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「王女失踪事件の真相――逃避行の果てに……」

作者: カトラス

 王女が消えた。  


 その報せが飛び込んできた瞬間、胸を締めつける焦燥に思わず息を呑んだ。

 だが、吐き出す息には震えを含ませてはならない。玉座の間には大臣たちが列をなし、傍らの貴族たちは鋭い眼差しで私を観察している。彼らの後ろには、この国の未来を託す民衆の幻影すら重なって見えた。王として、夫として、私は取り乱すわけにはいかない。


 模範的な夫を演じるのは、もう慣れたことだ。舞台の上で脚本をなぞる役者のように、顔を作り、声を整え、口にすべき台詞を吐き出す。  

「心配するな、必ず王女を見つけ出す。妻を、国を守るのはこの私だ」  

 そう口にした声はよく響いた。

 だが胸の奥では、焼け付くような焦りが暴れ回っていた。なぜだ、なぜ彼女は……。私のもとから姿を消す必要など、どこにあったのか。


 王宮の回廊を渡る風は冷たく、緋色の絨毯を踏みしめる足音がやけに重く響く。外庭では兵士たちが慌ただしく駆け回り、似顔絵を抱えた伝令が次々と馬を駆って城門を飛び出していく。そのたびに鉄蹄の音が夜空に弾け、胸の不安をさらに煽った。


 私は自らの手で描かせた、彼女の微笑む姿を映した肖像画を見つめた。

 黄金の髪、優雅に垂れる睫毛、誰からも愛された慈悲深き王女の微笑み。だが今、その笑顔は額縁越しに私を嘲笑っているかのように見える。


 ――探し出さねば。貴族の誰一人として、民の誰一人として、王女を見失った王を愚か者と呼ばせてはならない。夫としての誓いを果たすためではない。これは義務であり、責務であり、私が背負った王冠と同じ重さを持つ呪いなのだ。


「陛下、どうかご自愛を……」と老臣が囁く。私は首を振り、毅然とした声音を返した。  

「心配は無用だ。私が必ず彼女を連れ戻す」  

 その言葉にどれほどの真実味が宿っていたのか、自分でも分からない。ただ、演じるしかなかった。


 心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。表情を崩すな。弱さを悟られるな。私は必死に己に言い聞かせる。窓の外、暮れゆく空には紫雲が流れ、今にも夜の闇が王宮を覆い尽くそうとしていた。石造りの壁は冷たく、燭台の炎は頼りなく揺らめく。まるで王宮全体が不安の影を映し出しているようだった。


 どれほど取り繕っても、胸の内で膨れ上がる不安は隠しきれない。それでも、私は「理想の王子」を演じ続ける。誰もが望む姿を示し続けねばならないのだ。


 愛する妻を取り戻すために――いや、王の権威を守るために。



 私はセリーナ。かつてはただの男爵家の令嬢で、好きなドレスを纏い、気まぐれに舞踏会へ顔を出し、煌めくシャンデリアの下で好き勝手に笑い、囁き、踊ってきた。誰からも「自由気ままなお嬢様」と呼ばれていたけれど、それでよかった。人生は私のものであり、誰のものでもないはずだったのだから。


 けれど、あの夜――王子アルベルトが私を見初めた瞬間から、すべてが狂った。

「君は……光のようだ」

 あの瞳で見つめられた時、周囲がざわめき、翌日には社交界の隅々まで私の名が轟いていた。伯爵夫人たちが囁き合い、舞踏会の楽師までが私に視線を注いだ。やがて訪れた盛大な婚礼。王宮の鐘が空を震わせ、花弁が風に舞い、無数の民衆が広場から喝采を送った。

「おめでとうございます、セリーナ様!」

「まさに世紀のロイヤルウェディングだ」

 民衆の声は嵐のように降り注ぎ、私は黄金の冠を戴いて微笑んだ。だが、その唇の裏側で私は呟いていた。――これは祝福ではなく、鎖だ。


 王宮に入ってから、自由という言葉は急速に色を失った。大理石の廊下に響く靴音は、私を追い詰める足枷のように重い。金糸で縫い込まれたカーテンは、外の風景を遮る檻の布。

