調査員A
郊外のベットタウンは、過去も現在の心地の良い静寂に包まれて、ゆっくりと時間が流れていく。1車線の細い道路の脇には、個人経営の雑貨店や美容室が並び、前面のガラス窓から無人の店内に日の光が差し込んでいた。
雑草に覆われた歩道を歩いて、ふと曲がり角で路地に入る。日陰の中をひんやりとした風が通り抜けた。
一本道の少し上り坂だ。両脇に建つ同じ造りのアパートの中で、一室だけ出窓が開いている。カーテンがゆらゆらと風に揺られて、時折部屋の中が覗く。もしかしたら人が住んでいるのかもしれない。
スタンドを立てて彼女は立ち止まった。自転車のチェーンが切れてしまったようだ。
荷台に載せた鞄から最後の換えを取り出す。肝心のチェーンリングも、歯が擦り減って緩くなっているが、換えのものはもう持っていなかった。最悪、チェーンの代わりにロープでも巻いて使うしか無い。
彼女は、擦れてボロくなった手袋を外すと、錆びだらけのフレームを優しく撫でた。
「流石に限界かなぁ……」
籠は歪み、サドルは潰れて乗り心地は最悪だ。ペダルなんて初めから付いておらず、そこら辺にあった端材を括り付けて使っていた。流石のママチャリも、ここまで使い込まれるとは思ってなかっただろう。
「フレームがひん曲がってる……もともと廃棄されてたものだし仕方ないか」
彼女は手際よくチェーンを付け直すと、スタンドを上げハンドルを押して再び歩き始める。幸いなことに、街中の道路は損傷が少なく、壊れかけの自転車でも充分快適だった。
しばらく道なりに進んでいると、彼女は立ち止まって自転車を停めた。驚きと喜びが混じった表情で、慌てて鞄からカメラを取り出す。何か珍しいものを見つけたのか、自転車のことなどすっかり忘れてしまっている様子だ。
彼女は電柱の脇に身を寄せると、首だけを出して道の先を伺った。
店先に並べられた椅子とテーブル。カフェのテラス席は、人がいた頃ならば話し声とコーヒーの香りに包まれていたことだろう。しかし、今そこにあったのは、テーブルに横たわった一人の少女の肉体だった。
10歳にも満たないような小さな体躯。青いワンピースから覗く、折れてしまいそうなほど細い素足は、その白く美しい肌を土で汚してしまっている。
抜き足差し足忍び足……彼女は少女に近づいてカメラを構えた。やけに鼻息が荒いのは、緊張からか、興奮からか。昼時の静かな街に、少女の寝息とシャッター音が数回聞こえてきた。
「妹に何してんのー?」
「んん!?」
突然の声に、彼女は文字通り飛び上がって驚いた。慌ててカメラを体の後ろに隠すと、声の元を探してキョロキョロと首を回す。
「上」
カフェの2階の窓から、声の主――茶色のワンピースを着た少女が彼女を見下ろしていた。
「そこから動くなよー!」
あろうことか、少女は窓枠に手足を引っ掛けると、2階から飛び降りようとして窓から身を乗り出した。いざタイミングを見計らって、見計らって、見計らって。
少女は、想像以上の高さに足が竦んでしまっていた。諦めて体を戻そうとするが、様子がおかしい。
「……待って。戻れない。死ぬ!」
彼女は少女を呆然と見上げていた。何だコイツ、と。しかし、ここで見捨てて逃げるような人間では無かった。
「上から引っ張るから、それまで耐えてて」
「分か――無理! 限界! か゛ら゛た゛お゛れ゛る゛ッ!」
いつの間にか、少女の体が体操のブリッジのように限界まで反り返っていた。見るからにキツい体勢で、いつ転落してもおかしくないだろう。
間に合わないと判断した彼女は、慌てて少女の真下に向かうと、腕を広げて飛び降りるように指示する。
「はい、どうぞ」
「無理! 怖い!」
「受け止めてあげるから!」
「怖いよぉ……」
進退窮まる。
そうこう騒いでいるうちに、寝ていた方の少女――妹が目を覚ました。
「お姉ちゃん……?」
なにしてるの? と聞く前に、姉は軽やかに宙を舞った。
「自転車だ! すげー!」
自転車の周りを、白いワンピースの少女がくるくると走り回る。白いワンピース――茶色に見えたワンピースは、どうやら汚れで色が変わっていただけだった。
はしゃぐ姉を横目に、妹が申し訳無さそうに彼女に謝罪する。それはもう、深々と頭を下げて。
「お姉ちゃんがごめんなさい」
「いやいや、こちらこそ」
彼女は額の汗を拭う。人を受け止めて体力を使ったからか、盗撮したことへの負い目からか。気まずい空気を壊すように、姉が大きな声で彼女に尋ねた。
「ねえねえ、乗ってもいい?」
「どうぞ」
「やったあ!」
姉がハンドルを掴むと、もげた。自転車はそのままバランスを崩して倒れ、次は反対側のハンドルも、もげた。あまりの衝撃的な出来事に、3人は茫然と数秒前まで自転車だったものを見つめる。最初に口を開いたのは彼女だった。
「まあ、元々壊れかけてたしね。綺麗に逝ってくれてむしろスッキリしたかも」
それは間違いなく彼女の本心であったが、姉妹からすれば、姉のために気を使ってくれたのだと、子供ながらに建前を理解していた。姉は、先程までの雰囲気からは一転、泣きそうな顔で女性に謝る。
「ごめんなさい」
「いいよいいよ。気にしないで。それより怪我してない?」
「うん……ごべんなざい」
彼女の優しさが少女の身に沁みる。ついに堪えきれなくなって、姉の瞳から大粒の涙が溢れだした。両手で拭うも、涙は止まるどころか、止めどなく溢れ道路に点々と跡を残す。
「……かわいい」
そんな少女の頭を、彼女は優しく撫でながら、自分の幼い頃の思い出に耽る。人はこのようにして成長していくのだろう。
――こうして人は堕ちていくんだ。
姉とは対照的に、妹は冷めた目で2人を眺めながら、ふとそんなことを考えていた。
自分が迷惑をかけておいて、なに泣きわめいてんだ。泣く暇があったら、代わりの自転車探してこいよアホ。
もちろんそれを口に出すことは無い。とても良くできた妹であった。
「ところで、2人はこんな場所で何してたの?」
姉が泣き止んだところで、彼女は2人に尋ねた。
「えっと……」
「妖精を探してるの!」
口籠る妹に対し、さっきまでの様子は何処へやら、姉が元気よく答える。
「この前見たんだよ!」
「そうなんだ。いいことあるかも?」
「絶対捕まえる!」
「いいことないかも……」
ふん、と鼻息を荒くする姉と、はぁ、とため息を付く妹。
妖精よりもこの2人を捕まえたいな、なんて冗談が彼女の頭に過ぎった。
ああ、そう言えば。運よく鞄にロープがある。




