山間
竹林に囲まれた道を行く。風が吹くと、林の隙間から差した陽の光が、足元の枯れた竹の葉を斑に照らす。端にあるガードレールは錆付き、反対の石壁は、隙間から生えた雑草で、後数年もすれば完全に隠れてしまうだろう。聞こえてくる音、漂う香りにどこか懐かしさを感じながら、私はゆっくりと坂道を登る。
「もしかしたら……森を抜けた先に誰かいるかもしれない」
「いない」
「気合入ってるわね〜」
坂道が終わり、緩やかなカーブに差し掛かる。遠くの方から微かに水の音が聞こえ、自然と歩く速度も増してしまう。周囲は竹林と雑木林が混じり合い、一歩進む度に空気が変わる。植生や光の様相のような見た目の変化に加え、落ち葉を踏んだときの音、葉擦れなど、一つとして同じ瞬間が無かった。あっという間に体感温度が下がり、川の気配を肌で感じ取る。
私はすぐそこにあるはずの川を見るべく、開けた場所が無いか、周辺の林を見渡しながら歩く。一瞬、甘い香りを感じ、元を辿ろうと首を回したが、森の中に紛れて消えてしまった。
「あそこから川に出られるんじゃない?」
道の途中でガードレールが途切れ、そこから下へ階段が伸びている。階段と言っても、適当にブロックを積んだだけの代物で、段差は高く、手すりなどもない。苔生したコンクリートに手を付きながら、一歩づつ慎重に階段を降りると、行く手を阻むように倒木が横たわっていた。湿気を帯びた朽木は、足で踏むと、なんの抵抗もなく紙のように潰れ、湿った黄色い木屑だけが足の形のまま残る。
さらに下ると、川の音がすぐそこから聞こえてきた。深く息を吸って、澄んだ空気を肺へ送る。大小様々な岩が木々と混ざり合い、道と呼べるものは森に呑まれて消えていた。よそ見をして歩こうものなら、私のように石に躓いて痛い目を見るだろう。
「大丈夫? 変な音したけど」
私は恐る恐る膝を見る。ぶつけた所が青紫色に変わっていた。
へっぴり腰のまま森を抜けると、周囲の木々が減り、数刻ぶりに明るい日差しを全身に感じる。足元の岩は丸みを帯びたものが多く、陽気を蓄えてほんのりと温かい。つい先程まで少し肌寒いくらいだったはずが、今やこのまま猫のように、岩の上で昼寝をしたいくらいだ。
「川だー!」
一足先に妖精様が川へ向う。私も、彼女の後を追って大きな岩に登り、開放感と少しばかりの達成感に浸る。いや浸っている場合ではない。
開けた視界の先を、大きな川がゆっくりと流れている。遥か先の水源から、森を抜け山間を抜け、今この瞬間、私の目の前を流れていた。水面に出来た影は、浅瀬から川中にかけて、青の階調が変化する。雨水か雪解け水か。風が吹いて木々が揺れると、手のひら程の葉が川面に舞い落ちた。葉はまるで意思を持ったかのように、水の流れから逸れて、私の近くの浅瀬へとやって来た。屈んで掬う。濡れた葉は、鮮やかな緑色で、黄緑色の左右対称に伸びた羽状の葉脈が、まさに自然の芸術的な美しさを醸し出していた。表面を伝う滴が、光をきらきらと跳ね返しながら私の手に落ちる。
「久しぶりの水浴びよ!」
「いや……冷たいから止めておこう」
「このくらい平気よ」
季節は春先。この時期に川で泳いでいる奴がいたら、そいつは間違いなく大馬鹿者だ。唇を青くて、震えて岸に上がってくる様が、容易に想像できる。
私は、泳ぐことを諦めて川辺の岩に腰を下ろす。近くにあった小石を、対岸へ向けて放り投げると、ポンという音と共に、水面に飛沫が立つ。波紋は直ぐに攫われ、浅瀬の急流に巻き込まれて消えてしまった。水の音や森の音は常に変化し続けているが、何故かこうして立ち止まっていると、時間の存在を忘れてしまう。
「さ、さむい」
青くなった妖精様が、私のもとへ飛んできて太ももにしがみつく。ガタガタと震えており、流石の私も、今の彼女には追い打ちが出来なかった。
「あのまま泳いでたら気を失って流されてたわ」
「いってらっしゃい」
私は再度石を投げる。次はしっかりと勢いを付け、水面を滑らせるように―――
「一回しか跳ねてないじゃない。私がお手本見せてあげる」
元気になった妖精様は、余裕綽々な様子で石を投げるのかと思いきや、その小さい手に持っているのは、同じように小さな石粒だった。彼女はそれをひょいと投げる。が、何処へ飛んでいったのか分からない。
「五回も跳ねたわよ!」
私は何も言えなかった。
山間部にある小さな村は、周囲の山々とは対照的に、水路に沿って、開けた田畑の跡が並んでいた。木造の建物が多く見られ、生活感が当時のまま残されている。そんな筈はないと分かってはいるが、どうもこの村には、人が住んでいるような気がしてならない。
畦道を抜け、民家の脇を行く。道には球果が転がり、塀の傍らに枯れ葉が寄せてある。頭上を見ると、家の庭に植えられた針葉樹が天高く伸びていた。大きな平屋の家だ。庭に物干し竿が転がり、子供のものと思われる玩具が、玄関の脇に置いてある。
私は靴を脱いで、縁側のガラス戸から家の中を覗く。もし人がいたらと後になって気づいたが、結局その心配は無用だった。
「誰もいない」
「いたら私たち不審者ね」
戸の隙間から妖精様が家の中へ入る。彼女をよそ目に、私は、縁側の比較的綺麗な場所に腰掛けると、靴下まで脱いで、そのまま仰向けに倒れる。気がつけば、空は赤みを帯びて雲に影が出来ていた。足の裏に風を感じる。陽春の夜風はまだ冷たさが残り、しかし歩き疲れた足には心地よいものだった。
「ここにいたの」
私の隣に妖精様が座る。何やら写真のようなものを持ってきていた。
「この家の住民かしら?」
家族の集合写真のようだ。
嫌なものを見てしまった。




