2013/05/02
あなたが住んでいるそこには、
過去、
どんな人が住んでいたんでしょうね。
松原洋子は目的地に着いてなお、その敷地内に入るのを躊躇していた。
それは去年から付き合い始めてちょうど一年になる、新美聡の住んでいるアパート、“こもれび荘”であった。ポツポツと雨音を鳴らすビニール傘を視線と共に少し上げると、聡の居る二階の一番奥の部屋、“203号室”の、濃い飴色のドアがここからでも確認できる。
古い、木造のアパートだった。築何年になるのだろうか、敷地を囲むコンクリートの壁から、その建物――外壁、屋根、錆びた階段。全てが赤茶け、色褪せている。まるで縁側に座る、なんの楽しみも無くただ死を待っているだけの、目の虚ろな老人のように。ただ静かに、そこに佇んでいた。
通う大学の違う聡に洋子が会うのは、実に三週間ぶりだった。また大学進学と同時に一人暮らしを始めた聡の部屋に入るのも、初めてのことだった。
高校三年生の時から付き合い始めた聡との関係が、冷めているわけではない。むしろ早く会いたくて、たまらなかったはずだ。
それでも、あんな話を聞いてしまったからには――どうしても気が引けてしまう。
洋子は意を決し、その敷居を跨いだ。
私がこんな恐怖心を感じているのは、先入観のせいだ。雰囲気のせいだ。なんてことのない、ただのボロアパート。洋子はそう自分に言い聞かせながら、階段に足を踏み出す。
カン、カン、カン、と、ヒールのある靴で軽い音を立てながら二階に上がる。傘を閉じ、203号室の前に行くと、郵便受けにガムテープが短く貼られており、『新美』とマジックで書かれている。表札のつもりなのだろう。
ガチャッ
洋子は肩をビクリと震わせ、後ずさる。
大きな金属音を鳴らしながら、ドアが勢いよく開いた。
「おう。なにやってんだよ」
そう声を掛けたのはこの部屋の住人、聡だった。洋子が階段を登ってくる音を聞き付けて、タイミングを見計らってドアを開けたのだ。
赤いチェックのシャツにジーンズ姿の聡は、サンダルで半身外に出てニヤリと笑いながら洋子を見据える。
「もー。びっくりしたじゃん。……わざと?」
洋子は本当に嫌そうに言った。先ほど震えた肩の辺りを、自らを抱きしめるように撫でる。心臓が普段よりも早く、鼓動していた。
「いや。ビビりすぎなんだよ」
聡は悪戯っぽく笑うとドアに背中を預け、洋子を部屋に招き入れた。
部屋は狭いが、一人暮らしには十分な1Kだった。左手には細長いキッチン、右手には洗面台があり、自分の顔が一瞬、映る。その奥にはトイレと風呂が一体化した、ユニットバスへの扉。確かにどれもくすんで古く見えるが、これだけ揃って、この立地で家賃二万円。洋子はいよいよ“おかしい”と確信した。なにか、普通でない“事情”が、この部屋にはある。
「結構いいだろ」
聡は気楽そうに言った。洋子はベージュのスプリングコートを脱ぎながら、奥の部屋に入り、辺りを見渡した。
四畳分程の部屋だった。床はリフォームしたのであろう真新しいフローリングで、隅にラックと32型の薄型テレビ。その手前に聡の趣味であるクラシックギター、積み重ねられた漫画本、テーブル、クッション。何度か行ったことのある、聡の実家の部屋と配置が似ていた。
「じゃあ、昼飯作るから。適当に座っててな」
「うん」
キッチンへと向かう聡を見送り、頷く。冷蔵庫を開け、また閉める音が聞こえてきた。
洋子は座らずに、部屋の観察を続けた。ふと、部屋の入り口の柱に目が行く。近づいて眺めると、幾つかの細く薄い傷が、真横に、平行に引かれている。
洋子はしゃがみ、その傷にそっと触れる。彼女はこれと似たものを従兄弟の家で見たことがあった。
幼かった頃、その従兄弟の家で親戚一同で集まったことがある。洋子の母が久しぶりに会った当時小学二年生の従兄弟に、「大きくなったね」と言うと、嬉しそうな顔をして父親の元へと駆けて行った。何事かと思い見ていると、どうやら「身長を測ってくれ」とねだっていたらしい。父親は「またか」といったような少し困った顔をしながら、従兄弟を柱の元に立たせ、ちょうど頭の高さで木に傷を付けた。短い、黒い柄のナイフだった。
この部屋に、前に住んでいた家族が付けた傷なのだろう。見ると、傷は二人分あるように見える。そのうちの一つは一メートル程の所から始まり、その十センチくらい上の所で終わっている。もう一方はさらに低く、記録も少ない。あまり、長くここに住まなかったのだろうか。