 継母は毎日のように説教を繰り返す。

「王妃ともなれば振る舞い一つにも国の威信がかかるのです」

「あなたの笑顔ひとつが、この国の未来を左右するのですよ」

 私は「はい」と答えながら、心の中では毒づいていた。笑顔一つで国が救えるなら、兵も税も必要ないでしょうに。


 最初の数週間はまだ良かった。アルベルトも隣にいて、広間で民衆の前に立つと私の手を取って見せた。

「君こそ、この国にふさわしい王妃だ」

 甘い言葉が耳をくすぐった。けれどそれも長くは続かない。二か月もしないうちに、彼の視線は私から離れ、別の女たちへと吸い寄せられていった。舞踏会に招いた伯爵令嬢に囁き、劇場で歌姫に微笑み、しまいには侍女にまで手を伸ばす。夜ごと、私の隣にあるべき温もりは、別の部屋へと消えていった。


「セリーナ様、どうか民にお声を」

「王女様、慈愛を――」

 周囲の者たちは、私に「慈悲深き王女」を求め続ける。病の子供を抱き、穏やかに微笑む姿を。夫の不実に眉一つ動かさず、清らかな心で国を支える姿を。

 ……笑わせる。そんなもの、私のどこにある? 本当の私は嫉妬に狂い、皮肉に満ち、心の奥底には悪意しかないのに。


 演じるのも反吐が出る。唇の裏で何度も血が滲むほど噛み殺した。――もう限界。私の心はとっくに決壊していたのだ。


 夜半、王宮は深い闇に沈んでいた。燭台の火はすでに消され、静まり返った回廊を、私は忍ぶように歩いていた。絹の裾が石床に擦れる音がやけに響き、心臓の鼓動と重なって耳を打つ。胸の奥で、焦燥と昂揚がないまぜになり、全身を震わせていた。


 部屋の片隅に積まれた宝飾品の数々――冠、首飾り、指輪、耳飾り。かつては私を“光の王女”と讃えるために用意された虚飾の数々を、今はただの生活の糧として粗末な袋に詰め込む。織り込まれた金の糸がほつれ、宝石の冷たさが指先に食い込む。だが構わない。これさえあれば、当面は生き延びられる。王宮の檻から抜け出すためなら、何も惜しくはなかった。


 姿見の鏡に、見慣れた顔が映っていた。清らかな慈愛を湛えた“王女セリーナ”の微笑み。民が崇め、貴族が期待し、王が利用した虚像。私はその頬に手を当て、唇を吊り上げた。  「おやすみなさい、慈悲深き王女。もうあなたは必要ないわ」


 白粉を塗り重ね、濃い影を目元に落とす。紅は薄く引き、庶民の娘のように見えるよう調整した。豪奢なドレスは脱ぎ捨て、地味な旅装に身を包む。変装を終えた私を見ても、もう誰も“王女”とは気づかないだろう。偽名が要るかもしれない。……そうね、セリーナではなく、“ミレーユ”とでも名乗ろうか。自由を手にした女にふさわしい、軽やかな響きを持つ名前を。


 袋を背に担ぎ、厩舎へと向かう。愛馬ルナが鼻を鳴らして待っていた。月光を浴びた栗毛が艶やかに光り、黒い瞳が私を試すように覗き込む。私は手綱を握りしめ、鞍に跨った。夜風が頬を撫で、緊張と解放が入り混じった震えが走る。


 ――これが、私の本当の自由。誰の目も、誰の鎖も、ここには存在しない。だが同時に、背後から迫る影を確かに感じていた。追っ手は必ずやってくる。アルベルトは私を探し回るだろう。王宮に残した虚像の殻が、いずれ燃え尽きることを知りながら。


 ルナの蹄が地を蹴り、私は夜の闇の中へ駆け出した。月明かりだけが、私の逃避行を祝福していた。



 王女セリーナが姿を消してから、もう三か月が経った。

 だが私は探し続けるふりをするのにも飽きていた。民の前では必死に妻を想う模範の夫を演じながら、夜になればこの下町の娼館へ足を運ぶ。重たい扉を押し開けば、甘ったるい香と笑い声が絡みつき、そこにいる女たちは皆、私を「アルベルト様」と崇め立てる。


