番町花屋敷
「・・・おが ギッ ・・・さら ギーッ ・・・ながる ギッ・・・」
泣きながらうつむいて歩いていたサチは、切れ切れに聞こえてくる歌声とそれに合わせて何かが軋むような音がすることに気がついて顔を上げました。どうやらちょっと先にある町はずれの一軒家から聞こえてくるようです。
(誰が歌ってるんだろう。)
サチは近づいていきました。この一本道の両側にはずっと田んぼが続いていて、大通りに出る手前に一軒だけこの家が建っているのでした。家を囲っている低い石垣の向こうには、いい香りがする小さな花がたくさん咲いている木が何本か植えられています。その枝の間から中を覗いたサチは、溢れんばかりに咲き競う色鮮やかな花々に驚いて思わず声をあげました。世界中の美しい色を全部ここに集めたのかと思うほどの輝く色の洪水の真ん中に、春の光を浴びて嬉しそうにブランコに乗って歌うひとりのおばあさんがいます。おばあさんと一緒にギッ、ギッと歌うブランコ、花たちはゆらゆらと拍子をとり、そのまわりをちょうちょが舞って、まるでおとぎの世界を見ているようです。
「あら、可愛いお客さん。」
サチに気がついたきくゑがブランコをおりてサチのほうへ歩いて来ました。沈丁花の向こうにいる女の子のそばには誰もいません。
「そこにいてね。」
きくゑは急いで門へ回り、道路にいるサチに駆け寄りました。
「お嬢ちゃん どこへ行くの?」
「西病院。」
「ひとりで?」
「うん。」
しゃがんで女の子の涙と鼻水をエプロンの端で拭きながら、きくゑは女の子が口にした病院という言葉に胸が騒ぎました。
「お母さんのとこへ行くの。」
「病院にお母さんが?」
「うん。おばあちゃんが入院しててお母さんがお世話しに行ってるから。 おばあちゃん頭の中で血が出て歩けなくなっちゃったの。お話しもできないの。」
(脳卒中・・・)
「サチ!」
「あ、お母さん。」
「うちで待ってるって言ったのに駄目じゃないの。 どうもすみません。」
きくゑに頭を下げ、困った顔で久子はサチを見ました。
「サチ ブランコ乗りたい。」
「え?」
「あのブランコ。」
きくゑの家の庭の花の中のブランコを指してサチは言います。
「何言ってんの! 本当にすみません。」
おそらくひとりで歩いているサチに親切に声をかけて保護してくださったのでしょう。穏やかに微笑んでいるきくゑに申し訳なくて久子は冷や汗が出る思いでした。
「ブランコにはいくらでも乗っていってもらって構わないけど、お母さんが忙しいようだったらまた別の日にいらっしゃい。」
「すみません。私は二番町の加藤久子といいます。サチがご面倒をおかけしたようで本当に申し訳ありません。ありがとうございました。」
「いえいえ、丁度お母さんがいらしてよかったわ。 あの、私はずっとうちにいますからいつでもサチちゃんと一緒に遊びに来てくださいね。」
「はい、ありがとうございます。 すみません。」
ふんわりと包み込むようなあたたかさを持ったきくゑに病院の母と似通ったものを感じて、久子は涙がこぼれそうになりました。
「おばあちゃーん‼」
大きな声に驚いたきくゑが窓を開けて外を見ると、玄関の前の道に、自転車の後ろの子ども用の座席で笑いながら手を振るサチと、恐縮した顔でハンドルを握り、きくゑに頭を下げる久子が見えました。
「あらいらっしゃい。ちょっと待っててね。」
きくゑが外に出ると久子が、
「すみません、この子がどうしてもこちらに来たいってきかなくて。」
「そう、遊びに来てくださって嬉しいわ。」
微笑みながらサチに目を向けると、玄関の表札を何やら難しい顔をして見つめています。
「き・く・・・」
「ああ、e。 ki・ku・e。昔の字なのね。」
「ふーん。 きくゑおばあちゃん!」
「はい。 うふふ。」
「きくゑおばあちゃん、ブランコ乗っていい?」
「はい、どうぞ。お母さんいいかしら?」
久子の許可を得たうえでとかけた言葉の返事を聞くことなくサチはひとりでするりと自転車を降り、庭のブランコに向かって一直線に駆けて行ってしまいました。
「あっ、サチ‼ すみません、あの、少しだけ乗らせていただいていいですか?」
「ええ、好きなだけ乗っていってくださいな。」
「ありがとうございます。 サチー、病院行かなきゃいけないから少しだけよー! すみません、本当に困った子で・・・」
「ふふふ。 あなたはこれから病院へいらっしゃるの?」
「はい、母が西病院に入院していまして、主治医の先生のお話を伺いに行かなくてはならないんです。」
「あら、それじゃ約束の時間があるんでしょう? サチちゃんはここで私と遊んでいますから、どうぞ行ってらっしゃい。大事なお話ならお母さんおひとりのほうがいいでしょうし。 それにサチちゃんすぐには自転車に乗ってくれないんじゃないかしら。」
「はあ、でも申し訳なくて。 サチー、病院行くから一緒に・・・」
「お母さん行って来てー。 サチ ブランコ乗ってるからー。」
「サチッ‼」
