ホワイトクリスマス
街はクリスマス一色になり、いつも足早な人々も今日だけはこの夜にそれぞれの幸せを感じていた。
「あぁ……雪、降ってきましたねぇ、お客さん。この渋滞なら歩いた方が早いですよ。待ち合わせしてるんですよね? 公園まで三十分くらいかかりそうですよ……」
―― 春 ――
僕は高校を中退してからこれまで、アルバイトで生計を立てている、いわゆるフリーターだった。
十七歳の頃から職を転々としてきたが、現在勤めているコンビニエンスストアは、アルバイトから正社員になり、長続きしている。
そして、かれこれ二十一歳になった。
今年の札幌の春は、雪解けが早く、暖かい陽射しが雪解け水に光っていた。 そんな穏やかな春の陽気の中、僕は朝の通勤時間の混み合うレジに立っていた。
「いらっしゃいませ!」
「兄ちゃん、今日も元気いいね」
馴染みのお客さんが言う。
僕はこの辺では“元気の良い店員さん”として認知されている。
仕事が楽しかったし、学歴の無い僕を雇ってくれたこの店のオーナーにも感謝の気持ちがあり、とにかく一生懸命働いていた。
このいつもと変わらない朝、僕は彼女に出逢った。
出逢ったと言うより、“見つけた”という方が正確なのかもしれない。
店に入ってきた“その人”は、混雑する店内に紛れるように売り場を進んでいた。
僕はレジを打ちながら挨拶をした。
「いらっしゃいませ!こんにちは!」
流れ作業のように慣習化された僕の挨拶に、彼女は動きを止め、僕を見た。
そして、微笑んだ。
ただそれだけのことだった。
その大きな目で僕を見ただけだった。なのに、僕はその笑顔に一目で恋をしてしまった。
自分でも意外過ぎるくらい簡単に。
しかし、真っ直ぐに僕を見た瞳は、それだけで恋をしてしまう理由として十分なくらい透明感のある素直な眼差しに思えた。
その日以来、毎朝彼女が買い物に来ることを楽しみに待つようになっていた。
今まで気が付かなかったが、彼女はいつも通勤途中に、この店に寄っているようだった。
買う物は大体、煙草やサンドイッチのような軽食が多い。
彼女は色白で、瞳は大きく、鼻はシャープで上品な顔立ちをしている。
そして、甘くてフルーティーな香水がさらに僕を惹きつけた。
もちろん、僕は店員で彼女はお客さんだ。その立場を忘れているわけではない。
レジでの接客はあくまでも機械的に行っていた。
しかし、毎朝のように彼女を見ているうちに、“彼女と話しをしてみたい”という気持ちが日に日に強くなっていることに気がついた。
――彼女と話してみたい……どんな話し方をするんだろうか――
僕は仕事をしながら、いつの間にか、自然にそのきっかけを探してしまっている。
そうしていると、一つの妙案が浮かんだ。
僕はそれを早速行動に移そうと決めた。
いつものように彼女がレジにやってきた。
僕は彼女がレジに置いたペットボトルのお茶とサンドイッチのバーコードにスキャナーをあてながら“その時”を待っていた。
僕は彼女の口元の様子をうかがっている。
「あ、それと……」
彼女の口が開いた。僕はすかさず被せて言った。
「煙草ですね!」
「は、はい」
彼女は少し意表をつかれたように答える。
僕はマルボロメンソールを取り出し彼女に見せた。
「これですよね?」
彼女は僕の顔を見てうなずいた。
「はい! それです!」
明るく答えたその笑顔がとても可愛らしくて、僕は照れた。
「私の煙草、覚えててくれたんですね!」
彼女は財布を開けながら続ける。
「もちろんです。お客さん、毎朝来てくれてますから! 僕は注目してますからね!」
僕は商品を袋に詰め手渡しながら誇らしげに答えた。
「えぇ! 本当ですか!? 私も前からお兄さんのこと注目してましたよ!」
彼女の言葉に今度は僕が意表をつかれた格好になり、思考が一瞬停止した。
「じゃ、明日また来ます!」
彼女はそうしてる間に袋を受け取り店を出ていった。
僕は呆気にとられていた。
まさか、そんな返事があるとは、まったく予想していなかった。 彼女が出て行った後も、僕は一日中その言葉の意味を浮かれながら考えていた。
『前から注目してましたよ!』
――その言葉はどういう意味だ……“前から”って、いつからのことだろう?“注目”とは、何んだろうか――
その言葉は何度も何度も頭の中でリフレインし続けていた。
考えても答など見つかるはずもなく、僕はただ次の朝を待つしかなかった。
彼女に初めて話しかけた日から一ヶ月ほどたった頃、外は少し夏めいて清々しい日が続いた。
あの日以来、僕と彼女は毎朝、買い物に来たわずかな時間でも簡単な会話くらいはするようになっていた。
お互いに驚いたのは、僕らは同い年で、お互いが年上だと思っていたことだ。
彼女は美容師の見習いで、部屋と職場の真ん中に、僕の働くコンビニがあるのだと言う。
彼女は将来自分の店を持つという夢がり、今は修行中で、夜は十時くらいまで仕事をしているらしい。
少しずつ彼女を知る度、僕は一生懸命な彼女をますます好きになっていった。
「じゃあ、今度、仕事終わったらコーヒーでもどうですか? 僕も仕事は十時あがりなんで……」
コーヒーと言ってもそんなに遅くまでやっている喫茶店は近くにはなく、ファーストフード店のことだ。
僕は店の外を指した。
「あそこは午前二時まで開いてるからさ」
言い終えて彼女を見る。
「えっ! いいですよ! じゃあ、お兄さんのアドレス教えてください」
彼女はすんなり了承してくれた。
僕はレジの前にある余ったレシートの裏にアドレスを書いてそれを渡した。
挨拶程度の軽い気持ちで言った誘いが、思わぬ発展に繋がり、内心で僕は驚きと喜びが同時に全身を駆け巡った。
その日の昼休みに早速、彼女からメールが届いた。
その中には彼女の携帯番号も書かれている。
「いつでも誘ってください! 待ってます!」
僕はその返事が嬉しく、メールを何度も読み返した。
――いつ誘おうか――
たかがコーヒーの誘いくらいと思っていても、いざ誘おうと思えば、緊張してなかなか誘うことが出来ない自分がいた。
僕は毎日彼女のことを考えている。
――本当に可愛い人だな……――
明けても暮れても彼女を思い出しては、一人苦しくも、嬉しいような感覚の起伏を繰り返していた。
――いつか、彼女と恋人同士になれたら……――
そんなことすら考えていた。
そして、アドレスを交換してから二週間以上経った平日に、ようやく誘うことが出来た。
メールの返事は早く、あっさり約束を取り付けることが出来た。
当日、僕はいつもより手際良く残務整理を済ませ、待ち合わせの店に到着した。
彼女はまだ来ていない。
夜の十時を過ぎていても、賑わうファーストフード店には、待ち合わせの人達が次々と入ってきた。
僕はそれを横目にしながら、少し緊張して彼女を待っていた。
しかし、約束の時間になっても彼女は来ない。僕は頻りに時間を気にしながら、連絡しようか迷った。
――あと十分待ってみよう――
作りかけているメールを消して、携帯を閉めた。
約束の時間からすでに三十分が過ぎようとしていた。
その時、――コンコンッ
窓ガラスを叩く音がして、僕は振り返り、窓の外を見た。
そこには彼女が笑顔で手を振っていた。
