0011
走り寄る黒騎士と、間合いを作る怪鳥。
両者が位置取りを続け、更に数十分ほど経過した。
黒騎士は依然として長剣を構えたまま走り寄り続けており、怪鳥もまた大きな音を立てながら、逃げるように走り続けている。
距離を作ろうとする怪鳥の目論見は至って単純で、ただ単に獲物が疲弊するのを待っているだけだった。
怪鳥は、ありとあらゆる生物がその活動を維持するために睡眠や休息という時間を必要としていることを、長い経験から知っている。
たとえそれが大柄な体躯の持ち主であろうとも、物騒な火器を構えた殲滅者であろうとも、必ず隙を見せる時間というものが存在するのだ。
怪鳥は規格外れの力を持っていたが、狩りにおいてはより上質な効率を求め続けていた。
自らの質量に胡座をかかず、より賢く、より少ない労力で得物を仕留めることを善しとしていた。
怪鳥は、初めて目にするタイプの相手を警戒するということももちろんあったのだが、決して黒い騎士に負けると感じたために距離を置いているのではない。
怪鳥は効率よく狩るために、騎士が致命的に疲弊する機会を狙っていたのだ。
そこに、自らが圧し負けるなどという予測は芽生えていない。
怪鳥はあくまでも、自らを絶対の強者とした上での立ち回りを続けていた。
更に数十分が経過する。
両者が距離を保ったまま走り続け、そのような時間が経過した。
この時になってようやく、怪鳥の奇形化した脳内に疑問が浮かぶ。
何故、あのちっぽけな得物は動きを止めないのだろうか、と。
既に両者がほとんど全速力による移動を続けてから、相当な時間が経過している。
それは怪鳥の強靭な肉体が高熱化し、濛々と白煙を生み出すほどの負担となって現れていた。
しかし対する追いかけ続ける黒騎士の方はといえば、何の代わり映えもなく走り続けていた。そこには呼吸に喘ぎ疲弊する様子も、眠りを欲して座り込む気配も感じられない。
怪鳥にとって、自らの身に起きた熱の変化も、何の変化もなく自らを追い続ける黒騎士の存在も、どちらも初めてのものであった。
自然と、怪鳥の歩みは緩やかになる。
それは自身の身体が本能的な休息を訴えていたが故に、奇形化した脳がその要求を大人しく受け入れたからだった。
走る度に視界を悪くしてゆく白煙を抑えるためにも、怪鳥は一端足を止めることを了承したのだ。
ゆっくりとペースを落とし、たっぷり数十秒もかけて停止、その場で直立した状態で、黒騎士の方角へと視線を向ける。
やはり黒騎士は、これまでと同様に休むことなく、単調に剣を構えて走り続けていた。
分厚い瘴気を挟んだ向こう側で薄っすらと見える黒騎士の影。
今までに一度も見たことが無いその姿を眺め続け、ふと、怪鳥はこれから遠くない未来の出来事を夢想した。
このまま騎士が走り続け、自らが止まり続けた時、どうなるのかと。
怪鳥のこれまでの経験から考えれば、答えは明白。
目の前にまでやってきた黒騎士は、怪鳥の鋭い鉤爪によって地に叩き伏せられ、強靭なクチバシによって腹部に巨大な風穴を穿たれるであろう。
その未来が変わるとは思えない。
しかしそこへ至るまでの過程に、怪鳥はどうしても納得することができなかった。
怪鳥は狩人だ。煌めきの平原の頂点に君臨する、最強の狩人なのだ。
その狩人たる己が、獲物に万全の状態を与えたまま打って出ても良いのだろうか、と。
そう思考した時、怪鳥は再び身を翻し、黒騎士から距離を取るべく移動を開始していた。
たっぷり数十分間休ませた身体を再起動させ、もう一度黒騎士が疲弊する瞬間を待つことにしたのである。
怪鳥は己の背を追い続けるしぶとい獲物を威嚇でもするように、一度大きな鳴き声を上げて、不安定な全力疾走を再開した。
吹きすさぶ無彩色の瘴気。
太陽の傾きと共に煌めきを変える硝子の大地。
何百年と変わることのない荒廃した世界で、ただひとつ、この広大な地の王者だけに変化が訪れていた。
怪鳥は、息を切らせて走っていた。
それまでの余裕ある走りではない。
全身から生臭い蒸気を放出し続け、ただでさえ左右に重心がブレるような無茶な走行法は、時折巨大な破壊音を伴う転倒を招いていた。
だがそれを無様だと思う暇もなく、怪鳥は素早く起き上がると、再び走りを再開するのだった。
怪鳥は、それから更に何時間も追われ続けていた。
最初は、怪鳥もこれまでのように適切な距離を保っていたのだ。しかしそこから時間を経るにつれて、自らの身体の節々は不調を訴え始め、運用に難が生じ始める。
上昇しすぎた体温も、嫌な感覚を伝えてくる脚部も、複数備わっているはずの気嚢も、全てが万全に稼働せず、結果として黒騎士の速度を下回ることで現れていた。
このままでは、追いつかれてしまう。追いつかれ……その先で、何が待っているというのだろうか。
怪鳥は己の生で初めて味わう未知の状況と感情に、表現しようのない荒れを覚えていた。
それはきっと野生の勘であったり、本能的な恐怖であったりといった言葉に置き換えられるのだろう。
だが怪鳥は、そういった己の感情を上手く処理することができなかった。
ただ狩人としての習慣が、距離を置けと言っている。
狩人としての経験だけが、とにかく走れと言っている。
怪鳥は今のような状況に立たされていても尚、追われる者の恐怖や絶望を理解できなかった。
奇形化し、先鋭化し、ある種の方向で鈍りきってしまった脳は、多くの生物として一般的な考えを抱くことさえ許さなかったのかもしれない。
「覚悟」
だから、すぐ背後にまで迫った黒騎士が長剣を振り下ろすその瞬間も、それによって齎される逃れようのない結果を叩きつけられても尚。
ついに最後の最後まで、怪鳥は生物としての本能を思い出す事なく、狩人としての長い一生を閉じたのであった。
「討伐完了」
その日、煌めきの平原は支配者を失った。
だが周辺の地域やいくつか存在するコロニーがその事実に気付くのは、遠い遠い先の事になるだろう。
それまではまだ、煌めきの平原は本来の恐ろしくも美しい姿を保ち続けるのだった。
奴の望遠鏡から着想を得た。次は目玉だけのモノを目指してみるか?
――ウルボス・ラットマンの手記