「うふふ。 お嬢ちゃんもああ言ってますし、けがしないように気をつけて見ていますから、さあ。」
久子は社交的ではなくなかなか人と打ち解けられない性格なのですが、不思議ときくゑには身構えず素直に接することができましたし、この人は信頼できると思わせるものがきくゑにはありました。お医者さんとの約束の時間が迫っていることもあって、
「それじゃすみません、大急ぎで行ってきますから。」
「はいはいどうぞ。先生とよくお話していらして。」
「ありがとうございます。本当にすみません。 サチー、お母さん病院行って来るからおとなしく・・・」
「はーい、きくゑおばあちゃーん、一緒にブランコ乗ろー。」
(ほんとにもう)
自転車をこぎながら久子は大きく息を吐きました。サチは赤ちゃんの時から少ししか眠ってくれずミルクもあまり飲んでくれず、よく泣く扱いにくい子でした。1才を過ぎる頃からは自我が強くなり、怒ってもなだめても自分のしたいことを押し通そうとするので随分てこずらされました。きくゑと初めて会った日も、うちで粘土遊びをしていたいと言い張るので、仕方なく久子一人で病院へ出かけたのです。そうしたらだんだん心細くなってうちを抜け出してしまって。そんなちっとも大人の思い通りにならない子を知り合って間もない人に預けてしまったことが心苦しく、ため息が出るばかりでした。
久子の父親は2年前に病気で他界しています。その父の3回忌を終えた3日後に、ひとり暮らしをしている母の家の布団が夜になっても取り込まれないのをいぶかしく思った隣人によって台所で倒れている母は発見され、病院へ運ばれました。母は脳内の右の視床という部分で出血を起こしており、手術を受けたものの左半身は完全に麻痺し、意思の疎通もはかれない状態になってしまいました。 二番町の久子の家から母が運ばれた実家近くの市民病院までは車で1時間以上かかり、一人っ子の久子が通いやすいように西病院に転院させてもらったのは1週間ほど前、倒れてから1か月が経とうとしている時でした。
久子の母の芙美は、人に合わせることをしないで我が道を行くちょっと変わった人ですが、久子にとっては愛情いっぱいに育ててくれた申し分のない母です。
久子を見送ってきくゑがゆっくりサチのほうへ歩いて行くと、おとなふたりがゆったり並んで座れる大きさの椅子の形をしたブランコに腰かけ、サチは不思議そうなまた嬉しそうな複雑な表情をして揺られています。
「サチ、お空の上にいた時、ここみたいにお花がいっぱい咲いてるとこにいたんだよ。」
「あら そうなの?」
「うん、今ブランコに乗ってたら急に思い出したの。そこでね、あいちゃんと・・・」
「えっ? あいちゃん⁈」
「うん、あいちゃん。 風船どっちが大きく膨らませられるか競争したの。サチはピンクであいちゃんは黄色の風船。風船すごく大きくなって割れそうで怖かったけど、あいちゃんがやめないからサチも我慢してどんどん膨らましてったの。そしたら パーン ってふたり一緒にパンクして、ひゃあ ってしりもちついちゃったんだよ。それからふたりで大笑いしちゃった。あいこだねって。 それでね、割れた風船は粉々になって雲の間から落ちてっていっぱいのレンゲとタンポポになったの。」
「ふーん。 お友だちはあいちゃんっていうのね。 ・・・あ、誰かまたお空の上で笑ってるみたいね。」
「え? ・・・うん。 うふふ。」
耳を澄ますと雲雀のさえずりが遥かな高みから聞こえてきます。
「きくゑおばあちゃんのうちにはきくゑおばあちゃんとあと誰がいるの?」
「え? 私だけよ。」
「ふーん、じゃあブランコは誰が乗るの?」
「・・・私。」
小さな子どもがいるのだろうと思ってサチが尋ねたことがわかって、きくゑはちょっと恥ずかしそうに答えました。
「そっか、きくゑおばあちゃんブランコ好きなんだね。サチも大好き。」
(おとなが乗るなんてヘンだって言わないでくれてありがとうね。)
「きくゑおばあちゃんのおうちはお花がいっぱいだね。西病院のおばあちゃんもお花大好きだよ。」
「そうなの? ならここのお花たくさん摘んで病院のおばあちゃんの所へ持って行ってもいいわよ。」
「うん、でもおばあちゃんは花瓶のお花じゃなくて地面に咲いてるお花が好きなの。」
「あら、私と同じね。じゃあおばあちゃん良くなってここに遊びに来たら喜んでくれるかしら。」
「うん、きれいだねってきっと言うよ。」
(そんな日がどうか来ますように。)
主治医の先生によると、芙美の頭の中には水が溜まっていて脳を圧迫しているらしく、その水を管を通しておなかに流れるようにしてやれば意識状態が改善されるかもしれない とのことでした。久子は病院を後にしてから、その手術を芙美に受けさせるかどうか迷っていました。母と倒れる前のように話ができるようになったらどんなに嬉しいかわかりません。けれども頭がはっきりして現状を知ったらひどく悲しむことは容易に想像できます。どこへでも出かけて行って絵を描いたりスナップ写真を撮ったりして楽しんでいた母ですから、自由に動かせなくなった体をどんなに嘆くことでしょう。いっそこのまま何もわからない状態でいたほうがいいのかもしれないと久子は考えていました。
