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【最終話(中編)】天使の痕跡

 次の日の放課後、進学クラスを覗き見してみたが、神代ラファはすでに教室を後にしていた。

 次の日もその次の日も。

 ストーカーは二度とするなと釘を刺されているし、ほぼ接近禁止命令に近い文言も言い渡されているのでこれ以上どうしようもないのだが。

 だが、廃病院の探索は彼女に止める権利はない。

 あそこは彼女の土地ではないので、彼女の立ち入り自体がそもそも違法である。

 彼女をより深く知るための唯一の手掛かりになりそうな場所。

 彼女に見つかるリスクには気を付けながら踏みこんでみようかと、そう思い立って教室を出たところに、灯花がスクールバッグを抱えて何やら待ち構えていた。


「僕に何か用事?」


 気軽な挨拶風に手を挙げて声をかけてみたが、彼女の表情は不穏と懐疑に満ちていた。

 静かにこちらを見据え、何かを言いよどんでいる。

 何かあったのかと聞き直す前に彼女は意を決したように口を開く。


「私は物事ははっきり白黒させておきたい人間なの。だからもしワタルに他に気になる子ができたんならさ、その時は私に遠慮しないでスパッと言ってね。それだけ」


 捲し立てるように言い切ったかと思うと、そそくさと立ち去ってしまった。

 茫然と立ち尽くし、何を言われたのか、どんな意図を持った発言なのか、フリーズしかけた頭でゆっくりと咀嚼する。

 僕が神代ラファの動向を気にしているのを人づてに聞いたかあるいは見たのだろう。

 彼女のストレートな性格柄、変に駆け引きをすることなく面と向かいに来たというわけだ。

 灯花の後を追いかけ、神代ラファに気持ちなど毛頭ないから心配しないでほしいとはっきり告げてやればそれで済む話で、それが誠実さであり、僕の人生における最良の選択である。

 知人以下、他人同然の神代ラファの背中を追いかけたところで一文の得にもならないわけで。

 数日前バス停で神代ラファに言われた通りだ。

 他に選択肢などない。

 それではと灯花の後を追いかけようとしたが、両足は一向に動いてくれなかった。


 僕は灯花を追いかけることなく駅前に向かい、そこからバスに乗って例の廃病院前までまたやってきてしまった。

 現在がどうかはまた別の話として、僕は以前、神代ラファに好意を抱いていたことがあるのだと考えている。

 沸き立つ高揚感や好奇心、ざわつきは恋慕の際に抱く心情そのものだ。

 そうとしか説明がつかない。

 問題はいつどこで彼女と知り合ってそういう感情を抱き始めたか。

 その手掛かりは恐らくこの廃病院の中にある。

 これはなんの根拠もないただの直感だが、この病院にも強い既視感を感じるのだ。

 逢魔が時と呼ばれる時間帯。

 建物自体が夕日の影となっていて、人通りがほとんどない細い通りは全体的に薄暗い。

 入り口となる仮囲いの柵の隙間が怪物の口のように見えて薄ら寒さを覚えたが、日が暮れたら一層危ない場所だろうと躊躇を振り切って鉄柵の隙間に身体を滑り込ませて中に入った。