そして、そのまま周り込んで、店の中にやってきた。
「遅れちゃって本当にすいません!」彼女は少し息を弾ませながら謝る。
僕はと言えば、すっぽかされたのかとヒヤヒヤしていて、彼女の姿を見て、逆に有り難く安心を覚えたくらいだった。
「いや、別にいいよ!」
「ごめんね」
彼女は明るく言った。
仕事後でも彼女は元気で、その朗らかな性格が僕らの会話を自然にし、お互いの事を沢山話すことが出来た。
彼女の前職がホステスであることや、お姉さんがいること、出身地や昔の話、好きな食べ物、好きな言葉……それから、今の住所まで。
そして今、同棲している彼氏がいること……
さらに、その彼氏とは時間のすれ違いから、うまくいっていないこと……
僕はコーヒーカップを口元に運び、平静を装っている。
「……そうなんだぁ」
余裕ぶった相槌の内心では“失恋”の二文字が、さっきまであれ程浮かれていた気持ちを重たくする感覚に戸惑っていた。
冷静に考えれば当然だったんだろう。
――この人に……こんな可愛い人に恋人がいないはずなんてない――
僕は自分の馬鹿さと、身の程を痛感していた。
一時間ほど話していただろうか、話しも一段落すると、僕らはそれぞれの家路に就いた。
僕は帰りの地下鉄の真っ暗な車窓に映る自分に、小さく溜息を吐いた。
少し重い足取りで部屋に帰ると、そのまま寝床に横たわり、CDコンポの電源を入れた。就寝時と目覚めは“オールウェイズ・ビー・マイ・ベイビー”と言う曲を設定している。
明かりを消して、音楽は流れ始める。
スローなイントロが心地良く、僕は目を閉じた。
そこに、携帯電話が鳴った。
――――相手は彼女だった。
僕はすぐに起き上がり、受話器をとった。
「もしもし、 部屋に着きましたか? 寝てました?」
彼女は屈託のない様子で問いかける。
「いや、まだ起きてたよ。着いたばっかりだから」
「良かった! 今日はどうもでした。楽しかったです。もうちょっと時間あったら良かったですね」
彼女もすでに部屋に着いてるようだ。
「こちらこそありがとうございました。あっという間だったね」
僕が答えると、彼女は少し間を置いてから言う。
「あれ? 音楽、マライア・キャリーですか!? 私もその曲かなり好きだから、朝はタイマーで目覚ましにしてますよ!」
彼女の声は一段と明るくなった。
「本当? 僕もこれ好きなんですよね! シンプルな感じとかさ!」
「そう、そう! わかる! 」
彼女は嬉しそうに同調している。
――しかし、一体、わざわざ電話してきたのは何故だろうか――
僕はふと思った。そんな空気を感じたのか、彼女は続けた。
「あのね……さっき言わなかったんですけど……」
少し落ち着いた声で話し始めようとした。
その時、彼女の声のトーンが変わった。
「あ、ごめん、彼氏帰ってきちゃった、また連絡します!」
急に慌てて電話は切れた。
僕は電話を置いて、また横になった。
“失恋”の二文字が再び脳裏をよぎる。
それでも、目を閉じると彼女が浮かび上がる……その笑顔や仕草に胸の高鳴りを覚え、忘れようとすればするほど囚われ、かき混ぜられたように整理できない胸中は、その日の安眠を許さなかった。
次の日、彼女はいつも通り店にやってきた。
レジから売場にいる彼女に視線を送ると、彼女もそれに応えるように笑顔をくれた。
「今日はビラ配りなんです」
会計をしにレジにやって来た彼女は、少し残念そうに言う。
僕も少し困ったような表情を見せながら、首を横に振った。
「だからあとで、お昼くらいにもう一回来ます!」
そう言うと、彼女の表情はまた晴れた。
それを聞いた僕は、一気に嬉しくなり、「待ってます!」と商品を手渡し、彼女を送り出した。
昨夜、僕は彼女のこと考え、迷いながらも一つの結論を出していた。
彼女に恋人いるなら、“友達のままでいい”ただ、彼女を好きな気持ちは、簡単には消せない。
それならば、それと気づかせずに、片思いでいようと。
僕は自分の気持ちを封印することにしていた。
店の外に出た彼女は笑顔で振り返り、手を振っている。
僕は店のガラス越しに軽くうなずいた。
そんな愛嬌の彼女を見て、押し込めている想いが瞬間、溢れそうになるのを感じ、抑えた。
昼が過ぎると僕は何度も店の外に出ては、彼女の姿を探した。
やがて彼女はやってきた。
「少しサボリに来ました」
提げている紙袋には、いっぱいに美容室のチラシが入っている。
「これ、全部配んなきゃいけないんですよぉ……」
男の僕から見ても、大変そうな量だ。
「僕が半分くらい貰っとこうか?」
「大丈夫だよっ! ちゃんと配らなきゃいけないですから!」
彼女は大量にチラシが入った紙袋を持ち上げて見せた。
「それとね、この前言いそびれたことなんだけど、私……来月からお店変わるんです」
彼女はどこか吹っ切れたように言った。
僕は逆に、すぐに心配がよぎった。
「……どの辺に?」
「……東京」
僕は一瞬固まった。
――これから、毎朝どころか、もう会えなくなるかも知れない――
僕は言葉を無くし、視線を少し落とした。
「……でもね、正確にはまだ決まってはいないんです。東京の姉妹店で人手が足りないみたいだから、店長に、私は移っても良いですよって言っちゃったんだ……だから、そうなるとは思うけど……」
彼女は僕を覗き込むように見る。
僕は彼女がいなくなってしまうという焦りを覚えて、口走った。
「ちょっとさ、その話さ、また喫茶店で話そうよ!」
僕は考えをまとめる時間が欲しかった。
「……そうだね。じゃ、今日またこの前と同じ場所で会おう?」
彼女はすぐに返してきた。
「わかりました……」
話がまとまると、彼女はお茶を一本買って、自分の店の方向へ戻っていった。
彼女が戻ってからも僕は動揺しっぱなしだった。
仕事でもミスをしてオーナーからはカミナリが落ちた。
もちろん、そんな状況の中で、考えなどまとまるはずもないまま、待ち合わせの時間を迎えた。
僕は少し早めに待ち合わせのファーストフード店に到着したが、今日も僕が先のようだ。
彼女に到着している旨のメールをして、待つこと二十分ほどで彼女はやってきた。「また遅くなっちゃってごめんね」
「気にしないよ」
僕はいつもの挨拶のように感じながらと、席を勧めた。
彼女が遅れてアイスコーヒーを頼んでいる横顔を見て、ふと思った。
――初めて見かけてから声をかけて……こうして待ち合わせをして……毎朝彼女を待って……思えば、僕は彼女に待たされてばっかりだなぁ――
一人で考え、なんだか可笑しくなってしまった。
「どうしたんですか? 何を笑ってるんですか?」
いつの間にか正面を向いていた彼女は不思議そうに聞いてきた。
「いや、なんか不思議だよね? こうやって二人でコーヒーなんか飲んでるなんてさ……」
「そうだよね……あの時話しかけてくれなかったら、有り得なかったよね」
彼女は少し思い返したようにそう言うと、僕を見て微笑んだ。
「最初に僕がなんて声かけたか覚えてますか?」
彼女はうなずいて答える。
「私の煙草、覚えてくれてましたよね。これですよね? って」
彼女がその時のことを忘れていなかったことが素直に嬉しかった。
そして、すぐに寂しさが込み上げてきた。