久子がきくゑのうちに着いた時、サチは広い庭で楽しそうにきくゑと話をしていました。
「この木はサルスベリっていうの。」
「サルスベリ?」
「そう、つるつるしてるでしょ。木登りが上手なお猿さんでもツルッて滑りそうだからサルスベリね。夏になったらひらひらのレースみたいな可愛いお花が花火みたいにパーッといっぱい咲くから楽しみにしてて。」
「うん。」
「どうもありがとうございました。」
「あらお帰りなさい。」
「お母さん、もう病院 行って来た? 一緒にブランコ乗ろう!」
「え?」
どうしたものかと困惑している久子の手を引っ張ってサチはブランコのほうへ誘っていきます。きくゑの目は どうぞ と笑っています。サチと並んでブランコに揺られていると、唐突に久子の脳裏に遠い昔の記憶がよみがえりました。 穏やかな春の日、まだ幼稚園にも通っていない小さな久子は、芙美と近所の農道を散歩していました。久子が手に持っている赤いセルロイドのままごと用の買い物かごには、あぜ道で摘んだタンポポの花がいっぱい入っています。芙美が立ち止まり、久子の前にそっと両手を差し出しました。芙美の手の中にはたくさんのタンポポの花と、その真ん中にうずくまるタンポポと同じ色をしたひよこが一羽、気持ち良さそうにうつらうつら船を漕いでいます。久子がひよこを起こさないように黙ってにっこり笑って見上げると、そこには同じように微笑む芙美の顔がありました。芙美が久子の世界のすべてだったあの頃、確かに見上げるほど大きかったのに、今ベッドに横たわる母はなんて小さくなってしまったんでしょう。
「お母さん・・・」
久子が顔を覆って泣き出すと、サチも不安そうに久子のシャツの裾を握ってベソをかきはじめました。きくゑは揺れが小さくなったブランコに近づいて、サチに 大丈夫 と言うように笑いかけ、久子の肩にそっと手を置きました。庭の花たちはほのかな香りを、木々たちは耳に優しい葉擦れの音をそよ風に乗せて静かに久子に送りました。
「すみません。 ごめんね、サチ。 子どもの頃の事が急に思い出されて。」
背中にひざしの暖かさを感じながら小川のせせらぎの音を聞いていたあの日、大好きな母との幸せな時間でした。
その後も久子とサチは頻繫にきくゑの家を訪れました。久子には遠慮する気持ちが無いわけではなかったのですが、きくゑとあの庭の持つ心を穏やかにしてくれる不思議な雰囲気に引き寄せられるように、つい足が向いてしまうのでした。それに久子は芙美の所へ毎日行き、できるだけ長い時間一緒に過ごしたいのですが、病院の面会時間に行こうと思うと幼稚園から帰ってきたサチを連れて行くことになり、落ち着いて母の世話をすることがなかなかできません。そんな事情をきくゑはよくわかってくれて、サッちゃんが遊びに来てくれると本当に楽しいわ と快くサチを預かってくれるようになったのでした。久子はいつか何倍にもしてお返ししなくては と思いながら、今はきくゑの好意をありがたく受けようと思っていました。
「お母さん、久子。 わかる?」
芙美の目を覗き込むようにして話しかけると、頭の中の水を抜く手術を受けた芙美ははっきりとうなずきました。
「お母さん 脳溢血で倒れちゃったの。お父さんの法事で疲れたんだよね。私がもっと手伝えばよかったのにごめんなさい。 ここは私の家のそばの西病院。市民病院から転院させてもらったの。 私 毎日来るからね。 さあ、手をマッサージしようか。固まっちゃわないようにね。」
芙美に録音した唱歌をイヤホンで聴かせると、手でリズムを刻みながら楽しんでいる様子を見せてくれます。
「お母さん、サチの幼稚園の藤の花が咲き始めたの。昔うちにも藤棚あったでしょ。増築する時に切っちゃったけど。あの藤は何色だったっけ。」
と問いかけると、気管切開をしているので声は出せないながら、
「し・ろ」
とはっきり口を動かして答えます。筆談もできるようになりました。こうして母とまた以前のように会話できるようになったのは久子には嬉しい事でしたが、心が痛む事もたくさんありました。同じ部屋に入院している人や、その人のお見舞いに来た人が久子に
「お母さんはあなたのことが判ってるの? 目は見えてるの?」
と無遠慮に尋ねてきたり、芙美を指して
「あんな風にならなくてよかったわ。」
と話すのが聞こえてきたりしました。久子はその声が芙美の耳に入らないように願いながら、ロッカーの戸を開けたり閉めたり、中のポリ袋をガサガサと音をたてたりさせていました。また座る練習もさせてもらっていたのですが、芙美には車椅子に腰掛ける姿勢を保つのが難しいようで、ひどく辛そうな顔をしていました。久子に見せないように一人で涙を流していることもありました。
(お母さん、やっぱり手術してもらわない方が良かったのかな。 ごめんなさいね。)
