2008/07/18
外では、土砂降りの夕立が降っていた。
薄暗く蒸し暑い、静まり返る部屋の中に雨音だけが響く。それはくぐもった、唸り声にも似た音だった。
女は、洗面台の前にいた。痩せ細り、傷だらけになった、常に泣き顔のような自分の顔を、鏡の中に見た。
鏡の中の、女が泣いた。顔を歪め、すすり泣くその姿を、女は、“醜い”と思った。
こんなはずではなかった、と女は嘆いた。確かに、若い頃から水商売で生計を立てて、狡いことも、法律では許されていないことだって、数えられない程した。人に恨まれるようなことだって、騙すようなことだって、好意を踏みにじるようなことだって。
でも、“あの人”と出会って、それまで彼女を支えてきた全ての価値観が、がらりと変わった。今までの私は、私では無かったんだ。これから、“この男の人”と生きる人生が、私の、本当の、人生なんだ。と。
仕事を辞め、全てを切り捨てて、男と生きる道を選んだ。男は働き、女は慣れない家事をこなした。今までの生活からは信じられない、地味な作業の繰り返しである毎日だったが、男の為ならと思うと、何だってできた。
状況が変わったのは、その生活が始まって一年も経たない頃だった。男の経営していた会社が倒産。今まで生活していた高層マンションには、住めなくなってしまった。
あらゆるものを売り、無一文になった。それでも、女は不幸せだとは感じなかった。男がいてくれさえすれば、幸せなのだと。そう思っていた。
しかし、男は変わってしまった。以前のように働きもせず、酒を飲んでは暴れて、女を傷付けた。女は、そんな男でも、深く愛した。男の為に、働き、支えようとした。しかし、それが男のプライドを傷付かせ、女を傷付けることになろうとは、想像だにしなかった。
女は傷ついた顔のせいで、以前のような水商売ができなくなった。稼ぐ金にも限界があり、またそのほとんどは男に使われてしまうので、家賃二万円の、安アパートの部屋に住んだ。
その部屋に住むようになって、男はより、暴れるようになった。女には、その理由がわからなかった。女はある日、男の暴力によって、子どもの産めない身体になった。
男は、家に帰らなくなった。女は、家を出なくなった。そんな、ある日のことである。
女は窓際に座り、空を眺めていた。どんなに澄んだ青空でも、もう美しいとは感じられなくなっていたが、それくらいしか、することもなかった。ふと、気配を感じ、何の気なしに押入れを見た。
その隙間から、一人の少女が覗いていた。
あり得ないことだった。この部屋に自分は一人、もう半年近く住んでいるのだ。そこに人がいるだなんて、あり得ない。ということは、それは“生きた”人間ではない。
しかし、女はそれを怖いとは思わなかった。“可愛い”とすら、思った。女はかつて、男に暴力を振るわれながらも、最後の夢を持っていた。それは、“子どもを産み、母親になる”ということだった。
それももう、叶わない。せめて、生きた人間でなくとも、私のそばにいて欲しい。女は押入れに近づき、引き戸を開けた。
そこには、誰もいなかった。
その日の夜。明かりを消し、部屋の真ん中で、畳の上に敷きっぱなしの布団で女が横になっていると、枕元に気配を感じた。そこには、押し入れにいたはずの少女が、体育座りで座っていた。
戦時中の子どものように痩せ細り、ボロボロの布切れのような、みすぼらしい格好をした、少女だった。微かに震え、ボサボサに伸び放題の髪の毛の中で、大きな目だけが、月明かりに光っていた。
それはまるで、濡れた宝石のようであった。女はそれを、“美しい”と思った。自分の感情が“美しさ”によって揺さぶられるのを、懐かしく感じた。
女は少女の方へと手を伸ばし、その頭を撫でようとする。
だが触れることはできず、女の手は空を泳いだ。
触れたい。触れて欲しい。抱きしめたい。女は胸がいっぱいになり、泣いた。
女はそれから毎日、昼間は押し入れから覗く目を、夜は枕元に座り見下ろす目を、見た。
しっかりと、正面から見据えた。毎日、毎日。“触れたい”という欲求は、日に日に強くなっていった。梅雨の、雨がよく降る時期だった。
頬に伝わる涙の筋を、煙草の押し付けられた跡が残る右手の甲で、拭った。
鏡の中には、何かを決心した、女の顔があった。
部屋に入ると、右手側、押入れ前に椅子を置き、その上に立つ。
そして、天井に細工をした。紐を、結ぶためだ。
ぐい、ぐいと紐を引っ張り、強度を確かめると、目の前の、紐を結んで作った輪の中に首を入れる。見下ろせば、隙間の開いた押入れの引き戸があり、その中には少女がいた。何も言わず、こちらを見上げている。
「すぐ、抱きしめてあげるからね」
かすれた声で、女が言った。
「きっと。きっとよ」
その声は、震えていた。
思えば私はこの何年もの間、泣いてばかりだった。最後くらい、笑おう。昔水商売をしていた時は、その笑顔で何百人もの男を落としてきたのだ。
最後に、自分が“落ちる”ことになろうとは。なんて思うと、自嘲気味にではあるが、笑えてきた。
見下ろせば、涙で歪んだ視界の中に、少女の姿が見える。
あなたのおかげで、笑いながら死ねるわ。ありがとう。女は思った。
もし、私が、この命をかけて人を呪うことが出来るのであれば、あいつを絶対に、殺してやる。
女は、足元の椅子を蹴った。