彼女と出逢って約二ヶ月が経ち、それからの出来事が急に“思い出”になろうとしていること、更に、今度は彼女が去り、出逢いさえも思い出に変わろうとしていること。
僕はコーヒーを少し口に含んでから尋ねた。
「正確にはいつわかるの? 東京行きは……彼氏さんは……一緒に行くの?」
「それは、一応、私の返事次第って感じです……でも返事は今月中にしなくちゃいけないんだ……彼氏は私の仕事に反対だから……多分別れると思う……だから、行くなら私だけかな」
僕は複雑な心境になった。
――出来ることなら行かないで欲しい……でも、他人の僕が引き留めるのも出過ぎた話だ。それに、彼女は自分の店を持つという夢があると言ってた……僕なんかの意見でその邪魔をしてはいけない……――
僕はコーヒーカップを静かに置いた。
「行ってきたら良いと思うよ。きっと勉強にもなると思うからさ!」
彼女は穏やかな目をしていた。
数日後、彼女からメールが届いた。
「来月から東京で頑張ってみます!」
気がつくと外はずいぶん暖かくなり、いたるところに緑が栄えていた。
春は終わり、時は僕を、知らぬ間に次の季節に運んでいた。
―― 春 ――
終
―― 夏 ――
彼女は発った。
出発当日も店に寄り、元気な姿を見せてくれた。
「お昼の便で行きます。なんか寂しいですね。せっかく仲良くなれたのに……あ、でも、あっちに着いたらまず電話します!」
彼女はそう言い残し別れを告げた。
その日、僕は青い空に飛行機を見つける度に、彼女を思い出していた。
彼女から電話があったのは夜遅くだった。
「あ、もしもし、お仕事終わってますか? 今、部屋の整理してるんだけど、こっちはもう暑いよ」
僕は仕事帰りの地下鉄を降りたところだった。
「今降りたとこ。仕事帰りだよ……これから色々と大変になるね」
駅構内にアナウンスが発車を告げる。
「え! 今降りたばっかりだったんですかぁ? ……このアナウンスもしばらく聞けなくなるんだね……」
「そうだねぇ……ところで、こっちには全然帰ってこないの?」
僕は地上出口に向かって歩きながら聞く。
「取りあえず、八月の下旬に夏休みが貰えるみたいだから、その時に一回帰ります!」
――だいたい二ヶ月後かぁ――
「その時さ、また逢おうよ! 今度はご飯でも食べよう?」
地上に出た僕は夜空を仰ぎながら言った。
「はい! 実はそのつもりでした! お土産も買っていきます! それまでお仕事頑張ってくださいね。私も頑張るから! ……そしたら、そしたらいつか、お嫁さんにしてください!」
彼女の、この何の前触れもない、突然の台詞に僕はときめいた。
「う、うん。わかったよ。君のことは貰います」
飾らない彼女の態度に僕は素直に答えた。
「本当ですかぁ!? 約束ですね!」
彼女も驚いている様子だった。
僕は思い出したように尋ねた。
「あ、でも彼氏さんは?どうしたの?」
「なんかやっぱり怒っちゃって……別れたんだ……部屋は彼氏名義だから、私が出て行けばそれで済んだから」
彼女はこうなる結果を予め感じていたのだろう……特にショックを受けている様子は無かった。
ともあれ、僕らはこうして離れたことで、触れることや、見ることは出来なくなったが、心の距離は一気に近づいたような気がした……と言うより、確かなものを感じた。
「じゃあ、帰省する日がちゃんとわかったら教えてよ。シフトズラして、早番とかにして夕方から空くようにするからさ」
「うん。わかりました! 楽しみにしてます! それじゃあ、お仕事頑張ってくださいね! おやすみなさい」
僕らは次の約束を交わし、通話を終わらせた。
僕は部屋に着くと「オールウェイズ・ビー・マイ・ベイビー」を聴きながら来る八月を、逢える日を楽しみに眠りに就いた。
その日以来、僕の仕事ぶりは変わった。
彼女が夢を追いかけて頑張っているなら、僕はそんな人に相応しい男になれるようにと、いつにも増して仕事に精を注ぐようになっていった。
そして、いつか僕も、彼女と同じように自分で開業する事が目標になっていた。
それも八月には彼女に逢えるという希望があったからだ。
炎天下の夏、アスファルトさえも溶けてしまいそうな灼熱の日が続く日、一ヶ月ぶりに彼女からメールが届いた。
「お元気ですか? お盆明けの二十二日から三日間だけ帰省することになりました。実家にも顔出さなきゃいけないから、二十三日に会いに行きたいんですけど?」
僕はすぐに承諾の返信メールを送った。
――今から二週間後だ――
その日は彼女が店に来ると言う。
僕はシフトをズラして早番にする旨を伝え、仕事が終わる時間の、六時に待ち合わせをした。
僕はその日に合わせて、スーツを買うことにした。
給料日は毎月十五日で、安月給ではあったが、今はスーツも安いものが出ているので、少しくらいは格好つけたいと考えた。
そして、僕はカレンダーに印を付けた。
それからはもう時間の経過が遅く感じられて、もどかしい日を一日一日、積み重ねていった。
それでも、カレンダーに印が増えていく度に感じるその感覚は決して不快なものではなかった。
そして、遂に彼女が帰ってくる日を迎えた。
僕は約束の時間にはきっちり仕事を片付け、店の前で彼女を待っていた。
夕方でもまだ陽は長く、明るく感じるくらいだ。
もちろん、約束の時間になっても彼女はまだ来ていない。
メールをしてみると、少ししてから返事が来た。
「あと五分待ってて! 今、前の店で髪の毛セットしてもらってたんだ、今向かってますから!」
またしても僕は彼女に待たされることになってしまった。
しかし、楽しみな気持ちの方が遙かに強く、苦に感じることなどまったくない。
しばらくすると、彼女が向こうから走って来るのが見えた。
僕は買ったばかりのスーツ姿で出迎えた。
「ごめんなさい。また遅れちゃって、大分待った?」
彼女は肩で息をしながら僕の前に立つ。
「別にいいよ。いつものことだからね」
僕は少しからかうように言って彼女を見た。
彼女は少しバツの悪そうな顔をした後、すぐに笑顔に戻り言う。
「どこに行こうか?あ、ご飯食べに行きましょう!」
笑顔の彼女は、遅刻したことをもう忘れているような、でも、それがまったく嫌味にならない、彼女のそんな素直さに僕はいつもやられてしまうのだ。
「そうだなぁ……居酒屋にでも行こうか?」
「うん!」
彼女は僕の腕に抱きついた。
僕は一瞬戸惑ったが、それはすぐに喜びに変わった。
僕達は初めて腕を組んで歩き出した。
そう。まるで恋人のように。
歩きながら沢山の人とすれ違う。僕は思い始める。
――はたから見たら僕達は恋人同士に見えているんだろうか――
僕の気持ちは高揚している。
「ここにしようか?」
彼女は立ち止まり、浮かれている僕の腕を引いた。
「あ、ああ、いいね。ここにしよう」
僕は少し慌てたよに同調した。
今日は風もまったく無い蒸し暑い日だ。
二人とも少し汗ばんでいて、店に入るとすぐにビールを注文した。
「カンパーイ!」
グラスをぶつけ、僕は一気に飲み干した。
彼女も美味しそうにそれを飲んでいる。
東京での出来事や仕事の話で会話は弾み、たった二ヶ月という短い間でも、語り尽くせないほど色んな話が出た。
僕らは、時に笑い、時に悩み、食事と会話を楽しんだ。