 絹のソファに身を沈め、片腕に娼婦を抱き寄せる。杯の葡萄酒を煽り、赤い滴が唇を濡らす。女たちは猫のように私に寄り添い、媚びを含んだ声で囁いた。  

「王子様、まだ王女様をお探しなのですか?」  

 私は笑い声をあげた。底冷えするような嘲笑を。  

「探す? あんな女のどこが惜しい? 民は“慈悲深き王女”だと持ち上げたが、実際は仮面を被っただけの女狐だ」


 娼婦の一人がぎこちなく笑みを浮かべる。私はそれすら気に入らず、彼女の顎を掴み上げ、唇を歪めた。  

「セリーナはいつだって私を縛りつけ、王宮の檻に閉じ込めようとした。母のように口やかましく、理想の王妃を演じろと強いた……! 笑わせる。私が求めるのは従順な女だ。目を伏せて私の機嫌を取る、ここにいるお前たちのような女だ」


 葡萄酒の杯を床に投げつけ、赤い液体が絨毯に飛び散った。女たちは小さな悲鳴を上げるが、誰も逃げようとはしない。王子の寵愛は金と同じ、彼女たちにとっては命綱なのだから。


 私は乱れた息を吐きながら、再び毒を吐いた。  

「民は今も“セリーナ様は奇跡を与えるお方”などと囁いているらしい。笑止千万! 奴らは何も知らぬ愚か者どもだ。王女など、ただの飾りだ。玉座の隣で微笑む人形にすぎなかった」


 娼婦の一人が恐る恐る言った。  

「……ですが王子様、王女様は……きっとお戻りになるのでは」  

 私は椅子を蹴り上げ、声を荒らげた。  

「戻るものか! 戻ったところで私は二度とあの女を抱きしめはしない! いや、戻ればその首を締め上げてでも王宮に縛りつけてやる!」


 荒い呼吸が喉を焼き、胸の奥に澱のような怒りが溜まっていく。娼館の薄明かりが滲み、揺れる灯りが私の影を壁に大きく映し出す。それは、もはや“理想の王子”ではなく、欲望と憎悪にまみれた男の醜い影でしかなかった。



 逃げ出してから三か月。

 宿屋の安い寝台の軋む音にも、もう慣れてしまった。藁を詰めただけの枕に顔を押しつけ、薄い毛布に身を包み、窓の外から聞こえる犬の遠吠えに耳を塞ぐ。厚い羽毛布団に包まれて眠る夜なんて、夢の中にしか存在しない。今の私は、街から街へと渡り歩く流浪の女。王妃だった頃の面影など、とうに剥ぎ捨ててきたはずだった。


 夜になると、私は決まって酒場へ向かった。木の扉を開ければ、蝋燭の煙と汗の匂いが混じり合い、笑い声と怒号と賭け札の音が入り乱れる。安酒の瓶は床に転がり、粗末なテーブルの上には骨付き肉の残骸が散らばっている。そんな喧噪の中で、私は杯を掲げ、大仰に笑った。

「ほら、もっと飲みなさいよ! 遠慮なんて無用だわ!」

 周囲の男たちが歓声を上げる。

「おい、今夜は女神が降臨したぞ!」

「セリーナ……いや、ミレーユ様! あんたに乾杯だ!」

 私は彼らの言葉を聞き流しながら、懐から金貨を取り出しては放り投げ、酒や料理を次々と注文した。袖にすがる男たちはひものように私の足元にまとわりつき、媚びた笑みを浮かべる。だが彼らが欲しいのは私ではない。私の金と、今夜だけの気まぐれな愛情。それでいい。私だって、彼らを愛してなどいない。翌朝、冷え切った寝台から身を起こせば、彼らの名すら覚えていないのだから。


 かつてあれほどあった宝飾品も、もうほとんど底をついた。袋の底に残るのは、安っぽい首飾りが一つか二つ。手に取れば石は欠け、金細工も剥げかけている。王宮に溢れていた煌めきの山が、こんなにも早く砂のように指の間から零れ落ちていくとは。笑っては酒を煽り、男の腕に縋りついていた夜は、結局のところ虚しい浪費だったのかもしれない。