「きくゑおばあちゃーん、スイートピーのつるがお花の蕾に絡まっちゃってて、そーっと取ったらお花がぽわーんって光って開いたよー。」
「そう、それじゃあお花の妖精さんが中から飛び出して来たのかもしれないわね。」
サチは面白いことが詰め込まれたきくゑのうちの庭も、何でもサチの気が済むようにさせてくれるきくゑも大好きです。
「きくゑおばあちゃーん、ミミズさんいっぱーい!」
「え?」
散水栓の周りの土はいつも湿っていて、スコップで掘るとミミズがたくさん出てきます。
「あらあら。 ・・・あとでちゃんとまた埋めておいてあげてね。」
「はーい。」
雨降りの日のことです。
「今日はドーナッツ作ろうか。」
きくゑがサチを家の中に招き入れると
「あれ、あいちゃん! どうしてあいちゃんの写真がきくゑおばあちゃんのうちにあるの?」
玄関の脇の仏間の写真に駆け寄るサチに驚いたきくゑが
「サッちゃん、もしかしてお空の上で一緒に風船膨らましたあいちゃんって愛子のことだったの⁈」
「あい ・・・こちゃん?」
「この子は私の子どもで愛子っていう名前なのよ。隣に写ってるのが愛子のお父さん。ずっと前に二人一緒にトラックにはねられちゃったの。」
「きくゑおばあちゃんの子ども? ・・・あいちゃんが?・・・」
サチにはよくわからないようでした。それはきくゑも同じです。
(神様の元へ行った愛子が生まれる前のサッちゃんと交流していたということ? そんな不思議なことってあるかしら。)
「サッちゃん、愛子は楽しそうにしてた?」
「うん、いつも笑ってたよ。」
「本当? どこか痛いって言ってなかった?」
「ううん、そんなこと言ってないよ。 ・・・うんとね、あいちゃんピン大事にしてた。小さいお花がついた可愛いピンでいつも髪の毛パチンって留めてたの。」
「ああ、間違いない、愛子だわ!」
はぎれで作った小さな花を幾つか付けてピンを飾ってやると、とても気に入って鏡を覗いて嬉しそうにしていた愛子の姿が目に浮かびました。事故に遭ったあの日も愛子はそのピンを身に着けていたはずです。
「しまった、海苔なかったんだわ。」
ちらし寿司を作ったきくゑは海苔を買い忘れていることに気がつきました。
「海苔? 買ってきてやるよ。」
夫の秀夫がそう言ってくれたのですが
「雨降ってきそうだし、いいわ。海苔なしで食べよう。」
「自転車でさっと行って来るから大丈夫だよ。」
「そう、悪いわね。 傘持ってく?」
「私も行く。」
「愛子はうちで待ってて。雨が降ってきそうだから。」
「いや、私もお父さんの自転車の後ろに乗って行くの!」
大通りの向こうの商店街へ二人は出掛けて行き、帰りに大通りを渡る時にトラックにはねられました。
愛子が後ろからさしかけていた傘で秀夫の視界が遮られてしまったのかもしれない とおまわりさんに言われて、急に降り出した強い雨に愛子が濡れないように秀夫は急ぎ、愛子は秀夫が濡れないように懸命に傘をさしかけていたのだときくゑは思いました。
(私のせいだ。 海苔を切らしていなければ、二人を行かせなければ、私が買いに行っていれば・・・)
自責の念は尽きることがありませんでした。最愛の二人を一度に亡くしてしまった事故からしばらくの間の記憶がきくゑにはありません。 なぜ自分だけ生きているのだろう、生きていられるのだろう、癒えることのない傷を抱えたままこの先どれだけ生き続けなければならないのだろうか。多分ずっとそんなことを考えて泣いていたのだろうと思います。 確かに悲しみが消えることはありません。けれども時は優しく、胸をえぐる刃の切っ先を少しずつ鈍くしていってくれました。庭の草花や虫たちの押しつけがましくない慰めもきくゑには有り難いものでした。そうして長い月日を過ごすうちに、きくゑは胸を張って二人に会えるような生き方をしよう と思うようになっていきました。
「お椀をここに置いたら上からキュッと押さえて・・・そうそう、お椀を持ち上げると・・・ほーらまーるい形が出来たでしょ。」
「うん、うん。」
「そしたら今度はお椀の下の丸いところを真ん中に置いて・・・パッと取ると・・・」
「わあ、ドーナッツの穴だあ。」
小さなお椀で型抜きして残った生地でサチはうさぎの顔を作りました。
「まあ上手にできたこと。じゃあこれから油で揚げるから離れててね。」
「うん。」
「えーと、これとこれ。一番きれいに出来てるの。それからうさぎさん。」
揚げ終わったドーナッツの山から選び出したものをきくゑが出してくれた皿に乗せると、サチは仏壇に持って行きました。
「あいちゃん一緒に食べよ。あいちゃんのお父さんも。」
(・・・サッちゃん ありがとうね。)
「お母さん、あいちゃん、きくゑおばあちゃんの子どもなんだって。」
「え? あいちゃんって誰?」
ドーナッツをもらって家へ帰る途中でサチが話し始めましたが、久子にはさっぱりわかりません。ひとつひとつサチに聞きながら こういう事なんだろうか と理解するまでには随分時間がかかりました。