空腹と渇きを満たしたところで、僕らは次にバーに向かうことにした。
彼女はもともとホステスだったと言うことで、そう言う店には詳しく、僕はその案内に従った。
「あぁ……すすきのだぁ……あのビルで、前働いてたんだぁ……」 彼女は街の明かりを見上げながら感慨深そうに目を輝かせている。
「そうだ! 行きたいお店があるんです! 前に一回だけ行ったことあるんだけど、なんか和風な感じでお洒落だったんだぁ……」
拒む理由などない。
彼女に手を引かれその店に入ると、なるほど。
広くはないが、シックで落ち着いた、若い女性に受けそうな造りだ。
「こういうとこもまた、雰囲気いいね」
僕は辺りを見渡しながら言う。
彼女は笑顔でうなずきながら、煙草を取り出した。
「あれ ?煙草変えたんだ?」
僕は彼女の煙草を見て言う。
「やっと気づいてくれたぁ……忘れちゃったのかなって、心配してました……」「まさかぁ……忘れるわけないよ、君とのきっかけだったそれを」
僕は少し照れながら言った。
彼女はグラスを傾け、氷を鳴らしながらつぶやくように言う。
「もっと早くに知り合えてたら良かったのにね……」
――それは僕も何度も思ったことだよ――
「……そうだよね」
でも、彼女が言った意味は少し違っていた。
「本当はね、東京行くの止めて欲しかったんだよ……」
彼女は本気とも冗談ともとれるようないたずらな目で僕を見た。
僕は言葉の意味を考えてから、軽くうなずいた。
「どうせこんな風になるなら、僕ももっと早く声をかけてれば良かったよ」
「そうですよ。私、あの時、彼氏の事もあって、少し投げやり気味なところもあったから……勢いで東京行き決めた部分もあったんだぁ……」
彼女は煙草のフィルターの先を僕に見せながら続ける。
「この占い知ってる? ここを少し舐めて、湿らせるの、そして三回息を吹きかけて、好きな人のことを考えて吸ったら、ここにその人のイニシャルが出るんだよ」
彼女は持っていた煙草に火を点け吸い始めた。
「ふーん……そんなこと本当に起きたら凄いね」
そう言って僕も煙草に火を点けた。
「私は本当にイニシャル、出たことあるよ! でも、吸ってる間は途中でここを見たらダメなんですよ!」
彼女は言い終えると、遠くを見るようにして、その上品な口から煙を吐いた。
「……ふぅー……」
――彼女は今、誰のことを想って煙草を吸っているんだろうか――
それは彼女にしかわからないこと。
ただ、他の誰かを想う横顔だったとしても、僕はその横顔に心を奪われ続けた。
「あ、あのさ、僕が似顔絵を描こうか! 得意なんだよね!」
僕は思い出したように言った。「えぇ! 本当!? 描いてください!」
「じゃあ、一分だけそのままでいてください」
ボールペンと紙を準備して描き始める。
「どう? 描けますか?」
僕は大好きなその目を描き上げたところだ。
そして、ぼどなくして全体像も描き終えた。「はい、どうぞ」
僕はスケッチを手渡した。
「わぁ……上手ですね!」
彼女はじっと眺めている。
「あ、これ、貰っていってもいいですか!?」
「え、それならもうちょっとちゃんと描いてあげるよ!」
僕は少し慌てて言う。
彼女は煙草をもみ消して言う。
「うん。でも、これが欲しいの、せっかく描いてくれたものだから」
彼女はバッグに大事そうにそれをしまい込んだ。
僕はその仕草と言葉から、またすぐに訪れる別れの寂しさを感じた。
――この夜が終われば、また逢えなくなるんだ――
時計を見ると針は二十時三十分を指すところだった。
僕は終電を意識した……この至福の時間が終わろうとしている。 彼女も感じているのか、何となく切ないムードのまま、僕らは店を出た。
歩きながら彼女は言った。
「午前零時の終電に乗ったらお別れだね……何か、シンデレラみたいだねっ!」
彼女の腕はしっかりと僕の腕を掴み、そして微笑んでみせる。
「……うん……そうだなぁ…」僕も彼女に微笑んでみせた。
外は相変わらず風も無く蒸している。
黄色い酔ったような大きな月には少し雲がかかり、幻想的に浮かんでいる。
――なんで彼女はここに、僕の隣にいるんだろうか……もし、同じ気持ちでいるなら……どうしてまた、離れなければいけないんだろう――
地下鉄の入り口に向かいながら僕は言った。
「やっぱ、東京……行かなきゃダメ?」
言い終えた後、僕は瞬時に我に返った。
「な、なんてね……冗談だよ。……この次は、いつ帰って来れそうなの?」
「雪が降る頃にならなきゃ帰れないと思う……でも……ねぇ! クリスマスイブには絶対帰るから、その日はまた逢おう……?」
彼女は涙ぐんでいた。
そんな彼女に寄り添うように僕は答えた。
「うん。わかった、それ、約束ってことで! 必ずイブはテレビ塔のふもとで逢おう!」
「テレビ塔って、なんだかロマンチックだねっ」
彼女は嬉しそうに僕の顔を見た。
「………それにね、あそこなら……あの大きな、そりゃあ、大きな時計があるから、まさか遅刻なんてことは、まかり間違ってもないと思いましてね…」
僕は少し意地悪に耳元で囁いた。
「もう! ごめんなさい! 今度は絶対大丈夫だから!」
彼女が軽く僕の袖引くと、………ポタッ……ポタッ……ポタッ
空から大粒の雨が落ちてきた。
雨はあっという間にどしゃ降りになった。
「……スコールだ……」
僕の気持ちを写したような夜空の涙は、瞬く間に街を濡らし、アスファルトは街のネオンを反射させている。
雨はさっきまでの柔らかな空気を一気に新鮮にした。
……そう、それはまるで、夢が醒めたことを教えるかのようだった。
僕らは雨に濡れながらも、地下への入り口にたどり着いた。
「せっかくのスーツが塗れちゃったね」
彼女はハンカチを取り出して、それを僕の肩にあててくれた。
「僕より、君こそせっかくセットした髪が……」
彼女の前髪から雨の雫が一粒、また一粒と滴る。
僕らは改札を目指し階段を下始めた。
改札を通り、ホームに向かう通路、一歩前を歩いていた彼女の背中が切なく、そして愛しく見えた。
僕はもう何もしてあげられないもどかしさ……別れの淋しさ、彼女の愛しさを込めて、彼女の肩に手をかけ振り向かせた。
僕は、そのまま口づけた。
彼女はすべてを受け入れてくれているかのように瞳を閉じていた。
僕らは少しの間、無言になり、彼女は僕を見上げている。
それはお互い、別れへの淋しさを訴えているようにも思えた。
再び僕らはホームに向かい歩みを進めた…手を堅くつないで。
「見送らせてね……」
彼女は言う。
「いや、僕が見送るよ」
僕らの行き先は別々だ。
「お願い、最後くらいは私に見送らせて」
彼女の頬に雨が伝う。
そして、その言葉に意志の固さを見た。
「わかった。じゃあ、お願いします!」
僕らはイブの約束を確認し合い、ホームに並んだ。
間もなく終電がホームに入るという構内アナウンスがこだまし、けたたましい音と共に電車はやってきた。
僕はつないでいたほどいた。
「カボチャの馬車が迎えに来たみたいだな……なんてね……」
僕は冗談混じりに言ったが、彼女は寂しそうな表情のままだった。
「今日はありがとう」
彼女は少し笑って見せた後、また悲しい表情に戻った。
彼女の涙を堪えている瞳に、僕も涙が落ちそうになっていた。