 最近は、杯を口に運ぶたびに、喉の奥に吐き気がこみ上げることがある。ある夜、隣の男が肩を抱きながら囁いた。

「どうした、顔色が悪いぞ。酒に飲まれたのか?」

 私は笑顔をつくって首を振る。

「ちょっと……飲みすぎただけよ」

 本当は違う。吐き気は朝にもやってくる。太陽が昇ると同時に胃が反乱を起こし、私は洗面桶にしがみついて何もない空気を吐き出す。身体が勝手に震え、汗が滲む。

 ……もしや、と思うたび、背筋を冷たいものが這い上がってくる。あの王宮で過ごした最後の日々、アルベルトの影がまだ私の中に残っているのではないか。


 鏡に映った自分の顔を、私は直視できなかった。酔いに赤く染まった頬の下で、唇は震えていた。

「私の自由は……こんなものだったの?」

 囁いた声は酒場の喧噪にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


 もう隠すまでもない。私は妊娠している。

 最初は疑いだった。吐き気、食欲の消失、だるさと眠気。酒のせいだと笑い飛ばしてきたけれど、もう誤魔化しようがない。朝日が射し込むと同時に吐き気が込み上げ、昼下がりは身体が鉛のように重くて起き上がることすら億劫になる。食卓に並んだ肉の匂いだけで喉が拒絶を示すのに、柑橘の酸っぱさだけは無性に欲しくなる。……それはまさに、あの噂に聞く“つわり”そのものだった。


 袋の底に残っていた最後の金貨を、私は昨日の夜に投げ出してしまった。酒場での大盤振る舞いも、今となっては虚ろな見世物だった。金が尽きれば、誰も私に群がらない。甘い囁きをくれる男も、袖に縋って媚びるひもも、みな蜘蛛の子を散らすように消えた。宿屋の主人ですら、冷たい目で私を見下ろし、代金を催促するようになった。


 そろそろ、この生活にも飽きたのだ。刹那的な自由は確かに甘美だったけれど、酔いが醒めればただの空虚。寝台の上で冷え切ったシーツに包まれて目を閉じると、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる夜が増えていった。


 だが――妊娠は決して悪いことではない。

 むしろ王宮にとっては最大の吉報だ。私は知っている。王家に世継ぎが生まれることがどれほどの意味を持つかを。人々は喝采し、王妃は誉め称えられ、母として玉座の隣に座る資格を得る。かつて王妃であった私は、その構図を誰よりも理解している。皮肉だわ。逃げ出したはずの私の身体が、王宮の望んだ未来を勝手に孕んでいるなんて。


「私が母になる、ですって……?」

 思わず笑い声が漏れたが、その声はどこか震えていた。自由を求めて駆け出したはずなのに、今また新しい鎖を手にしている気がしてならなかった。


 夜明け前の空はまだ薄暗く、冷たい霧が石畳を覆っていた。私は愛馬ルナに跨り、胸の奥に渦巻く重苦しい決意を抱えながら、伯爵邸の前に辿り着いた。王宮から逃げ出して三か月、放蕩に明け暮れた日々は終わりにしなければならない。そろそろ戻る時だ。戻らねばならない。私の腹の奥に芽生えた命が、嫌でもそう告げていた。


 ルナの鼻息が白い霧となって宙に溶ける。私は拳を握り、門を叩いた。乾いた音が冷えた空気に響き渡る。しばらくして、厚い扉が開き、メイドが怪訝そうな目をこちらに向けた。旅装に身を包み、髪も乱れた私を見て、すぐには気づけなかったのだろう。だが、名を告げると、彼女の顔が青ざめた。  

「……セリーナ様……!」  

 慌てて奥へ駆けていき、やがて伯爵本人が現れた。


 「どうした、セリーナ……いや、セリーヌ。こんな時刻に、しかもその姿で……」  

 その瞳に宿るものを、私は見逃さなかった。

 あの日まで、異常なまでの愛情を私に注いでいた男。

 私が王子アルベルトに見初められ、王妃の座に就いた後も、消えぬ未練を抱え続けていたのだろう。欲望と執着が入り混じったその目が、私の姿を貪るように追っていた。


 私は顔を伏せ、声を震わせるふりをした。  

「王宮では……理不尽な目に遭いました。継母にも、王子にも耐えられなくて……気づいたら、ここへ来てしまっていたのです」


 嘘だ。すべて計算された言葉。伯爵を利用するために私はここへ来た。王宮に戻るための勝ち筋をつける、それだけが目的だ。伯爵の心を揺さぶり、私を庇護させ、支えさせる。そのためならば、いくらでも弱々しい演技をしてやろう。


 伯爵は一歩近づき、手を差し伸べてきた。  

「なんということだ……。セリーヌ、そなたがそんな思いをしていたとは。王子はなんと愚か者か。だが安心せよ、私がここにいる。そなたを守るのは、いつだって私だ」


 その言葉を聞いて、私は唇の裏で冷笑を噛み殺した。守る? いいえ、私は守られる気などない。ただ、利用するだけだ。伯爵の未練を、伯爵の欲を、私のために使い潰すだけ。王宮に戻るための道筋が見えた瞬間、胸の中で黒い炎が静かに燃え上がった。


