屋上
私は跳ねるように起き上がって、目の前に迫った顔面から距離を取った。私が動いても、それは襲ってくるような様子はなく、それどころか、模型のように私を見つめたままの姿勢からピクリとも動かない。黒く染まった瞳孔は、一切の感情無く私を見つめている。
「人間、ではないみたいね」
その生き物は、腰の辺りから白い翼が生えていた。鳥人間か、天使か。記憶が正しければ、その翼は私が八階付近で見かけた、宙を舞う物体のものと酷似している。ただ、それ以外は完全に人間の姿をしており、服装もTシャツにスカート、ブーツで、髪は茶髪のショートカット。ボサボサ頭を除けば、ごくごく普通に街を歩いていそうな格好だった。普通の少女。故に、一層翼の存在が際立ってしまう。
強く風が吹いて、少女が翼を羽ばたかせた。上昇気流に乗って空へ舞い上がるかと思いきや、彼女は風から身を隠すように、コンクリート壁の側に寄って小さく蹲る。私は少し落胆してしまった。空を見上げ、雲の影に自分の姿を妄想してしまう。朱に染まった羽で雲を飛び越え、陰る街の全てを一目に収めるのだ。彼女が何故それをしないのか、私には全く理解出来ない。
「あの子、ずっとこっち見てるんだけど。瞬きすらしてないわよ。あ、瞬きした」
少女の目線をひしひしと感じる。目は口ほどに―――なんて言うが、その情報の大半は受け手次第で如何様にも変わるもので、現に私は「帰れ帰れ帰れ」と急かされている。何のために屋上へ来たのだろう。苦労して開いた扉へ近づき、床に付いた錆跡を見て、思わずそんな考えが頭を過ぎってしまった。ドアノブを引く。扉は途中までしか閉まらない。僅かに開いた隙間が気になりながらも、私はようやく少女の目線から解放され、晴れやかな気持ちで階段を下りる。
「ちょっと待って。こっそり覗いてくる」
妖精様は、扉の隙間から少女の姿を盗み見る。もしかしたら鶴に戻っているかもしれない。というようなことはもちろん無かった。
「……いない」
遅れて、私も扉から屋上を覗く。彼女の言葉通り、ものの数秒で少女は姿を晦ませた。私は空を見上げる。いない。屋上の柵に近づいて街を見下ろし、動いているものを探したが、やはりいない。そもそも柵が邪魔でよく見えない。天から羽が舞い落ちてくるということもなく、彼女の存在と自分の目を疑いながら、私たちは屋上を後にした。
僅かに差していた光が消え、いよいよ階段が暗闇に包まれると、淡く光る妖精様を頼りに、適当な階に出て夜を明かす。幸いそこには椅子や机があり、特に床は柔らかい素材のもので覆われていたため、心置きなく横になって手足を伸ばせた。
「やっぱり水は出ないわね。体洗いたかったのに」
部屋の隅にあった給湯室から、妖精様が残念そうに戻ってきた。それ程汚れているようには見えず、むしろ何時にも増して美しいまであるが、本人の感覚は異なるらしい。私も、自分の腕を鼻に近づけて匂いを嗅いでみる。
「問題なし」
「いや少し臭うわよ」
妖精様は嗅覚が発達しているようだ。
私は、窓際にいくつか椅子を並べ座面に寝転がる。外に見える街は黒一色に染まり、遠くに見える黒緑色の山の背後で、無数の星々が空へと上っていく。妖精様はもう寝たのか、ガラスに隔てられたここは、何も聞こえない無音の世界であり、その事実がさらに鼓膜と脳の神経を切断してしまう。ふと、今自分が寝ていたのかどうか、曖昧になるときがある。
私は上体を起こして、椅子の背もたれに寄りかかる。いまいち寝る気になれず、というよりも、椅子の座面は想像以上に固く潰れており、寝心地が最悪だった。私は何時ものように、床に寝転がろうと立ち上がり―――その時、背後で微かに物音がした。原因は無数にあるが、しかし確実に言えるのは、その音は妖精様のものではないということだ。根拠は一切なく、己の完全な直感だが、どちらにせよ私の心臓はとてつもない速度で鼓動していた。そしてこの思考の最中、何も起きていないということは、その音が妖精様のものではないことの証明でもある。私は躊躇うことなく振り返って、安堵した。なぜなら、そこに佇んでいたのは屋上で出会った少女だったからだ。ある意味想定内であり、しかし少女の行動に関しては、私の想定の範囲をゆうに超えている。考えたところで答えを出せるわけがなく、ならばと私は椅子に座り直した。止まった思考の中で、少女が近づいてくるのが分かる。そのまま私が動かずにいると、彼女は私と一つ間を空けて椅子に座った。私のことをひたすら見つめているが、そこに知性と呼ばれるものは感じられず、本能的な興味によって動いているようだった。
