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ドームを出た黒騎士は、黒い瘴気の吹く外界を見回し、ある一点で顔を止めた。
その方角は、寸分の狂いもない南西。彼は暫くそちらを睨むように佇んでいたが、やがて重い外套を翻すほどの風が吹き付けてくると、思い出したかのように歩き始めた。
プレート状の廃材が風を受けて舞い転がり、時折大きなパイプがくず鉄の丘の上から雪崩れて落ちる。
視界は黒ずんだ鈍色と、灰色を増した大気によって褪せきっている。
だが、それでも遥か彼方にまで広がる雄大な海洋は、辛うじて古代の地球らしい青さを残しているように見えた。
とはいえ、その尊き青はしばしば母に喩えられることもあったが、それを知る者は、今や殆ど生き残ってはいないだろう。
「サハギンを確認」
小高い廃材の丘で、標的を目視した黒騎士が小さく呟いた。
彼の視界の先、数キロメートル向こうの海岸に、巨大な影が横たわっていたのである。
海岸に打ち上げられた、全長三十メートルはあろう巨大な青魚。
それは大きさはともかく、見た目に限って言えば、かつては海の幸として多くの国や地域で漁獲されていた“イワシ”と呼ばれていた魚に近いだろうか。
腹の辺りは破れ、骨や黒い内臓が剥き出しになっていたが、口元はパクパクと何かを求めているように動いている。陸地に打ち上げられ、あれほどの損傷があるというのに、それでもまだ、かの魚は生きているようだ。
よくよく観察してみれば、破れた腹からは無数のフナムシが蟻のように湧き出ている。大量のフナムシは黒騎士が討ち倒したものと同じ、ノイド達が語っていた“海神の遣い”に相違あるまい。
“海神”は死に体ながらもしぶとく生き長らえ、“海神の遣い”は“海神”の身を喰らいながら、自らの数と生息域を広げている。
“海神”は直接的な被害をノイド達コロニーの住民に与えているわけではないが、その身から立ち込める悪臭や汚染物質は何キロも先まで伝播する上、“海神”が文字通り身を挺して育てた“海神の遣い”は直接的に人を襲うという。
これ以上“海神の遣い”の数が増え、汚染がさらに進行したとすれば、おそらくは先程のコロニーも無事では済まなくなるだろう。
「魔物め」
黒騎士は無感情にそう呟くと、腰に佩いた長剣を抜き放ち、片手で構えた。
艶の薄い黒い長剣は、所々に凹みや傷があるものの、刃自体に毀れた様子はなく、切れ味そのものは万全の状態であるらしい。
騎士は、掲げた剣先をゆっくりと下ろし、青魚のいる場所でピタリと静止させた。
「――サハギン、貴公を斬り伏せる前に、名乗っておこう」
それは黒き騎士の前口上。
憎き敵と闘う前の、最初で最後の名乗り。
「私はシーエイトがつ――」
『馬鹿野郎、そんな場所で突っ立ってるんじゃねえよ』
だが黒騎士の言葉は、背後からやってきたノイドに外套を引っ張られることによって中断されてしまった。
『重いなあんた』
「何をする。お前は誰だ」
後ろへ僅かに引っ張られた黒騎士は、やや不服そうである。
しかし、彼を丘の上から引きずり下ろした男性ノイドの方が、眼光の光り具合を見るに、彼よりは幾分も怒っているようであった。
『突然で悪いな、俺の名はズール。コロニーの斥候役だ。あんたがユレンの言ってた客人だな?』
「斥候か」
『ああ。そして何をするってのは、こっちのセリフだぜ。あんた、さっきまで“海神”がよく見える場所に呑気に突っ立ってただろう』
「そうだが」
『そうだが、じゃねえ。あの“海神”は死んだような目をしちゃいるが、あれでもずっと遠くの人間までしっかりと見てやがるんだよ』
「奴はまだ目が生きているのか」
『ああ。最悪なことにな』
黒騎士が遠くから見た限り、横たわる巨大な青魚の目はしっかりと白濁しているようだった。
少なくともそれは新鮮な魚の目には見えないし、常識的に考えるならば、あの白っぽい目を通しては間近の物すら認識できないはずである。
『最初は俺らも、目が見えないだろうと思っていた。実際、虫の方は似たようなものだ。“海神の遣い”は音と匂いには反応するが、視力は悪い。虫だけなら、遠目に見たとしてもどうにかなる。だが……“海神”の方は、目も見えるんだ』
そう言って、ズールはおそるおそるとくず鉄の丘を這い登り、海岸が見渡せる位置で顔を上げた。
『最初は虫の連中のせいかと思っていたんだ。どうにかあの魚を排除しようと、虫がはけた隙を見計らって奇襲を計画したりもした。遠くで櫓や展望台を組み上げて、信号を送り合ったりしてな』
黒騎士も彼に倣うようにして慎重に顔を覗かせる。
『だが、全部無駄だったんだよ。いや、それどころかむしろ、逆効果ですらあった。……なにせ、俺たちの立てた櫓も展望台も、全てあの魚野郎に見破られていたんだからな』
海岸に横たわる巨大な青魚は、その白濁した目を――しかし、わずかに黒いとわかる黒目は――黒騎士達の潜み隠れる、廃材の丘を真っ直ぐに射抜いていた。
あえぐような口元の動きは周期的で、エラの蠢きも無感情ではあった。
しかし、目だけは確実に、間違いなく、二人の姿を認めていたのである。
『ああ……やっぱ、駄目だったか。引き止めるのが、遅すぎたか』
望遠鏡でそれを確認したズールは、再び廃材の丘に身を隠し、そのままぐったりを空を仰いだ。
『また見つかっちまった。また……奴に見られちまった。……また、俺達のコロニーの近くに、連中が警戒網を広げてきやがった』
力なく呟くズールの横で、黒騎士は青魚の周囲に湧き出した無数のフナムシを観察していた。
フナムシの群れは青魚の破けた腹から湧き出し、それらは何かに誘われるかのように、こちらへと押し寄せている。
それは明らかに意志を持った動きであり、そしてその意志とは、こちらを濁った目で見つめる青魚こそが有しているに違いなかった。
『皆に知らせねえと……また、大勢が死ぬ前に……』
ズールが力なく起き上がり、コロニー側へと一歩を踏み出した。
「殺させはしない」
だが黒騎士はそれとは逆に、海岸側へと一歩を踏み出す。
廃材を踏み潰すほどに重く、そして力強い一歩であった。
『……何……?』
「私が、あの魔物共を討ち倒そう」
海岸を、砂浜を埋め尽くさんとするフナムシの群れ。
その向こう側で口を開閉させる巨大な青魚。
「案ずることはない。人の世界は、私が護る」
黒騎士は無数の軍勢に向かい、少しの躊躇もなく駆け出した。




