第一章第三話『亡き夫のためのパヴァーヌ』
「〝面白きこともなき世を面白く〟……妾の愛しい亡夫はかつてこう詠んだものよ」
真新しい朱塗りの柱が、夜闇に照らされ艶めいている。月も星も存在しうることのない、本来は暗闇であるはずの地國。美しい少女のような姿をしたこの小さな為政者もまた、御所中に溢れる朱塗りを照らす一粒の光だ。
「して……案外この世は苦界にあらず、面白きことに溢れているのやもしれぬな」
艶やかな黒髪をふたつに結いあげたうら若い彼女は、笑いながらコトン、と煙管を置き息を吐く。京の都に佇む御所の華。しなやかな指先に弄ばれた漆の艶が、朱の影をより深く染めあげる。女帝の鎮座する伽藍の堂に、煙管の煙が立ち上り天井へと薫るさまは、常闇の地國ではとうに見かけなくなった白い雲のようであった。
「梅処さま、いかがなさいました?」
赤灯のように赤くまばゆいこの場所は、いつなんどきも暗闇を照らし続ける太陽そのもの。そんな国政の要ともいえるこの御所で、梅処と従者の男が噂話に花を咲かせようとしている。
「なに、ほんの些事よ。猜からの電報じゃ。〝訳ありのノングラを保護したから力を貸せ〟とな」
まるで蝶でも追い払うかのような仕草で、梅処と呼ばれた女性は書簡をヒラヒラと弄んだ。彼女のたおやかな姿を目にした従者はうっとりとした表情を浮かべつつ、一国の主へと気軽に手紙を寄越すようなどこぞの馬の骨へと嫌悪感を示す。
「あいつは相変わらず勝手な男ですね。再び戦が始まろうとしているときに、一体何を考えているのでしょう」
「それは言うてやるな。あやつも含め、地國の尊い民草はみなそのような事実を知らぬ。ようやく訪れた平和が秘密裏に終わろうとしているなど、想像だにせんじゃろう。……信じたくもなかろう」
眉を顰めた梅処は、苛立ちを抑えるかのように再び煙管へ手を伸ばす。一国の長として想うのは、愛すべき地國に住まう尊い人々とその暮らしのこと。そして……世を憂い國のために命を散らした、亡き夫のことだった。彼女がノングラとして政権を握る理由はただひとつ、すべては彼の無念を晴らすためである。
30年もの間続いた天國と地國の領土争い。多くの血が流れ、為政者として辛酸を舐め続けた辛い時代が、和平条約の締結によりようやく終わったのがつい3日前のこと。梅処が國の長となってからの長い時間を思えば、この短い平和は息をするよりも一瞬のうちに終わったも同然だった。
誰がこのような顛末を心から望もうか。〝天國でクーデーターが発生し、王が乱心し、和平条約の破棄を宣言した〟という報を受けたばかりの今。再びの戦争の気配が忍び寄っている事実に、梅処は眉を顰めざるをえない。そんな様子を目にして胸を痛めているのだろう、彼女の従者も神妙な面持ちだ。
「心中お察しいたします、梅処さま。せっかく訪れた平和がわずか3日で……言葉もありますまい。天國でクーデターとは、猜の報せより遥かに重大な情報にも思えます」
「しかし信憑性には欠ける。定かではなかろうな。あちらの國は情報を統制しておる。和平条約を結んだとて、元・敵国である妾たちが手に入れられる情報はごく僅か。梅の花より小さきよ。しかも遅い。王が乱心?妙なことばかりじゃ」
「梅処さまご自身や、老中たちはどのようにお考えで?」
「そうじゃの……終戦と同時に天國の新しい王となったあの若者は、もともと軍人じゃろう。華麗なる王族から野蛮な軍人へと為政者が代替わりしたことで、反発した天國人の仕業というのが老中たちの見解じゃな」
和平条約締結の際は、天國から王自らが地國へと降り立ち、この御所で条約文書にサインをした。数日前の出来事である以上、梅処も従者もそのときのことはよく覚えている。
「ただ、国内のクーデターが我ら地國にまで波及して、和平条約の破棄を申し出られるとは予想外じゃった」
天國の王はこの和平条約締結から3日後、今から数えておよそ6日前に、天國にて何者かに瀕死の重傷を負わされたのだとか。なんらかの式典の最中だったらしいが、その後彼は和平条約の破棄を宣言。どうにも違和感がある。
王は自らを「シン」と名乗っていた。名前の意味は、不明だ。彼の感情の伝わってこない端正な横顔を、梅処は人形のように感じていたことを思い出す。
そして、相模によこした猜が、天國のノングラを保護したとの報せを受けたのがつい先ほどのこと……。時系列を整理した梅処は、とあるひとつの可能性に気がついていた。
和平条約締結のきっかけとなった〝ある事件〟のこと、そして天國でのクーデター、訳ありのノングラ。どうにもきな臭い。
「して東よ。和平条約が結ばれるきっかけとなった、天國の事件については覚えておろうな?」