 鉄棒をしたのはいつだっただろうか。

 思い返してみると、小学生時代にまで遡った。

 初めて逆上がりを覚えた時の感覚はすごく新鮮で今でも感覚記憶として脳裏に焼き付いている。

 世界が丸ごと一回転するのだ。

 コウモリのようにぶら下がると今度は世界が反転する。

 空は真下に、そして重力は頭上に向かって伸びていく。

 柵を越えた瞬間、その感覚が唐突に襲い掛かってきて思わずその場に倒れ込んでしまった。

 世界が丸ごと一回転する、強烈な眩暈にも似た錯覚。

 一体何が起きたのかと困惑しながら身体を起こすと、世界が変わっていた。

 国外のどこかに飛ばされたわけでも異世界に飛ばされたわけでもないことは確かだ。

 目の前にある建物は紛れもなく僕がフェンスの隙間から潜りこんだ病院である。

 しかしそれは、廃病院ではなく今なお運営されているであろう立派な総合病院。

 整備された歩道は掃除が行き届いており、白衣を着た医師や来院する外来患者、スーツを着た医療関連の営業マンらしき人など多くの人が行き交っている。

 それに日が高く、気温が暖かい。

 夕暮れ時だったはずが、太陽の位置を観察すると時間帯は昼頃といったところ。

 白昼夢を見ているようだった。

 はたまた幻覚でも見ているのだろうか。

 廃墟に棲みついていた狸に化かされでもしたんじゃないかと頭を叩いてみるが、意識は問題なくはっきりしている。

 殴りつけた腕を見てさらに絶句する。

 着ていたはずのコートを羽織っていない、いやそれどころか学校の制服ですらない。

 病院の患者着を着ているのだ。

 まるで今僕がこの病院の患者であることを示すように。

 しかし、その患者着が着慣れた服のように感じ、不思議としっくりきてしまう。

 これまでの生涯で病院に入院なんかしたことはないはずなのに。

 背負っていたスクールバッグも最初からなかったようにいつの間にかどこかへ消えてしまっていたが、そんなことなど気にも留めなかった。

 病院前に広がる広大な外庭に自然と目が吸い寄せられる。

 歩いたことのない外庭を歩いた記憶がフラッシュバックされる。

 車椅子の僕の隣に女の子。

 それは綺麗な白髪を長く伸ばした少女。

 神代ラファだった。

 記憶の糸を手繰り寄せようと僕は外庭へと向かって歩いていった。

 外庭には患者や看護師達がのんびりと散歩をしたり、ベンチでくつろいでいる。

 歩道を踏みしめるたび、記憶の断片が顔を出してくる。

 僕と神代ラファはここの入院患者だった。

 そして、僕と彼女は確かに付き合っていたんだ。

 他にも、病院で知り合い仲良くなった友人が2人いて――――

 その記憶を裏付けるかのごとく、僕を呼ぶ男の子の声が外庭に響いた。

 それは慣れ親しんだ友人の声。

 声のした方を向くと、そこにはタケルが信じられないような物を見た顔で何やら叫んでいる。

 Tシャツにジーパンというラフな格好で、今日もいつも通り小日向さんの見舞いに来たんだろうと察した。

 その小日向さんはというと、彼の隣で車椅子に腰かけながら驚いた様子でこちらを見ている。

 相変わらず仲が良い2人で、僕は大きく手を振った。

 そんな僕に2人は手を振り返すことなく、タケルは全速力で小日向さんの車椅子を押しながらこちらに向かってきた。


「ワタル!!お前こんなとこで……今のいままでどこで何してたんだよ!!」


 かなりの剣幕な物言いに一瞬肩がビクッとする。

 一体何をそんなに怒っているのだろうか。


――――あれ、僕は今まで何をしていたんだっけ?


「確か、高校に行って勉強して部活サボって帰ってくる途中だった気が……」


 言動の不可解さにタケル君も小日向さんも明らかに訝しんだ表情を浮かべる。


「はぁ?お前この1週間行方不明者扱いだったんだぞ。俺ら4人でこっそり病院抜け出して花火して。その間にいつの間にかフラッと消えちまってさ。捜索願いが出されても見つからなくて。一体どこに行ってたんだよ」


 ――――時間が、記憶が、認識が、世界が、ズレている。

 僕は、高2の夏頃、盲腸がきっかけでこの病院に入院して、ラファと仲良くなって付き合うようになってタケル君や小日向さんとも出会って……一週間前、みんなでこっそり夜中に病院を抜け出して近くの公園で花火をしたんだ。

