フキダシ
「ここは夢の中らしいよ」
彼は振り向きざまにそんなことを言った。私はそれを半ば呆れ顔で、しかし心の何処かでは、彼のその言葉の先を待ち望んでいた。
遥か下方に打ち捨てられた街を見下ろしながら、彼は何を思うのか。自分のことを仮想生命体なんて宣うが、確かにそんな冗談は、生身の人間からは出てこないだろう。そもそも、予め用意されていたものに過ぎない。
彼は胸ポケットからボールペンを取り出すと、まさに今着ているシャツ、その裾辺りに文字のようなものを描く。何かしらの記号なのか、ただ字が汚いだけなのか、途中でインクが掠れても、彼はペンを振って無理やり書き終えた。
「忘れないようにね」
彼の白いシャツには、そうして描かれた文字が無数に散らばっていた。アーティスティックな服、いやただの汚れた服だ。
私の顔を見た彼は、露骨に不満そうな顔をする。ボールペンを仕舞うと、私を置いて一人で橋の向こう側へ渡ってしまった。追うこともなく、私は手摺を手の平で撫でながら、パラパラと落ちる錆の感触を楽しむ。それらの多くは私の手に赤褐色の跡を付け、残りは風に吹かれて、いつか土の上に積もるのだろう。遥か遠い未来の話だ。
「もう少し速く歩かない?」
彼に急かされる。私は息を吹いて、手にびっしりと付いた錆を飛ばした。
宙に架けられた橋を渡り終え、公園の脇を通り過ぎる。緩やかな段差の階段を、微妙に歩幅が合わないことに不快感を覚えながら上っていく。公園の入り口に到着すると、私の少し前を歩く彼が、少し休もうと、道の端にポツンと設置された、金属製のベンチを指さした。背後にある頼りない柵の向こうには、相変わらず街が広がっている。
正方形に区切られた白い石畳は、所々が欠けており、例えばそこを踏むと下へ落ちる、みたいなゲームを脳裏に思い浮かべながら、ベンチに腰を下ろして足を伸ばした。私が座るのと同時に、先に座っていた彼が立ち上がった。それは若干、いやかなり腹立たしい行動ではあったが、彼に悪意がないことは理解していた。が、半ば約束事のように、私は不満を顕にする。
「違う違う! 今のは偶然だから! ほらあれを見てよ!」
彼の指先を辿る。公園に生えた木々の隙間から、小さな半球形の建物が見えた。くすんだ白色のそれは、私がここに来た理由であり、と同時に見たくないものでもあった。
───違う。
それは思い込みに過ぎない。演じている、と表したほうが正確だろう。私は何を焦っているんだ?
ベンチから立ち上がる。近くにあった電灯の胴体部を掴み、つま先を地面に付けて足首をぐりぐりと回しながら、彼の後ろ姿を眺める。いつものように、腕を柵に乗せて街を見下ろしていた
右足、左足。軽い準備体操を終えた私は、彼の横に並び、同じよう柵に寄りかかる。
「お別れかあ」
それは誰に言ったわけではなく、強いていえば、自分自身に言っているかのようであった。淡々とした、事実そうであるのだから、一々感情を表す必要は無い。しかし、あまりにも無機質だった。
「人生で一番歩いた気がする。いや歩いた」
休憩を終えて、再び公園を横目に石畳を進む。建物まで、一時間もあれば到着するだろう。私は相変わらず彼の後ろを、観光客のように首を回しながら歩いていたが、ここまでくると文句すら言われなくなるらしい。彼はただ、呆れたように私を見ていた。
建物は予想以上に大きく、正面に設置された両開きの自動ドアは、剥げた塗装の下から黒い金属板が覗く。小さな窓はガラスが割れていた。取っ手はどこにもなく、果たして開くだろうかと、心配を他所に、彼が近づくと扉は錆を巻き込みながら大きな音を立てて開いた。内部構造はシンプルで、壁に沿うように並べられた座席が、円形に部屋を囲み、中央の支柱には手摺が取り付けられている。目立つ汚れもなく、変わらず綺麗に保たれているのは、彼らが掃除しているからだろう。
「完全に止まるまでは、座席に座るか手すりに掴まってね」
