第9話
静寂が、広がった。
ひうと吹いた冷たい風が、呆然としてもはや木偶と化していた俺の意識を引っ張り上げた。
「……いやあ、女……でしょお」
それでもやはり、彼女の言葉が到底受け入れられず、俺は首を捻りながら、間延びした弱々しい反論をしてしまう。
ミサキは何も言わない。乱れた髪で、表情が伺えない。
意識が勝手に現実逃避をはじめたのか、彼女を通りこし、屋上から広がる景色のほうに目がいってしまう。川のように流れる車のライトや、点々と灯るビルなどが鮮明に見えるのに、どれも遠くに感じた。
……男?
いや、だって声とかも、たしかに顔に似合わずハスキーな感じだなとは思ったけど、それでも女性にしては、という程度だったし、何といってもあの容姿だ。「もしかしたら男かも」という発想すら出てこない。
でも、……男?
やっぱり信じられない。
だって、胸だって膨らんでいるし、首や腰も細くて、肌も白くて――
抜け道を探すように彼女の女性的特徴を目で追ってしまう。
すると突然、喚き声にも泣き声にも聞こえるミサキの激白が空気を裂いた。
「体は男なんだけど……心は女なんだ!」
多様性。ジェンダーフリー。ジェンダーレス。LGBTQ。ユニセックス――それっぽい言葉が俺の頭の中でふよふよと漂い、一向に着地してくれない。
なんだこれ。これ現実?
放心状態になりながらも何とか意識を保てたのは、俺の中で残る性欲の欠片のおかげだった。
だが、まだショックから抜け出せず、何か考えようにも、思考が上滑りして整理がつかない。頭にモヤがかかっているみたいだ。何を考えるべきかも分からない。
それでも、俺は訊かねばならない。
男としての本能が、俺の体を動かす。
「え、じゃ、じゃあその……それは……」
たどたどしい手つきで、俺はミサキの胸を指さす。
何を聞きたいのか彼女も察し、
「これは……入れ物……」
と恥ずかしそうに答えた。
そしておもむろに自分の服の中に手を突っ込み、引っこ抜くと、手の中には半球の形をしたゴムボールのような物が握られていた。
彼女はそれをぽいっと、どこでもない場所に放る。トン、と簡素で軽いバウンド音が響いた。
そしてすとんと、彼女のブラウスの下から盛り上がっていた二つのふっくら丘が、煙のように消え去った。彼女の胸に残ったのは広々とした大平野のみ。
泡沫夢幻。魚目燕石。鏡花水月。そんな類の言葉たちが、まるでプレスにでもかけるように俺の希望を潰していく。
入れ物。
〈パイ視〉使いの俺も、時々それを利用している女性を見かけ、もちろんほぼ確定で見抜けるのだが、今日の俺は精彩を欠いていた。おっぱいを揉めると舞い上がっていたせいだ。
馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な
ありえない。俺が……〈パイ視〉が間違うことなんてあるものか!
「じゃ、じゃあ……」
俺は呆然としながら弱々しくミサキをさす指を力なく真下にさげていく。
そしてちょうど、彼女の下腹部辺りで指を止め、質問した。
「……付いてるの?」
「……うん」
口を一文字にして両足をもじもじとさせ、彼女はこくりと、本当にわずかだが頷いた。
パオーン
どこからか、遠い西のほうの国にいそうな動物の鳴き声が聞こえてきた。