 そこから先の記憶は混線し、矛盾した世界の僕へと繋がっている。

 太く黒塗りされた記憶のページの先に、今の僕がいるのだ。

 明らかに手を加えられ、改ざんされ、捻じ曲げられた2つの世界。

 そこに因果はなく、矛盾を孕んだ大きな隔たりが横たわっている。

 廃病院のフェンスを乗り越えて、僕はあちらの世界からこちらの世界へ飛び越えてきてしまったのかもしれない。

 あちらの世界の神代ラファを追いかけて。

 現実的とは到底言えないファンタジックな話だが、実際僕の意識上では起こっている出来事なのだ。

 そんな森羅万象の理すら歪めてしまう超常的存在が、この世界に、この病院に存在する。

 天使と自称する神代ラファ。

 彼女の引き起こした事象である可能性が必然考えられる。

 それはあちらの世界にいる神代ラファか、こちらの世界の神代ラファか。

 そういえば、この世界、この病院に入院しているラファは今どうしているのだろう。


「そういえばラファはどこに――――」


 病室で呑気にゲームでもしているだろうなと思いながら聞いたが、僕の問いに対して2人の顔に暗雲がかかったのを見て嫌な予感がした。

 ついて来いよとタケル君に言われ、僕はそれ以上何も聞かず、タケル君と小日向さんの後をついていった。

 ラファの病室。

 彼女と出会い、過ごしてきた部屋。

 たった1週間ぶりではあったが、涙が出そうになるほど懐かしく感じられた。

 しかしそれは、変わり果ててしまった彼女の姿を残酷なまでに際立たせている。

 以前はうなじや背中、ふくらはぎなど、身体の一部分のみからしか生えていなかった黄色い結晶が身体の至る所から生え出し、身体を覆いつくさんとしている。

 近い将来、肉体が鉱物に丸ごと食い尽くされ、鉱物化してしまう姿が容易に想像できるほどに。

 その痛ましい姿に小日向さんは耐えられないとばかりに目を逸らしている。

 タケル君は苦々しそうに口を開いた。


「花火の次の日、お前がいなくなっている間にコイツの容態が急変したんだ。一瞬だった。結晶があちこちから生え出して、一時は喉を圧迫して呼吸困難になったんだ。手術で一部の結晶は切除して一命は取り留めたらしいけど、看護師曰く、もう先は長くないってよ。肝心な時にお前は消えるし警察沙汰にはなるしコイツは一向に目を醒まさないしで大変だったんだぞ」


 これまで堪えていた感情が溢れ出しそうなくらいの口調だった。

 強く握りしめた拳はプルプルと震えている。


「色々迷惑かけたね。ありがとうね」


 短くそう伝えた。

 他に言葉が見つからなかった。

 僕の言葉にそれ以上文句の言いようがないのか、それとも溜めこんでいた感情を吐き出してスッキリしたのか、返事はせずに眠りについたラファを見る。

 僕も小日向さんも、黙ったままラファを見つめ続けた。

 少ししてから、タケル君と小日向さんは部屋に戻ると言って出て行った。

 出ていく前、お前はしばらくそばにいてやれよとタケル君が言い残し、僕は静かに頷いた。

 僕は彼女のそばの椅子に腰を下ろして彼女の様子を見ながら静寂に身を委ねていると、しばらくしてラファが薄く目を開けた。


「…………なぜここに戻ってきた」


 今にも消え入りそうなか細い声。

 命の灯が尽きかけているというのは、まごうことなき現実だった。


「ラファ、身体は大丈夫?辛くない?」


 辛いに決まっているだろうと自分で突っ込みたくなる。

 病人にかけてあげる言葉としてはありがちな内容な上、末期患者にかけるものではなかった。

 安っぽいセリフしか思いつかない自分が哀しくなる。


「私の方は大丈夫だ。それに結晶化とは天使への昇華を意味する。結晶化により人としての生を全うすることで私は人間としての使命を終えて天使に戻り、天界に還れるんだ」


「人間界に降りてきた天使の使命って、確か生活を通して人間を理解することだったね」


「その通りだ。思い残すことはない。唯一、お前の将来を案じていた。私が死んだ後の未来のワタルは、真っ白に燃え尽きた灰そのものだった。女性と関わることを避け、生涯童貞として死んでいく末路をたどる」