私は言われた通り、中へ入って手すりに掴まった。冷たく、少しざらついた感触が、手のひらに伝わる。私が定位置を決めると、部屋の下方から、機械の駆動音が聞こえてきた。
彼は不完全な生き物だ。
音とともに扉が閉まる。急に押し寄せた現実感で、私は咄嗟に彼の顔を見た。
なぜなら、彼は私を忘れてしまうからだ。
扉の外に立つ彼と目が合った。まだ何時もの表情だった。扉が完全に閉まり、彼の姿は小さな窓から僅かに見えるだけだが、それを見る必要はもう無い。
しかし自我があった。忘れた、という事実は記憶していた。
部屋が大きく揺れ、駆動音が甲高いものへと変わる。
感情は私のものと大差無かった。
重力が軽くなる。部屋が下降を始めた。窓から彼の姿が見えた。頭上に表示されたホログラムの文字盤は、私と初めて出会ったときのように、事務的なものであった。
「ご利用ありがとうございました」
部屋は地上へ向かって下降を続ける。窓に映る巨大な支持基盤の裏側は、無数の導管が連なり、そこに混じって、太い筒に覆われたレールが規則的に敷設されている。
随分と長居してしまったようだ。今のうちに言い訳を考えておこう。ふうと息を吐いて、私は座席に腰掛けると、頭の中に響く説教声を少し懐かしみながら、静かに目を閉じた。
重たい衝撃が私を起こす。扉が開き、冷たい空気が流れ込んでくる。中に混じった、植物の青々しい香りは、ずっと嗅いでいると鼻の奥が痛くなるため、やはり好きにはなれないが、今だけは良い香りに感じる。明日になれば、また臭いと思っているだろうが。
扉を超えると、忘れていた記憶が一度に蘇る。少し周りを見渡して、同じ場所に戻って来られたのか少し不安になる。時間が止まったように静かな街だ。何も変化が無いように見えて、細部に注視すれば……その必要は無かった。道を挟んで正面に見える建物は、入り口のシャッターが大きく凹み、思い返せば、最後に見たものはそれだったような気がする。途端に、胸から湧き上がっていた不安感が、一切消え去った。時間なんて、一秒たりとも止まっていない。空を見上げれば雲が流れているし、ビルの屋上から垂れた植物は、隣の建物との間に橋を掛け終えていた。不規則に曲がった頼りない蔦が、そこから更に横へ横へと、恐ろしいほどの成長速度で街の空を覆っている。
ショーウィンドウに姿が映る。少し髪が伸びている。私は手を持ち上げると、頭の上に被せた。
「おい」
手の甲に重みを感じた。払い除けようとして、寸前のところで手の動きを止める。あまりにも無意識だったことに、私自身も驚き、それだけの時間が経ったという事実が、私の額からうっすらと汗をにじませた。彼女は、恐らく私とは異なる方向を向きながら、淡々とした口調で私を迎えてくれた。
「怒る気すら起きないわね。まあ……おかえり」
嬉しさと、それを隠そうとする恥ずかしさが、私の口角でせめぎ合っている。申し訳無さは一切無く、後悔も反省もする気は無かったが、自分の意志に反して口が動く。
「誠に申し訳ございませんでした」
「……よろしい」
言葉に反して、彼女はかなり怒っていた。少し理不尽に感じるものの、その理由は考えるまでもない。しかし、その怒りの大半は、他の感情を隠すためのものに過ぎず、澄ました態度から滲み出るそれが、私はとても嬉しく、ずっと待ち望んでいたものであった。頭の上に感じる重みも暖かさも、『彼』には無かったものだ。いつか、冗談のように言った言葉が、喉元を何度も反芻して、曖昧になった現実を遂に認識できなくなる。
「それでどうだった? 面白いものはあった?」
「……特に」
だからだろう。私は上手く言葉にできなかった。妖精様はそれを察したのか、すぐに話題を変え、それ以降聞いてくることもなかった。
「ふーん。私は一昨日まで、ムキムキのマッチョと筋トレしてたわよ」
今までの思考が爆散した。
妖精様が筋トレ……そんな……ありえない。私は夢の中にいるのか?




