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薄汚れた黒い外套。艶の僅かな漆黒の鎧。その手に握るのは、やはり黒い剣。
男の目の前に現れた黒騎士は、悠然とそこに立っていた。
向かい合うは、巨躯の狼。全身が剥き出しの筋肉に覆われ、黒ずんだ爪に、薄汚れた牙を揃えた、異形の狼だ。
機を狙ったかのように颯爽と現れた黒騎士は、まるでお伽噺に出る勇者のようだ。
しかし、相対する敵は、全長十メートルの怪物。常識外れの肉体を持つ狼を前にしては、彼の手に握られた一メートル数十センチの長剣は、心細い。
――では、先ほど狼を吹き飛ばしたのは?
男が考えている間にも、戦局は大きく動く。
身体を転がされ泥をつけられた狼は、怒りの咆哮を上げた。
粘性の高い涎を含んだ大声は、廃材の丘で反響し、軽い地響きを引き起こした。
小高い丘からは腐り折れた鉄パイプが転げ、錆びついたスプリングと共に雪崩れてゆく。
もちろん、これは攻撃ではなく、単なる鳴き声でしかない。
本命の攻勢は、ひとつ吠えた後すぐに訪れた。
後ろ足の筋肉を膨張させた狼が、またもや一度の跳躍で、黒騎士に襲いかかったのだ。
しかも今度は横に振り払う爪ではなく、上から押し付ける爪。
吹き飛ばすだけでは済まない、より強い殺意が込められた一撃が、黒騎士の身体を影で包む。
――廃材と共に、潰されてしまう。
男は一瞬、血の気が引く緊張のあまりに眼光を強めたが、その目に悲劇が飛び込むことはなかった。
「ふんっ」
上から伸し掛かる狼の巨体を、黒騎士はなんと、剣で受け止めて見せたのだ。
黒騎士の足元の廃材の地は素直に陥没し、クレーターのように沈み込んだが、その中心である黒騎士は潰されることも、折れることもない。
狼の運動エネルギーが全て相殺されて空中で停止するその時まで、騎士は両手に握った剣でもって、狼の爪を受けきってみせたのだ。
「はっ!」
宙で停止し、驚愕のあまりに醜い目を大きく剥いた怪物は、剣の勢いで逆に跳ね返された。
巨体は不安定に乱回転し、しばらく風を切って放物線を描いた後、凄まじい音を立てて、廃材の地に落下する。
立ち込める石綿の砂埃と、舞い上がる薄い鉄板。
静けさが訪れたのはほんの少しだけで、狼はすぐに立ち上がった。
『ひっ!?』
非現実的な闘いに、もはや完全な傍観者へと成り果てた男だったが、黒靄の中から姿を見せた狼の姿を見て、薄まりかけの恐怖を呼び起こされた。
狼が、二本足で立っているのだ。
暗い靄の中を、頭から先に出てきた狼は、二本の長く太い足で、こちらに歩いてくる。
一歩、一歩と。だが大きく開いた口から滴り落ちる涎からは、二足歩行の生物にあるだろうと言われた知性などは、欠片も感じられない。
黒っぽい目から感じ取れる感情はただひとつ、殺意のみである。
狼は二足歩行のまま空を仰ぎ、再び吠えた。
天に向かって放たれた咆哮は、にわかに涎の雨を撒き散らし、それらは地に触れると共に、急激な酸化反応を示し、小さな煙を棚引かせる。
「かかってこい」
黒騎士はその場で剣を構える。
狼はすぐ近くの廃鉄骨を掴み取り、確かな足取りで駆け出した。
黒騎士が尋常ならざる力で放り投げた距離も、巨躯の疾走は瞬きする間に埋めてしまう。
近づいた狼は鉄骨の間合いで立ち止まり、急停止により地面を砕き、捲り上げる。
そして狼は、手にした鉄骨を大雑把に薙ぎ払った。
超大な質量による純粋な殴打が、周囲を金に染め上げるほどの火花を撒き散らす。
それは、一度だけに留まらない。狼は黒騎士のいる場所に、何度も何度も鉄骨を振るい続けた。
一撃の度に火花が吹き荒れ、鉄骨の軌道に吸われ、舞い踊る。
豪快な金属音は、付近にいれば鼓膜を破る程に大きなもので、普通の人間がいれば、それは肌を刺すような衝撃の連続であった。
巨大な狼が鉄の戦棍を片手に、まるで鍛造でもするかのように、一点へと振るい続ける。
横に、縦に、真下にと、それは留まることがない。
人間ならば、一撃で死ぬべきだ。
人ならざるものであっても、三発目には潰れているべきだろう。
それでも狼は、鉄骨を振るい続けている。
何故かと問えば、答えは簡単だ。
「――甘い」
そこで、潰れているべきものが、いつまでたっても潰れないのだ。
何度叩いても、殴りつけても、黒騎士に一撃は通らない。
鉄骨に対して楊枝のような細い剣で、巧みに受け流し、受け止め、狼の攻め手を防ぎ続けている。
狼は、何度も何度も鉄骨を振り回し、やがて怒りに任せたつけが回ってきたためか、動きに鈍さが生じ始める。
全身の筋肉からは湯気が立ち上り、口からは生臭い白煙が汽車のように噴き出ていた。
鉄骨は無数の剣戟で傷まみれになり、所によっては深い切れ込みさえ入っている。
対する黒騎士の長剣は、見窄らしい色合いではあるものの、目立つ傷はひとつもない。