人は程度の差はあっても誰もが苦しみを抱えていて、悩みが全くないなどという人はいません。それでもきくゑは何も思い煩うことなく幸せに生きてきた人であってほしいと久子は願っていました。自分たちに限りなく優しく接してくれるきくゑの心に深い悲しみなど刻まれていてほしくはありませんでした。
何日か前にサチから、結んでいた髪がくしゃくしゃになったのできくゑが結び直してくれたと聞きました。どんなにか愛子ちゃんの髪を結んであげたかったことかときくゑのその時の気持ちを推しはかって久子は胸が締めつけられる思いでした。そしてサチが愛子ちゃんと重なってきくゑがずっと辛い思いをしていたのではないかと案じられました。
「ドーナッツごちそうさまでした。とっても美味しかったです。」
「それは良かったわ。サッちゃんが一生懸命作ったんだもんね。」
「うん!」
「あの・・・」
口ごもる久子の様子に、サチが愛子のことを話したのだときくゑにはわかりました。
「私 無神経できくゑさんに申し訳なくて・・・」
「サッちゃんをここに連れて来ること?」
「はい。」
「何を言うの。サッちゃんが来てくれるようになってから毎日が楽しくって、私10才は若返った気分なのよ。 そりゃサッちゃんと一緒にいて愛子のことを思い出すこともあるけど、事故から長い時間が経ったでしょ、感じ方も少し変わってくるの。ふんわり丸くなるっていうか。 それに愛子がサッちゃんと楽しく過ごしていたって聞いてどんなに嬉しかったか。サッちゃんはそれを私に伝えに来てくれたんだと思うのよ。」
事務の仕事をしていた健一がふと窓の外を見ると、すぐ前の坂道を日傘をさしたおばあさんが汗を拭きながら一歩一歩上っていくのが目に入りました。
(暑いんだろうな。)
一年中ワイシャツ姿で快適に過ごせる冷暖房完備のオフィスで働き、季節を肌で感じることもなく、消費するばかりで何も作り出さない今の生活のままでいいのだろうか そんな思いが健一の心の底にはずっとありました。
「きくゑおばあちゃーん、今日はお父さんと歩いてきたよー。」
「あらあら いらっしゃい、初めまして。」
「こんにちは、いつもサチと久子が大変お世話になってありがとうございます。日曜日まで押しかけてご迷惑かとも思ったんですが、お礼が言いたかったのときくゑさんにお会いしたかったのとで来てしまいました。」
「お礼なんてとんでもない。 さあどうぞ、お入りになって。」
「お父さん、ブランコ一緒に乗ろう!」
「えー? お父さんが乗ったら壊れないかなあ。」
「大丈夫ですよ。よかったらサッちゃんと乗ってみてくださいな。」
「はあ それじゃあ。 ・・・おお、気持ちがいいなあ。公園ではサチのブランコを押してやるだけで自分が乗るなんてないもんなあ。」
風を受けて揺られながら、健一はずっと前にもこんなふうに心地よい風に吹かれていたことがあったと感じていました。両親の畑仕事を手伝っていた時のレンゲ畑をわたって吹く風・・・。 作業で汗ばんだ額を撫でてゆく感触が鮮やかによみがえりました。 遠い故郷で田畑を守り続けている両親は元気にしているだろうか。健一の心にある考えが芽生えていました。
「そうそう、蛍光灯を取り替えなくてはいけないとサチが言ってましたが、よければ僕やりますよ。」
「そうですか、それはありがたいわ。」
家に入ると、
「あの、これを愛子ちゃんに。」
と言って健一は上着のポケットからペンダントを取り出しました。
「夏祭りでサチに買ってやったら、あいちゃんにもって言うんでもらってもらえませんか?」
「一番大きくてきれいなの。サチとお揃いだよ。」
「あら本当だ。愛子喜ぶわ。ありがとうございます。」
ペンダントはサチの胸と愛子の写真の前で笑いあうようにキラリと光りました。
健一に蛍光灯を新しい物に替えてもらうと、
「ついでと言ってはなんですが、イチジクを取っていただけないかしら。脚立に上るのがこの頃危なっかしくて。」
「お安い御用です。どこですか?」
家の裏手のイチジクの木には食べごろのイチジクがたくさんなっています。
「さあサッちゃんはかごを持ってね。」
健一がイチジクを取ってきくゑに渡し、きくゑがサチのかごに入れていきます。
「わあ、いっぱいだね。」
「さあさ、持って帰ってお母さんと一緒に食べて。」
「ありがとうございます。じゃ、遠慮なく。」
「あら、たったみっつじゃ駄目よ。もっと持ってって。」
「いえいえ、お礼を言いに来たのにそんなに頂いては、いったい何をしに来たのかわからなくなります。」
「うふふ、年寄り一人ではそんなに食べられませんもの。 どうぞ、きっと甘くておいしいはずですよ。」
芙美がベッドの柵を握ってカタカタ鳴らします。
「どうしたの?」
久子が顔を近づけると、
「お・ふ・ろ」
と芙美の口が動いたようです。
「お風呂? 入りたいよね。点滴の管がつながってるからずっと入ってないもん。気持ち悪いんだね。」
芙美が首を横に振ります。
「? ・・・もしかしてお風呂に入っていきなさいって私に言ってるの?」
