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高架橋

 人が消えた街は、インフラが止まり水に沈む。夏場であったならば、火照った身体を冷たい雨水が冷やし、それはそれは最高に気持ちいい瞬間であっただろうが、春先の、冬の寒さをまだ残した今日は、水を見るだけで憂鬱になってしまう。温かさの中に感じる、ナイフのような冷たさが、本能的な恐怖を想起させ、思わず暴言が飛び出しそうになる。私は道の先を見て、深く深くため息を付いた。


 配管から溢れた水は、重力に従ってアスファルトの端を流れ落ちる。頭上を通る架道橋の下、窪んだ地形に水が集い、膝丈程の大きな水溜りが出来ていた。四角い世界の光が、静止した水中を透過し、影の中にぼんやりと白線が浮かび上がる。道は確かに続いているようだ。


 私は、靴下を脱いで裸足になると、濡れないようにズボンをこれでもかと、足の付根の限界ギリギリまで捲くりあげた。よし、と気合を込めて、つま先から恐る恐る水の中に足を入れる。冷たさが全身のうぶ毛を逆立てるが、それもすぐに治まり、私は息を吐いて肩の力を抜いた。水に沈んだ灰色の道と、そこに佇む足の甲。私は靴を拾い上げて一歩進む。慣れつつあった感覚が、再び神経を駆け上がる。


 等間隔で差し込む光が、足元に切り取られた空を映す。歩く度、水面に合わせてそれらが揺れ動き、一つが私の影で遮られた。上を向けば、錆びた鉄骨と大小いくつかのパイプが、澄んだ空とは対象的に、錆と砂埃に塗れ、かすかに見える濃緑の体は酷く汚らしかった。


 遠く、橋の先に青い空が広がっている。ただそれだけのはずが、一部を隠すだけで特別なものに見えてくる。空だけでは無い。歩く度に反響する水音も、この瞬間、それはとても神秘的で、自分の記憶だけに留めておくのが勿体なく感じられる。カメラがあれば───いや、私の腕では酷い仕上がりになるだろう。


 不意に太ももに水が触れ、私は思わずらしくない声を漏らした。さざ波が交わり、乱反射した光が壁に複雑な模様を作る。


「早くー」


水溜りの先から妖精様が私を呼ぶ。だからといって早く歩くことはしない。むしろ極限まで焦らしてやろうかと、しかし妖精様と目が合ってしまった私は、水をかき分けながら早足で彼女のもとまで向う。


「長靴が必要ね」

「長靴は必要ない」

「……あっそ」


 橋をくぐり終える。眩む程の陽の光。目が慣れて、片目を薄く開く。妖精様を追って、足に付いた水を振り落としながら、裸足のまま登り坂になった道路を進む。足跡は少しずつ薄れて、いつの間にか途絶えていた。靴を履くのが面倒くさい。濡れた足の甲のまま、靴下を履きたくなかった。


 坂の先に何があるか。視界が開けて、私は立ち止まった。緩やかな下り坂の向こうに、変わらず同じような街並みが広がっている。唯一違う点といえば、道路の代わりに、水路が張り巡らされていることだろう。家々を隔てるように、庭先の道は水に沈み、周囲よりも少し低い位置に建つビルは、2階からしか出入りが出来なくなっていた。


 空を映す、巨大な鏡面に浮かぶ街は、さながら迷路のように入り組んで混ざり合って、所々出来た緑の小島は、RPGで言うところのエリアボス的な雰囲気を漂わせている。


 更に遠く、住宅街を抜け高層ビルが建ち並ぶ区画は───反射光で目が眩む。


 外壁から飛び出した配管。至る所にあるそれらから、水が滝のように落ち、街を飲み込んでいく。排水溝やマンホールは、もはやなんの役にも立たない。


「ひえー。船がいるわね」

「手で漕ぐやつ」


 奇跡的に、どこかの家の庭にボートやらカヤックやらが放置されているかもしれない。坂を下りながら、ひたすら神様仏様妖精様に願うが、恐らくそれは叶いそうに無いだろう。ここは街の中心部であり、近くには川も海もないのだから。


