水底
湖面に写った入道雲が足元へと伸びる。炎天の最中、私達はアスファルトで舗装された畔を歩いていた。横手には大きな湖が広がり、その先に小さくなったビルの群衆が不安定に並び立っている。
道の途中、ふと大きな亀裂が目に入った。道路を横切るように伸びたそれは、覗き込むと透き通った川が湖へと流れている。キラキラと、陽の光を乱反射した水面の奥に、青い藻に覆われた標識が倒れている。身に生えた水草がゆらゆらと揺られ、たまに小さな水泡が水面へと浮かんでくる。周りを見れば、無数の金属片や棒のようなものが、同じように水底に沈んでいた。
「人魚とかいるのかしら」
湖を眺めながら妖精が呟いた。底に沈んだ街を、過去を彼女は想像しているのだろうか。いやしていない。
「変な寄生虫とか持っているかもしれない」
「一石二鳥じゃない!」
「寄生虫は一匹で十分だ」
「……私?」
何やら妖精が頭上で喚いている。が、私は構うことなく川を飛び越え、遙か先まで伸びた道を歩き出す。遮るものがないせいか、いつも以上に空が高く、広く、色鮮やかに感じる。手を伸ばせば雲の一つや二つ、簡単に掴めてしまいそうで、助走をつけて跳べばそのまま空高く舞えそうで、ふわりと涼しい風に乗って、私は夏の熱気を忘れてしまうのだ。
という妄想をしてみるが、それも吹き出す汗のせいでやめてしまった。頭の中にクーラーが必要だ。脳髄の代わりに、キンキンに冷えたビールを流し込みたい。身震いするほどに気持ちがいいはずだ。
湖面からいくつかの建物が頭を出している。湖が浅いのか、日光が水底まで届き、透明な水の中に無数の残骸が見える。そこは時が止まった世界だった。生き物の気配など微塵にも感じられない。しかし、水面から顔を出して息を吸うと、途端に五感が動き出し、荒れた息遣いと水を拭った先に、手をかざしてこちらを眺める私と目が合ってしまう。太陽が少し傾いても、まだまだ日差しは眩しかった。
大きな川に中ほどで折れた橋が架かっている。アスファルトと橋の堺には、少々恐怖を感じなくもない罅が両端まで続いているが、妖精様が行けと命じて来やがる。
「あの先端から飛び込むわよ」
「結構高いが」
「そうでもないわよ」
橋の先から川を見下ろす。水の透明度が高いせいで、飛び込んだらそのまま川底に激突してしまいそうだ。こうして主観で見ると、せいぜい2、3メートルでも、感じる迫力は傍から見るのとはまるで違う。
「恐怖を感じる前に飛ぶのがコツだ」
「準備運動くらいはしておかな―――」
地面を蹴って、宙に浮いて落下して、川の中に深く沈む。記憶に残ったのはそれだけだった。真っ暗な世界で、ただ冷たさだけを全身に感じる。自然に身を任せると、勢いのまま体は沈みきり、足が川底に達する。
私は目を開いた。その瞬間、手足の指先から電気信号が逆流する。脊髄を突き抜け、ありとあらゆる感覚が脳天目掛けて押し寄せる。力を失って漂う服の感触と、何も聞こえないはずが何か耳に聞こえてくる。眼球は泡の先に無色透明の世界を見た。川底に積もった大小様々な砂の一粒一粒の色と形が、はっきりと私の目に映っている。鉄か別の金属か、岩のような塊から生えた水草たちは、やけに生き生きと揺らぎ、その中を光の魚が不規則に泳ぐ。
気づけば泡が無くなっていた。私は底を蹴って体をぐいと伸ばす。水の流れを感じながら、ついに水面を突き破った。
「死ぬかと思ったわよ!」
妖精の怒号が私を再び水中へ押し戻す。しかし、彼女は両手足を使って私の顔面にへばりつくと、目玉に直接怒りを訴えてきた。どうやら上がるしかないようだ。
「準備運動の大切さはあんたが一番よく理解しているはずよ。いや私もだけど」
ごもっともな意見だ。
妖精様のありがた迷惑千万極まりないお説法は、結局夕方まで続いてしまった。というのも、同じような出来事が過去に数回、不幸にも起きてしまっていたからだろう。私はつくづく水と相性が悪いようだ。