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この荒廃した世界で汚染されているものは、空や大地だけではない。
大地のほとんどを覆う母なる大海もまた、瘴気による深刻な汚染被害を被っていた。
しかし上昇した海面と海が持つ自浄作用により、大気や陸地ほどの被害は及んでいなかった。
海の中には辛うじてかつての生物群達が生き残っているし、一部の限られた陸上生物達も、毒の少ない海の恵みによって細々とではあるが、命を繋いできたのだ。
特に一部の浄水能力を持った貝類などは、海岸付近に居を構える人間達の生命線として珍重されている。
汚水を清め、差し迫った時には食料にもなる。それは間違いなく人々にとって、ダイオードやトランジスタなどとは比べようもない程に貴重で、高価だったのだ。
『……酷い。何よこの臭い……』
『うげ……』
その高価な貝類が生息している複雑な海岸地帯を、二人のノイドが歩いていた。
一人は女性型で丸みを帯びた体型であり、その後を追うようにそろそろと歩いているのは角ばった男性型であった。
彼らはその見た目に違わず、女性ノイドと男性ノイドのペアである。
『腐ったような……んん……駄目だわ、意識してると頭がクラクラする……』
『一体何が起きたんだ……? 人でも死んでるってのか?』
この二人は、海岸付近のコロニーを拠点に活動するノイドである。
与えられた役割は海岸付近の物品回収であり、今日は海岸にて貝類の採取のため、全身に錆止めのオイルを塗りたくった万全の状態でやってきたのであった。
だが、二人は海岸に近づいてからというもの、眼光ランプを鋭く光らせ、不機嫌そうに瞬かせている。
原因は、海岸から立ち込める異常なほどの悪臭であった。
『人一人が死んでるくらいで、こんなに酷いわけないでしょ……』
『じゃあ何だ? クジラか? サメか?』
『わからない……でも、そのくらいのサイズじゃないと説明がつかないわよね』
悪臭は鼻だけでなく、肌や目にさえ刺さるかの如く苛烈であった。
このまま無作為に海岸を歩いていれば、目眩を覚えて転倒してしまうかもしれない程である。
結局二人は立ち込める腐臭に耐え切れず、一時海岸を離れることにしたのであった。
『なあユレン。展望台に登らないか。あそこからなら海岸が一通り見れるはずだぜ』
海岸からとんぼ返りし、臭気も薄まったところで、男はユレンという名のノイドに案を持ちかけた。
展望台。それは丁度この付近に存在する、地形と夥しい量の廃材によって作られた簡単な高台のことであった。
『展望台……あれも相当古いんでしょ。大丈夫なのかしら』
『けど、これじゃそうも言ってらんねえだろ。せめて上から見下ろして、何がどこにあるかくらいは突き止めんとさ』
『……うん、まぁ……そうね』
ユレンは顎に手を当て、暫し考えた。
そして考えてみて、確かにそれは道理であると納得できた。
仮にこのまま手探りに悪臭の原因を探ったのでは身がもたないだろうし、先ほどの話にあったようなサメやクジラが打ち上げられているとしたならば、二人の力だけではどうすることもできないからだ。
『そうね、それじゃあ展望台に登りましょうか。ただし、足元には気をつけて、急がないようにね』
『おうおう』
ユレンは了承し、二人は目と鼻の先にある大きな廃材の高台を目指すことにした。
『よいしょ、よいしょ……ちょっとズール、そこは足場悪いわよ』
『平気平気、大丈夫だって』
『あんたねー、さっき言ったでしょうよ』
『俺は丈夫なんですう』
廃材を組み合わせて作られた展望台を昇るのはちょっとした重労働であったが、二人の足取りは軽い。
もしここから海岸を見下ろしたとして、仮に大きなクジラやサメが打ち上げられていたとしても、瘴気の立ち込める外に出ていた自分たちならばその撤去作業に出なくて済むからだ。
あの酷い悪臭の立ち込める場所で作業する他の連中に比べるならば、自分たちは良いクジを引いたと思えるのだろう。
『さーて、一番乗りっ……と……』
『もう、待ちなさいよっ。急いで何になるのっ……』
先に展望台の上に登頂したのは、男性ノイドのズール。
まるで競うようにして先を突き進んでいった彼は、そこから望む海岸を見て、口を閉ざしていた。
『はあ、はあ……もう、もし崩れたら……』
そして彼の後に続いて頂上にやってきたユレンもまた、眼下に見えるものを見て思わず閉口した。
二人共、しばらく黙っていた。
海岸のかなり離れた場所のある地点を見たまま、それを口にすることなく、二人はただそれをじっと眺めていたのだ。
『……なぁ、俺の見間違いかな』
先に口を開いたのは、ズールの方だった。
彼の声色は先程までの浮かれたものから、冷めきった、震え声に変わっていた。
『ううん……ううん。違う、と、思う。でも、見間違え……じゃないなら』
『……あれ、何なんだよ』
『……わからない』
呆然と呟くズールに、ユレンもまた現実を認めたくないかのように頭を強く横に振った。
その海岸の岩場には、一匹の魚が打ち上げられていた。
青魚である。極々普通の、海ではよく見かけるような、ただの魚のような姿である。
だがその魚は、とにかく巨大であった。
いかにも青魚であるといった風であるというのに、それは頭から尾まではゆうに三十メートルを越えていた。巨体はあちこちが破れ、所によっては骨さえ露出しているという酷い状態である。
全長に見合った巨大な丸い目は白濁し、それは遠目から見ても、悪臭と病を連想させるに十分な不吉さを持っていた。
だが、それだけならばただの魚の死体だった。
それだけれあれば、二人はもう少しだけ明るく、この場においても冗談めかすような言葉が出ていたのかもしれない。
しかしその巨大な青魚は、まだ生きていた。
身体のあちこちが破損し、目が濁り、海岸に打ち上げられ……それでも尚、青魚の口はパクパクと動き、生きていたのである。