芙美がにっこりうなずきました。最近認知機能が衰えてきた芙美は、実家に遊びに来た久子に入浴するように勧めてくれていたようなのです。 紙に、実家の近くの洋菓子店のシュークリームをサチに買っていきなさいと書いたり、自分より久子たちのことを思ってくれているのが、久子にはありがたくも悲しく感じられます。
「きくゑおばあちゃーん、キリちゃん、サチが作ったおうちに入ってくれないよお。お花のシールいっぱい貼ってきれいにしたのにい。」
「どれどれ、うーん・・・ ちょっと待ってたら入ってくれるんじゃないかしら。」
「そうだね。 じゃあミミズさんでも見てこよっと。」
散水栓の方に走って行くサチを目で追いながら、きくゑは横を向けて朝顔の根元に置かれた おうち の前で困ったように固まっているカマキリに気の毒そうに声をかけました。
「雨降りでも濡れなくていいかもしれないけど、虫かごに入るのは気が進まないわよねえ。」
高熱が数日間続いた後、芙美は全く意思表示をしなくなりました。何を話しても手を触れても何の反応もありません。久子は寂しく感じましたが、芙美が辛いとか悲しいとかの感情を失っているのだとしたらその方がいいとも思えました。もしかしたら久子が苦しむ母を見ないで済むことを望んでいるのかもしれません。芙美に家での出来事を話しながら、体の向きを変えたり手足をマッサージしたりオムツを替えたりした後、
「それじゃ帰るわ。また明日来るからね。」
と言って病室を出ようとすると芙美がずっと目で追っているように感じられて後ろ髪を引かれる思いでした。
ある日の帰り際、
「お母さん、私が大人になっても小さい子にするみたいに頭を撫でてくれてたよね。」
そう言いながら芙美の短くカットされた頭を撫で続けていると、芙美は次第に目を閉じて眠りに落ちていきました。久子はこの日から芙美が眠るまで頭を撫でて視線に引き留められることなく帰路につくようになりました。そうしたところで寝たきりの母をひとり残していく後ろめたさが消えるわけではありませんでしたが。
きくゑは久子に芙美の容態を尋ねることはしません。無関心なのではなく、自分が話すのを待ってくれているのだと久子にはわかっています。
「きくゑさん、この世から苦しみとか悲しみとか人を恨む気持ちとか悪いものが全部無くなって、みんなが幸せで笑って暮らせるようにどうして神様はしてくださらないんでしょう。母は子どもの頃崖崩れで母の祖母と妹を亡くしているんです。父親も早くに病気で亡くなって、母は家計を支えるために身を粉にして働きました。結婚した私の父は病弱で思うように仕事が出来ず、経済的に苦しい生活でした。これからは自分のしたいことをして生きてほしいと思っていたのに病気で動けなくなってしまって。母がかわいそうでならないんです。」
「本当ね。人生は重い荷物を背負って歩き続けてゆくようなものだというけれど・・・神様は困難をどう乗り越えていくのかを見ていらっしゃるのかしらね。それで立派に生を全うした人は神様にうーんと褒めてもらえるの。 ・・・自分で考えた人生の計画書を神様に出して生まれてくるんだって言う人もいるみたいね。辛いことにも耐えて魂を磨いて帰って来ますって誓って。 ・・・でもそれじゃあ生まれてすぐに亡くなる赤ちゃんや罪を犯す人は説明できないかしら。」
(神様に褒めてもらえる? それだけ? でもそうかもしれない。子どもの頃両親に褒められるのが何より嬉しかったもの。)
久子はそう納得していました。
(私は夫と子どもに先立たれるという悲しみを自らに課して生まれて来たんだろうか。そしてその苦しみに負けないように生きて来られたのだろうか。)
きくゑもまた考えていました。
嵐が去って青空が戻った日、サチがきくゑのうちの庭のキンモクセイの木を近づいたり離れたりしながら見ています。
「おかしいなあ、ここから見るとちゃんとあるのに近くに行くとなくなっちゃう。 きくゑおばあちゃーん。」
「はいはい、どうしたの?」
「ここからあの木のあそこの枝の葉っぱの先、見てみて。ダイヤモンドがあるの。」
「え? どこ?」
サチのいる場所にきくゑがしゃがんで指差すキンモクセイの木を見ると、葉の先に残る雨粒に太陽の光があたってキラキラ輝いています。
「ダイヤモンドくっついてるでしょ?」
「ほんと、ダイヤモンドだわ!」
「でもそばに行くと無いの。どうしてかなあ。」
(おひさまの光を反射する角度が変わっちゃうからね。)
雨がチリまできれいに洗い流してくれたまっさらな大気の中で、今しか見ることのできない雨粒ダイヤはひときわ眩しい光を放っていました。 空にはうろこ雲が浮かんでいます。
「あの雲を初めに描いたのはサチたちなんだよ。」
「えっ、サッちゃんが描いたの?」
「うん、神様がお留守の時に神様のクレヨン勝手に使ってみんなでお空いっぱいに大きなお魚描いたの。全部消せなくて神様に見つかって怒られちゃった。 きくゑおばあちゃんは神様のクレヨンで何描きたい?」
「そうねえ。ふわふわのパン、ソフトクリーム、綿菓子、羊さん。 サッちゃんは?」
