0011
無風の盆地の中央に居座る、巨大な湖。
水は透き通り、屋外では決して見られないような水面の輝きを見せてはいるものの、しかし、それはただの水ではない。
非常に粘度の高い、微細な菌の集合体であるらしいのだ。
黒騎士は粘菌の湖を眺めながら、時々その周囲を歩き周り、観察を続けている。
盆地の廃材は小さいものが多く、足を取られることも少ない。
広大な湖も、あと半日もかければ一周できるだろう。
病んだ砂鉄を踏み鳴らし、錆びた薄い金属を踏み砕き、そうしているうちに、突然黒騎士の歩みが止まった。
「あなたは、一人で寂しくないのですか」
黒騎士が進む先の湖面に、一人の少女が立っていたのである。
現れた少女に、黒騎士は警戒を込めた赤い眼光で睨みつける。
「そうして湖の周りを歩いて、本当は寂しいのでしょう」
黒騎士は答えない。ただ、剣だけは構えていた。
しかし少女は、剣などまるで気にしていないかのように、柔和に微笑むばかり。
「怖がることはありません。ともに、ここへ来れば……」
言葉を紡ぐ最中、身振りを交えた少女の隙を容赦なく突くように、黒騎士の長剣が閃いた。
問答無用の一閃。斜め下から袈裟斬りに、少女の胸は引き裂かれる。
「無駄ですよ」
ところが、それだけ。致命傷の傷をつけられた少女は、しかしその傷口から透明な粘液をこぼすばかりで、表情や口調にこれといった変化が見られない。
瞬く間にその無意味な傷口さえも修復し、元通り少女の白い簡素な服も繋ぎ合わさった。
その光景は、まるで時を逆巻きにしたかのようである。
だが、黒騎士はそれでやめはしない。
心臓を両断する一撃が駄目ならばと、今度は少女の首を刎ねるようにして、長剣を真横に振り抜いた。
これにはさすがの少女も驚いたか、少しだけ目を見開いて、その頭部が剣の勢によって、遠くの湖面に落下する。
残ったのは、湖面に立ち尽くす首のない少女。
本来であれば、肉体の司令塔を無くした身体はすぐさま機能を停止するはずである。
「驚きました。乱暴なことをするのですね」
しかしやはりと言うべきか、少女は再び首を生やし、元通りの姿に戻ってしまった。
心臓を斬られても、首を落とされても死ぬことがない。
これにはさすがの黒騎士でも、手出しのしようがない。
「私と一つになってください。そうすれば、その荒んだ心も、私と共に寄り添えるはずです」
黒騎士は後ろから声をかけられたが、全く意に介した風もなく、そのまま湖の周囲を歩き始めた。
少女はその姿を見て、何を思ったのか、わずかに微笑み、湖と一体になるようにして、湖面へと溶けていった。
しばらく黒騎士が歩いていると、湖の中に異様な“色”があることに気がつき、足を止めた。
小高い廃材の丘から見下ろすことで初めて視認できるそれは、透き通った粘液の湖の、丁度中央付近の奥深くに沈んでおり、鮮やかな赤色は、わずかに光を帯びているようにも見える。
大きさは、直径三メートルほどであろうか。真球の滑らかなそれは、自然が生み出したものでないことは明白だ。
時代が時代ならば、それは磨き上げた真っ赤な珊瑚のようだと例えられたのかもしれない。
ともかく黒騎士は、その赤い球体に視線を固定した。
そして、目星をつける。
あれこそが、“魔物”なのだと。
標的を見定めた黒騎士は、すぐさま周囲の廃材を見回して、その中で、握りやすく重量も大きいようなものを掴み、引っこ抜く。
それは、成人男性ほどはあるだろうか。巨大な金属の部品の一部であるらしいそれを両手でしっかりと握り、肩の上に預け、投擲の構えを作る。
ほんの僅かな溜めの後に、黒騎士は巨大な金属を、勢い良く投げ放った。
廃材は宙を半回転しながら、湖面を目指して真っ直ぐに飛んでゆく。
勢いは十分。質量もある。水面を貫いて、水底近くにある球体へと衝突する未来は明白だった。
「……」
金属塊は、粘液の水面を思い切り叩き、ねばねばした水しぶきをあげながら、凄まじい早さで中へと沈み込んだ。
しかし、それだけである。
勢いが殺されたわけではない。
だが、金属の塊は、赤い球体に傷をつけるまでには至らなかったのだ。
「無駄ですよ」
その一連の様子を、手前の水面から少女が眺めていた。
少女は優しく微笑みながら、黒騎士に語りかける。
「たとえどのような勢いで、どのような重金属が衝突したとしても、あの核が破壊されることはありません」
「……」
「それはどうしてか、あなたにわかりますか」
「……」
「あの核には、私達の想いが封じられているからです」
少女は語る。だが、黒騎士はそのような言葉に一切耳を貸すこと無く、湖とは反対の方角へと歩き始めた。
「私は永遠。私と共にある者も永遠。あなたはどうして、それを受け入れないのですか」
少女は遠くなった背中に語り続けた。
黒騎士の姿が、無風の盆地から消え行くまで。




