しごでき令嬢は婚約破棄されても、次の仕事があるので失礼します
真紅の絨毯に、ワイングラスの触れ合う軽やかな音。夜会場の中央で、王国でも名高いフォースター伯爵家の嫡男ダレンとその婚約者が並び立つ光景――本来であれば、それは祝福の象徴であるはずだった。
だが、その場の空気は違っていた。
「リディア・アーノルド。婚約を破棄する」
視線を集める中心に立ちながら、公爵令嬢のリディア・アーノルドは聞き返した。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
ざわめきの中、彼女はごく普通の問いを返す。だが、ダレンの周囲には取り巻きの若い貴族たちが既に集まり、得意げにうなずき合っていた。
「笑われたからだ。お前のせいで、私は恥をかいた」
「恥……、と申しますと?」
「“フォースター家の跡取りは女を働かせている”と、他領の使者に嘲笑されたのだ。男として情けないと!」
――あぁ、やはりそういうことか、とリディアは静かに理解した。
「女が働くなど、みっともない。お前は本来、伯爵家の未来を担う身。家庭に入り、社交界を支えるべきだ。それを忘れている!」
ダレンの言葉には、確信と正義が宿っていた。彼は心からそう信じていたのだ。
「……つまり、わたくしが“働いている”ことが問題なのですね」
「そうだ!」
即答。自信満々。周囲の一部が、同調するように頷いた。
「跡取り息子に恥をかかせた罪、万死に値するのでは?」
「そうとも! 女は控えめであればいい!」
聞こえる、聞こえる。相変わらずの偏見。
いや、今に始まったことではない。
リディアは、生まれつき計算処理が早かった。数字、資料、契約文。そういった教養のある家で育った。
だから、婚約者であるダレンの推薦で、彼女は伯爵家領政局の財務補佐官として働いていた――正式ではなく、女性が表に出ないための裏方という扱いだったけれど。
それでも、領地の赤字は三年ぶりに黒字転換し、港湾取引はボチボチと上手くいっていた。
彼女自身も評価はされていた。ただし、それはすべて記録上ではフォースター家の実績として処理されたのだが。
しかし、それでも構わなかった。彼女はただ、仕事が好きだったから。
そして何より、就労機会の少ない女性にとって、仕事ができるという事実そのものが、奇跡のようなものだったからだ。
周囲に同年代の働く女性などほとんどいない。
多くは婚約し、家庭に入り、社交の輪に組み込まれていく。それが当然であり、逸脱すれば「変わり者」と指を差される世界。
けれどリディアは、朝に積み上がった書類の山を見て胸が高鳴り、終われば達成感を覚え、交渉が成功すれば一日中機嫌が良くなった。
仕事がある――その一点だけで、生きている実感すら得られたのだ。
だからこそ――この婚約破棄は、彼女にとって痛手ではなかった。
「承知いたしました。婚約破棄、確かにお受けしますわ。それでは忙しいので失礼します」
リディアは背筋を伸ばし、丁寧に礼を執った。
驚愕したのは、むしろ周囲のほうだった。
「な、何をあっさり……!」
ダレンは目を見開き、狼狽を隠せない。
その反応こそ、彼がリディアを“ただ従順な令嬢”としか認識していなかった証だ。
「ただ、一点だけ申し上げておきますね」
リディアは柔らかな笑みを浮かべ、淡々と続けた。
「わたくしが請け負っていた案件の引き継ぎは、どなたか有能な方にお願いします。港湾商会との契約更新、領地税制の改訂案、来月の歳入計算――締め切りはそれぞれ明日から来週にかけて、でしたかしら」
「そ、そんなことまでお前が!?」
「はい。ダレン様のご命令で」
会場がざわり、と揺れた。
ダレンの顔がみるみる青ざめていく。
取り巻きたちも、状況を理解できずに目を泳がせた。
「では、失礼いたしますわ。わたくし、次の職探しがございますので」
その静かな宣言は、ある者にとっては、祝宴会場の空気を切り裂く一撃となった。
婚約破棄を宣告した張本人であるダレンは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
彼は、リディアが泣き崩れ、縋りつき、謝罪でもすると思い込んでいたのだろう。
だが現実は、あまりにあっさりしている。
むしろ彼女のほうが、まるで長年の重荷を降ろしたかのような清々しさがあった。
視線を背に、リディアは優雅に踵を返す。
その足取りは、驚くほど軽かった。
◇
翌朝。リディアが家を出ると、街はいつになく騒がしかった。
まだ朝靄の残る石畳の通りで、新聞売りの少年たちが声を張り上げている。
『北方商会、フォースター家との契約破棄を表明!』
その見出しは、前夜の華やかな夜会とは正反対の緊迫感に満ちていた。
行き交う商人たちは眉をひそめ、噂好きの婦人たちは扇子で口元を隠しながらひそひそと囁き合う。
結局のところ、フォースター伯爵家の雑務の三割近くは彼女が引き受けていたのだ。それはリディアが生まれつきの処理能力とマルチタスクに長けていたお陰でもあるが、彼らも彼らで、彼女の献身に甘えていた。だから、業務が回らなくなったのだ。
急ぎの書類は机に積み上がり、契約更新の期日は迫り、帳簿の数字は誰も説明できない。
それなのに、当主と跡取りは「誰かがやってくれるだろう」と高を括っていた。
昨日まで当たり前のように処理されていた仕事が、今日は誰にも扱えない厄介な案件へと変わる。
それは偶然でも運命でもなく、単なる必然だった。
なんでもできる便利な存在は、いなくなって初めて気づかれる。
領地の者たちも薄々察し始めていた。
近頃の改善は、伯爵家の手腕ではなく――名も公にならぬ一人の令嬢の働きによるものだったのだと。
そんなリディアはというと、焼きたてのパンをかじりながら、街のざわめきを少し離れた場所から眺めていた。
張り詰めた空気とは対照的に、頬張った生地は驚くほど柔らかく、香ばしい。
「……おいしいですわ」
小さく漏れた感想は、誰に聞かれることもなく朝の空気に溶けていく。
彼女は来月からは、王都へと働きにいくつもりだった。
実のところ――既に声を掛けてもらっていたのだ。あの婚約破棄を契機に、財務改善の噂を知った王都の商会が、水面下で彼女に興味を示していたのである。
あとは、正式な返事をするだけ――それが今のリディアの唯一の予定だった。
王都は彼女の住んでいた地方とは違い、女性の社会的地位が比較的高いらしい。
商業ギルドや文官局には女性職員も珍しくなく、労働にも寛容的な所が多い――と、以前から噂に聞いていた。
もちろん、偏見が完全に消えたわけではないだろう。
だが、“働きたい”という意志そのものを否定されない場所があるというだけで、十分だった。
リディアはパンを包んでいた紙を丁寧に折りたたむと、薄く微笑んだ。
「ええ、きっと大丈夫ですわ」
その声には不安より期待のほうが大きかった。
新しい仕事。新しい友人。新しい暮らし。
未知だらけなのに、なぜか胸が躍る。
彼女は顔を上げる。昨日までとは違う未来が、もうすぐそこまで来ていたのだった。
仕事の引き継ぎという概念はないです。




