夜風
真夜中。私はどこかの建物の屋上を散歩していた。電気も火も無い真っ暗な世界だが、目が慣れてしまえば、星というのは想像以上に明るいことがよく分かる。
満天と言うには少しばかり足りない星空を、適当な段差に腰掛け仰ぎ見る。妖精様も一緒に来れば良かったのだが、生憎彼女は朝も夜も弱い貧弱生命体らしく、散歩に出るときには既に眠りについていた。決して故意に置いてきたわけでは無い。へんに起こすと小言を言われかねないのだ。
「私を置いていくとはいい度胸じゃない?」
起こさなくても小言は言われるようだ。
「はぁ……綺麗ねえ。あの星々にも、私達と同じような者たちがいるのかしら。夜空を見上げて溜息をついて、温かい飲み物を飲みながらだったりしてさあ。いや冷たい飲み物かしら」
「あれとあれとそれとあれを線で結ぶと夏の大三角になる」
「あんたみたいな奴が他にもいるかもって考えると、なんだか苛々してくるわね」
いつの間にやら、頭上にいた妖精様にペしりと額を叩かれた。
妖精様を引き連れ屋上から屋上へと渡り歩く。足元には、真っ暗な奈落が至るところに開いているが、不思議と恐怖は沸かない。半分夢の中のにいるような感覚だ。夜の魔力が、死という事実を薄れさせているのだろうか。
妖精様が何かを見つけた。
「あれ灯りじゃない?」
ビルの下、暗闇の中で小さな光が揺れている。周りを薄い橙色のグラデーションが包み、建物の隙間から外へ溢れている。
「焚き火だ」
「焚き火ね。誰かいるのかしら?」
「おばけの仕業かも」
「あんたを捨てておばけを仲間にするわ」
私の瞳から一筋の流れ星が溢れた。
木を焚べるとパチパチと軽い音がする。心地よさが段々と眠気に変わり、いつの間にか妖精様は寝てしまっていた。コンクリートの水面に影が波紋を広げ、お尻にじんわりと暖かさを感じる。意識が音もなく遠ざかり、お尻が熱くなってようやく現世に引き戻された。何時間も過ぎ去ったような気がするが、実際にはそれほど経っておらず、立ち上がって熱々になったお尻を手で労る。
私は焚き火のもとを少し離れると、窓際から首を出して街を見下ろす。火の灯りは夜をより暗くし、ここだけポツンと宙に浮いているような気がしてくる。風が縫うようにビルの隙間を通り抜け、私の前髪を揺らした。
「あ、人」
いつもと少し違う声色だった。低い声だが、か細く華奢で、ふっと息を吹けば消えてしまいそうなものだった。妖精様はこんな声だったかと、私は疑問に思ったが、特に振り返るなどはしなかった。
「あの、焚き火、僕」
私は首を180度捻った。薄々感じていたものは確かに合っていたようだ。
目の前に、私でも妖精様でもない物体が、一人か一匹か一体か、緊張した面持ちで立っている。姿形だけ見れば人間だ。逆光で顔の造形はハッキリとしない。髪は肩程まであり、背丈は私の胸のあたりだろうか。小柄な体躯のせいか、背負っている鞄がより大きく見える。ここまで見れば完全に人間の少女だが、宇宙人という可能性も無きにしもあらず。なんなら顔だと思っていた部分が、実はお尻だったという可能性も充分にありえる。
「こ、こんばんわ」
人間だ。挨拶が出来るのは人間以外の何物でもない。
「あの、焚き火」
「……」
「あ……」
私は焚き火のもとへ戻ると、妖精様の隣に腰掛ける。少女も少し遅れてやってくると、私と火を挟んだ向かいに座り、背中に背負っていた鞄を下ろし、枝や木片を取り出して近くに積み上げる。お互いに沈黙が続き、唯一妖精様の寝言だけが聞こえてくる。その間、少女は私をじっと見ていた。抱いた足に顔を埋め、腕と髪の隙間から黒い眼で私をじっと凝視していた。
夜が更ける。焚べた薪が音を立てて、私ははっと目を開いた。いつの間にか、少女は足を抱いたまま横になって眠っていた。顔が顕になり、火の灯りでよく見えるが、寝ている隙にじろじろ観察するのも申し訳ない。明日、明るいときにもう一度自己紹介なり何なりをしよう。私は適当な場所で横になると、あくびをして目を瞑った。
灰の匂いで目を覚ます。寝相が悪い妖精様を、コンクリートブロックの隙間から引っ張り上げる。
「おはよう」
「ん〜おはよう。体ガチガチだわ」
そう言えばと、私は少女がいた場所を見た。
「昨日、少女が現れた」
「……もう朝よ?」
少女はいなかった。人がいた痕跡は何も残っていなかった。私達が起きるよりも先にどこかへ行ってしまったのか、はたまた全て私の幻覚だったのか。妖精様が言ったように、おばけだったのかもしれない。
「火消えちゃったけど大丈夫かしら?怒られたりしないかしら?」
「薪にされるかもしれない」
「さっさとずらかるわよ」
妖精様は薪にされても構わないので、急かす声を聞き流し、私はゆっくりとその場を後にした。