やがて電車のドアは開き、僕はそれに乗った。
ゆっくり車両は動き出し、車窓からホームに立つ彼女を見ながら「…また」と口を動かし、軽く手を挙げた。
その声は彼女に聞こえていないが、彼女も「……またね」と口を動かしたようだった。
ホームの彼女はすぐに見えなくなり、景色はすぐに真っ暗になった。
電車に揺られながら僕は彼女の姿を思い浮かべ続けていた。
もうすぐ秋が来る。
木々達は葉を落とし厳しい冬に備えるのだ。これが自然の摂理なら、ちっぽけな僕の境遇もまた、自然の一部だと感じた。
―― 夏 ――
終
―― 秋 ――
彼女と逢った日からおよそ一カ月が経ち、朝夕は少し寒さを感じるほど秋らしくなってきた。
あれから僕らは数えるほどしか連絡を取っていない。
特に喧嘩をしているという訳ではなく、特別なことがない限り、彼女も僕も連絡をしない、彼女は職業柄、勤務中のメールや電話が出来ないし、迷惑になるかもしれないという、僕の遠慮もある。
そして、それは僕にも言えることで、彼女からの連絡もほとんど仕事が終わってからの返事になっていた。
その経験から、お互い重要なことがなければ連絡はなく、連絡も仕事が終わった頃を見計らってするようになった。
僕らはいわゆる典型的な“遠距離恋愛”になっていた。
もちろん不安になることもあったが、たまにある彼女からの連絡が、いつもその不安を拭ってくれていた。
僕はクリスマスイブを心の支えにして、ますます仕事に没頭していった。
「お兄さん、最近さらに元気良くなったねぇ」
常連のお客さんはそんな声をかけてくれる。
そんなある日、仕事が終わり、帰り支度をしているところに、オーナーがやってきた。
オーナーは若くして勤めていた会社の倒産を二度も経験し、自らこのコンビニを開業した苦労人だ。
そして、当時働き口に困っていた僕を、無条件に雇ってくれた恩人でもある。
「おお、ご苦労さん、ちょっといいか?」
オーナーは僕に席をすすめた。
「はい。何でしょうか?」
僕は腰を下ろしながら尋ねた。
店のバックヤードはとても狭く、椅子を二つ並べるともう人が歩けなくなるくらいだ。
向かいに座るオーナーは煙草を吸いながら話し始めた。
「仕事終わってるのにわるいなぁ、ところでよ、お前、しばらく店でやってくつもりか?」
オーナーはとぼけたように言う。
オーナーがこういう話し方をするときは、“何かある”……それは、これまでの付き合いで分かっている。
「……はい、そのつもりです」
僕は少し警戒しながら答えた。
オーナーはそれを聞き、満足そうな顔で僕に言った。
「そうか! それならお前、来月から二号店の店長をやってみなさい」
僕はその言葉に驚いた。
「は、僕がですか!?」
「急な話なんだけどな、今月いっぱいで二号店の店長が辞めることになったんだわ。他にも候補はあるけどよ、お前はお客さんからの評判も良いし、俺の目から見ても資質があるよ、まあ、俺の独断だ」
二号店は同じ市内にあったが、街からは少し離れた場所にある。
ただ、最寄り駅はこの店から一駅しか離れていない立地で、ここから歩いても十分かからないくらいだ。
「はい! わかりました! 頑張ります」
僕は身を乗り出し返事をした。
彼女の夢に追いつきたい気持ちもあり、僕のやる気は一気に高まった。
オーナーはその後、給与やシフト、スタッフの使い方などについて細かく説明し、最後に僕の肩を強く叩きながら言った。
「よし、明後日から大変になるけど頼むぞ!」
言い終えるとそのまま店を出ていった。
僕は部屋に戻ってから彼女に久しぶりに電話をかけてみた。
しばらくコール音を聞いていると、受話器の見こうから元気な彼女の声が聞こえててきた。
「もしもし! お久しぶりです!」
「あ、お疲れ様! 今、大丈夫だった?」
僕は彼女の声を聞くだけで、また心地良い緊張を覚えた。
「あぁ、びっくりした。電話くれるなんて思ってなかったから、どうしたんですか?何かあったの?」
僕からの電話が珍しいのだろう、そんなふうに質問をしてきた。
「実はね、来月から店が変わって、もう一店舗の方で店長やることになったんだよね」
僕は感想を求めるように言った。
「えっ! 本当ですか!? 流石ですね! 前から接客とか良いと思ってたんだよね!」 彼女は喜んでくれた。
職種は違っても、自分の店を持ちたいという同じ目標を持つ彼女にそう言ってもらえたことが素直に嬉しかった。
「へえぇ、店長さんかぁ……本当に凄いなぁ……私はやっとお客さんが少しついてきたくらいなんですよ」
彼女とメールではなく、話をしたのは久しぶりだ。
こっちにいた頃とまるで変わらない話し言葉で、僕は来月からの多少の不安が胸の中で溶けていくのを感じていた。
その時、受話器の向こうから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、ごめんなさい! また連絡します!」
彼女は慌ててそう言うと、電話を切った。
僕は受話器を握ったまま、新たに生まれた不安感じていた。
聞こえてきた彼女を呼ぶ声は「男」だった。
――さっきの男は誰なんだ……ただの知り合いか、仕事仲間だろうか……――
よく耳にする遠距離恋愛の結末は、どちらかに“新しい恋人”が出来てしまうというものだが、そんな対岸の火事のような、漠然と思っていた「遠距離恋愛」の難しさを思い知ったような気がした。
現段階で彼女がそうだと決まっているわけではないし、そんなことをするような女性でないことは信じている。
しかし、僕は思った。
――考えてみれば、僕らの関係は、はっきり“恋人同士”になったという区切りみたいなものがなかった……それは、何かあったとしても、“他人である僕”には何も言う資格がないということではないだろうか……僕が勝手に恋人になったつもりでいるだけじゃないのか――
自問自答を繰り返していた。
想像の域を出ない、自問自答に結論など出るはずもなく、いつの間にか夜は更けていった。
月が明け、僕は二号店に移った。
想像を超える忙しさに物事をゆっくり考えたり、振り返る暇もなく仕事に追われ、日々、それをこなしていくので精一杯だった。
仕事が終われば、転がり込むように部屋に辿り着き、疲れてすぐに眠る。
一週間がまるで日めくりカレンダーのように過ぎ、いつの間にか彼女のことも考える余裕がない中で、連絡も途絶えていた。 “なんとか、この店の業績を上げたい”その気持ちはある意味、気を紛らわせてくれていたのかも知れない。
今日もまた、疲れた体で部屋に辿り着き、寝床につくなり仰向けに天井を見つめていた。
すると、放り投げなれたように置かれていた携帯電話が鳴った。
僕は起き上がって、電話を手に取った。
――彼女からだ。
実に一ヶ月半ぶりの着信だった。
同時に、この前の電話でのことを思い出した。
僕は出るべきか迷った。
あの時のことを意識してしまい、普通に話せるか自信が無かった。
しかし、このままでは何も始まらないことは分かっている。
確かめたい気持ちがあるのも確かだ。
――本人に直接聞けばわかる。もし、最悪の事態ならば僕が消えれば良いだけだ――
僕は電話に出た。
彼女はいつもと変わらない元気な声だった。
