直方体
心地よい風が傍を通り過ぎた。私は一息ついて後ろを振り返る。誰もいない街。綺麗な青空の下に広がる灰色の世界は、雲の影と所々に出来た緑の小島が、カラフルな色合いを作り出していた。
背景と化してしまった山から、街の中を通り抜け、ひたすら住宅の残骸が並ぶ丘を登り続ける。過去を思い出そうとするが、自分がどうやってここまで来たのか、夢のように霞んで消えてしまう。寝不足だろうか。私は階段に腰を下ろした。
「似たような建物ばかりで飽きちゃう。いかにも機能性だけを重視した真面目馬鹿が建てそうな家ね」
「夜になると七色に発光する可能性がある」
「最高じゃない」
乳白色の四角い住宅は、段状に整備された丘を、下から上へ等間隔で並んでいる。点々とある公園もどこか人工的な自然で、人がいない今、ここは少し寂しい街だった。その無機質さは、遠くから感じた雰囲気と異なり、実は何処かで道を間違えたかもしれないと、しかし階段の先に見える大きな白い直方体がその可能性を否定する。
ジグザグに進む階段が家々を繋ぎ、一つの大きな塊になったそれを断つかのように、広い坂道が何度も畝る。ようやく階段から解放された私は、草の生い茂った歩道を軽快に進んでいた。
途中道を逸れ、何もない平坦な広場で足を休める。広場の一部には、アスファルトに薄っすらと白線が残っており、転落防止用の金網は、少し揺らしただけで赤褐色の破片がポロポロと剥がれ落ちる。手のひらは茶色く汚れ、服の裾で拭うと、今度は服に色が移ってしまう。
私は、柵の壊れた場所から住宅街を見下ろす。コンクリート擁壁には植物が芽を生やし、突き出た配管からは雨水が、下の同じような場所へ流れ落ちる。そんな景色が何段も何段も続くと、いつの間にかどこを見ていたか見失い、代わり映えのしない景色に飽きて私はその場を離れた。
「あれって鏡じゃない!?」
妖精様はカーブミラーを見つけると、とても嬉しそうにはしゃぐ。一般的な形状のそれは、支柱が錆びてオレンジ色の塗料が捲れており、まだら模様の姿は、見ていると背中がむず痒くなってしまう。当然のように、鏡面も水垢で汚れ非常に汚い。そんなもののどこが良いのだろうか。
「このちょっと丸い感じがいいのよね! 世界が広くなったみたいじゃない?」
ミラーに近づくと二人の姿が鏡に写る。下から見上げた私達は、等身が歪み、美しい妖精様も鏡の向こう側では変な格好だった。妖精は鏡に映らない、みたいな設定などは無いらしい。
昼を過ぎ、妖精様が優雅に寝息を立てている。そんな彼女を起こすかのように、大きく風が吹いた。私は、最後の一段を上り終えると、手摺から手を離し立ち止まる。
「ん……到着? 結構早かったわね」
「2週間ほどかかった」
「嘘つけ」
私達は揃って、目の前に建つ白い直方体、集合住宅を見上げる。無数に飛び出したベランダは、乱雑な秩序に沿って、吹き出物のように綺麗な肌を見苦しい姿に変えていた。庭だった場所は長い間放置され、アスファルトから一歩外に出ると、私の体はほとんど緑の海に消えてしまう。仕方なく引き返し、道に沿って建物の裏に周る。
奥の建物まで突き抜けた大きな広場は、点々と、自動車が同じ方向を向いて捨てられており、広場の一画には自転車が無造作に積まれている。柵を隔てた先には荒れた森が広がり、木々の隙間から微かに受水槽が姿を覗かせているが、あと数年もすれば完全に飲み込まれてしまうだろう。
建物の裏側には入り口が5つ並び、細い階段が最上階まで続いていた。近くで見ると思ったよりも背の高い建物で、屋上に上がれば素晴らしい景色が眺められるだろう。私と妖精様は、それぞれ別の階段を上ることにし、彼女が入り口に入ったのを見て私も近くにあった階段へ向う。
空っぽの郵便受けを過ぎ、人が二人通れるか通れないかの階段を上がる。壁に細かい罅が走り、足元に剥がれた破片が散らばっている。一歩段差を上がるたびに、それらが砕ける音が耳に張り付き、私にも羽が付いていたらと、この時ばかりは妖精様を羨ましく感じてしまう。少し上ると、緑色の玄関扉が二つと、壁に周囲と同色に合わせられた鉄製の扉、おそらくその中には、電気や配管に関わる機器が詰められているのだろう。開けるには鍵が必要で、玄関扉も同じく、脇にあったインターホンを押しても開くことはなかった。中が気にならないと言えば嘘になるが、かと言って無理やりこじ開けるのも、それはそれで私の信条に反する。
最上階の踊り場。周囲に遮るものはなく、腰壁から身を乗り出せば、遥か先までまだ私達が知らない世界を見通すことができる。荒れた森の先に広がる景色は、私の想像していたものとは少し違っていて、白いコンクリートが半分ほど顕になったものや、風に煽られて今にも崩れてしまいそうな鉄製の骨組みなど、作りかけのものが無数に点在していた。もしあれらが完成していたら、この街はどれ程の規模になっていたのだろうか。ここから見える景色全てが、一つの街になっていたかもしれない。
十個の扉の中で唯一、開いているものがあった。私は音のならないインターホンを押し、扉を軽く叩く。当然反応はなく、恐る恐る扉を開くが、人の気配は全くない。にも関わらず、というよりも何時もの癖で、私は一言「お邪魔します」とだけ言って中に入った。