「ドア。」
「ドア?」
「うん、お空の向こう側にいる人にいつでも会えるように。」
(・・・ありがとうね、サッちゃん。)
冬の終わりの厳しい寒さの未明、芙美が静かに旅立ちました。巡回の時に看護師さんが異変に気づいたそうで、久子が身支度を整えて病院に行った時にはすでに息はなく、体に取り付けられていた様々な器具も外されていました。病室は完全なる静寂の空間でした。音が無いだけでなく、動く物、生気を感じさせる物が皆無で、ほこりさえ舞ってはいません。そこに同化している芙美は、手が届かない違う世界に行ってしまったのだと久子に強く思わせました。
「お母さん、長かったね。何も出来なくてごめんなさい。」
それは芙美が倒れてから丁度丸1年が経った日でした。1日も違えずぴったり1年であったことに久子は神様の意思が働いているように感じられてなりません。久子にとってはとてもいい母親でしたが協調性のあまりなかった芙美は、人を不愉快にさせたりぶつかったりすることもあったでしょう。辛い状況に耐えることでそれらを清算して許される約束の時が1年後だったのだろうか そんなふうにも感じられます。
長い長い夢を見ていました。 きくゑと芙美は旧知の間柄のように手を取り合ってきくゑの家の庭を歩いています。そこには芙美の夫と両親、祖父母や妹もいます。やがて久子一家も加わって、暖かなひざしの中で花を愛でたり小鳥と戯れたりして心ゆくまで平安に満たされた時を楽しんでいます。芙美がブランコに座って、画用紙にクレパスでその様子を描き始めました。 言葉は必要ありません。微笑みを交わすだけで十分でした。
「お母さん、おばあちゃん きくゑおばあちゃんちのお庭見てすごく嬉しそうにしてたよ。」
「あんな風に幸せな気持ちが胸の奥から湧き起こってきたのは、僕は初めてのことだったなあ。」
「・・・幻じゃなかったのね。神様からの贈り物だったんだわ。」
きくゑはブランコに残された画用紙を手に取りました。
「これほど温かな思いでいっぱいになる美しい絵を私は見たことがないわ。 久子さんに渡さなくっちゃ。」
健一は久しぶりに電話した母から、父の腰の具合があまり良くないと聞いたことが気にかかっていました。何とかやっていくから心配しないようにと母は言っていたけれど、農作業が年々きつくなっていくことはわかりきっています。
「故郷で農業ができないだろうか。」
「そうね。サチが小学生になる今のタイミングで帰るのがいいかもしれないわね。でもきくゑさんとお別れするのは悲しいわ。 ・・・サチは承知するかしら。」
「そうだなあ。どう話したもんかな。」
「サッちゃん、沈丁花がもう咲きそうね。桜はどうかしら。」
話しかけても今日のサチは返事をしません。
(引っ越すことを聞いたのね。)
「ねえサッちゃん、お野菜が育つのを見るのってそりゃ面白いわよ。おじいちゃんとおばあちゃんのおうちにはにわとりさんもいるそうだから仲良くなれるかもしれないわね。」
「サチはずっとここできくゑおばあちゃんと一緒にいたいのに。」
「そうね。私もいつまでもサッちゃんと遊んでいられたらどんなにいいかしらって思うけど、サッちゃんはこれからいろんな所へ行ってたくさんの人と会って勉強もしてうんと楽しんで素敵な女の人にならなくちゃ。私はいつもサッちゃんのこと応援してるから。それにいつでも電話で話せるし、もう少し大きくなったらサッちゃんひとりでここへだって来れるようになるわよ。」
「お世話になったのに何もお返しできなくてすみません。」
「とんでもない。あなた方と会えてどんなに楽しかったか。それに健一さんがうちのあちこちを直してくださったからとっても住み心地が良くなって。ありがとうございました。 体に気をつけて。お元気でね。」
真一文字に結んだ口を開こうとしないサチの頭をきくゑは思いを込めて撫でました。車が動き出して手を振るきくゑの姿が小さくなると、サチはこらえきれずにとうとう声をあげて泣き出しました。それは駄々をこねるのではなく、どう抗っても状況を変えられないことをわかっているという泣き方でした。
(ごめんね、サチ。)
健一と久子の胸は痛みました。
健一が運転する車が見えなくなっても門の前で立ち尽くしていたきくゑの耳に楽しげな笑い声が聞こえてきます。
「えっ⁈」
庭のほうを振り返ると秀夫と愛子がブランコに揺られているではありませんか。
「お母さーん、こっちに来てー。」
「愛子! 秀夫さん!」
「さあ、きくゑは愛子の隣に座って。 よし、こぐぞ!」
ブランコは大きく大きく揺れます。
「しっかり手をつないで! 行くよ! それ一、二の三!」
秀夫の掛け声と共に三人は勢いよく空へ飛び出しました。そのままぐんぐん昇って行きます。きくゑは空の向こう側に行く時が来たのだと悟りました。 ふと下を見ると健一の車が走っています。
「サッちゃーん、秀夫さんと愛子が迎えに来てくれたから一緒に行くわねー。離れていてもいつもサッちゃんのこと思ってるからねー。」