「お仕事うまくいってますか? もっと忙しくなったんじゃない?」
「……うん、ちょっと忙しくはなったかな……」
僕はあのことを聞くタイミングを探している。
「そっかぁ……やっぱり店長さんにもなれば大変なんだね。あ、そういえばね、私、大分お客さん増えてきたんですよ!」
彼女は嬉しそうに話す。
「そ、そうなんだ。良かったね……」
今、僕の関心は彼女の仕事のことにはなく、簡単に答えた。
「……どうしたんですか?体調、悪いんですか?」 彼女は僕の素っ気のない反応に心配そうに言う。
「いや、どこも悪くないよ、あのさぁ……、そっちの方ではどうなんですか?」
彼女は不思議そうに聞き返す。
「……ん? 何がですか?」
僕は自分の歯切れの悪さを打ち消すように言い直した。
「……その、好きな人とか出来たりした?」
彼女の声色が少し変わったのがわかった。
「……え、それ、どういう意味ですか?……だって、私……」僕は続けた。
「ほら、……よく言うじゃないですか……東京って格好良い人多いし……恋人とかそっちに行ったら、そのうち良い人見つかったり……」 僕はもごもごしながら言っている。自分でもはっきり聞けない弱さを感じた。
「……どうしてそんなこと聞くの? そんな風に見られてるなら……すごく悲しいです……私、邪魔なら言ってください……もう電話とかしない方がいいですか?」
彼女の声にも元気がなくなっていた。
僕の言い方が悪かったせいで、彼女にも不安を抱かせてしまった。
「……そういうことじゃなくて……なんでもないよ、とにかくまた連絡するね……」
僕は気まずい空気から逃げるように言った。
「……うん。遅くにごめんね……お仕事、頑張って…」
彼女は電話を切った。
僕は電話を置き、煙草に火を点けると、夏に彼女が教えてくれた煙草の占いを思い出した。
彼女を強く思い浮かべた。
――今日、彼女が電話してきたのは、お客さんが増えてきたことを僕に誉めて欲しかったんじゃないか……僕が店長になることを告げた時のように……だとしたら、僕は何てことを言ってしまったんだ……自分のことしか考えないで……――
僕は自分を責めていた。
煙草の灰が長くなっている。
フィルターの吸い口を見ると、ただ斑に黒く汚れているだけだった。
それは、僕と彼女の関係が蝕まれているようにも見えた。
次の日の朝が来ると、また慌ただしい一日が始まる。
ただ、この忙しさは僕の憂鬱な気持ちも悩みも忘れさせてくれた。
いつしか“忘れるため”に夢中で働く僕がいた。
あれから彼女とは何のやり取りもなく、月日は流れていった。
店には気が早く、クリスマスケーキの予約カタログが本部から郵送されてきた。
毎年この時期になると、コンビニでケーキの予約販売が始まる。
僕はカタログを見て、彼女との約束を思い出した。
「店長、クリスマスは予定あるんですか?」
店の学生アルバイトが話しかける。
僕は少し考えてから、自分に言い聞かせるようにキッパリと言った。
「ないよ! 仕事しか!」
僕は吹っ切れたような気がした。
二十二時過ぎに仕事は終わった。
最寄りの地下鉄駅に向かい歩くと、最近、一段と冷たくなった風に身を竦ませた。
――あぁ、もう冬だな――
空から白い綿が落ちてきた。
路面に着地するなり、その姿は消えてなくなった。
「あ、……雪だ……」
思わず口にした。
辺りを見渡すと、雪達は降って溶け、降っては溶け、路面を濡らしていく……僕は少し立ち止まり夜空を見上げた。
無数の雪が落ちてくる。
すぐに溶けてなくなる儚さを、人の恋に重ねてみた。
もうすぐ景色は真っ白になるのだろう。
落ち葉には雪が、溶けずに残っていた。
―― 秋 ――
終
―― 冬 ――
「いやぁ、寒いね」
お客さんがレジに立つ僕に言う。
十二月も上旬になれば、まだ根雪になっていなくても、朝の冷え込みは体に堪える。
「今年は雪も多いらしいですよ」
僕はクリスマスケーキのチラシも一緒に買い物袋に入れ手渡す。
「クリスマスケーキの予約も始めてますので、よろしくお願いしますね!」
「こんなこともやってるんだ? 最近のコンビニは何でもやるねぇ」
お客さんは感心したように言う。
僕はスタッフにもチラシを配り宣伝するよう徹底していた。
その甲斐あってか、少しずつではあるが、お客さんにも浸透してきて、予約が入るようになってきた。
全国の各店、このケーキ予約の販売件数を毎年競っているのだ。
そんなある日、店の事務所にあのオーナーがやってきた。
「おい、店長。どうだ? ケーキの予約は入ってるか?」
オーナーは伝票を見ながら言う。
「はい。ぼちぼち、入ってます……」
僕は感覚的に答える。
オーナーは何やらファイルを手にしている。
「予約期限まであと一週間しかないだろ」
「……はい」
ケーキの予約期限は毎年大体、中旬頃までだ。
オーナーは僕に持っていたファイルを手渡して言う。
「それが去年の伝票だ。数えたらわかるけどなぁ……ちょっとペース間に合ってないんだよなぁ……去年はその枚数で、全国三位だったから、やっぱりそのペース以上じゃないと一位にはなれないぞ」
僕はファイルを手にしてパラパラとめくる。
「そこでだ、このあと一週間でペースを上げるために、去年買ってくれたお客さんにDMを送るぞ」
僕は名案だと思った。
オーナーが帰った後に早速、アルバイトにそれを指示した。
あと半月後のクリスマスに向けて始まっているクリスマス商戦というものに、僕もいつの間にか巻き込まれる格好になっていた。 店に流れる有線はいつもクリスマスソングになり、店に来るお客さんを見ては、クリスマスの色が日に日に濃くなっていくのを感じていた。
――年に一度、家族や恋人と過ごす日かぁ……――
他人事のようにそんなことを思っていると、後ろから呼びかけられた。
「店長さん、店長さん!」
僕は商品を陳列する手を止めて振り返りかえる。
そこにいた若い女性客は、近くの服屋さんだった。
常連さんで、何度も会話したことがあるお客さんだ。
「クリスマスイブに友達同士で、みんな集まってパーティーするんですけど、もしその日空いてたら来てくれませんか?」
突然の誘いに僕は驚いた。
「今のところ、予定空いてますか?」「うーん……」
僕が考えていると、女性客は続けた。
「あ、もし、奥さんとか彼女さんとか、予定入ってたら無理にってことじゃないんですけど、もし、来れるなら来て欲しいなって……どう……ですか?」
僕の頭の中にはまた、一瞬、彼女のことが浮かんだ。
――女々しい男だな――
僕は自分で自分に少し呆れ、可笑しくなった。
「ん?……どうですか?」
女性客は聞き直す。
僕は意を決したように答えた。
「わかりました。大丈夫です! その日は夕方に仕事終わりますから」
もちろん、それは彼女のためにシフトをかなり前から空けておいたからだ。
「ありがとうございます!」
女性客は晴れた表情で、僕に日時が記入されているチラシを差し出し、去っていった。
休憩時間になり、それを確認してみるとパーティーは十九時にスタートとなっている。
十九時と言えば、ちょうど前に彼女と約束をした時間だ。
しかし、今となればもう関係のない話だ。
何の因果か、僕はこの時、“忘れろ”と神様に言われたような気がした。