両方の、一番下の傷の横辺りに、小さな芋虫が這っているような跡がある。どうやら“ひらがな”で名前を書いていたようなのだが、なんと書いてあるのかはわからない。明らかに文字を覚えたての、子どもの字だった。
立ち上がって左手側、部屋の入り口からは死角になっている押入れを見る。布団や衣類が見えないので、おそらく全てここに入っているのだろうと思われた。
洋子はその引き戸の取っ手に、手を伸ばす。と急に、その指先から寒気が全身を駆け巡った。
何が起こったのか、洋子は全く理解ができなかった。伸ばし、硬直したままの左腕を見ると、白いシャツの袖から、鳥肌の立った皮膚が覗いている。
手を引っ込め、腕をさする。鳥肌は、すぐには引きそうにない。後ずさり、クッションを踏んだ所で、背中に何かが、トンッ、と当たった。
まるで街中を歩いていて、向こうから歩いてきた人と肩がぶつかったような、そんな重みがあった。先ほど部屋を見渡した洋子は、そこに何も無いはずであることを、よく知っている。
視界の端、部屋の入り口の向こうでは、聡がせわしなく動いている様子がわかる。では、そこにいる、洋子が先ほど背中で触れた、“それ”は、一体なんなのか。
部屋の中で、洋子は固まっていた。先ほどの寒気は――そしてこの背後の気配は――。
ふと気が付くと、触れていないはずの押入れの引き戸に、隙間ができていた。
「洋子?」
聡が部屋を覗き、声をかける。
「……? 何してんだ?」
腕まくりをし、パスタ用のトングを右手に持った聡が見たのは、部屋の隅でうずくまる洋子の姿だった。
「洋子……。なぁ、どうした?」
近づき、洋子の肩に手をやる。彼女は、小さく震えていた。
「……! 聡っ!」
洋子は聡に抱きついた。それは恋人同士の抱擁ではなく、怯えた子どもが親に抱きつくようであった。聡はあやすように、彼女の背や頭を左手で撫でる。
「おい、どうしたんだよ……」
「やっぱり、この部屋、“おかしい”よ」
洋子は震える声で言った。聡から身体を離し、目を見据えて言う。
「何か、いるのよ」
「そんなこと言って……」
聡は呆れたような表情だった。
「もう一ヶ月近く住んでて、おかしなことが起こったりだとか、変なものを見たとか聞いたとか、そんなの一回も無いんだぜ。友達だって何回も泊まりに来てんだ」
聡は両手を広げ、身振り手振りで訴えかけるように言う。
「なんにも無いんだよ。確かに家賃は異様に安いけど……。このとおり、なんともない。この前LINEで言ってた“話”も、ほとんどウソだよ。作り話。洋子が怖がるのがなんか、おかしくってさ……ごめんな」
聡が言っている“話”というのは、一人暮らしを始めたアパートの部屋が、いわゆる“いわく付き物件”であり、怪奇現象が頻発している、という話だった。聡曰く、それは『嘘だった』という。
彼はそれを、本心から言っていた。表情からも声色からも、それは明らかだった。だが、洋子は譲らない。
「だって……私今、感じたの。触れたし、見たわ。あれは間違いない……」
洋子は今だに震えている。
「……帰るわ」
思い立ったように近くに落ちたコートを拾い、洋子は立ち上がった。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ。昼飯だけでも……」
聡もうろたえ、立ち上がる。しかし、洋子は勢いよく、聡の横を通り過ぎた。
「ごめん……」
「待てよっ‼︎」
聡は右手に持っていたトングを床に投げつけ、帰ろうとする洋子の左手を掴んだ。
「っ……‼︎」
痛みに顔を歪めながら洋子は振り返り、聡を見る。
そこには、自分を睨みつける聡の顔があった。
恐ろしい形相だった。炎のような怒りと、氷のような冷酷さを兼ね備えたような、鬼のような貌。洋子は、聡のそんな表情など、見たことがなかった。聡がそんな表情をするとは――また、そんな表情が自分に向けられるなどとは、思ったこともなかった。
洋子はこみ上げてくる様々な感情を押し殺し、必死で手を振り払って、傘も持たずに部屋を出た。靴もまともに履かないまま階段を駆け下り、通りに出た。
雨に打たれながら、逃げるように走った。目の前が歪むのは、雨のせいなのか、それとも気づかないうちに泣いていたのか。彼女にはわからなかった。
背後を振り返ることなく、走った。
聡が追いかけて来ている気がして、振り返ることができなかった。