「えぇ、なにそれ……。そもそも天使って未来も視えるの?」


「そりゃあ天使だしな。未来くらい視えるぞ」


 なんでもありか……。


「だから私は、こことは軸の違う可能性世界を創り、ワタルをそちらの世界に飛ばしてやったんだ。その世界ではお前はここに入院などしていないし、当然私とも出会っていない。縁あってタケルや小日向とは友人関係になってはいたようだったがな。そして幼馴染の可愛い彼女もいる。順風満帆で不自由ない高校生活だろう。私と縁が出来てしまったばかりにお前の将来を壊してしまった。それに対する私なりの償いと、私の使命を全うするのに大いに役立ってくれた報酬だ」


「あちらの世界の神代ラファって女の子は、君とは別人なの?彼女を追いかけてここまで来たんだけど」


「ワタルの影のお目付け役とでも言おうか。私が作り出した疑似的な存在で、不安定な可能性世界のエラーを修正するプログラムのようなものだ。小難しい話だからあまり気にしなくていい」


「ということは、向こうの世界における神代ラファは君自身ではないってことだね」


「可能性世界はいくつも並行して存在するが、天使は唯一無二だ。私以外あり得ない」


「それじゃあ、向こうの世界に戻ったらラファとはもう二度と出会えないじゃないか。そんなの受け入れられないよ」


「私はどのみちまもなく死んで天界に還るんだ。私の死をいつまでも引き摺って生涯童貞の未来より可愛い幼馴染の彼女と結ばれる方が何百倍も良い未来に決まっている。大人になれ」


 生涯童貞は確かにぞっとする人生だ。

 綺麗な女子は世にたくさんいて、誕生日にクリスマス、結婚とイベント人生のイベントが山ほどあるのに、

そのどれもに縁がないということ。

 肌に触れ合えないということ。

 死ぬまで孤独に震えるということだ。

 たった一人ラファという天使の少女に執着したばかりに自分の未来の一切を棒に振るというのか。

 不意にタケル君の顔が思い浮かんでくる。

 栗田さんに両足を譲り渡し、そして小日向さんから両足を譲り受けた後悔と苦悩。

 他者の未来と自身の未来を天秤に測ることに悩み苦しんだ彼の気持ちが今更ながら共感してしまう。

 ラファは選択に思い悩む僕を突き放すようにきっぱりと言い放つ。


「選択の余地はない。ここでワタルとはお別れだ。幸福な未来へ向かって歩けるよう天界から死ぬまでお前を見守ってあげるから安心して行ってこい」


 一方的な別れの挨拶に口を挟む間もなく。

 ラファはベッドから右手を出し、パチンと指を鳴らした。

 視界がぐるっと反転する錯覚に襲われる。

 フェンスを越えてこの世界に踏み込んだ時に感じた激しい眩暈と立ち眩み。

 バランスを崩してその場に倒れこみ、後頭部を強く地面に打ち付けて視界が一瞬明滅した。

 しばらくして収まり、目をゆっくり開けると、そこはバス停の待合席だった。

 時間はほとんど経過していないのか、いまだに夕暮れ時。

 目の前にはバスが停車していて、乗車するのかどうなのか分からない僕を待ってくれているようだった。

あの廃病院にまた戻ろうか考えていると、隣に立つ誰かが僕の肩を持って立ち上がらせる。

 神代ラファだった。


「もう戻ってきてはいけない。戻るための道ももう存在しない」


 機械のように淡々と、プログラムされた言葉を発するように告げられ、バスの乗車口に思い切り突き飛ばされた。

 バスの中に勢いよく倒れ込む。

 痛みに呻く僕を抱えてバスは扉を閉め、発車してしまった。

 発車しますという車内に響く音声をかき消すくらいの大声で降りますと運転手に告げたが、聴こえてないのか面倒で無視しているのか、バスは停車せずそのまま走り続けていく。

 バス停に視線を送ったが、そこにいたはずの神代ラファの姿がいつの間にか消えていた。

 夕日に照らされた寂しげな廃病院はどんどんと遠のいていく。

 ラファのいる世界が遠くへ、遠くへ。

 僕はもう二度と彼女のいる世界には戻れないことを悟った。


 次の日の朝、いつも通り目が覚めた。

 ベッドから上体を起こすと、冬の冷気に身体が縮こまりベッドに潜り込む。

 この冬の空気の冷たさが、ラファのいない、約束された幸福な可能性世界へ戻ってきてしまったということを告げられているようだった。

 このままずっとベッドに引きこもっていようかと考えてしまう。

 10分15分30分とベッドでワケもなくグダグダしていると、階下から母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。