暗がりの中。窓から差し込む夜光が、彼女の翼を照らす。妖精様の硝子細工のような羽も良いが、やはり羽と言えば、天使が持つ銀翼と相場が決まっている。私は悪いと自覚しながらも、好奇心を抑えられず、恐る恐る彼女の羽先に手を伸ばした。例え触れられなくとも、彼女が嫌がって何処かへ行ってくれるのなら、いやむしろそちらの方が目的かもしれない。しかし、私の予想に反して、あっけなく指先に柔らかい感触が伝わってきた。彼女の視線は私の手に向いているが、抵抗らしいものはなく、自分の羽を弄られているにも関わらず、只々それを不思議そうに見ているだけだった。
自分の手を見て、ふと我に返る。途端に、自分の取った行動が申し訳なく感じてしまい、私はいそいそと腕を戻すと、椅子から立ち上がって、逃げるようにその場を離れた。何か、とても悪いことをしてしまったように思えてならない。悪い、とまでは行かずとも、少なくとも良いことではないのは確かだろう。変態的であったとも言える。
いつの間にか、私は非常階段の前にやって来ていた。金属製の扉に手を突くと、無機質な冷たさが、今だけは心地よい。無意識に止めていた呼吸。金地と共に、胸に溜まった息を吐いて、背中を扉に預けるべく体を回した。
「―――ッ!」
横隔膜が跳ね上がった。反動で喉から声にならないものが飛び出す。少女が真後ろに立っていたからだ。心臓が痛いくらいに鼓動し、それでも私は、自分の胸のあたりに手を当てて、心臓があるべき場所にあるかを確認した。
私は扉を押し開いて、後ろから音もなく付いてくる少女と共に階段へと出る。何も見えない真っ暗な世界だが、手探りで手摺を掴むと、妙に安心してスイスイと階段を登ることができる。自分の足が、次の段差が何処にあるのか、記憶していたようだ。背後には変わらず気配を感じる。しかし、暗闇の中に木霊するものは、私の足音以外に存在しない。彼女は、私の幻覚……段差に躓いて、それまでの思考が霧散した。強打した脛の痛みが、じわりと頭を覆っていく。私は、痛む箇所を無言で、狂気的なまでにさすり、意味もなく自分の運命を呪った。
何度目か。鉄製の扉を見るのは。私は足で乱暴に扉を蹴飛ばし、そして脛に出来た痣が爆発して、自分の馬鹿さ加減を呪うのだ。
冷たくて心地よい風が、首筋の汗を拭った。肌寒い空気は、ここへ来たことを若干後悔させるが、息を吸って目を瞑る。瞬き。目を開いて、頭が冴えた。深呼吸、と呼ぶほどのものでもなく、しかし空に近いここは、心做しか空気が澄んでいて、柄にもなくそのような行動をしてしまう。
星の明かりは、屋上を照らすには不十分だった。金網から見下ろした街は、人間の目では何も認識することが出来ない。脳に送られる視覚情報は無く、ただ暗いとしか表現出来なかった。直ぐ近くにあるはずのそれらよりも、遥か遠くで移ろい行く夜空のほうが、見えるのものの数が多いのは、何もロマンチックな答えがあるわけではなく、割合的にはむしろ見えていないもののほうが多いのだろう。
私は金網から手を離す。指先に付着した錆を、服の裾で拭い、ふと少女の様子を伺った。
「……綺麗」
それは、声だと思えば声で、ただの雑音だと思えばそう聞こえるような、風に紛れて消えてしまった。
少女は、引っくり返らんばかりに空を見上げる。何時もの夜空。代わり映えのしない、もはや見飽きたまであるが、少女は初めて星を見たような反応だった。私は適当に地面に寝転ぶ。単純に疲れていた。後頭部近くのコンクリート片を払い除け、丁度いい体勢を見つけると、少女の姿を横目に、私は目を閉じた。




