0010
平坦な煌めきの平原を、黒い騎士が歩いていた。
障害物はなく、足場も平坦。時折強く吹き付ける風と瘴気以外にはこれといった邪魔もなく、騎士の歩みは順調と言えた。
歩けど歩けど何も見えてこない硝子の砂漠。
それは常人にとっては果てしない絶望の旅路であったが、騎士にとっては滞りの無いただの遠路でしかなかった。
歩み、歩み、止まること無く歩み続ける。
煌めきの平原をゆく騎士の歩みは、既に三日間も続いていた。
「……」
そんな中、不意に騎士の歩みが停止する。
風もなく瘴気が強いわけでもない。それは、ただ不調を訴えたいがためのものではなかった。
フルフェイスに包まれた顔が、わずかに上に傾けられる。
しばらくそのような体勢を維持した後、騎士は剣を掲げて呟いた。
「コカトリスを確認」
騎士が望む遥か彼方で、一匹の怪鳥が鳴き声を上げた。
体高はおよそ五メートル。
翼幅は十メートルを越すほどの巨体である。
身体は余すところ無く黒一色だが、その色合いは油で塗れているかのようにマーブル模様の醜い光沢を放っていた。
羽毛は同じく油によって乱雑に毛羽立ち、不潔さをより強調させている。
しかしこの怪鳥の最も恐ろしい所は、その脚部にある。
怪鳥の脚は、まるで巨大樹のように太かった。
驚くべきことにこの常識外の巨躯は、その二本の脚によって、完全な状態で支えられていたのである。
一歩踏み出すごとに鉤爪が硝子の平原に食い込み、亀裂が走る。
地響きは破砕音となって辺りに響き、怪鳥の移動によってそれは絶え間なく続く。
怪鳥は空を飛べなかった。
だが、それを補って余りあるほどの脚力を獲得していた。
水に沈めたカラスのような鳴き声を轟かせ、怪鳥が一歩一歩と走る毎に、その速度を上げてゆく。
人の全速疾走よりも数倍は速い動きで、怪鳥は黒騎士目掛けて移動を開始した。
やがて緩慢な助走を経て、対する黒騎士も走りだした。
お互いの距離は、常人の肉眼では確認できないほどに離れている。
時折怪鳥は辺りに罅を入れるほどの轟音でもって鳴くが、その響きが黒騎士にまで届くこともない。両者を隔てるのは、それほどの距離である。
だからこの両者が互いに距離を詰めるべく走りだした時、その中間は全くの無音で満たされていた。
怪鳥の叫びも、大きな足音も、黒い外套が翻る音さえ聞こえない。
両者の狭間では、ただただいつもと同じ、瘴気を攫う風音だけが流れていたのである。
およそ一時間が経過した。
左右に大きくバランスを振るような怪鳥の不安定な走りが、ゆっくりと止まる。
グロテスクな黒い下まぶたがバチリと音を立てて開閉し、大きな黄色い眼球の表面を拭った。
そして怪鳥はまた、辺りを揺するような大きな咆哮を上げる。
硝子の大地に細かな罅が走り、滑らかだった地面は鋭い破片を炸裂させて、光沢を曇らせた。
かと思えば、それまで走り続けていた怪鳥はゆっくりと身体を反転させ、それまで走ってきた道へと引き返してゆくではないか。
「逃げるか、卑怯者」
両者の間にはまだまだ遠大な距離がある。黒騎士の罵りは当然の事ながら、風に巻かれて怪鳥にまで届くことはなかった。
しかしこの怪鳥は、たとえ人語を理解し先ほどの言葉を聞き取っていたとしても、再び針路を変えることはないだろう。
怪鳥は、この硝子の平原の中央に生きる唯一の狩人であった。
狩猟方法は極めて単純。近づいてきた獲物に対し、走り寄って食い殺すのである。
怪鳥は何日でも、何ヶ月でも活動可能な、文字通り怪物的な肉体を持っていた。
怪鳥の視界に入った得物は、その脚力が生み出す速度から逃げ切ることもできず、ただただなぶり殺されてしまうのである。
人間程度の視程では、怪鳥から逃れることは難しい。人間が怪鳥の姿を確認して反転する何時間も前から、怪鳥は獲物を捉えてみせると、既に走り出しているのだから。
何ヶ月か前に煌めきの平原を横断しようと訪れていた探検隊も、それまでのケースに漏れること無く、怪鳥によって破壊されていた。
だが、この日怪鳥が出会った黒騎士は別だった。
黒騎士は怪鳥が気付くとほぼ同時に、相手の存在を認識していたのだ。
それはつまり、黒騎士が怪鳥と同じ常軌を逸した視力を有していることを意味している。
それでいて、黒騎士は怪鳥の姿を認めていてなお、その距離を自ら詰めてきた。
自ら走り、長時間走り、接近を試みる獲物。
それは怪鳥、黒騎士が言うところの“コカトリス”にとって、初めて相対するタイプの相手であった。




