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ノイドが一人、静かに盆地を歩いていた。
ここに小屋を立てて生活している、この近辺唯一の男である。
彼は細かな金属の浜辺を歩き、人影を探している最中らしい。
人影とは当然、つい最近ふらりと現れた、寡黙な黒騎士のことである。
僅かな瘴気を防ぐためのボロ布を羽織り、何年も歩き慣れた湖の傍を、慎重な足取りで進んでゆく。
「一人で寂しそうですね」
そんな最中、水辺から声が投げかけられた。
か細く、ノイズの無い、綺麗な人間の声である。
男はそれに反応して一瞬だけ歩みを止めたが、またすぐに歩き出した。
「あの真っ黒な人なら、どこかへ行きましたよ」
少女は湖面に足をつけたまま、歩く男の傍を離れない。
粘度の高い湖面はゆるやかな波紋を残しながら、少女と男の軌跡をぼんやりと描き続ける。
その間、常に男は寡黙を貫いていたが、少女は濡れた顔に優しげな笑みを浮かべたまま、言葉を止めることはなかった。
「また、一人になりましたね。寂しいでしょう」
少女が笑い、男の眼光ランプが揺らぐ。
「ここはもう、貴方一人だけなんです。もう、誰も残っていないんです」
『やめろ』
「私に触れれば、貴方も――」
『やめろと言っている! その姿でっ……娘の姿で、そんなことを喋るんじゃない!』
歩みが止まり、男が叫んだ。
経年劣化により擦り切れ、摩耗した電子音の咆哮が、盆地に響く。
だが、それを聞き届ける者はいない。
もはやこの時、この男をおいて、他には誰も。
「なぜ頑なに、私達と一つにならないのです」
『……お前は……貴様は、娘ではない』
「私達はこの中で一つとなり、永遠だというのに」
『嘘だ、そんなのまやかしだ。貴様のようなバケモノなんか、俺は……!』
「バケモノ、だとしても、それが一体、何だというのでしょう」
男は俯いたまま、黙り込んだ。
少女は曇天の灰色空を見上げ、粘液で湿った顔を綻ばせる。
「バケモノ、魔物。だとして、人間だという貴方は、幸せな生き物なのでしょうか」
『……幸せさ。俺は、人間だ』
「私にはとても寂しそうで、不幸にしか見えません」
『……』
男はいつものように、静かに手で顔を覆った。
視界を閉ざし、心に冷静さを呼び戻すために。
「寂しい人間よりも、大勢のバケモノの方が、ずっとずっと幸せなことだと、どうして貴方は思ってくれないのですか」
湧きだした湖の中に呑まれ、人さえも水底に沈んだ、盆地のコロニー。
男はその生き残りである。だが同時に、コロニーの名残から離れきれない、哀れな男でもあった。
皆の敵たる湖のバケモノの姿を前にして、過去を振りきれずにもいたのだから。
しばらくの沈黙の後、二人の間に静かな風が吹き、細かな砂鉄が捲られ、黒い風となった。
無風の盆地では珍しい、砂を巻く程度の風である。
「……!」
人ならざる少女は、すぐさま付近で起きた異変を感じ取り、湖の外側に目を向けた。
「何故……」
少女は遠くの廃材の丘を見上げ、無感情に呟く。
言葉につられて、ノイドの男もそちらへ顔を上げた。
『な……あいつ、あんな、……何をしてるんだ……』
砂地と湖面。ふたつの場所に立った両者が揃って見上げたそこには、一人の鎧騎士が立っていた。
湖を見下ろせる小高い丘の上、全身をプレートメイルに包み、背に外套をはためかせる、黒の騎士。
彼は、自身の身の丈の十倍近い長さはあろう、巨大な金属製のシャフトを立てるようにして掴み持ったまま、そこにいる。
「何故……あの人は……いえ、違う、アレは……!」
それまで余裕の笑みを浮かべていた少女が、騎士の姿を見て、初めて狼狽えた。