「……ありがとうございます、伯爵様」  

 涙を浮かべる演技で頭を垂れる。伯爵は満足げに微笑み、私の肩に手を置いた。その重みは不快でしかなかったが、私は耐えた。今は飲み込む時だ。お腹が大きくなる前に、やるべきことがある。その算段を胸に秘めながら、私は伯爵家の屋敷の奥へと足を踏み入れた。



 王女が見つかった。その一報を受けたとき、胸の奥に走った感情をどう言葉にすればよいのか分からなかった。安堵か、苛立ちか、それとも恐怖か。三か月もの間、民の前では必死に探し続けるふりをしてきた。だが心のどこかで「もう戻ってこなくてもいい」とさえ思っていたのだ。そんな王女が、国境沿いの伯爵家にいると聞かされるとは。しかも、メイドの口から語られたのは信じがたい話だった。


「王女様は……三か月前から、伯爵に拉致され屋敷に監禁されておられたのです」  

 その言葉に、私は眉をひそめた。拉致? 監禁? あの女が? 信じ難い。

 だが、周囲の者たちはその言葉を真実として受け止め、憤りを露わにしていた。私はただ黙って頷き、すべてを呑み込む役を演じるしかなかった。


 数日後、王宮の大扉が開き、やつれ果てた王女セリーナが姿を現した。頬はこけ、唇は乾き、腕には青痣が残っている。豪奢なドレスに包まれていた頃の面影は薄れ、ただの弱々しい女としてそこに立っていた。私の前に進み出ると、彼女の瞳から涙が溢れ落ちた。だが言葉は少なく、喉の奥で押し殺すような嗚咽だけが漏れる。


「……セリーナ」  

 私はその名を呼ぶしかなかった。どの面下げて戻ってきたのだ、という冷たい思いが胸をかすめた。裏切り、逃亡し、私を愚弄した女。それが今さら王宮に戻ってきて、涙を浮かべて私を見上げるとは。怒りとも失望ともつかぬ感情が、胸を焦がした。


 だが、次に吐き出された彼女の言葉が、すべてを塗り替えた。  

「……あなたの子を宿しています」


 耳を疑った。だが、彼女の瞳は嘘を映してはいなかった。私の子――王家の世継ぎ。待ちに待った存在。心の奥底から突き上げてきたのは、怒りでも疑念でもない、狂おしいまでの歓喜だった。


「セリーナ……よく戻った」  

 私はそう告げ、彼女の肩に手を置いた。涙で濡れた頬が震え、彼女は言葉を続けなかった。だがもう十分だった。たとえどんな過去があろうと、王妃の腹に我が子が宿っているとなれば話は別だ。私はすべてを水に流す決意を固めた。王家に世継ぎをもたらす女を、今ここで拒む理由などどこにもなかった。



 伯爵家の当主を陥れるのは、私にとって難しいことではなかった。なぜなら彼は、一度は手に入れ損ねた女――私――が今、すぐ傍にいるのだから。一度だけ本懐を遂げさせてやれば、あとはもう夢中でむさぼる獣に変わる。理性など簡単に失われ、私の指先ひとつで転がせる存在となった。


「セリーヌ……ようやく私のものになってくれたのだな」  

 伯爵はうっとりとした声で囁いた。その瞳に宿るのは歪んだ愛情と執着。私は甘く微笑みながらも、心の内では冷たく計算していた。


 そして私は知っていた。伯爵には貴族の多くが秘める、醜悪な性癖があることを。貧しい農民の娘をメイドに仕立て、地下室で弄ぶこと。

 そこで嗜虐を満たすための拘束具の数々が並んでいることを、私に面影の似た若いメイドが震えながら打ち明けてくれたのだ。私は彼女に約束した――「王宮に戻った暁には、あなたを女官長にしてあげる」と。その一言で彼女は私に忠誠を誓い、秘密の地下室へ導いてくれた。


「奥様、これを……」  

 彼女が差し出したのは、毒薬の小瓶だった。私は微笑み、彼女の手を握った。  

「よくやってくれたわ。必ず報いてあげる」


 その夜、私は伯爵の杯に毒を垂らした。芳醇な香りに隠され、毒は葡萄酒と溶け合う。伯爵は何の疑いもせずにそれを煽り、頬を紅潮させながら私に口づけを求めてきた。だが次の瞬間、喉を押さえて苦悶の声を漏らし、床に崩れ落ちる。私は彼を見下ろしながら、冷ややかに囁いた。  

