0010
騎士は沿岸部を歩いていた。
瘴気を含んだ潮風は、この世のあらゆる物に対して有害と呼べるものであったが、彼の歩みは止まらない。
今騎士が歩いている沿岸は、数百年前に隆起したばかりの新しい地形である。
それ故に岩場はまだ不安定な箇所が多く、黒騎士が踏み出す毎に崩れかかる場所も多い。
とはいえ、騎士が足を踏み外して落ちるなどということは有り得ない。
彼の歩みはこれまでと同じように順調であり、弛まぬものであったのだ。
「……ビートルを確認」
しかし、ある程度歩き続けた所で異物を発見した。
人間の肉眼でははっきりと見えるものではない。
だが黒い瘴気の向こう側の数キロメートルほどを注意深く眺めてみれば、そこに一匹の虫がいるのを確認できるだろう。
虫は、沿岸部よりもやや内側寄りの砂浜にいた。
僅かに盛り上がった小さな砂の丘の上におり、静かに二本の触覚を動かしている。
甲殻類特有の甲羅に、七対の脚。それはフナムシと呼ばれる姿に酷似していたが、サイズは遥かに大きいものであり、目算からして見ても七十センチ以上はあるだろう。
そのフナムシの触覚がピクリと動き、多脚は目にも留まらぬ速さで蠢き、砂を巻き上げなから移動を始めた。
「逃げるか、卑怯者」
黒騎士はフナムシが逃げる直前まで剣を掲げて前口上を唱えていたようであるが、逃げゆくフナムシを見ると、その後を大急ぎで追う他に手段はなかった。
広い砂浜を、フナムシが疾走する。
頑強な甲殻類の脚は砂浜をものともせず、平地を駆けるような速度で移動を可能にしていた。
対する黒騎士は剣を構えながらの走りであり、それはとてもではないが、フナムシの疾走に追いつけるものではない。
だが、フナムシが逃げゆく方向は黒騎士も正確に把握できているようで、その足取りに迷いはない。
やがて、フナムシは動きを完全に停止させた。
走る最中に、ちょっとした岩場に脚の一本を挟んでしまったがために、機動力を大きく削いでしまったのである。
そこからはあっという間で、後ろから追いついた黒騎士が剣を振り、一撃のもとにフナムシの胴体を両断することによって決着が付いた。
だが……。
「……」
フナムシの胴を切断すると同時に、この世のものとは思えないほどの悪臭が湧き出してきた。
それは、例えるならば内臓の匂い。生物の死の匂い。海洋生物が腐ったような匂いを何百倍にも凝縮したかのような、常人にはとても絶えられないほどの悪臭である。
さすがの黒騎士も、その臭気には危険性を感じたのだろう。並外れた脚力によって砂地を蹴り掘ると、何メートルも下にフナムシの死骸を放り込んで、入念に砂を押し溜めるようにして封印を施した。
『あなた……海神の遣いを殺してしまったのね』
「……」
フナムシの埋葬を完了した直後、騎士の背後から声がかけられた。
振り向くと、そこに立っていたのは一人の女性形ノイドである。曲面を多用した女性らしい機体が、腰に手を当てて騎士を睨んでいる。
『海神の遣いは、殺しても殺してもいなくならないわよ。それに、暫くの間は仲間の死骸にも群がって、仲間の腐肉を貪るの。……この砂浜は、しばらくの間近づけなくなったわね』
「……」
女性ノイドは、その手に小さな望遠鏡を持っていた。
それで砂浜や遠くの海岸を確認したあと、ようやく黒騎士の方へと身体を向き直した。
『はじめまして、知らない人。私はコロニーの回収係、ユレンよ。貴方は見ない顔だけど、遠くから来たのかしら?』
「ああ」
『そう。海産物に恵まれた私達のコロニーに憧れてやってきたのだとしたら、それは大きな外れクジだったわね。近年、私達のコロニーの事情は大きく変わってしまったの。とてもではないけど、余所者を養っていけるほどの蓄えは持っていないわ』
そう言うユレンは望遠鏡とは別の手に、一本のガタついたネイルハンマーを握りこんでいた。
黒騎士が何か動きを見せれば、すぐにでも対処し、どうにでもできる。言葉には出していないが、そう言いたげな構え方であった。
『とはいえ、一旦私についてきてもらうわ。仲間と協議し、それから貴方の処遇を決定する』