泣き疲れて久子にもたれかかって眠ってしまったサチは、急に体を起こして車の窓に顔をつけるようにして空を見上げました。
「お母さん、窓開けて!」
「どうしたの?」
「きくゑおばあちゃん、あいちゃんとあいちゃんのお父さんと空飛んでたの。あいちゃんとあいちゃんのお父さんが迎えに来たから行くねって。あいちゃん、サチとお揃いのペンダント首にかけて笑ってた。」
「健一さん、戻ろう。」
「そうだな、引き返したほうがよさそうだ。」
きくゑは安らかな表情で再び覚めることのない眠りについていました。主を失った庭にその後花が咲くことはなく、蝶も小鳥も訪れなくなりました。ぴったりと心を閉ざしたように静まり返ったまま長い歳月が流れてゆきます。
夜の8時5分前、サチが家の窓から空を眺めています。
「お母さんも一緒にお星様見ていい?」
「うん。」
健一の実家に越して来た日からサチは眠る前に空を見るようになりました。引っ越しが決まって塞ぎ込むサチにそうするようにきくゑが提案してくれたのだろうと久子は思っています。一緒にいなくても同じ時刻に同じことをすれば繋がっていると感じられます。空の向こう側とこちら側できくゑとサチは心を通い合わせているのでしょう。 久子もまたきくゑと過ごした日々に思いを馳せます。久子が普段買い物に行く店もサチが通う幼稚園もきくゑが住んでいた三番町とは反対側の一番町にあり、三番町にはほとんど足を踏み入れたことがありませんでした。芙美が三番町の向こうにある西病院に入院したことできくゑに出会えたのです。あんなに近くにいたのだからもっと早く知り合って長く一緒にいたかったと久子は残念に思うのですが、出会うべき時に出会ったのだという気もするのです。芙美が病気になり、心が弱っていた久子のために神様が会わせてくださったのだと考えるのが妥当なのでしょう。1年近くいつも助けてもらっていました。きくゑは自分たちだけではなく救いを必要としている人たちをあの家で長い間そっと支えていたのだろうと久子は想像しています。きくゑをお手本に誰かの力になれるような暮らし方をしなくてはと久子は思うようになっていました。
「そう、ここ。ここだわ。」
サチは野菊の小さな手をひいてきくゑの家の前に立っていました。
「ここがいつもママが話してるきくゑおばあちゃんのおうち?」
「うん。でも随分変わっちゃったわ。」
20年もの間手入れする人もなく荒れ放題になっている庭をサチは悲しい気持ちで見つめました。
「ブランコは・・・」
そばへ行こうと足を踏み出した時、枯れ枝でもあったのか足の下でパチッと小さな音がしました。
「・・・サッちゃん? サッちゃん? ねえみんな、サッちゃんじゃない?」
「え? サッちゃん? どこ? サッちゃん? 本当だ! サッちゃん! サッちゃん‼」
サチが踏んだ小枝がたてた音でこれまで眠っていた花たちが次々に目を覚まし始めました。そしてサチと野菊の姿を捉えると喜びの感情がさざ波のように拡がり、やがて歓喜の渦となってサチと野菊を包みました。
「お帰り、サッちゃん! ようこそ可愛いお友だち!」
押し寄せる花たちの親愛の情の波にもみくちゃにされて、サチと野菊は体を動かすことも息をすることも出来ずに喘いでいました。
「ママ、苦しいよ。」
「うん。」
「でも嬉しくて涙出ちゃう。どうして?」
「うん、うん。」
歓迎の海に身を任せてたゆたいながらサチも野菊も幸福感に満たされていました。
生気を取り戻した庭には光が溢れて花の香りが漂い、朽ちていたブランコも元の姿に返り、すべてがあの頃のままになりました。
サチはずっときくゑとの思い出を胸の奥にしまって宝物のように大切にしていました。ですから夫の転勤先が元の家からそれほど遠くないと知って、新しい住まいを探すついでにどうしてもきくゑの家を訪ねてみたいと思ったのです。
(きくゑおばあちゃん、私たちここで暮らしてもいい? きくゑおばあちゃんの代わりにはとてもなれないけど、疲れたひとがちょっと休んでいけるような場所にここ、またできるといいかなって思うの。)
「ママ、小鳥さん鳴いてるよ。」
「うん、雲雀さんね。あれは天使が笑ってる声なのよ。」
「天使?」
「そう。 昔々、お空の上で二人の天使が風船をどっちが大きく膨らませられるか競争したの・・・」
ここは番町花屋敷
きくゑばあちゃん住んでいて
散った花びら集めては
1枚2枚と数えてる
おいでよ番町花屋敷
疲れた時にはここへ来て
色とりどりの花の中
緑の風に吹かれてごらん
すこーし元気になれるから
悲しい時にもここへ来て
思い出ブランコ揺られてごらん
むかーし何処かに置いてきた
記憶の底の光るもの
うつむく心を軽くする
誰もあなたを否定せず
何もあなたを傷つけない
あなたがあなたでいられるように
ひなたを真っすぐ歩めるように
静かに後押ししてくれる
ここは番町花屋敷
おいでよ番町花屋敷
毎日一生懸命生きている全ての皆さんに、荷物をおろしてほっとできる場所があることを願っています。