「あなたの愛は、利用するには十分すぎるほど強かったわ」


 伯爵が息絶えるのを確認すると、私は刃物を取り出し、自らの腕や足に浅い傷をつけた。流れる血は、哀れな王妃を演じるための小道具にすぎない。痛みよりも、これから訪れる勝ち筋を思えば胸の高揚の方が勝っていた。


「さあ、始めましょう。哀れにも伯爵に囚われ、必死に逃げ出してきた王女の物語を」


 私は忠実なメイドとともに、涙ながらに王宮へ戻る芝居を整えていった。伯爵を陥れるのは簡単だった。そして王宮に戻るための舞台は、これで整ったのだ。



 あれから幾月もの時が流れ、私は無事に出産を終えた。王宮中が待ち望んでいた男子の誕生。産声が石造りの回廊に響き渡った瞬間、侍女たちの涙ぐむ顔と、歓喜に満ちた臣下たちの声が広間を包み込んだ。王子アルベルトはその子に「ジャスティス」と名を与えた。正義の象徴のような響きを持つその名に、皆が頭を垂れ、感謝と祝福の祈りを捧げた。王国の未来が今ここに生まれたのだ、と。


 だが、私の胸に宿った思いは彼らとは違う。眠りについた赤子の顔を覗き込むと、そこに映るのはアルベルトの面影ではなかった。どちらかと言えば、失踪直後に酒場で知り合った粗野な鍛冶屋の顔立ちによく似ていた。無骨な眉、厚い唇。女を抱くことだけが能のような男の影が、この小さな頬に刻まれている気がした。


 けれども、そんなことはこの王家にとってはどうでも良かった。重要なのは“跡継ぎ”であるという事実だけ。血筋も、真実も、愛情も、この世界ではすべて無意味。玉座の継承を保証する駒さえあれば、民も貴族も疑わない。王家は未来を得て、私は再び“王妃”という鎖を手に入れた。


 私はゆっくりと椅子に身を沈め、スヤスヤと眠るジャスティスの小さな胸の上下を見つめた。赤子の吐息は穏やかで、頬は柔らかな桃色に染まっている。掌ほどの小さな手が空を掴むように動き、指先が夢の中で何かを握りしめているかのようだった。


 「さて、ジャスティス……お前はいったい誰の性格を受け継ぐのかしら」  私の囁きは揺れるカーテンに溶け、誰にも届くことはない。私か、アルベルトか、あるいは鍛冶屋の男か。慈悲深き王妃の仮面か、欲望に塗れた王か、粗野で野性的な男の血か。赤子の寝顔は何も答えず、ただ夢の中で微笑むように口角をわずかに上げた。


 私はその笑みに唇を歪めながら、胸の奥で囁いた。これから先、この子は私の最も強力な武器になるだろうと……。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

王女セリーナの失踪劇、楽しんでいただけましたでしょうか。王子のゲスっぷりと王女の悪女っぷりに胃もたれしつつも、最後は跡継ぎ誕生で「めでたしめでたし(?)」となった……はず。いや、全然めでたくないですね(笑)。


実は私、ほかにも長編を執筆しておりまして、せっかくなのでここでちょっとご紹介させてください。


まずひとつ目が――

『断罪女王 ~裏切りに焼かれた魔女は王妃に転生し、掟と裁きの名のもと、甘い恋を毒に、誓いを呪いに変え、処刑によってすべてを滅ぼす~』

タイトルからして胃もたれ必至ですが、こちらは“裏切りに復讐する転生王妃”のダークで濃厚なものにするつもりであります。断罪好きの方にはたまらない一冊になっております。


そしてふたつ目は――

『鏡の魔女と契約した侯爵令嬢、若返りの仮面で王子と舞踏会へ──半日だけの恋と永遠に残る囁き』

こちらは一転してロマンチック。鏡の魔女との契約によって半日だけ若返る令嬢と王子の、切なくも美しい舞踏会の物語。読み終わったあと、ふわっと胸に余韻が残るように仕上げていく予定。


「セリーナ悪女物語」から入ってきた方も、次は断罪の炎や、舞踏会の囁きにぜひ酔いしれてみてください。

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