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遺恨  作者: 木下秋
1/6

2013/05/02

あなたが住んでいるそこには、


過去、


どんな人が住んでいたんでしょうね。

 松原洋子まつばらようこは目的地に着いてなお、その敷地内に入るのを躊躇ちゅうちょしていた。

 それは去年から付き合い始めてちょうど一年になる、新美聡にいみさとしの住んでいるアパート、“こもれび荘”であった。ポツポツと雨音を鳴らすビニール傘を視線と共に少し上げると、聡の居る二階の一番奥の部屋、“203号室”の、濃い飴色あめいろのドアがここからでも確認できる。

 古い、木造のアパートだった。築何年になるのだろうか、敷地を囲むコンクリートの壁から、その建物――外壁、屋根、錆びた階段。全てが赤茶あかちゃけ、色褪いろあせている。まるで縁側に座る、なんの楽しみも無くただ死を待っているだけの、目のうつろな老人のように。ただ静かに、そこにたたずんでいた。

 通う大学の違う聡に洋子が会うのは、実に三週間ぶりだった。また大学進学と同時に一人暮らしを始めた聡の部屋に入るのも、初めてのことだった。

 高校三年生の時から付き合い始めた聡との関係が、冷めているわけではない。むしろ早く会いたくて、たまらなかったはずだ。

 それでも、あんな話を聞いてしまったからには――どうしても気が引けてしまう。

 洋子は意を決し、その敷居をまたいだ。


 私がこんな恐怖心を感じているのは、先入観のせいだ。雰囲気のせいだ。なんてことのない、ただのボロアパート。洋子はそう自分に言い聞かせながら、階段に足を踏み出す。

 カン、カン、カン、と、ヒールのある靴で軽い音を立てながら二階に上がる。傘を閉じ、203号室の前に行くと、郵便受けにガムテープが短く貼られており、『新美』とマジックで書かれている。表札のつもりなのだろう。


 ガチャッ


 洋子は肩をビクリと震わせ、後ずさる。

 大きな金属音を鳴らしながら、ドアが勢いよく開いた。

「おう。なにやってんだよ」

 そう声を掛けたのはこの部屋の住人、聡だった。洋子が階段を登ってくる音を聞き付けて、タイミングを見計らってドアを開けたのだ。

 赤いチェックのシャツにジーンズ姿の聡は、サンダルで半身外に出てニヤリと笑いながら洋子を見据える。

「もー。びっくりしたじゃん。……わざと?」

 洋子は本当に嫌そうに言った。先ほど震えた肩の辺りを、自らを抱きしめるように撫でる。心臓が普段よりも早く、鼓動していた。

「いや。ビビりすぎなんだよ」

 聡は悪戯いたずらっぽく笑うとドアに背中を預け、洋子を部屋に招き入れた。


 部屋は狭いが、一人暮らしには十分な1Kワンケーだった。左手には細長いキッチン、右手には洗面台があり、自分の顔が一瞬、映る。その奥にはトイレと風呂が一体化した、ユニットバスへの扉。確かにどれもくすんで古く見えるが、これだけ揃って、この立地で家賃二万円。洋子はいよいよ“おかしい”と確信した。なにか、普通でない“事情”が、この部屋にはある。

「結構いいだろ」

 聡は気楽そうに言った。洋子はベージュのスプリングコートを脱ぎながら、奥の部屋に入り、あたりを見渡した。

 四畳分程の部屋だった。床はリフォームしたのであろう真新しいフローリングで、隅にラックと32型の薄型テレビ。その手前に聡の趣味であるクラシックギター、積み重ねられた漫画本、テーブル、クッション。何度か行ったことのある、聡の実家の部屋と配置が似ていた。

「じゃあ、昼飯作るから。適当に座っててな」

「うん」

 キッチンへと向かう聡を見送り、頷く。冷蔵庫を開け、また閉める音が聞こえてきた。

 洋子は座らずに、部屋の観察を続けた。ふと、部屋の入り口の柱に目が行く。近づいて眺めると、幾つかの細く薄い傷が、真横に、平行に引かれている。

 洋子はしゃがみ、その傷にそっと触れる。彼女はこれと似たものを従兄弟いとこの家で見たことがあった。

 幼かった頃、その従兄弟の家で親戚一同で集まったことがある。洋子の母が久しぶりに会った当時小学二年生の従兄弟に、「大きくなったね」と言うと、嬉しそうな顔をして父親の元へと駆けて行った。何事かと思い見ていると、どうやら「身長を測ってくれ」とねだっていたらしい。父親は「またか」といったような少し困った顔をしながら、従兄弟を柱の元に立たせ、ちょうど頭の高さで木に傷を付けた。短い、黒いのナイフだった。