根雪になったのはそれから間もなく、月の中旬だった。
一度根をはると、それからは夜毎降る雪がどんどん積もっていく。
クリスマスまでもう一週間と少しだ。
その頃ケーキの予約受付が締め切られた。
送らせたDMからもリピートがあり、去年よりも予約件数を伸ばすことが出来たが、結局全国一位には一歩及ばなかった。
僕は事務所のデスクに就いて残務整理をしていた。
今回の予約伝票とオーナーが置いていった去年の伝票をファイリングして隅に置いた。
――あぁ……今回はダメだったかぁ……DMをもう少し早く送るべきだったかなぁ――
少し反省し、僕は部屋に戻った。
帰宅した僕は久しぶりに“オールウェイズ・ビー・マイ・ベイビー”を思い出した。
最後に電話した日以来、この曲を聴かなくなっていた。
曲に宿った思い出が、自然とこの曲を遠ざけていた。しばらく避けていたCDは少し埃をかぶり、奥の方に追いやられていた。
今、この曲を聴いてみようと思ったのは、諦めというか、彼女との出逢いを思い出として、整理出来たからだと思っている。
リモコンの再生ボタンを押す。
ステレオから流れる音は前から聴いているその曲だ。
心地よい……はずの……
しかし、僕はその曲に今、胸を締め付けられている……
――どうしてだろう……やっと聴けたのに……悲しく聞こえる――
僕は音楽を止めた。
もう一度、心の中を整理しようとした。
……答えは出ない。
僕はその晩、なかなか寝付くことが出来なかった。
そして、クリスマスイブ当日がやって来た。
さすがに、今日のお客さんはカップルばかりで、外の人通りも多く、店は大繁盛となっている。
特注のオードブルも飛ぶように売れ、僕はその中で嬉しい悲鳴をあげていた。
「店長さん! 今日大丈夫そうですか?」
あの女性客が来店していた。
「はい、大丈夫です、十九時ですよね?」
「そうですよ! 三十分前から開場してるから、早く着く分は良いですからね!」
女性客は今日を楽しみにしているのだろう、元気に答える。
「わかりました。仕事終わったらすぐに向かいます」
「あ、これ、会場に着いたら鳴らしてください! 私は早く着いてますので!」女性客は自分の携帯番号を書いたメモを僕に手渡す。
今日はとても天気が良く、日中の日差しは雪に反射して眩しく、素晴らしいクリスマス日和とでも言うべきほどだ。
やがて、夕方五時を過ぎる頃に学生アルバイト達が出勤してきた。
「おはようございます!」
学生アルバイトが事務所の僕に挨拶をする。
「おぉ、おはよう。今日は先にあがらせてもらうから、あと、しっかりやってくれよ! もし、何かあったら携帯鳴らしてくれ」
僕は引き継ぎをしたあと、事務所で、残務を済ませ、店を後にした。
外は、雪は降っていないものの、穏やかな夜で良い雰囲気だ。
時計を見ると、まだ十八時半だ。 会場は歩いても五分程度の近場だったので、僕は歩いて向かうことにした。
街頭ではお馴染みのクリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる。
僕がコートの襟を立てて歩いていると、幸せそうに腕を組んで歩く恋人達と何度もすれ違う。
僕はその度、穏やかな気持ちになっていく自分を感じた。
そして、静かに彼らの幸せを祈った。
会場が見えてきた。
入り口には大きなクリスマスツリーが楽しげに装飾されている。
会場に入ると、メモを開いてあの女性客に電話をかけてみた。
会場内を見渡すと百人くらいはいるだろうか、薄暗いフロアーから一人を探すのは難しいと思った。しばらく、受話器を耳にあて呼び出し音を聞いていると、やがてつながった。
「あ、着きましたか!? 一番奥のテーブルにいるんで来てください! 会場入ったところから、そのまま真っ直ぐ歩いてください!」
会場の音で聞き取り難かったが、言われた通り歩き、そのテーブルにたどり着いた。
そこには、あの女性客とその友達の男女が数人でグループを作っていた。
「メリークリスマス!!」
彼女達は僕を歓迎してくれた。
おかげで僕もすぐに彼らと溶け込むことが出来て、会話も盛り上がった。
「店長は彼女いないの? こんなところに来ちゃって」
仲間の一人が言う。
「いないよ、ここにいるのはみんな負け組かもよ」僕は笑いながら答える。
「そうだよな、そう言う俺もここにいるってことは負け組なんだよな……今年は」
もう一人の男がビールを飲みながら首を振って言う。
「今年“も”でしょ! あんたは!」
女性は間髪入れずに指摘をすると一斉に笑いが起きた。
「来年は勝ち組に入れるように精進するわ!」
話は絶えず、僕は時が経つのを忘れて、彼らとイブの夜を楽しんでいた。
そんな最中、ポケットの携帯電話の振動に気がついた。
着信は店からだ。
「もしもし?」
僕は瞬時に現実に戻った気がした。
「あ、店長すいません!」学生アルバイトは慌てて話す。
「店長! 今、お客さんがいるんですけど、明日のお昼に幕の内弁当を二十個、取り置きして欲しいとのことなんですが!」僕は考えた。
――明日は五個しか発注していない……直接業者に発注をかけるしかないな――
「わかった。注文受けていいから、お客さんの名前と連絡先を控えて置きなさい、今から店に戻るから」
僕はいったん店に戻らなければならない旨を彼らに伝え、会場を後にした。
急いで店に戻った僕は、すぐに特別発注の電話処理を済ませた。
僕は電話を置いた。
急に慌ただしさがなくなった事務所の空気に何となく“虚空感”を感じた。
少し散らかったデスクの前に立ち、もう少しこの静かな事務所で休んでいたいと思った。
一息ついている僕の元へ、学生アルバイトがやって来た。
「せっかくのイブに、仕事の電話ですいませんでした。」
アルバイトの二人は申し訳無さそうに言った。
「何を言ってるんだ、仕事の話だからOKなんだよ!」
僕はそれぞれの持ち場に戻るよう促した。
タイムレコーダーの時間は二十時四十分を表示していた。
事務所のドアを閉めて、小さくため息をついた。
デスクの隅に置いたケーキの予約伝票のファイルが視界に入ってきた。
僕はそれを何となく手に取り、パラパラと眺めてみた。去年と今年、二回とも予約してくれたお客さんと、リピートが無かったお客さんの伝票とを分けてみた。
――今年、予約しなかったお客さんは何が理由だったんだろうか――
僕は去年の伝票を見返す。
受付日、お客様氏名、連絡先、品物名、予約を受け付けた店員の氏名……この伝票に書かれている項目だ。
一枚ずつめくり、眺めている時、突如、全身に緊張が走った。
そして、僕は一枚の伝票から目を離せなくなっていた。
……その一枚は……
“彼女”のものだった。
目を疑った。
しかしそこには、確かにハッキリと書いてある。
彼女の名前も電話番号も……そして、それを受け付けたのが
………
僕だということも。
緊張で手が震える……
心臓の鼓動が早くなっている……
受付日は去年の十二月五日……僕らが出逢った春よりも四ヶ月も前の日
――僕らはもっと前から出逢っていたんだ――
その時、僕の頭の中に、あの彼女の言葉が浮かんだ。
「私も前からお兄さんのこと注目してましたよ!」