 気がつけば、水際はすぐそこまで迫っていた。澄んだ雨水は、まるでそこに存在しないかのような、しかし白線が揺れて姿が顕になる。


「浮き輪なら見つけたけど。そこの家」


願ってよかった。


 船は見つからなかったが、代わりに近所で見つけた、浮き輪やウォーターマットレスを拝借して街へ出航する。手には空気入れとビーチボール。遠い夏を感じながら、寝転がって水路を流されていく。水深はおよそ1メートルくらい。真夏の炎天下であったならば、躊躇うことなく泳いでいたはずだ。飛び込んで、気泡の感触を瞼に感じる。それらは想像に難くない。


 電柱に引っ付いた灰色の箱が、半分水中に沈んでいる。下に視線をやると、歩道脇のガードレールが途切れて、横断歩道で自分の影が揺れていた。私は、浮き輪片手に箱の上に乗って、そこから民家の塀へ飛び移った。


 高くなった視点は、ただそれだけでとても新鮮なものだった。幅数十センチの塀を軽快に伝う。飛び出した庭木は、枝を無理やり押しのけながら、多少の擦り傷は無視して、取り憑かれたように行く。


 民家の窓がすぐそこに迫り、少し首を伸ばせば、カーテンの隙間から部屋の中を覗くことができる。当然のように人は一人もおらず、しかし覗く一瞬前までは、そこで生活していたような、作りかけの料理も開けっぱなしの冷蔵庫も、切り取られた時間の中で行き先を見失っていた。いいや、行き先は無くなってしまっていた。じきに自然に飲み込まれて、私の記憶からも消えてしまうだろう。




 T字路に行き着く。好奇心が、左右にどこまでも伸びてしまう。あの道の先には何があるだろうか、と。道に限らない。直進して、塀を乗り越えて、民家を突き抜けることも選択肢の一つだ。戻ってマットレスに乗ろうかと、少し悩んで出た結論は、この好奇心は満たさないでおく、というものだった。偶にこういう日があるからこそ、満たしたときの充足感が、それはもう格別なものに感じられるのだ。


 塀に沿って左に進む。足が止まってしまった。やっぱり右にしようか。


「優柔不断か!」


頭の上で妖精様がキレた。私は、口先では好奇心が〜など嘯いたが、正直限界ギリギリまで悩む、一緒に買い物したくないタイプの人間であった。妖精様がいなかったら、私は一生この塀の上で過ごしていたことだろう。


「この間は右だったから、次は左でいいんじゃないかしら。ていうか、こんなことで悩んでたら禿げちゃうわよ」


多分の未練を残しつつも、私は左の道へ歩みを進めた。




 停止線を越えると、街並みは住宅街から変わって、ビルが並ぶ中心部の広い大通りに出た。水深が浅くなり、膝丈程の高さで道路一面に水が張っている。

 私は、ズボンの裾をたくし上げると、塀から勢い良く飛び降りた。盛大な水しぶきと、妖精様の叫び声。カーブミラーに、ずぶ濡れの姿が映る。靴の中に、冷たい水が染み込んできて、今更ながら後悔してしまうが、それとは別に、ずっと感じていた緊張がようやく弾けた。


「この程度では怒らないわよ。今日は機嫌がいいから」

「わーい」


その言葉はあまり信用出来ない。いいや、信用出来ないのは自分の勘か。


 道の脇に建つビルが、徐々にその数を増していく。コンビニや美容室、一見よく分からない店が並び、その前の歩道を喧騒が往来する。目を開くと、朽ちた店先の看板が、水中に沈んでいるのを見つけた。聞こえるのは波の音だけだ。


 花壇の上を行く。歩道に敷き詰められた色とりどりのブロックは、私が歩くたびに揺れて、足元ばかりに気を取られていると、街路樹の枝に頭をぶつけてしまう。枝とともに、葉が水面に落ちる。ぶつけた箇所を擦りつつ、私は顔を上げ、宙に広がる大きなペデストリアンデッキを見つけた。思わず早足で、デッキに繋がる階段へ向かう。


「ようやく解放されるわね」

「足が凍るとこだった」


 私は濡れた靴を脱いで、放り投げ───止めて、階段の適当な場所に立て掛けておく。いつか乾いて、取りに来る日が来るかもしれない。来ないかもしれない。来たときに、私は過去の自分に感謝することだろう。

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