 この部屋に、前に住んでいた家族が付けた傷なのだろう。見ると、傷は二人分あるように見える。そのうちの一つは一メートルほどの所から始まり、その十センチくらい上の所で終わっている。もう一方はさらに低く、記録も少ない。あまり、長くここに住まなかったのだろうか。

 両方の、一番下の傷の横辺りに、小さな芋虫がっているような跡がある。どうやら“ひらがな”で名前を書いていたようなのだが、なんと書いてあるのかはわからない。明らかに文字を覚えたての、子どもの字だった。

 立ち上がって左手側、部屋の入り口からは死角になっている押入れを見る。布団や衣類が見えないので、おそらく全てここに入っているのだろうと思われた。

 洋子はその引き戸の取っ手に、手を伸ばす。と急に、その指先から寒気が全身を駆け巡った。

 何が起こったのか、洋子は全く理解ができなかった。伸ばし、硬直したままの左腕を見ると、白いシャツの袖から、鳥肌の立った皮膚が覗いている。

 手を引っ込め、腕をさする。鳥肌は、すぐには引きそうにない。後ずさり、クッションを踏んだ所で、背中に何かが、トンッ、と当たった。

 まるで街中を歩いていて、向こうから歩いてきた人と肩がぶつかったような、そんな重みがあった。先ほど部屋を見渡した洋子は、そこに何も無いはずであることを、よく知っている。

 視界の端、部屋の入り口の向こうでは、聡がせわしなく動いている様子がわかる。では、そこにいる、洋子が先ほど背中で触れた、“それ”は、一体なんなのか。

 部屋の中で、洋子は固まっていた。先ほどの寒気は――そしてこの背後の気配は――。

 ふと気が付くと、触れていないはずの押入れの引き戸に、隙間ができていた。



「洋子?」

 聡が部屋を覗き、声をかける。

「……? 何してんだ?」

 腕まくりをし、パスタ用のトングを右手に持った聡が見たのは、部屋の隅でうずくまる洋子の姿だった。

「洋子……。なぁ、どうした?」

 近づき、洋子の肩に手をやる。彼女は、小さく震えていた。

「……! 聡っ!」

 洋子は聡に抱きついた。それは恋人同士の抱擁ではなく、怯えた子どもが親に抱きつくようであった。聡はあやすように、彼女の背や頭を左手で撫でる。

「おい、どうしたんだよ……」

「やっぱり、この部屋、“おかしい”よ」

 洋子は震える声で言った。聡から身体を離し、目を見据えて言う。

「何か、いるのよ」

「そんなこと言って……」

 聡は呆れたような表情だった。

「もう一ヶ月近く住んでて、おかしなことが起こったりだとか、変なものを見たとか聞いたとか、そんなの一回も無いんだぜ。友達だって何回も泊まりに来てんだ」

 聡は両手を広げ、身振り手振りで訴えかけるように言う。

「なんにも無いんだよ。確かに家賃は異様に安いけど……。このとおり、なんともない。この前LINEで言ってた“話”も、ほとんどウソだよ。作り話。洋子が怖がるのがなんか、おかしくってさ……ごめんな」

 聡が言っている“話”というのは、一人暮らしを始めたアパートの部屋が、いわゆる“いわく付き物件”であり、怪奇現象が頻発している、という話だった。聡曰さとしいわく、それは『嘘だった』という。

 彼はそれを、本心から言っていた。表情からも声色からも、それは明らかだった。だが、洋子は譲らない。

「だって……私今、感じたの。れたし、見たわ。あれは間違いない……」

 洋子は今だに震えている。

「……帰るわ」

 思い立ったように近くに落ちたコートを拾い、洋子は立ち上がった。

「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ。昼飯だけでも……」

 聡もうろたえ、立ち上がる。しかし、洋子は勢いよく、聡の横を通り過ぎた。

「ごめん……」

「待てよっ‼︎」

 聡は右手に持っていたトングを床に投げつけ、帰ろうとする洋子の左手を掴んだ。

「っ……‼︎」

 痛みに顔を歪めながら洋子は振り返り、聡を見る。

 そこには、自分を睨みつける聡の顔があった。

 恐ろしい形相ぎょうそうだった。炎のような怒りと、氷のような冷酷さを兼ね備えたような、鬼のようなかお。洋子は、聡のそんな表情など、見たことがなかった。聡がそんな表情をするとは――また、そんな表情が自分に向けられるなどとは、思ったこともなかった。

 洋子はこみ上げてくる様々な感情を押し殺し、必死で手を振り払って、傘も持たずに部屋を出た。靴もまともに履かないまま階段を駆け下り、通りに出た。

 雨に打たれながら、逃げるように走った。目の前が歪むのは、雨のせいなのか、それとも気づかないうちに泣いていたのか。彼女にはわからなかった。

 背後を振り返ることなく、走った。

 聡が追いかけて来ている気がして、振り返ることができなかった。

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