 身体は重いが意識はそれ以上に重い。

 鉛を纏っているのかと思うくらいの鈍重な身体を引き摺り、1階へ降りていく。

 朝ご飯を無理やり胃袋に流し込み、制服を着て寝癖を溶かさぬまま高校へと向かった。

 タケル君は……いや、タケルはいつも通り快活なタケルで、隣を歩く小日向さんも同じくらい元気が良くて健康的だった。

 筋ジストロフィーの陰すら感じない。

 当たり前だろう。

 こちらの世界の小日向さんは難病で将来が閉ざされた彼女ではない。

 ごく普通の女子高生なのだから。

 こちらの世界のタケルも小日向さんもあちらの世界よりずっと幸福なのだから。

 彼らの苦悩も、決断も、後悔も、全てこの世界ではなかったこととなっているのだから。

 灯花もいつも通りの様子で、僕と問答をした記憶はないようだった。

 この可能性世界における神代ラファ。

 世界のエラーを修正するプログラム、いわば疑似的存在。

 彼女が世界になんらかの修正を施し、灯花の記憶は書き換えられたのかもしれない。

 気になって進学クラスに顔を出してみたが、彼女の姿は確認できなかった。

 進学クラスの担当教諭にそれとなく聞いてみたが、神代ラファという存在そのものが当校の生徒にはいないと言われた。

 つまり、彼女の存在はなかったことになっていた。

 それはすなわち、僕以外にあちらの世界を認識している存在が綺麗さっぱりいなくなってしまったことを意味する。

 放課後、バスに乗ってまた廃病院に訪れてみたが、フェンスの隙間はなくなっていた。

 他に侵入できそうな箇所はないかと周囲を散策してみたがどこにも見当たらない。

 ここではっきりと気づかされる。

 昨日バス停前で神代ラファが言った、”戻るための道ももう存在しない”というのはこういうことだったのかと。


 次の日もいつも通りの夜明けが来て、僕はいつも通り目を覚ました。

 これからまたいつもの日常が始まる。

 その日常に、ラファは存在しない。

 学校にも、病院にも、世界のどこにも。

 このままベッドからも部屋からも出ずに籠りたい。

 この世界の全てを拒絶する。

 引きこもり?いや、ストライキだ。

 自分の人生に対するストライキ。

 …………浅ましい考えにもほどがある。

 要求もなく文句を並び立てるだけなんて、ストライキではなくただの駄々をこねる子供同然だ。

 それにそんな行為はラファの本意ではない。

 彼女は僕に幸福な未来を望んでこの可能性世界を創造してくれたんだ。

 それを踏みにじるような行為は決してできない。

 僕のなすべきことは、彼女が望んだ通り、そして僕が僕自身のためにこの幸福な可能性世界を歩んで人生を全うすることだ。

 重い腰を上げて1階に降り、朝食を食べて登校の準備をする。

 教室で退屈な授業をこなし、クラスメートとくだらない雑談を交わす。

 放課後はサッカー部の練習。

 タケルは相変わらず調子が良くて練習はきつくてもなんだかんだ楽しくて。

 週末は灯花と映画デートをして、映画のチョイスが悪いと昼食の席で小言を言われ。

 それでもたまに見せる灯花の笑顔はやっぱり可愛くて。

 夜は灯花の家にお邪魔させてもらって、勉強を見てもらって。

 いずれは灯花と同じ大学に通い、就職して結婚をするという幸福のレールに乗る。

 いや、すでにレールに乗っていて、幸福な未来は確約されているのだ。

 予想もできないような登りはないが谷底に堕ちることもない緩やかな上り坂の人生。

 それは本当に恵まれた人生と言っていいだろう。

 平凡な幸福を手にしたくてもできない人間は山ほどいるのだから。

 帰り際、いつもは大人っぽいくらいの落ち着きを見せる彼女に甘えられ、彼女の家の前でキスをした。

 灯花は今日一番の笑顔を見せてくれて。