僕が初めて声をかけた時に、彼女が言った言葉だ。
――彼女は僕よりも、もっと前から僕を見ていたんだ――
目頭が熱くなっているのがわかった。
走馬灯のように、彼女との思い出が一気に甦る。
――彼女の笑顔しか思い出せない……僕が初めて声をかけた時……彼女はどんなに嬉しかったことか……なのに、そんな彼女を、店を飛び出し、タクシーに乗り込んだ。
僕は車の中で彼女の携帯電話にコールしようとした。
しかし、電源が入っていないのか、アナウンスが流れるだけだった。
――彼女は今、何をしてるんだ――
車の流れが悪い。焦る僕は窓の外を見た。
街はクリスマス一色になり、いつも足早な人々も今日だけはこの夜にそれぞれの幸せを感じていた。
「あぁ……雪、降ってきましたねぇ、お客さん。この渋滞なら歩いた方が早いですよ。待ち合わせしてるんですよね? 公園まで三十分くらいかかりそうですよ……」
向こうのテレビ塔の時計が見えるところまで来た。
僕は車を降りた。
真っ白な雪は降り止むことを知らぬかのように、
すべてを白く染めていく。
僕は走り出した。息が切れても、つまずいても、走り続けた。
何度も何度も、心の中で叫んだ。
――彼女に逢いたい!!――
―― 冬 ――
終
―― ホワイトクリスマス ――
恋人達で賑わう公園を走り抜ける。
途中何度も転び、コートも雪まみれになった。
周囲の笑い声や、視線も感じた。
それでも、今の僕には少しも気になるものではなかった。
やがて、約束したテレビ塔のふもとに辿り着いた。
立ち止まって辺りを見渡す。
――彼女は……いない――
わずかな期待は砕け散った。
――最初からいるはずなんてなかった……――
軽い放心状態だ。
張りつめていたものが一気に緩んだ。
僕は一点を見つめたまま立ち尽くした。
周りの音も声も何も聞こえない……聞こえるのは自分の肩でする呼吸と、脈打つ鼓動だけ……
少しの間、立っているだけで、髪や肩には雪が積もり始めている。
僕はそれを振り払うことはしない。むしろ、このまま曝されていたかった。
公園通りのイルミネーションはイブの夜を演出している。
僕はその風景に溶け込めないまま、唇を噛んだ。
彼女とのこれまでを、紐解くように一つずつ思い返し、視界が滲むのを堪えた。
――――その時、
同じ場所を行ったり来たりしている、一人の女性の姿を見つけた。
ホット缶コーヒーだろうか、それを両手で抱くようにカイロ代わりにしている。
そして、その人は見間違うことはない……
――――“彼女”だ。
――彼女がいる……帰って来てくれてた……――
無意識のうちに、僕はまた歩き出していた。
近づくと、気配を感じて彼女は振り返った。
そして、僕を見た。
僕はさらに近づき、彼女の前に立った。
彼女は寒さで頬と鼻を紅くし、少し震えている。
彼女が先に口を開いた。
「……遅刻ですよぉ」
白い息と一緒に彼女は笑いながら言った。
その笑顔はどこか頼りなく、いつもの力はない。
「……ごめん、また大遅刻だ」
僕の呼吸はさっきより落ち着いてきている。
「また……って? ……いつも遅刻してたのは私だよ?」
彼女が言い終えると、僕はすぐに答えた。
「いや、違ってたんだ……ずっと待たせていたのは僕の方だよ、最初から今日まで……」
風は無く雪はゆっくり二人の上に降り注いでいる。
彼女は僕の言葉の意味をすぐに悟ったように目を見開いた。
「えっ……」
一言発してから、彼女は僕の目を見たまま黙った。
「今までずっと、ずっと……見てくれありがとう……僕のこと、いつも応援してくれてたんだね……」 彼女の瞳には、今にもこぼれてしまいそうなほどの涙を湛えている。
その小さな体は震え、そのままうつむき涙を見せまいとした。
僕は笑顔で言った。
「もう大丈夫です! 今日からは僕が君を支えていくから! 今まで、こんな僕で、本当に大変だったね……でも、もう大丈夫だから!」
彼女の肩が小さく揺れている。
……泣いている。
彼女が初めて見せた弱い自分。
彼女の両手は、缶コーヒーをまだ抱きしめている。
僕は最後の一歩を踏み込んだ。
もう僕と彼女の間に距離はない。
そして、強く抱きしめた。
彼女は僕の胸の中で声を出して泣いた。
今までのすべての想いが一気に溢れ出した。 彼女は声を詰まらせながら夢中で話した。
「私、もうダメかと思ったけど、逢いたくて、ずっと好きで、好きで、」
僕は彼女の肩を掴み言う。
「結婚しよう! いつか君が帰って来たら、結婚しよう! 今度は僕がずっと待ってるから」
「……うん、結婚する。約束する」
彼女は顔を上げて言った。
真っ赤な目の泣き顔だ。
もう二人の間に強がりや、意地などない。
彼女の擦り切れた笑顔を、また抱きしめた。
長い間、ずっと想い続けていた者へ、愛を込めて。
雪は深々と注ぐ。
僕らは、このイブの景色の一部になった。
胸元で彼女はつぶやいた。
「ホワイトクリスマス……だね……」
「……うん」
「また来年も、ここに来よっか?」
「……うん」
「今度は遅刻しないでくださいね」
「はい、先に着いて、お待ちしています……いつまでも……」
僕らは歩き出した。
幅の違うふたつの足跡が雪に残る。
お互いに寄り添うように。
『えぇ! 本当ですか!? 私も前からお兄さんのこと注目してましたよ!』
―― ホワイトクリスマス ――
終
―― 終幕 ――
〜 一年後 〜
僕はすでに働いていた店を辞めていた。
今日、このクリスマスイブに、僕は一年前に約束した“同じ場所”に向かっている。
手にはあの時、彼女が握っていた缶コーヒーを握りしめて。
タクシーも同じ所で、途中で降りる。
ただ、今日は渋滞しているわけではない。
僕は両足をしっかり地面に下ろしてから、テレビ塔のふもとをめがけて、公園の一本道を全力で走り出した。
やがて、到着した僕は、辺りを見渡す。
――彼女はいない。
僕はそこに立ち、いつもより低い空を見上げ、地面に腰を下ろす。
自分の吐く白い息の行方を目で追っている。
その先にはまた、恋人達の寄り添う姿がある。
――クリスマスの風景だ……この中に、去年と同じ恋人同士の人がどれくらいいるんだろうか――
僕は煙草に火を点け、目を閉じた。
――今日ここに、彼女は来ない……いや、……そうじゃない、彼女は来れない……彼女は……もう、いないんだ……今年の夏、その生涯をすでに閉じているから……だから、来れないんだ……――
僕はしばらくこの場所に座り、思い出の彼女と出逢う。
缶コーヒーはもう冷え切っている。
彼女は笑いかける。
たくさんくれた笑顔と優しさ、そして勇気。
僕に“愛”というものを教えてくれた
――本当にありがとう……出逢えて、本当に良かった――
不意に寒気がして、僕はくしゃみをした。
僕は立ち上がり、コートの雪を払った。
『風邪ひくから、こんなとこにいたらダメですよ』
彼女の声が……、聞こえたような気がした。
僕はその声に、相変わらず照れた。
僕は生きる。壊れそうな自分でも、強く生きる。
だって僕は、彼女が愛してくれた人なんだから。
「ありがとう、また来年来ます」
心の中で僕は言った。
僕はくわえていた煙草を離す。
フィルターの先は見なくていい。僕の気持ちは分かっているから。
―― 終幕 ――
完