情。

 二人が会うのはあの日、五月二日以来のことだった。聡は洋子に何度も連絡をとって謝罪し、「会って直接謝りたいから部屋に来てくれ」と懇願こんがんした。だが、洋子は断り続けていた。

 聡に会いたい、という気持ちは確かにあった。ただ、あの部屋にまた入るのが、嫌だったのだ。

 洋子は聡の部屋に漂う尋常ならざる空気を、あの日感じ取っていた。長くここに留まって居たくない、早くここから逃げたい、と思わされる程の恐怖。それは人間が直感的に恐怖を感じる、闇そのものに似ていた。

 そんな場所に住み続けている聡も、普通ではない。あの日、部屋を出るときに見せた、鬼気迫る表情。聡ももう、洋子の知っている聡ではなく、部屋に毒されて変わってしまったのではないか。洋子はそんな風に思っていた。

「入れよ」

 聡が言った。洋子はその言葉に従って、聡に続いて部屋に入る。

 部屋にはあの日にも感じた、異様な雰囲気がよどんでいる。洋子はそれを言葉で表すのならば、どんな言葉になるのだろう、と考えた。“湿り気のある悪意”。そんな言葉が頭をぎり、鳥肌の立っていた腕をさする。

 部屋に入ると、まだ昼過ぎだというのに暗かった。薄いレースのカーテンに、昨日から降り続く雨。部屋は息を潜めているかのように静まり返り、小さな雨音だけが、遠くから聞こえる。

 洋子は隣で立ち、何も言い出すこともなく、動かない聡を見た。

 聡は、ずっと洋子を見ていた。ゆっくり微笑み、目を見開く。大きな両目から、狂気が溢れた。

「……!」

 聡の異様な様子に叫びそうになった洋子だが、その声が喉から漏れることはなかった。聡が両手を伸ばし、洋子の首を鷲掴みにしたからだ。聡は全力で踏み込み、

 バンッ

 と、洋子を壁に押し付ける。洋子は聡の手に爪を食い込ませ、抵抗するが、聡の力が緩むことはない。

「んっ……くっ…………やめっ……」

 洋子の、微かな呻き声。

 聡はその手に込めた力を一切抜かず、洋子の首をぎりぎりと絞め続けた。

「ようやくだ」

 その口角が、くくくっ、と釣り上がる。

「ようやく、この手で、殺せるんだ」

 瞬間、轟音ごうおんとともに稲光いなびかりが部屋に差した。洋子は、薄く開いたまぶたの向こうに、地獄を見る。

 悪魔の様に笑う聡が、白い光にまばたきもせず、自分の首を絞めている。苦しみが、その光景が夢などではないということを、残酷に告げていた。

「殺してやるぞ」

 笑いと共に、聡の口からよだれこぼれる。恍惚、といった表情。かすみゆく意識の中、最後の稲妻の音を聞いた。

 白い光の中で、聡の後ろに、二つの影を見た。



「はぁ、はぁ、っはぁ」

 日が暮れかけた部屋の中で、聡が息を荒げている。

 前を向けば洋子が、壊れた糸繰人形いとくりにんぎょうのように床に崩れている。

 その様子を見て、ふふっ、と聡は満足そうに笑った。なぜ洋子を殺してしまいたくなったのかは、わからない。ただ、言いようもない満足感が、聡の心を満たしていた。


 その時、雷が一つ、遠くで光った。暗い部屋の中、洋子の亡骸の近くに、二つの影が見えた。

 一つは小さく、一つは高かった。

 遅れて轟音がやってくる頃、聡はその影に捕らえられた。小さな影がまとわりつき、体が動かなくなると、高い影が触手のような手を伸ばし、聡の首を絞めた。

 聡は声にならない叫び声を上げ、振り払った。壁際まで後ずさり、前を向いた。

 そこには、無表情の洋子が立っていた。二つの影を従えるように真ん中に立ち、輪郭はぼやけつつあるが、間違いなく洋子だった。

 洋子はゆっくりと右手を伸ばし、震える聡の首に、そっと触れた――。




 薄暗い部屋の中、雨音という名の下地に、静寂が上塗りされる。

 二人の死体が横たわる部屋の中で、影が三つ、立っていた。

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