 彼女のキスは砂糖菓子のような甘い味がして。

 ただそれは、レモンの味ではなかった。

 僕の身に起こる全ての不幸は世界のエラーとして修正されて幸福へと軌道を変える予定調和の未来。

 なんて安定した人生なんだろう。

 なんて平穏な人生なんだろう。

 脳の回路に泥が詰まったように頭が働かず、ぼーっとした意識で夜の住宅街を歩く。

 歩道の幅は狭く街灯も少ないため、黒のコートを羽織った僕は夜の闇に溶け込んでいる。

 アスファルトのひび割れた隙間に軽く足を取られ、ほんの2、3歩車道側によろけた。

 背後からの静かな走行音。

 振り向くと、視界いっぱいに広がる光の海に目が眩む。

 しかし、僕はニヒルを気取って口の端を歪める。

 轢けるものなら轢いてみろと。

 幸福が約束されたこの可能性世界において、僕に訪れる不慮の事故は、不幸としてエラー修正される。

 だから何も恐れることはないと。

 車が僕を撥ね飛ばす直前、僕は何かに腕を強く引っ張られて歩道側に倒れ込んだ。

 ほらね。やっぱり。

 何事もなかったように過ぎ去っていく車を目で追った後、僕を助けてくれた何者かに視線を移すと、そこには灯花が立っていた。

 血相を変えて今にも怒りだしそうな顔で倒れ込む僕を見下ろしている。


「なんで車に轢かれそうだってのに笑ってたの」


――――だって、どうせ死なないことは分かってるからさ。


「自分の命をどうしてそんなに軽々しく扱えるの」


――――軽かろうが重かろうがこれからの僕の人生は何も変わらないからさ。


「あなたを大事に想っている周りの人の気持ちをどうして考えられないの!」


 大粒の涙を流す灯花に返す言葉が見つからなかった。

 そしてあきれるほど当たり前の事実に気づく。

 ラファが創造したこの可能性世界でも、彼女も、他の人々もちゃんと生きているということに。

 自分の頭で物事を考え、悩み、選択し、決断する。

 彼らには大きな幸福が訪れるかもしれないし、大きな不幸が訪れるかもしれない。

 僕の人生を彩る舞台装置なんかではなく、個々がそれぞれ独立して生きているという至極当たり前の事実。

 僕はこの世界でどこか周囲と隔たりを感じていた虚しさの正体に気づかされた。

 幸福な未来が約束された僕が不安定な世界を生きる彼らと同じ目線に立つことなど、どうあってもできやしないということだと。

 僕は決して不幸にはならないんだよと、灯花の頭を撫でながら上から目線で諭すなんてできるはずがない。

 僕は、彼女の背中に腕を回してそっと抱き寄せて一言、


「ごめんね」


 悔やむ顔を隠すように彼女の肩に頭を預けて小さく囁いた。

 ごめんなさい。

 あなたの隣に立つことができなくて。

 ごめんなさい。

 自分の命を軽く扱ってしまって。

 僕は、灯花を、約束された幸福を、この可能性世界を、手放すと決意して。


「行ってくるね」


 彼女に短く別れを告げた。

 何のことやらと疑問符を浮かべる彼女の顔に手を伸ばし、目元から流れる涙を拭う。

 そして道の先を歩いていく。

 茫然と立ち尽くす彼女を残して。


「帰り気をつけなさいよ!また明日学校でね!」


 夜の住宅街など気にしないくらいの大声に、僕は振り向かず片手だけ振って応えた。

 元の世界に戻るための道は存在しないとこの世界の神代ラファは言った。

 戻る道はないが、作り出す方法ならたった一つだけある……かもしれない。

 それは不確定要素満載で自らの命を賭した大きな賭けになるが、やるしかない。

 幸福色に塗り固められた予定調和の世界に風穴を開けるために。

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