梅処はゆったりと微笑みながら、猜からの書簡にふたたび目を落とす。梅処の忠実なしもべである従者の東は、姿勢を正して問いかけに答えた。
「当然にございます。天國の現国王…シン王の婚約者・次期王妃候補の自死。彼女の死によって、天國の現王は戦の愚かさに気がついたとされています。忘れるわけがありますまい」
「ではその婚約者の名前は?」
「確かミリアレニ……。正式なお名前は非公開ではあったと思います」
「ふふ」
梅処は笑うと、そのまま書簡を東へと手渡した。怪訝な表情で読み進めるうちに、東の表情が変わる。彼もまた、梅処と同じ推理に至ったのだろう。
「猜のやつが保護したノングラは〝ミリア〟と名乗ったそうじゃ」
「それは……」
「和平条約締結直前に密葬されたミリアレ二王妃の亡骸は、天國でも誰も目にしていないとの噂よ」
「臭いますね」
「そうじゃ、臭う。実に臭う、偶然にしてはできすぎている。ノングラの腐った臓腑よりも、妓楼の厠よりも臭い」
あぁ臭い臭いと言いながらも、梅処はどこか興奮しているように見える。そのままニヤリと笑うと、詩でも吟じるかのように語り出した。
「妾の推理はこうじゃ」
御所から滅多に出ることのない梅処にとって、自身の考えや価値観を東に共有することはもはや、ルーチン化したライフワークの一環なのだ。
「結婚するはずだった女に自殺されたシン王は、悲しみのあまり彼女をノングラとして無理やり生き返らせた。その後素知らぬ顔で和平条約を締結するも、元軍人から国王に成り上がったシンとノングラの妻を快く思わない天國の民たちは多いはず。結果、クーデターが起こる。それが3日前のことじゃな」
「ふむ……」
「王はクーデターにより瀕死の重傷を負い、民草に再びの戦争を促される。ついでに、王の心を乱す邪魔な王妃はそのまま我が領土……地國へ突き落とされた。3日前に猜が偶然、落下した死にかけの王妃を拾った。どうじゃ?」
「梅処さま、筋は通っておりますが少々飛躍しすぎでは?」
「古代の民話にあったじゃろ、天空の城から王女さまが落ちてくる御伽話が。あれは実によい。して東よ、妾の推理を疑うのかえ?」
「いえ!断じてそのようなことは」
東をくすくすと揶揄いながら、梅処は嬉しそうに話を続けた。
「猜が保護したミリアというノングラには、手足がなかったらしい。それはそれはむごい姿をしており、猜も最初は死体だと思ったそうな。ノングラを殺す術がわからぬ民たちによってさんざん嬲られ手足を切り落とされた後、死に至らしめるつもりで突き落とされたのだとしたら辻褄があう」
「まぁ、そうですね」
「だがノングラはそんなことで死にはせん。ノングラは、宝玉を失わないかぎり二度目の生を生き続ける亡霊じゃ。……妾のように」
梅処のその笑顔が、〝ちょうどいい交渉の道具を得られそうなときの顔〟だと、東にはよくわかっている。この女性は可愛いらしい國のシンボルでありながら、あくまでも為政者なのだと彼は思い知らされた。
「さて。再び戦の火種をばらまこうとしている愚かな天國人とその王のために、妾は彼女を保護しようと思う。東よ、猜と彼女に京までの足を用意せい。道中、けっして彼女がノングラだと悟られることなく、無事に旅を終えられるように手筈を整えるのじゃ。天國が戦争の準備を再び始めることになれば、もはや一刻の猶予もなかろう。手札は多ければ多いほど善い」
東にとって梅処は〝魔女〟などではなく、永遠の想い人であり、命を預けた唯一の王であり、絶対に手が届くことのない美しい星のような女性だった。梅処のために人生のすべてを使うこと。それが東の本懐であり、使命でもある。
しかし今度ばかりは、東も何故か気が乗らない。せっかく平和が訪れたばかりだというのに、再び戦の準備が始まる憂鬱さは筆舌に尽くしがたいものだった。全ては梅処のため、國のため、と自己暗示をかけながら腰をあげる。梅処の吸っていた煙管の香りが、鼻の奥をゆっくりかすめていった。
東自身も気がつかぬうちに、御所の庭園に咲き誇る季節の花々も梅から桜へ移ろっている。梅処の額に痛々しく埋め込まれた宝玉が煌々と輝き続けるさまに、東はこの國の明るい未来と梅処の幸せを願うほかない。
「ノングラ同士は運命が引き合う」。そう教えてくれた、かつての梅処のあどけない笑顔。ふいにその温もりを思い出した東は、彼女の愛らしい顔をじっと見つめた。
梅処の愛を世界でたった一人享受した男は、もうこの世のどこにもいない。長いまつ毛に透き通るような白い肌。華奢なうなじから流れる、豊かな黒い髪。東にとってはその全てが、この暗闇の国を一人で背負うにはあまりにも儚く、そして美しすぎるもののように思えていた。




